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豆知識や日々思うことを紹介しています。


2026年1~4月のブログ

ニュージーランド旅行他、そして、松山へ
私は長いあいだ、教員という仕事をしてきた。
毎月お給料をもらい、税金は差し引かれ、残ったお金で生活をし、子どもにかかるお金を考え、少し貯蓄をして、そうやって暮らしてきた。

お金のことは、深く考えなくても回っていた。

退職して退職金をいただき、その後ほんのわずかな自分の仕事を5、6年続けた。けれど正直に言えば、稼ぎよりも税金の方が高いような年もあった。

その頃から、ずっとよくわからなかったものがある。
年金と介護保険だ。

払っている。引かれている。通知も来る。
けれど、何に対して、どういう仕組みで、今の自分がどうなっているのかが、まったくつかめなかった。

今日、松山市役所へ行った。

転入の手続き、保険のこと、住所のこと、いくつかの窓口を回るうちに、ふと気づいた。

ああ、私は今まで
**「制度の中にいるだけの人」**だったのだな、と。

教員のあいだは、共済や給与天引きという仕組みの中で守られていて、
退職後は、その外側に出てしまったのに、頭の中はずっと昔のままだった。

だから、わからなかったのだ。

介護保険も、年金も、
難しいのではなくて、自分の立ち位置が変わったことに気づいていなかったから、わからなかったのだと、今日やっと思えた。

そしてもう一つ、感じたことがある。

松山市役所は、とても丁寧だった。
けれど同時に、どこか古い空気も残っていた。

新しさと、昔ながらの感じと、両方が混ざっている場所。
その中に、今の自分が立っていることが、とても不思議だった。

私は今、
介護付きの施設に住みながら、自立の立場で暮らしている。

2000年より前からある仕組みの中に、
今の制度が重なっている、少し不思議な場所だ。

だから余計に、わからなくなっていたのかもしれない。

けれど今日、窓口を回りながら、書類を書きながら、話を聞きながら、

ほんの少しだけ、霧が晴れた気がした。

ああ、私だけがわからなかったのではない。
これは、同じような人生を歩いてきた人ほど、わからなくなる仕組みなのだ。

真面目に働いて、税金を払い、言われた通りにしてきた人ほど、
退職したあと、急に「自分で理解しなければならない世界」に放り出される。

今日、私はそれに、やっと気づいた。

だからこれは、忘れないうちに書いておきたいと思った。

今日、松山市役所で、
少しだけ、霧が晴れたことを。


今日は有馬温泉を出発し、ずっと雨の中を移動している。徳島を通り、気がつけば四国に入っていた。車窓の外は静かに降り続く雨で、岩手の山林火災のことや、世界の気候のことなど、自然と話が広がっていった。

山林火災はなぜ起こるのか。調べてみると、地球温暖化による乾燥だけでなく、人的活動、森林の状態、風や地形など、いくつもの要素が重なって起きていることが分かった。日本では比較的局地的で収まることが多いが、海外では大規模に広がるケースもあるという。

その話から思い出したのが、退職後に訪れたウルル・エアーズロックだった。

2019年、私は少し特殊なルートでオーストラリアへ向かった。日本からニュージーランドへ入り、そこからオーストラリアへ渡り、さらにニュージーランドへ戻り、日本へ帰るという、地図上で三角形を描くような行程だった。距離そのものではなく、行き来の多さと複雑さで、かなり大きな旅になった。

エアーズロックへ向かう途中、すでに山火事は始まっていた。鎮火している場所もあったが、その時点でもまだ燃えているエリアが確かにあった。煙や焼けた大地が広がり、自然の厳しさを目の前で見ているようだった。

エアーズロックに到着しても、必ず登れるわけではなかった。オープンとクローズが繰り返され、自然条件に大きく左右される場所だった。一度はバスで引き返したが、途中でオープンの連絡が入り、タクシーで戻って登ることになった。鎖を頼りに登った時間は、今でも強く記憶に残っている。

その体験には今でも複雑な気持ちがある。登れたことへの満足と同時に、その場所を神聖と考える人々の思い、環境への影響を知るほどに、簡単には割り切れない感情が残る。

それでも「まだ見たことのないものを、できるだけ減らしたい」という思いで行動したこと自体は、自分の中で否定していない。

そして今、松山市役所へ向かっている。新しい生活の手続きのためだ。何度も確認し、メモも書いたが、それでも少し疲れたので、こうしてノートを書くことで気持ちを整えている。

雨の中の移動。終わりではなく、始まりの途中。
無事に着いて、無事に手続きが終わることを、ただ静かに願っている。


西へ、西へと車は進んだ。

湾岸長島パーキングエリアで休憩を取り、名古屋あたりまで来たころ、私はきつねうどんを頼んだ。
けれどそれは、大阪市で生まれ育った私の知っている「きつねうどん」ではなかった。
つゆも、揚げも、まるで違う。
半分ほどで夫に食べてもらい、「西の人にはそう感じるらしい」と後で知って、妙に納得した。

そこからまた、さらに西へ。

今日は、静岡を出て、ただひたすら西へ向かう一日だった。
気温のせいか、富士山は少しかすんで、冬のようなくっきりした姿は見えなかった。

夫は昨日、大きな講習会を終えたばかりで、かなり疲れている。
ニュージーランドから戻ってすぐの準備、そして一日がかりの講師。
今日はその疲れを抱えたまま、ひとりで長距離を運転してくれた。

いつもなら奈良に寄ったり、四国へ入る前後で一泊したりするのだけれど、
今回は、ポイントバケーション有馬に泊まることになった。
有馬温泉の有馬。けれど私は、有馬に来た記憶がほとんどない。

大学は神戸で、三宮にも芦屋にもよく行っていたのに、
なぜか有馬だけが抜け落ちている。

ポイントバケーションというのは、会員になってポイントを持ち、
全国のキッチン付きの部屋に泊まれる仕組みだ。
ホテルと別荘の間のような、暮らせる部屋。

ここ数年は忙しくて、ほとんど使わずにポイントを失効させていた。
今回、夫が「せめて使おう」と取ってくれていた。

通された部屋は驚くほど広く、
洗濯機も乾燥機も、キッチンも食器も、電子レンジもトースターもある。
外で食べるより、スーパーで買ってきて部屋で食べるほうが、しっくりくる場所だ。

この施設には、有馬温泉のお湯が引かれている。
ただしそれは客室ではなく、1階の男女別大浴場に用意されている。

近くには何もなく、坂をぐっと上がった先にある。
コンビニもないので、少し離れたスーパーでお寿司を買ってきて、部屋で食べた。

これから、その大浴場の有馬温泉に入りにいく。
昨日に続いて、二日連続の温泉だ。

夫はテレビをつけて、もう動かない。
私は明日のことを、ぼんやり考えている。

明日は、松山市役所へ向かう。
転入届、保険、印鑑登録、印鑑証明。
それから自転車屋さんへ寄り、三輪の電動自転車を注文する予定だ。

松山エデンの園へ入り、
部屋へ荷物を運び込み、
新しい生活の準備が始まる。

今日はそんなことを考えながら、
西へ、西へと進んだ一日だった。

   


夫がガソリンを入れに行き、いよいよ出発という空気になった。
セブンに寄るらしい。

朝から、ずっと動いていた。
捨てて、洗って、拭いて、片付けて、掃除機をかけて、
最後にトイレを掃除して、アロエをどうするか迷って、持つと決めた。

もう考えずに捨てたものもある。
迷いに迷って、順位をつけて荷物に入れたものもある。

「これで終わり」と何度も思いながら、
そのたびに、どこかから小さな「最後」が出てきた。

朝いちばんに、シーツと枕カバーを洗った。
このまま出ていくのは嫌だと思ったから。
本当は布団も干したかったけれど、そこまでの時間はなかった。
だから、乾いたシーツと枕カバーをたたんで、ベッドの上に置いた。

しばらく誰も使っていなかったトイレも、
便座を上げて汚れを取り、まわりを拭き、掃除機をかけた。
長いあいだ、人を迎えてきた場所を、きれいにしてから出たかった。

朝、どうしても忘れたくなかったことがある。
電動歯ブラシ。
歯を磨き終えたら、これを荷物に入れようと思って、
替えの歯ブラシを、大事な荷物の手前に置いておいた。
長いあいだ使ってきたものだから、これは必ず持っていきたいと思っていた。
それが、きちんとできたことが、なぜか少しうれしかった。

「これで本当に終わり」と思ったとき、くしゃみが止まらなくなった。
ほこりだと思う。
もういいのに、やっぱり掃除機を少しかけた。
それで、少し気持ちが楽になった。

靴を積み忘れていることに気づき、
眼鏡も、予備も、昔のフレームも、サングラスも持った。
最後の最後に、玄関のアロエをどうするか迷って、やっぱり持つことにした。

朝からほとんど何も食べていない。
何を食べたいのかも、よくわからない。
でも水分だけは取ろうと思う。

ここまでの気持ちは、驚くほど淡々としている。
寂しさは、あまりない。

ただ、
もう誰にも会わないんだな、とか、
この家で迎えるゴミの日も、これで終わりなんだな、とか、
そういうことを、静かに思っている。

大きな引っ越しの朝なのに、
気持ちはとても静かで、
ただ淡々と、時間が流れている。


明日、松山へ移動する。

箱に詰めたものは、もう車に乗っている。
捨てると決めたものは、かなり捨てた。
書類も、通帳も、マイナンバーカードも、迷いはない。

けれど、最後に残るものが、どうしても決められない。

体調が悪いから決められないのか、
決められないから体調が悪いのか、もう分からない。

本をどこまで持っていくか。
鍼灸の本、英語の本。
いつか何かするかもしれないと思うと、切れない。

子どもが小さい頃、フォニクスの歌を歌っていたノート。
一歳半で話し始めた言葉をメモしたノート。
見つけてしまうと、手が止まり、時間が消える。

写真は持っていかないと決められたのに、
ノートは、置いていくことも、捨てることもできない。

これは「物」ではなくて、時間だからだと思う。

今日は、薬のポーチを作った。
「48時間買い物に行かなくても困らない分だけ」と決めたら、少し楽になった。

午前中には、松山で乗る三輪の電動自転車を発注することも決めた。
坂と風と、これからの体のことを考えたら、これは贅沢ではなくて安全装置だと思えた。

全部やってきたはずなのに、
最後になって、こういうことが浮かび上がってくる。

夜になって、夫が、用宗みなと温泉に行かないかと言った。
気持ちは乗らないけれど、行ったら体は楽になる気もする。

静岡での時間に、区切りをつけるかどうかを迷っているのかもしれない。

引っ越しは、荷物を運ぶことだと思っていた。
けれど最後に残るのは、物ではなくて、
決められない気持ちばかりだ。

明日になれば、きっと動ける。
今日はもう、決められないままでいいのかもしれない。


転出届を出しに行っただけのつもりだった。

けれど窓口で渡された紙に、
新しい住所を書き直し、また書き直し、
気がつくと、私の情報は画面の中でどんどん処理されていった。

マイナンバーカードを出してください、と言われ、
職員の方は画面を見ながら入力している。

そのあいだ、私の紙には
大きなハンコ、小さなハンコが、いくつも押されていく。

私は思わず言ってしまった。

「これ、ネットの中と紙の上で、情報が錯綜しませんかね」

優しそうなお姉さんは、少し笑った。



私は、夫と別住所になる。
長年「世帯主は夫、私は家族」という形に慣れてきた。

けれど、どこかの書類から、
私は「本人」になった。

書き直してください、と一枚戻される。

自分が世帯主になる書類を書くのは、
はじめてかもしれないと思った。



そのあと案内されたのが、国民健康保険の窓口だった。

入居する予定の
松山エデンの園 のパンフレットをコピーされ、
職員の方が二人で相談を始めた。

「一般型特定施設入居者生活介護」

その言葉が、どう扱われるのかを、
その場で確認しているようだった。

私は長いあいだ待った。

結果として、
私は夫の家族ではなく、
私自身が「本人」になったらしい。

そして言われた。

あなたの分だけの保険料は、かなり安くなりますよ、と。

私は思わず言った。

「高くても夫に払ってもらって、私は三割だけ払う方が楽なんですけど」

返事はなかった。



くたくたになってトイレに行き、
書類の入った袋を置き忘れた。

館内放送で名前を呼ばれ、戻ると、
清掃の方が見つけてくださっていた。

自転車で帰りかけて、ふと気がついた。

私は、お金を払っていない。
私は、書類をもらっていない。

これは、何かおかしいのではないか。

役所といえば、紙をもらって、お金を払う場所だったからだ。

戻って聞くと、言われた。

「今回はお金はいりません。書類もありません。
全部マイナンバーに入っていますから」

ああ、そういう時代なんだと思った。

ハンコだらけの紙を見ながら、
情報の本体は、もう私の手元にはないのだと思った。



家に帰って、
冷蔵庫にあったアイスクリームを食べ、
オレンジジュースを飲んだ。

体が、甘さと水分を求めていた。

役所での手続きは、書類を書くことではなく、
自分の立場が変わる瞬間に立ち会うことなのだと、
そのとき、ぼんやり思った。


松山エデンの園 という場所の説明は、むずかしい。
パンフレットの言葉では、たぶん何も伝わらない。

ここは「自立」で入る施設だ。
台所も、風呂も、洗濯機も置ける部屋で、ふつうに暮らせる。
けれど、希望すれば三食は大食堂で食べられるし、
大浴場も、コインランドリーも、すぐそばにある。

自分で全部できる部屋なのに、
何もしなくても暮らせる仕組みが、隣にある。



部屋は順番待ちだ。
空くのを待つというのは、
誰かが亡くなるか、介護棟へ移るのを待つということでもある。

「空いたよ、よかったね」と言われても、
どこか素直に喜べない気がした。

私たちは7番目だった。
本来なら、4年か5年は待つはずの順番だった。

けれど事情が重なって、
いちばん古い棟の4階、4という数字のつく号室が回ってきた。

これを断ったら、次はいつになるかわからない。
だから、私だけ先に行くことにした。



職員の方が、こんな話をしてくれた。

元気に自立で暮らしていた人が、
配偶者を亡くしたり、ひとり暮らしが難しくなり、
周りの方に勧められたり、自分で決断したりして、介護棟へ移る。

弱さを持ったから、移るはずなのに。

介護棟へ入ると、
食事も、生活も、見守りも整うから、
かえって元気になって、長生きされるんですよ と。

ここでは、

介護棟は
「弱った人が行く場所」ではなく、
生活を預ける場所として語られていた。



自立で暮らせる部屋と、
生活を委ねられる介護棟が、同じ敷地の中にある。

その間を、
人はゆっくり行き来しているらしい。

私はまだ、その入口に立っただけだけれど、
この仕組みは、
いまの老人ホームの説明のどこにも、うまく当てはまらない気がしている。


広い平屋の家。
朝から晩まで、床の上を静かに巡回しているのは、
ルンバ(Roomba) のようなお掃除ロボット。

はいはいを覚えたばかりの、8ヶ月の赤ちゃんは、
この家の中を、誰よりも速く移動する。

目に入るもの、手に触れるもの、
なんでもつかんで、なんでも口に入れて、世界を確かめている。

探検の途中で、丸くて、音を立てて、規則的に動くそれが近づいてくる。
怖がらない。驚かない。避けもしない。

そばへ来ると、手を伸ばして、叩く。
止まることもある。
そのまま動いていってしまうこともある。

追いかけるわけでもない。
ただ、見ている。

叩き方によっては止まり、
大人がどこかを押して、また動かす。
それを、また見ている。

来る。叩く。止まる。動く。見る。
その繰り返し。

まるで、「これは何だろう」と、静かに実験している研究者のようだ。

そしてこの子は、もうひとつの「動くもの」にも出会っている。

スイッチを入れると、背中が光り、「ガオー」と声を出し、
五歩ほど歩く怪獣のおもちゃ。

それが動き出すと、今度は自分から近づいていく。
手を伸ばして、つかまえて、引っぱる。
止まるとわかっているかのように。

そして、尻尾を口に入れて、舐める。
頭は大きくて、うまく口に入らないからかもしれない。

来たら叩くものと、
自分から追いかけて、つかまえるもの。

同じ「動くもの」でも、
関わり方が、少し違う。

外へ出ると、今度は車という大きな「動くもの」の中に入る。
けれど、同じ「動くもの」でも、反応は少し違う。

後ろ向きのベビーシートに、しっかり固定される。
私の目には、縛られているように見える。

ときどき最初に泣くことはある。
けれど車が走り出し、頭の上で、ゆらゆら揺れるお猿さんのおもちゃが動き始めると、
手を伸ばして、それをつかもうとする。

口に入れようとする。
少し届かない高さで、揺れている。

泣き続けることはない。

見て、手を伸ばして、揺れを追っている。

家の中でも、床の上でも、車の中でも、
この子のまわりには、いつも「動くもの」がある。

動けるときも、動けないときも、
世界は動いていて、
この子は、いつもそこに手を伸ばしている。

8ヶ月の小さな探検家は、
今日も床の高さから、動いている世界の仕組みを、静かに学んでいる。


学生時代、お金がなかった。
それでも、どうしても揃えなければならないと思って買った辞書があった。

英和で6,000円。和英で6,000円。
シソーラスや同義語辞典まで考えると、とんでもない出費だった。
それでも「この二冊だけは」と腹をくくって買った。

大学院では、原文の文学を少人数で読む授業が続いた。
どこを当てられるかわからないから、全部予習する。

普通の辞書では載っていない単語が次々に出てくる。
泣きながら、あの分厚い辞書を何度もめくった。
大きな漬物石のようだった。

辞書は、読めない英文と自分をつなぐ橋だった。

その辞書を、私は死ぬまで捨てられないと思っていた。
でも、ふと考えた。
「自分が死んだら、誰がこれを捨てるんだろう」

それから、いつか自分で手放そうと思うようになった。

愛媛へ行く、この引っ越しの時期に、
私はその辞書を紐でくくってゴミに出した。

あの辞書の良さは、今でもわかっている。
研究者のための、紙の辞書にしか載っていない深さがあることも知っている。

でももう、私はその辞書が必要な場所へは行かない。
研究者になりたいという願いも、もうない。

英語はこれから、
孫や息子や娘と話すために使う。
読めるものを読み、話せることを話し、書けることを書く。
聞くのは難しいけれど、それでいいと思っている。

そう決められたから、
持ち物を少なくする決心がついたのだと思う。

あれほど必死に、誇りを持って、大切にしていた辞書。
もう何年も開いていなかったけれど、
私の時間が、たくさん詰まっていた辞書だった。

その時間を、今日、静かにたたんだ。


今日は、夫が筑前煮を作ると言い出した。

作ったことがあったのかどうかも、私は知らない。
「どうやるの?」と聞かれて、私は自分のやり方を話した。

レシピを見た覚えはない。
母がやっていたやり方を、いつのまにか真似て、
気がつけば何十年も同じように作っていた。

こんにゃくは昔は手でちぎっていた。
今日は包丁で切って、細かく切れ目を入れる。
油をひかない鍋で乾煎りして、水分を飛ばす。
キュッキュッと鳴くくらいまで。

ごぼうの皮は、栄養があると言われても私は苦手で、むく。
にんじんもむいて、乱切りにする。
にんじんには隠し包丁を入れることもあるけれど、今日は言わなかった。

こんにゃくの水が飛んだら、夫のこだわりのオリーブオイルを入れる。
根菜を入れて炒める。
最後に鶏肉を入れる。

だし汁は使わない。
野菜と鶏肉から水が出るから、それで煮る。

砂糖大さじ2、酒大さじ1、みりん大さじ1、しょうゆ大さじ2、だしの素小さじ1。
弱火にして、しばらく煮る。

味を見て、甘さが足りなければ砂糖かみりんを足す。
しょうゆ味が足りなければ、しょうゆを足す。
小さじ1ずつ。

そんなふうに伝えた。

私は、退職してから、二人分の料理を作ることが本当に苦痛になっていた。

何を作るかを考えること。
安い素材を買ってきて、これで何ができるかを考えること。
買ってきたものをしまうこと。
傷まないように包むこと。
食べた後の洗い物。
そして、また次の日の献立。

子どもがいて、仕事をしていたときは、
それは「生きるため」のことだった。

今は二人。
半分は自分のためだと思うと、どうしてもやる気が出なかった。

だから私は、三食出してもらえる場所に入ることを決めた。
29日に静岡を出て、松山へ行く。

キッチンはあるけれど、たぶんほとんど使わない。
三食、食堂でいただく生活になると思う。

献立を考えなくていい。
買い物に行かなくていい。
片づけなくていい。
明日のことを考えなくていい。

それは、怠けることではなくて、
長いあいだ台所を回してきた人が、
やっとそこから降りるということなのだと思う。

今日、夫は筑前煮を作った。

うまくできたかどうかは、あまり重要ではなくて、
私は、自分が何十年もやってきた台所の手順を、
言葉にして渡していた。

筑前煮を教えたというより、
私の台所の歴史を、少しだけ手渡したような気がしている。


引っ越しというのは、荷物を運ぶことだと思っていた。
けれど今回わかったのは、引っ越しとは時間を動かす作業だということだった。

40年近く暮らした場所を離れるというのは、
物を片づけることではなく、
そこで生きてきた時間を、ひとつずつ畳んでいくことだった。

まず最初にしなければならなかったのは、体のことだった。
主治医の先生方に紹介状を書いてもらい、薬を多めに出してもらい、
新しい場所でも薬が切れないように整えること。
そのたびに「もうここでは診てもらえなくなる」という現実を感じた。

次に考えたのは洋服だった。
春と秋が短いから、同じもので回す。
下着も上に着るものも三枚ずつ。
冬物は軽くて暖かいものだけ。
たくさん持っている安心ではなく、少なくても回る生活を選ぶことは、思っていたより勇気がいった。

年金、互助組合、保健所、国民健康保険、転出届。
行く先々で言うことが少しずつ違い、何が正しいのか分からなくなる。
聞けば聞くほど混乱して、考えるだけで疲れていった。

鍼灸院の閉店届を出したとき、
書類の上で、自分の仕事が終わったことを知った。
静岡で続けてきた営みを、静かにたたむような気持ちだった。

長年捨てられなかった辞書や本を、ついに手放す決心をした。
私は学者になりたかった人間だった。
その名残を、やっと外に出した。

いちばんしんどかったのは、やることの多さよりも、
正しいことを進めているのに、横で責められることだった。
夫は「やったことをメモしておいてくれ」と言いながら、
「今日はお前のことで仕事ができなかった」と怒る。
私は私で腹が立つけれど、もうすぐ別々に暮らす。
あと少しの我慢だと思って、言葉を飲み込んでいる。

今回の引っ越しは、物を運ぶことではなく、
人生を次の場所へ移すことだった。
だから、こんなに疲れるのだと思う。

けれど同時に、私は自分の意思で、
これからの住まいと、これからの暮らし方を選んだ。
そのことだけは、確かなこととして残っている。


体がしんどいから横になっていたい気持ちはあるのに、今日は片付けを始めた。
最初に手をつけたのは薬だった。

毎日飲まなくてはいけない薬と、常備薬を分けて、数を数えた。
しばらく病院に行けないかもしれないから、まず生活の土台を整えた。

次に衣類。
夫に「箱に詰めろ」と言われて、春夏秋冬に分けようとしたけれど、どうにも難しい。
どれも、どの季節にも入りそうで、結局わからなくなった。

そして気づいた。
これは「季節の仕分け」ではなくて、
これからの私に合うかどうかの仕分けなのだと。

今まで着ていなかった服。
たぶんこれからも着ない服。
でも、あの時は嬉しくて買った服。

67年分の時間が、布に染みている。

迷いながらも、クローゼットに隙間ができていった。
一気にやりすぎない。今日は二度目の「一気」。
水曜日のゴミの日に向けて、明日もう一度見直す。

残ったのは、動きやすいシャツやTシャツやパンツ。
そして、どうしても手放したくないワンピースが2枚。

花柄の冬のワンピース。
ドット柄の少し地味なワンピース。

それは服というより、
私の気持ちを立て直してくれるものなのだと思う。

スーツも迷った。
でも気づいた。
私はもう、スーツを着て行く働き方を望んでいない。

夜は出たくない。
無理をする働き方はしたくない。

だから、置いていくことにした。

薬を選び、服を選び、
ハンガーや爪切りのような細々したものを思い出し、
ひとつひとつ確かめながら、

私は今日、
物を減らしていたのではなく、
これからの自分の形を選んでいたのだと思う。

少し休憩。
今日は、ここまでで十分。


私にとって
ゴルフは、長いあいだ遠い世界のスポーツだった。
お金と時間に余裕のある大人がするもの。
私たち夫婦の暮らしとは、ほとんど接点のないものだと思っていた。

けれど、
ニュージーランドで暮らす7歳の孫にとって、
それは「習い事のひとつ」でしかなかった。
しかも、自分から行きたいと言って、楽しみにしている習い事。

ある日、9ホールを歩いてついて回った。
最初のティーショット。空振りするかと思ったら、きれいに当たる。思ったよりずっと遠くへ飛ぶ。

次のショットで、ボールは砂のくぼみ――バンカーに落ちた。
なかなか出ない。4回、5回と打つ。
それでも嫌な顔をしない。泣かない。投げ出さない。
ただ、出るまで続ける。

グリーンの近くまで来ても、あっちへ、こっちへ。
なかなかカップに入らない。
それでも、表情は明るいまま。

私は横を歩きながら気づいた。
この子は、「うまくいくから楽しい」のではない。
「好きだから続けている」のだと。

ちょうどその子は、ひとつ上のクラスに上がったばかりで、
周りは少し年上の子どもたち。技術も上に見えた。
それでも引けを取らず、自分のペースで回っていた。

大会の日、何かの賞をもらった。
理由は私にはわからなかったけれど、
ご褒美に練習用の傘のような道具を自分で選べると言われ、
その子は走って取りに行った。

家に帰ってからも、その傘を振って練習している。
ゴルフが上手になりたいというより、
ゴルフをしている時間そのものが好きなのだと、伝わってきた。



もうひとつ、忘れられない出来事がある。

昨年10月、孫は日本の小学校に1か月体験入学をした。
そこで初めて触れたのが、
鍵盤ハーモニカ(ピアニカ)だった。

「きらきら星」を吹いたことが、よほど楽しかったらしい。
家に帰ると興奮して、その日の出来事を話し、
机を指でトントン叩いて“再現”していた。

「貸してもらったの?」と聞くと、
「なかった」と言う。

急にかわいそうになって、授業があると聞き、慌てて購入した。
とても喜んでくれた。

けれどその楽器は、荷物の都合でニュージーランドへは持ち帰れなかった。
今回、私たちが運んでいった。

すると、孫は自分から「ピアノを習いたい」と言い出したのだという。

鍵盤ハーモニカの体験が、
ピアノへとつながっていった。



ゴルフも、ピアノも、共通していることがある。

大人が「これを習わせたい」と決めたのではなく、
本人の“好き”が先にあったこと。

日本では、
「これを身につけてほしい」という願いから、
習い事が始まることが多いように思う。

けれどニュージーランドでは、
子どもが強く興味を示したときに、
「それならやってみようか」と環境を用意する。

順番が、逆なのだ。

習わせる → 好きになるかもしれない
好きになる → 習い事が始まる

私はこの1か月、観光もせず家の中で暮らしながら、
その「始まりの瞬間」をいくつも見せてもらった。

好きだから続ける。
うまくいかなくても、やめない。
誰に言われなくても、家で練習する。

その姿を、9ホール分、ゆっくり見せてもらった。

遠い世界だったゴルフが、
孫の暮らしの中では、とても身近なものだったように。

鍵盤ハーモニカの小さな体験が、
ピアノという新しい扉を開いたように。

子どもは、
「好き」を見つける天才なのかもしれない。

そして大人は、
その「好き」が育つのを、そっと支える役目なのかもしれない。

孫から、そんなことを教わった気がしている。


きれいな方が、もちろん気持ちがいい。
服にシミがない方がいいに決まっている。

けれど、どうしても落ちなかった小さな汚れが、
ある日ふっと、特別なものに思えてきた。

ニュージーランドの秋、寒さの中で教えてもらったメリノの薄いシャツ。
Tシャツのようなのに、驚くほど暖かくて、毎日のように着ていた。

8か月の赤ちゃんの離乳食をあげる役目をしていた私は、
なるべく袖をまくり、汚れないように気をつけていた。
けれど、そんな余裕がないほど、その子は元気だった。

バナナ、りんご、きゅうり、細かく切ったお肉。
手づかみでぐちゃぐちゃにして、満足そうに食べる。
スプーンは投げる。
私の手をつかもうと、体ごとこちらに乗り出してくる。

拭いても拭いても、すぐにまたベタベタになる手。
顔を拭いたそばから、あちこち触る指。
床に落ちたかけらを見つけては、口に運ぼうとする。

私は、お願いだから触らないで、と心の中で思いながら、
それでもその小さな体と、まっすぐ向き合っていた。

あるとき、洗濯をしていて気づいた。
メリノの袖口に、取れないシミがあることに。

何の汚れかもわからない。
油なのか、果物なのか、離乳食の名残なのか。
手洗いをして、何度も何度もきれいにしようとしたけれど、取れなかった。

そのうち、私は思った。

この服は、どこかへおしゃれして着ていくわけではない。
家で着る下着のようなものだ。
それなら、この汚れが残っていてもいいのではないか。

もしかしたら、この子が大きくなったときに、
「あなたの8か月のときの指よ」と言って見せてやろうか。
きっと本人は覚えてもいないだろうけれど。

そう思ったとき、そのシミは、
「落ちなかった汚れ」から、
「時間のしるし」に変わった。

人生には、そういうことがあるのかもしれない。

子どもにとっては何でもないものが、
親にとってはかけがえのないものになる。
祖父母にとっては、なおさら愛おしいものになる。

私の手元には、息子の学生時代の写真がある。
留学に出たまま帰ってこなかったので、残していった写真。
ただの古い写真なのに、そこには確かに、あの頃の時間が閉じ込められている。

もう二度と戻らない日々。
でも、確かにここにあった日々。

きれいに整えることも大切だけれど、
きれいにしきれなかったからこそ残ったものにも、
大事な意味があるのかもしれない。

メリノの袖口の、小さな取れない汚れ。
それは、私にとっての、
とても大きな、記念の汚れ。


体調を崩したとき、私はまず自分の体の違和感を頼りにした。
「いつもの風邪と違う」
その感覚を確かめたくて、ChatGPTに尋ねた。
受診を後押しされ、耳鼻科へ向かった。

診察では、鼻の奥にたまっていたものが見つかり、処置と薬で症状は軽くなっていった。
治療としては、きっと正しかったのだと思う。

けれど診察の途中で、
「ChatGPTだって間違うことがあるからね」
という言葉があり、私は少し戸惑った。

私はAIを信じて医師を疑ったわけではない。
ただ、しんどい体を動かすきっかけが欲しかった。
その背中を押してくれたのがAIで、
実際に体を診てくれたのが医師だった。

本当は、この二つが自然に重なってくれたら、どんなに心強いだろうと思った。

人間だから、伝え方を間違えることもある。
医師だって、患者の言葉から違和感を感じることがあるだろう。
AIだって、いつも正しいわけではない。

でも、どちらが正しいかを決めることよりも、
照らし合わせることができたら、患者にとってはどれだけ安心だろう。

AIで症状を整理し、
医師が診察して確かめ、
必要な治療にたどり着く。

そんな流れが、いつか当たり前になったらいいなと思う。

今回の出来事で感じた小さな戸惑いは、
きっといまの時代の、過渡期の風景なのだろう。

誰が悪いわけでもない。
ただ、もう一歩だけ、近づけたらいいのにと、患者として願った一日だった。


ニュージーランドから帰ってきて、もうすぐ1週間。
向こうで風邪をひき、なんとか持ちこたえて帰国したけれど、飛行機の中から下痢が始まり、帰ってからはずっと横になっていた。

下痢は落ち着いてきたのに、朝うがいをするたびに、真っ黄色の痰が出る。
こんなことは初めてで、風邪は軽くなっているのに、痰だけが残り、しかも切れない。

今日は8時半からの診療。
4番目。予約の人もいるらしいから、いつ呼ばれるかわからない。
それでも、ここに来られたことが、少しうれしい。

「解放に向かいたい」
そう思えたから。

身体は正直で、昨日は自転車で転びそうになった。
右膝も余計に痛くなった。
帰国してから、ほとんど眠ってばかりだったのに、体の奥に残っているものが、まだ私を重くしている。

診断が何であってもいい。
ただ、この状態から少しでも抜けたい。

29日には松山へ行く予定がある。
そろそろ動けるようになりたい。
接骨院の石谷先生にもご挨拶したい。

玄関前で順番を待ちながら、
「今日はちゃんと治す日だ」
そんな気持ちが、少しだけ前向きにさせてくれている。

黄色い痰といっしょに、
重たかった何かも、出ていってくれたらいいと思う。


サイクロンの影響で帰国が遅れるかもしれないと、ざわざわした日々を過ごした。
けれど結局、予定通り3月13日に成田へ着き、静岡の家に辿り着いたのは23時近く。

スーツケースも開けず、シャワーも浴びず、
そのまま布団に倒れ込むように眠った。
無事に帰れた安心と、旅の疲れと、気疲れと。
全部が一気にほどけた夜だった。

今朝やっと起きて、台所に立つ。
夫が言っていた通り、冷蔵庫には何もない。
炊いておいてくれた白いごはん(玄米)だけがある。

残っていた塩昆布と、らっきょうと、生姜。
インスタント味噌汁を添えて食べる。

豪華でも何でもないのに、
身体にすっと入ってくる、落ち着く味だった。

そのとき、ふと、ニュージーランドでの光景を思い出した。

遠く離れた
ニュージーランドで暮らす7歳と5歳の孫たち。
お腹がすくと、冷凍ごはんを自分でレンジにかけ、
梅干しやふりかけ、海苔で、勝手に食べている。

特に5歳の子は、納豆が好物だという。
私たちを空港へ送った帰り道、
クイーンズタウンのアジアンマーケットで、切らしていた納豆を買ったそうだ。
帰宅してすぐ、ごはんにかけて食べていたらしい。

納豆は、日本人でも苦手な人がいる食べものなのに、
5歳の子が「好き」で食べている。

あの光景を思い出しながら、
塩昆布でごはん(玄米)を食べている自分に気づいたとき、
一瞬、「ここは日本かな」と思った。

場所は違っても、
白いごはんに、少し添えて食べる暮らし。
それは血筋というより、
日々見てきた生活のかたちが、そのまま子どもの中に根づいている証のように思えた。

人が生きていくのに、
案外、必要なものは多くないのかもしれない。

ごはんがあって、少し添えるものがある。
それだけで、ちゃんと落ち着ける。

今日は洗濯を済ませ、スーツケースを拭いて干し、
片付けをほんの少しだけ始めた。
まだ体調が戻らないし、施設にいる母とのライン面談を終えたら、もう一度横になろうと思う。

帰国後最初の一日。
何もない食卓で食べた白いごはんが、
日本とニュージーランドの暮らしを、静かにつないでいた。


帰路につき、空港でトイレに入ってから後悔した。ウォッシュレットを持っていなかったのだ。

がっかりして、夫の待つ席へ戻った。パスポートの確認のために貴重品入れを開けると、そこにウォッシュレットが入っていた。自分でも思わず吹き出してしまった。さすがに、パスポートと並べて入れておく必要はなかったかもしれない。

それ以来、トイレに行くときは付属の袋ごと持っていくようにしたら、忘れることがなくなった。

孫たちとの暮らしも、工夫やちょっとしたアイデアで変化が生まれた。トイレに持っていく物ひとつでも、少しの工夫で忘れず、快適に過ごせるようになるのだ。


(2026.04.13)

行きのフライトで半分ほど見ていた映画『国宝』を、帰りの機内でほぼ見終えた。

主人公を演じた 吉沢亮 が、人間国宝となった後のインタビューでこう言う。

「風景を探している」

その言葉が、なぜか心に残った。

そして最後に舞われる「鷺娘(さぎむすめ)」。

何もわからないまま一度目を見て、
解説を読み、もう一度、三度と見返したとき、
この舞は、ただ美しいだけではなく、
人の内面そのものを映しているように思えた。

雪。白。静寂。孤独。情念。

目に見える景色と、目に見えない心の景色が、
重なって立ち上がる舞。

彼が探している「風景」とは、
舞台の背景でも、自然の景色でもなく、
これまで生きてきた時間の中で、
心に積もってきたものなのではないか、と感じた。

忘れられない時間。
言葉にできなかった感情。
誰にも見せなかった選択。
静かに沈んでいった記憶。

そうしたものが、その人だけの「風景」になっているのかもしれない。

どんな人にも、それぞれの風景があるのではないだろうか。

そして、私にも、あるのだろうか。

映画を見終えたあとも、
その問いだけが、機内の静かな時間に残っている。


(2026.04.13)

デジタルチェックイン、と言うのだろうか。
とにかく今は、飛行機の予約も、座席の指定も、何もかもがデジタルになっている。

Air New Zealand App をダウンロードし、そこから状況を確認していく。
アナログ寄りの私にとっては、少し生きにくい世界だとも感じる。
しかし、そうも言っていられない。

今朝、珍しく夫が「デジタルチェックインが途中でできなくなった」と言った。
仕方なく私のアプリで試してみると、あっという間に完了してしまった。
QRコードというものも、まだ少し厄介に感じることがある。

時代は確実に動いている。
その中で、どう歳を重ねていくのか。
そして、いつまで飛行機に乗れるのかは、もしかすると同じ線の上にあるのかもしれない。

もうすぐ搭乗だ。
昼のフライトでスカイカウチ。これはありがたい。
少しでもよく眠れたらいいと思う。
ただ、映画に走ってしまいそうな自分もいて、それが少し怖い。

それでも、時代の流れの中で、ただ一つの移動として飛行機に乗っていく。


(2026.04.13)

オークランド空港に着いた。
いよいよニュージーランドともお別れである。

昨日までのあの騒ぎが嘘のように、今日は驚くほど静かだ。
スーパーから水が消え、飛行機は飛ばないかもしれないとざわめいていた空気は、まるで何事もなかったかのように消えている。
北へ流れていったというサイクロンと一緒に、人々の緊張も去っていったのだろうか。

昨夜は空港の目の前の Novotel Auckland Airport に泊まった。
便利なはずなのに、なぜかよく眠れない。
11時頃に着いて、6時に起き、8時にはチェックイン。
少し部屋に戻って休んだけれど、体は正直で、やはり疲れが残っている。

手荷物検査では、夫がお土産に買ったマヌカハニーを二つ没収された。
私は、はちみつのような粘りのあるものも機内持ち込みは難しいと知っていたのだけれど、
夫には「液体でなければ大丈夫」という認識があり、特に問題ないと思っていたようだった。
そこで初めて、ああいうものも持ち込み不可なのだと、改めて実感することになった。
がっかりはしたけれど、仕方がない。
命があって帰れれば、それでいいと思うことにした。

夫が、Iced抹茶を買ってきてくれるという。
抹茶という言葉を、去年はほとんど見なかったのに、今年はあちこちで見かける。
日本の文化が、少しずつ世界に広がっているのを感じる。
でも、飲んでみるとやっぱりどこか違う。
同じ「matcha」でも、日本の抹茶とは別の飲み物になっている気がする。

いろんなことがあって、正直とても疲れた。
けれど、それなりに、たくさんの思い出ができた旅でもあった。

来年来るかどうかは分からない。
でも、一年元気に生きていたら、またそのときに考えたいと思う。

今はただ、この静かな空港で、旅の終わりの余韻の中にいる。


(2026.04.13)

クイーンズタウンの空港に到着し、息子の運転で5歳と7歳の孫たちにも見送られながら、出発の時を迎えた。空港の中に入ると、子どもたちは開いていたお寿司屋さんへと走っていき、その姿に少しほっとしながらも、静かに別れの時間を感じていた。

息子は仕事と家庭を両立しながら、歯科医として、そして経営者としても日々を忙しく過ごしている。その姿を見ていると、かつて彼が語っていた「夜中に呼び出されるようなボケベル時代の医師の働き方は嫌だ。人間らしい仕事をしたい」という言葉を思い出す。それは私たち教師であった親の働き方や生き方を見て感じた思いでもあったのかもしれない。

今の彼の生活は、責任を持ちながらも家族と過ごす時間を大切にし、自分なりの「人間らしい働き方」を形にしているように見える。

そんな姿を見ながら、私は改めて思った。これからの自分は、子どもたちやそれぞれの家庭に過度な負担をかけることなく、自分なりに明るく前向きに生きていきたいと。いつまで生きられるかは分からないけれど、その時その時を静かに受け入れながら、できるだけ穏やかに過ごしていきたい。

支えられることと、距離を保つこと。そのバランスを大切にしながら、自分らしい最期までの時間を積み重ねていきたいと感じている。


(2026.04.12)

もうすぐ、息子の運転する車でクイーンズタウンへ向かう。
この町で書く最後のノートになるかもしれないと思いながら、車窓の景色を見ている。

息子はスバルに乗っている。お嫁さんはトヨタに乗っている。
決して安い車ではないけれど、いわゆる“高級車”ではない。

以前は、なぜだろうと思っていた。
収入もあるはずなのに、どうしてその車なのだろうと。

けれど、こちらで過ごすうちに、その理由が少しずつわかってきた。

ニュージーランドでは、車はステータスではなく、
「どれだけ信頼できるか」「どれだけ安全か」という基準で選ばれるようだ。
見栄ではなく、実用。誇示ではなく、安心。

そして、現在経営している歯科医院の元院長は、お嫁さんの叔父様である。 その元院長先生が2人に語られたそうだ。

立場のある者ほど、良い車に乗ってはいけない。
働く人や患者さんに、見せびらかすことになるから。

その話を聞いたとき、私ははっとした。
それはこの国の価値観そのもののように思えたからだ。

成功している人ほど、質素であること。
持っていても、見せないこと。
周囲との距離を大切にすること。

私たち夫婦も公務員で、教員だった。
生活は決して豊かではなかったけれど、教育にはお金をかけた。
その分、日々の暮らしはできるだけ質素に、倹約してきた。

「何にお金を使い、何に使わないか」

それが、私たちなりの生き方だった。

その価値が、子どもたちに少しでも残ってくれていればいいと思う。
同じ形でなくてもいい。
同じ価値観が、どこかに根を張っていてくれたら、それでいい。

スバルやトヨタを選んでいる姿を見て、
もしかすると、それはもう、十分に受け継がれているのかもしれないと感じている。

見せる豊かさではなく、安心できる豊かさ。
誇る生き方ではなく、支える生き方。

車の揺れの中で、そんなことを思っている。

この町で過ごした時間とともに、
この気づきも、静かに心に残しておきたい。


(2026.04.12)

ニュージーランドでのこの1か月、私は「家」というものが、子どもの心にどれほど大きな影響を与えているかを、静かに実感してきた。

520坪の広い家。
7歳、5歳、10か月の子どもたちが、それぞれ自分の部屋を持ち、それぞれにバスルームとトイレがある暮らし。

そこでは、子どもたちは毎日、無意識にこう確認している。

「ここは私の場所」
「ここは私の領域」
「入らないで、と言っていい」

この感覚は、日本の多くの家庭で育つ子どもたちとは、まったく違う土台を作っているように思えた。

日本では、お風呂は一つ。トイレも一つ。部屋も共有。
生活の気配が混ざり合い、順番を待ち、譲り合い、察し合いながら暮らす。

そこでは子どもは、

「みんなの中の一人」

として育ち、その関係性の中から、ゆっくりと「自分」というものを見つけていく。

けれどこの家の子どもたちは、逆だった。

まず「自分」があり、そのあとに「家族」や「他者」がある。

ぶつからない。待たなくていい。気配を読まなくていい。
その代わり、自分の感覚や気持ちを、とても大切にしている。

どちらが良い悪いではない。
けれど、育つ力の種類と、その順番がまったく違うのだと感じた。

私は子どもの頃から、自分の部屋がほしかった。
自分だけの空間がほしかった。
でもそれは、長い間叶わなかった。

いつも誰かの気配の中にいて、いつも誰かと関わっていて、
気づけば「人といること」が、少しずつしんどくなっていた。

この家で子どもたちを見ていると、その逆の育ち方を目の当たりにする。

「ここは私の部屋」
「入らないで」

その言葉は、わがままではなく、心の健康を守るための、とても自然な境界線のように見えた。

さらにもう一つ、強く感じたことがある。

SNSや動画、ゲームとの関わり方だ。

放っておけば、子どもたちはいつまでも見続け、やり続ける。
それを両親が時間で区切り、内容を管理し、声をかけながら、なんとかバランスを取っている。

広い個室という物理的なプライベートに、デジタルのプライベートが重なると、
子どもはいつまでも「自分の世界」にいられる。

これからAIがさらに身近になったとき、子どもたちは、人間よりも心地よい相手を簡単に手に入れてしまうのかもしれない。
そんな時代が、もうすぐそこまで来ているようにも感じる。

けれど、だからこそ大切なのは、空間でもテクノロジーでもなく、
「親が境界線を作っているかどうか」なのだとも思った。

時間を決める。関わる。声をかける。一緒に食事をする。

その営みが、子どもを人の世界につなぎとめている。

そして私は、もう一つのことに気づいた。

私は、もう深い人間関係を望んでいないのだということ。

人と完全に関係を切りたいわけではない。
でも、これ以上深く入り込みすぎて、心をすり減らすような関わり方は、もうしたくない。

広く、浅く、気持ちよく。

それでいいのだと、この1か月で、ようやく思えるようになった。

子どもたちが持っている「ここは私の場所」という感覚を、
これからの自分の人生にも、持っていいのかもしれない。

人との間に、やわらかな境界線を引きながら、
にこやかに、さらりと、短く関わる。

それが、これからの私の暮らし方なのだと思う。


広い家と、小さな家。
遠い国と、これから帰る場所。

そのあいだで、私はようやく、自分の心の居場所を見つけた気がしている。


(2026.04.12)

今日はニュージーランド最後の日ということもあり、午前中はワイナリーへ連れて行ってもらい、モーニングティーのような軽い食事を楽しませてもらった。ゆったりとした時間の中で、旅の終わりが近いことを静かに感じていた。

家に戻ると、義理の娘と息子から、9か月の赤ちゃんには16時半ごろに食事とミルクをしっかり与えてお腹を満たすようにしていると聞いた。

さらに、17時から19時の間はバーベキューを用意しておくので、7歳の男の子と5歳の女の子の食事をお願いしたいとのことだった。サラダも用意するので一緒に食べてほしい。そして「私たち夫婦も少し出かけたいので、どうぞ食べてください」とのことだった。

多忙な3人の子育ての中で、夫婦二人だけの時間を持つことは簡単ではないのだろう。そう思い、「どうぞどうぞ」と送り出した。

そこからが、少し慌ただしい時間の始まりだった。

7歳の子は落ち着いていて、「もうベッドタイムだよ」と赤ちゃんに言うほどしっかりしている。「お母さんのおっぱいがないと寝ないのよ」と返すと、すぐに納得していた。

一方で5歳の子は「ばーばは下手だから泣く」と言いながらも、私の様子を見てテレビの部屋へ誘導しようとする。その足取りはまだおぼつかない。私が手を出すと嫌がるのに、ソファから落ちそうになると「ばーば、はい」と急に預けてくる。その繰り返しで、神経をかなり使う時間だった。

そして9か月の赤ちゃん。最初はハイハイをしたりベビーベッドで遊んだりしていたが、18時半を過ぎた頃からぐずり始めた。抱っこやおもちゃでもなかなか落ち着かない。

ふと思い出して、最後の一枚の赤ちゃんせんべいを試してみたところ、泣き止み、きれいに食べてくれた。

7歳の子が「それは食べさせちゃいけない」と言ったが、「赤ちゃんせんべいだよ」と説明するとすぐに納得した。

ちょうど19時頃、両親が帰宅した。
赤ちゃんはすぐに母乳をもらい、安心したように落ち着いていった。



天候については、ニュージーランド気象局(MetService)の情報や各種報道で、北島付近で悪天候の可能性が示されており、週末にかけてフライトへの影響も懸念されている。
そのため、最終的な判断は航空会社と天候次第となる。


(2026.04.11)

ニュージーランドで、5歳になる孫娘のデイケアの卒園式に参加した。

その日は、マオリの衣装を身につけ、これまで描いてきた絵や制作物を先生が丁寧に紹介してくださり、「いよいよ小学校へ進むのだ」という節目の温かい雰囲気に包まれていた。

式の後半には、お菓子を配ったり、子どもたちと和やかに過ごす時間に移るのだろうと感じていたその時、先生が音楽を流された。

その曲が、「APT.」だった。

日本でも耳にしたことのある、軽快でノリの良いリズム。音が流れた瞬間、子どもたちも先生も自然に踊り出し、会場は一気に明るい空気に包まれた。

ただその一方で、英語の歌詞を改めて聞くと、ところどころ意味が取りにくく、「この言葉のニュアンスは子どもにどう届いているのだろう」と、ふと気になる瞬間もあった。

特に、長年高校で英語を教えてきた私の立場からは、楽しさの中に少しだけ“言葉の理解の壁”のようなものも感じられた。

帰宅してから、私はあらためてこの曲を調べ、日本語訳の歌詞も読んでみた。すると、全体としては恋愛をテーマにした内容であり、やや大人向けのニュアンスも含まれているように感じられた。

「これをデイケアの卒園式で使うのは、ニュージーランドでは普通のことなのだろうか」

そんな疑問が、静かに心に残った。

私が強く引っかかったのは、曲のノリではなく、やはり歌詞だった。英語を長く教えてきた者として、どうしても言葉の意味が先に立つ。軽快なリズムの奥に、はっきりと恋愛のやり取りが感じ取れてしまう。

5歳の子どもがその意味を理解しているとは思わない。けれど、「意味がある」ということを知っている大人が、その場でそれを受け入れているという事実に、私は戸惑っていたのだと思う。

気になって息子に聞いてみると、「本人がリクエストした曲だよ」という答えが返ってきた。さらに、息子夫婦が経営している歯科医院でもBGMとして流れていたことがあり、おそらくそこで耳にして覚えたのではないか、という話だった。

そこで私は、この曲をもう一度きちんと見てみようと思った。オリジナルのミュージックビデオ、ダンスパフォーマンス、そして簡略化された「APTダンス」、さらには子ども向けにアレンジされたキッズダンスまで、いくつか続けて見てみた。

すると、この曲は単に「歌を聴くもの」というよりも、世界中の人がそれぞれの形で参加できる、“遊びのような音楽”なのだということが、少しずつ分かってきた。

特に「アパツ、アパツ」という繰り返しの音は非常に耳に残りやすく、言葉の意味を越えて、リズムとして身体に入っていく。だからこそ、子どもも大人も自然に真似をし、国を越えてさまざまな形で踊られているのだと思う。

しかしそれでも、私の中にはまだ問いが残っていた。

もしこれが日本の保育園や幼稚園の卒園式だったら、どうだろうか。

おそらく、式の音楽として選ばれることは、かなり難しいのではないかと思う。日本の卒園式は、成長や別れをテーマにした歌や、落ち着いた合唱曲が中心で、歌詞の内容や場の雰囲気との調和が強く意識される。

「ノリが良い」「覚えやすい」「踊りやすい」という理由だけで、式の場に持ち込まれることは、まだ少ないように思う。

ここに、私が感じた違和感の正体があるのかもしれない。

ニュージーランドのその場では、音楽は「意味」よりも「場を楽しくする力」で選ばれていた。一方、私の感覚の中では、音楽はやはり「言葉」と切り離せないものだった。

元教員として、特に英語を教えてきた立場からすると、どうしても歌詞の意味に目が向いてしまう。「これは恋愛の内容だし、5歳の子どもには早いのではないか」と感じた自分も、決して間違ってはいないと思う。

けれど同時に、今の音楽の受け止められ方は、かつてのように「意味の適切さ」だけで判断されるものではなく、

危険ではないか、
みんなで楽しめるか、
覚えやすいか、
一緒に体を動かせるか、

といった、別の基準で広がっているのだということにも気づかされた。

それは日本でもすでに起きている変化なのかもしれない。けれど、日本はまだ「式」という場においては、言葉や意味を大切にする文化を強く残している国なのだとも感じる。

そう考えたとき、「自分は少し古い感覚を持っているのだな」と思う一方で、それは単に古いのではなく、日本的な感覚をまだ持っているということなのかもしれない、とも思えてきた。

あの卒園式で、子どもたちが無邪気に踊っていた姿を思い出すたびに、音楽というものが持つ力と、それを受け取る文化や時代の違いを、今も静かに考えている。


(2026.04.11)

今日は帰国の日になるはずだった。けれど、サイクロンの影響で飛行機は飛ばないかもしれないという状況になり、思いがけず、もう少しこの家で過ごす時間ができた。

荷物はほとんどまとめ終え、気持ちも「お別れ」に向かっていたからこそ、この足止めは、どこか不思議な余白のように感じられている。

この滞在中、私は三人の孫と向き合う時間を多く持った。
7歳の男の子、5歳の女の子、9ヶ月の男の子。

最初は、年齢ごとの「特徴」で見ていた。
7歳らしい、5歳らしい、9ヶ月らしい、と。

けれど、毎日いろいろな出来事が起こるたびに、その「年齢のラベル」が、私の中で何度も外れていった。

静かで理屈の通る7歳の男の子が、疲れて横になっているときに、赤ちゃんに髪を引っ張られて本気で怒る。
おしゃまでお姉さんぶる5歳の女の子が、「赤ちゃんの世話は私がやるの。おばあちゃんはどいて」と言いながら、すぐに飽きてどこかへ行ってしまう。
ハイハイを延々と繰り返しながら、確実に立とうとしている9ヶ月の赤ちゃん。

その姿を見ながら、私は何度も思った。

ああ、この子たちは「7歳」「5歳」「9ヶ月」ではないのだ、と。

大人だってそうだ。
私は67歳だけれど、「67歳らしさ」で語れるわけではない。
同じ年齢でも、まったく違う人生、違う性格、違う背景を持っている。

子どもも同じなのだと、あらためて実感した。

親との関わり、兄弟との関係、学校での経験、スポーツや習い事、毎日の生活。
それらすべてが混ざり合い、その子の中で少しずつ一つになっていく。

発達とは、一本の線ではなく、いくつもの糸が絡まりながら、より糸になっていくようなものなのかもしれない。

だからこそ、次に会うとき、三人がどんな子になっているのか、まったく想像がつかない。
けれど、それがとても楽しみでもある。

帰るはずだった今日、帰れなくなったことで、私はこのことに気づく時間をもらったのかもしれない。

年齢では語れない、「その子そのもの」を見ていた時間だった。


(2026.04.11)

今日はニュージーランドでの最後の日になるかもしれないと思いながら過ごしていた。

記念に外食へ行こうという話もあり、家族に連れられてワイナリーへ行った。
そこは子どもも遊べる場所があり、庭で過ごしながらゆっくりと時間が流れていた。

ワイナリーはMonte Christo Wineryで、セントラルオタゴのブドウ栽培の発祥地とも言われる場所だった。
私は以前にも来たことがあったが、やはり慣れているようで慣れていない感覚が残った。

メニューを見ても、何がどう違うのかが分かりにくく、
みんなが「美味しい」と言うものが、自分にとって美味しいのかどうかもはっきりしないまま、
ただその場の流れの中で食事をしていた。

食事はいつもシェアで、一人で一皿を食べることはほとんどない。
そのため、何をどれだけ食べたのか、自分の満腹感がよく分からないまま終わることもある。

それでも家族はそれぞれ楽しんでいて、
子どもたちは遊びに出かけ、ゴルフやプールへ行き、
私は家でパッキングや洗濯、片付けをしながら過ごした。

気がつけば「洗濯係」と「食器洗い係」のようになっていたけれど、
それも旅の中の役割のひとつなのかもしれない。

飛行機は本当に飛ぶのかどうか、まだ確かな情報はなく、
公式の発表もはっきりしないまま時間だけが過ぎていく。
周りからは「飛ばないのでは」という声も聞こえるが、
結局のところ、今は流れに任せるしかない状態だ。

子どもの世話は今日はほとんど必要なく、
それぞれが自分の時間を過ごしている静かな一日でもあった。

最後になるかもしれない日なのに、
はっきりと「終わり」を感じられないまま、
私はただ日常の延長のように過ごしている。

それでも、この曖昧さごと、今日という日なのだと思う。


(2026.04.11)

今日は、子どもたちの言葉や行動に触れながら、いろいろと考えさせられる一日だった。

「She doesn’t like you」といった言葉や、5歳の子の素直で自由な振る舞いに一喜一憂しながら、子どもの言葉や感情をそのまま受け止めてしまうことの危うさにも気づいた。7歳や5歳の言葉は、その時々の感情や状況に強く影響されるものであり、それを大人がそのまま事実として受け止めてしまうのは違うのだろうと思う。

しかし同時に、彼らにも確かに感情があり、人を大切に思う気持ちや、自分が大切にされていると感じる心がある。そんな中で、彼女はふと間を置いたあとに “I love you” と言った。私はそれに応えるように “I love you too” と返した。そのやり取りが、何とも言えず心に残っている。

私たちは海外に住む祖父と祖母であり、日常のすべてを支えることはできない。それでも日本に来たいと言ってくれるその気持ちに対して、できる限りのことをしたいと思う。日本語の学びを少し支えたり、誕生日にささやかな記念を贈ったり、その程度の関わりしかできないかもしれない。

それでも、もし誤解から距離が生まれたり、私自身を嫌うようなことがあったとしても、それもまた一つの過程なのだと思う。そしてそれが単なる誤解であることも多いのだろう。

夫から「あなたは5歳児や7歳児と同じレベルで向き合っている」と言われることがある。その言葉に、確かにそうかもしれないと思う。

これから彼らは成長し、より複雑な感情や個性を持つようになっていくだろう。そのときに、きちんと向き合える体力と、揺れない人間性を持ち続けていたい。ただそれだけを願っている。


(2026.04.10)

息子が「タイ料理を注文する」と言って手配してくれ、私たちはそれをいただいた。
カレーを選んだが、いつも食べているカレーとはどこか違うという感覚があった。
それが美味しいのかどうか、正直なところ、よく分からなかったのである。
むしろ、チャーハンのような料理の方が、まだ口に合っていたかもしれない。

餃子のようなものも並んでおり、それはわりと美味しかったように思う。
孫たちが何を食べていたのかは、はっきりと思い出せない。
娘は、ハンバーガーのようなものを食べていた。何が挟まっていたのかは分からない。

さまざまな料理が並んでいて、「タイ料理とカレー」と言われても、どれがタイ料理で、どれが(タイ)カレーなのか、私には判別がつかなかった。
それが正直な気持ちである。

それでも、いろいろな料理をいただけることは幸せなことであり、知らなかったことを知るのもまた幸せなことである。
以前にも食べたことがあるらしいが、私はすっかり忘れており、今回また一つ経験が増えたことになる。

気を遣って用意してくれたことに、感謝したいと思う。

それにしても――
カレーとは、いったい何なのであろうか。
私にとって、まだ少し不思議で、よく分からない存在のままである。


(2026.04.10)

孫の一人、5歳の女の子が、言うことを聞かず、少し機嫌も悪く、思うように動かない時間があった。

その様子を見ていて、私はふと、近くにいた7歳の孫に尋ねた。
「あの子は、どうしてあんなふうなのかね」と。

すると彼は私の顔を見て、少し間を置いてから言った。
“She doesn't like you.”

その言葉は、本来なら少し胸に残るものだったかもしれない。
けれど私は、その場では強い感情を持たなかった。むしろ静かに、そのまま通り過ぎていった。

ただ、その一言だけが、あとからふと心に残った。



本来なら、孫に「嫌い」と言われれば、傷ついてもおかしくない。
けれどその瞬間、私は別の場所に引き戻されていた。

子どもの頃、私は「可愛げのない子」と言われていた。
家の中には緊張があり、私はいつもその空気の中で立っていた。

母をかばい、父に反発し、祖父母との関係にも距離があった。
その中で私は、黙ることや距離を取ることで、自分を保っていたように思う。

だからだろうか。
その言葉は、今の私を深く傷つけるというより、過去の自分を一瞬だけ呼び戻した。

もし昔の私であれば、この一言はもっと重く、長く残ったかもしれない。
けれど今は違った。
それは人間関係全体の評価ではなく、その場の一瞬の印象として静かに通り過ぎていった。



人との関係はいつも揺れている。
特に子どもは、その日の気分や状況で大きく変わる。

あの5歳の子も、別の日にはよく笑い、よく遊ぶ。
だからあの一言が、その子との関係そのものを決めるものではないことも、私は分かっている。



それでもあの瞬間、私は自分の過去と現在の距離を感じていた。
かつては「嫌われること」が重くのしかかっていた自分が、今はそれを少し離れた場所から見ている。

その変化こそが、私の中で静かに残ったものだった。


(2026.04.10)

今日は4月10日。
イースターの行事そのものはすでに終わっているが、こちらではまだその余韻が静かに残っている。

もともと私と夫は、4/12にクイーンズタウンからオークランドへ移動し、その後日本へ帰国する予定だった。しかしサイクロンの影響で、今も予定ははっきりしないまま過ごしている。

そんな不安定な時間の中で、思いがけず心に残る出来事があった。

義理の娘が、家族みんなに「ホットクロスバンのパジャマ」を用意してくれていたのだ。

最初は何のことかよくわからなかった。
しかし気づけば夫も子どもたちもそれを着ていて、やがて私にも同じものが手渡された。

実は私のサイズは見つからなかったらしい。
身長167センチ、体重42キロという体型は、こちらの既製服の標準とは合わないことが多い。
義理の娘はあちこち探した結果、子ども用12歳サイズなら入るのではないかと考えて選んでくれたという。

実際に着てみると、肩幅は少しだけぎりぎりだったが、丈も幅も驚くほどちょうどよかった。
鏡の前で思わず「私は12歳の子どもなのか!」と笑ってしまった。

そして今朝、家族で記念写真を撮ることになった。
9ヶ月の赤ちゃんにも同じパジャマが着せられ、3人の孫たちと私、合計5人で並んだ。
息子と義理の娘はその場には入らず、子どもたちと私だけの写真だった。

その光景はとても不思議だった。
年齢も立場も異なるはずなのに、同じ柄のパジャマを着て並ぶと、そこにはただ「一緒にいる人たち」という空気だけが残っていた。

そのパジャマのモチーフは、イースターの食べ物として知られる
Hot Cross Bun だった。

私はその言葉を聞いたとき、昔の記憶を思い出した。

30年以上前、日本で子育てをしていた頃、私は高校で英語を教えていた。
言語習得についても関心があり、子どもに自然な形で英語を身につけさせたい、できればバイリンガルに育てたいという思いを持っていた。

そのため、英語を「教科」としてではなく、「音やリズムとして身体に入れる」ことを意識していたように思う。

その中で出会ったのが、「Hot cross buns」という童謡だった。

当時の私はネイティブではなかったが、英語のリズムや音を子どもの耳に自然に入れてあげたいという気持ちで、その歌を繰り返し口ずさんだり、ビデオを見せたりしていた。

♪ Hot cross buns, hot cross buns…

そのときは深く考えていなかったが、今になって思えば不思議な時間だった。

そして今回、ニュージーランドで実際のホットクロスバンに囲まれながら、その歌を懐かしく思い出し口ずさむ私を見て、義理の娘は少し驚いたようだった。

彼女にとってホットクロスバンは、イースターの季節に食べる甘いパンだったのだと思う。
しかし私にとってそれは、歌であり、記憶であり、子どもと過ごした時間そのものだった。

イギリスの古い童謡集「Mother Goose」に収められたこの歌は、もともと街角でパンを売る声から生まれたものだという。
庶民の生活の中から生まれたリズムが、子どもの歌になり、やがて世界へ広がっていった。

今ではニュージーランドでも、この歌を知らない子どもが増えていると聞く。
多文化社会の中で、古い歌や習慣は少しずつ形を変えているのだろう。

それでもイースターの季節が終わった今も、スーパーにはホットクロスバンが並び、子どもたちはそれを楽しそうに食べている。
文化は消えるのではなく、形を変えながら続いているのかもしれない。

今回の出来事は、ただの家族の記念写真ではなかった。
パジャマという日常の中に、歌と食べ物と記憶と文化が重なり、小さな円のようにつながった時間だった。

そしてその中心に、私もそっと入れてもらっていた。

サイクロンで予定が揺れる不安の中で、静かに残ったこの出来事は、これからもきっと長く思い出すものになると思う。

ホットクロスバンの歌
Hot Cross Bun の童謡
これは**Mother Goose** にも収められている、古いナーサリーライムである。


(2026.04.10)

私は高校の英語教員であった。生徒に向き合い、授業を行う日々であった。しかし、家庭では夫が小学校および特別支援の教員として働き、一人ひとりに合った教材を作り、帰宅も遅かった。家事や子育ての負担は私にのしかかり、長年無理を続けた結果、身体を壊し、40代から胃癌を繰り返すなど、多くの病を経験した。

現在、ニュージーランドの長男宅で過ごしているが、夫は英語の経験が浅く、7歳、5歳、10か月の子どもたちと接する際には辞書に頼ることも多い。しかし、縄跳びやトランポリン、カードゲームなどを一緒にしてくれる夫に、子どもたちは自然と懐いた。英語で話す私よりも、子どもたちは夫により心を開いたのである。その姿を見て、長く子どもと向き合ってきた人の力を感じた。

それでも私は、自分なりに全力で教員としての務めを果たしてきた。さらに51歳で鍼灸の国家資格を取得し、退職後は、自宅で英語の指導および鍼灸の施術を行った。長年の経験と知識は私の財産である。

現在、私はニュージーランドで長男宅に滞在している。4月13日に帰国後は松山の老人ホーム「松山エデンの園」に入居する予定である。ここでは自室で自由に過ごしつつ、大食堂や大浴場も利用できる。生活の負担は最小限であり、人間関係は広く浅くでよいと考えている。

長年、人や生徒に気を使い続けてきた私は、もはや深く人と関わることに疲れた。一人でいる時間が最も心地よく、一人ご飯も好ましい。炊き立てご飯が無くとも冷凍ご飯をチンして塩こぶ、インスタント味噌汁で十分である。気を使わず、お金も時間も節約でき、片付けも簡単である。寂しさは全く感じない。 苦手なのが、友人にお茶に誘われることである。 気を遣って話すことほど苦痛なことはない。 私は恐らく孤独を愛しているのだと思う。

今後は、自分のペースで資格や経験を生かせる活動に関わるつもりである。鍼灸の仕事が何かできればと願っている。ボランティアで日本語を教えたり、通訳として松山を案内するような仕事であれば、無理なく楽しむことができるであろう。自分の心身の健康を最優先にし、自由で穏やかな生活を大切にするつもりである。


(2026.04.09)

今日は木曜日、4月9日。
明日10日金曜日、そして11日土曜日には、もともとクイーンズタウン からオークランド へ飛ぶ予定だった。しかし台風の影響で、まだはっきりしない。少し不安はあるけれど、なるようになると思いながら、スーツケースのスケールを出して、日本から持ってきたお土産を出し、こちらで買ったお土産を入れて、23キロ以内に収まるか確認している。そんなバタバタの中、義理の娘が夫にクロスバンズのパジャマをプレゼントしてくれた。

息子が何気なくスーパーで買ってきたHot cross bun を見て、私は瞬間的に昔の記憶が蘇った。幼いころ、子どもたちと一緒にHot Cross Bunsをマザーグースの歌として歌ったことや、ビデオを見たことが思い出され、YouTubeでも探して日本語と英語で孫たちに見せたりした。どうやらそれが義理の娘の記憶にも残ったらしく、家族全員分のパジャマを買ってくれることになったようだ。

明日の朝はスクールホリデーで少しゆったりしているため、8時ごろまでに母屋に行けばよいらしい。私たちはそのパジャマを着て4人?で写真を撮る予定だが、私には寒いので上に羽織るつもりだ。

息子も義理の娘も孫たちも、Hot Cross Bunsの歌を知らなかったことに、私は少しショックを受けた。調べてみると、イギリス伝承のマザーグースは、移民や異文化の影響で、よほど有名な歌でない限り歌われなくなり、公共の保育園や幼稚園でも歌われなくなっているものが多いそうだ。Twinkle, Twinkle, Little StarやMary Had a Little Lambはまだ受け継がれているが、Hot Cross Bunsはパンそのものは、スーパーには並ぶのに、歌として知っている人はほとんどいない。

それでも今回のイースターを通して、私たちはHot Cross Bunsを食べながら昔の思い出を歌い、子どもたちもその歌を覚えて過ごすことができた。息子が忘れていた記憶を、孫たちが引き継ぐ――まさにこれが伝承なのだと感じた。

これから、イギリス系の伝承童謡や伝統文化は、多くの異文化や移民の影響でどう変わっていくのだろうか。文化とは変わっても受け入れ、次の世代に伝えることに意味がある。しかし、子どもたちが楽しそうにしていたマザーグースが忘れられていくのを見ると、少し寂しい気持ちになる。


(2026.04.09)

7歳の孫が、昨日から夫といっしょに掛け算の勉強をしている。こちらでは、ブロックや配列、グループ分けを使い、6×7なら「6を7回足す」という考え方で学んでいるという。この方法は、掛け算の意味をとても丁寧に教えてくれる。なぜ掛け算になるのか、どうしてその答えになるのか、子どもが目で見て理解できる。これは本当に優れたやり方だと思う。けれど同時に、あることに気づいた。6×7を見たとき、答えがすぐには出ない。頭の中で、6を7回足している。2の段、3の段、4の段、5の段までは、まだ何とかなる。でも、6の段、7の段、8の段、9の段になったら、これはとても重い作業になるのではないか。そう思った。そして私は、日本の「九九」を思い出した。「ろくしじゅうに」これは計算結果ではない。音のかたまりだ。6×7を見た瞬間に、計算ではなく、音の続きが出る。日本の九九絵本や九九カードは、最初から意味より音、理解より反射を作る構造になっているのだということに、あらためて気づかされた。これは学習というより、リズム暗記。歌を覚えるのと同じように、九九を丸ごと体に入れている。こちらのやり方が悪いわけではない。むしろ、掛け算の意味を理解させるという点では、とても理にかなっている。けれど、日本の九九は、掛け算を反射にすることに圧倒的に優れている。本当は、この両方がそろったとき、子どもはとても楽になるのではないか。今の孫は、まさに「意味は理解しているけれど、反射はまだない」という、日本式の九九がいちばん効果を発揮する時期にいる。YouTubeの九九の歌を聞き、夫と息子が考えたカードで順番に言い、慣れたらランダムに言う。毎日5分でいい。英語は後から。まずは日本語の音の流れを入れる。「This is a Japanese times-table song. Let’s sing it.」勉強にしないこと。歌にすること。孫が、九九の音を聞きながら「あ、これ分かる」という顔をする。算数が得意な子だからこそ、ここに反射がついたら、どれほど楽になるだろうと思う。そして、もしお兄ちゃんが自然に言えるようになったら、5歳の妹にも、0歳の弟にも、きっとそのまま伝わっていく。たかが九九。けれど、日本の九九は、こんなにもよくできた学び方だったのだと、ニュージーランドで気づいた。もうすぐ帰国する。この滞在でのたくさんの思い出の中でも、これは忘れられない気づきの一つになった。


(2026.04.09)

長年、英語を教え、異文化理解について学び、伝えてきた。
けれど今回、ニュージーランドで息子家族と暮らしながら気づいたのは、
教室で扱う異文化と、家庭の中で毎日触れる異文化は、まったく質が違うということだった。

それは観光では見えない。
会話だけでも見えない。
台所、洗濯場、床、布巾、赤ちゃんの食事、靴下の片方。
そういう場所に、文化の正体があった。

食洗機の中では、フォークもナイフもスプーンも、汚れている方を下に向けて入れる。
日本では上に向けて入れていた私は、最初とても違和感があった。
けれどこれは機械の水流と安全性を優先した、ごく合理的な入れ方だった。

布巾は見た目が同じでも、用途が厳密に分けられている。
赤ちゃんの顔を拭く布、テーブルを拭く布、床を拭く布。
「洗えば同じ」ではなく、触れてきた菌の種類を交わらせないという考え方。

まな板は厚く重い木製で、包丁も大きくて鋭い。
洗って、立てて、完全に乾かす。
食洗機には入れない。
台所の広さと道具の大きさが、日本とはまるで違う。

洗濯では、ロープ式の回転物干しに、洗濯物を一か所だけ留めて干す。
風で揺れながら乾かすためだという。
落ちることもあるが、あまり気にしない。
「また洗えばいい」という感覚。
そして、日があっても内干しを選ぶ。
紫外線で生地が傷むから、外に出す理由がないから。

裸足の文化も強烈だった。
庭を裸足で走り回り、そのまま家に入る子どもたち。
靴を脱ぐ人もいれば、脱がない人もいる。
その結果、洗濯物にはいつも片方だけの靴下が現れる。
もう片方はどこへ行ったのか、誰も気にしていない。

赤ちゃんの食事は、まるで実験のようだった。
9か月の小さな体で、ピーナッツバターサンドや野菜を手づかみで食べ、
飽きれば投げる。
床に落ちたものを戻すこともある。
手もコップもベタベタ。
けれどそれは「汚い」ではなく、学びの過程として受け止められていた。

そして食事のリズム。
朝食のあとにモーニングティー、昼食、アフタヌーンティー、夕食。
お腹が空いたら少し食べる。
子どもも大人も同じリズムで暮らしている。

料理を褒めるタイミングも難しかった。
「最初の一口の直後」が大切だという。
後から丁寧に感謝する日本のやり方とは違う。
一方で、洗濯を干しても特別な「ありがとう」はあまりない。
家事は、気づいた人が自然にやるもの、という前提がある。

ある日、鍼の先生のところまで歩いた。
車では気づかなかった街路樹の下に、硬い実がたくさん落ちていた。
おそらくアプリコット。
果実のなる木が、そのまま街路樹になっている。
落ちても誰も気にしない。
歩いたからこそ見えた風景だった。

こうして振り返ると、
ニュージーランドの生活は

「きれいに保つ」より
「合理的に回す」ことを大切にし、

「整える」より
「自由に動ける」ことを大切にし、

「見た目の清潔」より
「病気にならない清潔」を大切にしているように感じる。

異文化理解とは、言葉や習慣の違いを知ることではなく、
生活動線の中にある価値観に気づくことなのだと、
台所と洗濯場で教えられた気がする。


(2026.04.09)

1. 飛行機と自然の不確実性

4月12日の夜、クイーンズタウンからオークランドへ飛ぶ予定の便がある。
南太平洋ではトロピカルサイクロンが発達中で、飛行機が遅れたり欠航になったりする可能性がある。
こうした自然災害の影響で、帰国が1日以上遅れるかもしれないという現実を、改めて考えた。



2. 孫との思い出とリュックの記憶

コロナ禍で、5歳の孫に会うのが大幅に遅れたことがあった。
そのとき、1歳を少し過ぎた孫をあやし、世話をするために3か月間滞在した。
初めて会う私に泣きじゃくる孫を、モニター越しにお母さんと見守りながら、少しずつ関係を築いていった時間は、今でも鮮明に覚えている。

当時、ウェアハウスで買った少し大きめの棒状リュックは、日本のものより容量が大きく、ジムや日常の荷物入れとして大活躍した。
使いすぎて破れてしまったので、今回ニュージーランドで新しいものを購入して帰るつもりである。






3. 自分の意思と準備

息子のことを見て、自然災害で帰ってこられない場合もあることを実感した。
それに伴い、自分の最期についての意思も整理している。
  • 検体をして、可能な場合は解剖してもらうこと
  • 散骨までのお世話を後見人に任せること
  • 遺言に希望を明確に記すこと(公式文書として)
こうしておけば、もしもの時に迷う人を減らせるし、自分自身も安心できる。



4. 振り返り

飛行機の不安、孫との思い出、リュックの話、そして自分の意思――
すべてが一本の流れとして心に残っている。
準備して、意思を伝えておくことは、結果をコントロールするためではなく、自分の人生の舵を握るために必要なことだと思う。


(2026.04.08)

今日は息子がお昼休みを少し長めに取り、妻と子ども二人を連れて、赤ちゃんだけ私たちが見ている間にサブウェイへ行った。私と夫も1本を買ってきてもらったが、食べきれないので半分にした。

長いサンドイッチは二本購入。息子と妻は1本ずつ食べ、七歳の孫も1本を完食。五歳の孫娘は1本食べると言ったが、やはり全部は食べきれず、少し残した。

ニュージーランドではサブウェイ人気が強く、自分で好きな具材を選べることが魅力のようだ。野菜もお肉もたっぷり挟んで、自分だけのサンドイッチを作る。七歳の孫は大きなパンを見事に完食してしまった。

私は日本にもサブウェイが駅前にあるのを知っているが、自分から入ったことはない。値段も少し高めだが、それ以前に「わざわざ高いパンを買って、いろいろな具材を挟んで食べよう」という発想が私にはなかった。もしかすると、それが日本とニュージーランドの文化の違いなのかもしれない。

長くて大きなパンに、自分の好きな具材と野菜を挟んで思いっきり食べる。これが幼い頃からの文化なのかと、孫の姿を見ながら感じた一日だった。


(2026.04.08)

今回の旅で使った携帯用ウォシュレットは、これまで持っていた簡易的なものとは異なり、性能がしっかりしていて、本物のウォシュレットと同じ感覚が味わえるものである。水圧やノズルのやさしさ、洗浄力のバランスが絶妙で、使うたびに「気持ちがいい」と感じるものである。

面白かったのは、夫の反応である。最初はあまり興味がなさそうであったが、使ってみたところ「すごく気持ちいい」と言い、知らないうちに使用回数が増えていたようである。置き場所が変わっていることで、それがわかった。

夫だけでなく、海外でウォシュレットの快適さを知る機会があれば、男性全般にも喜ばれるだろうと感じた。男性でも、一度使えばやみつきになる快適さがあるのだと思う。

日本では当たり前のウォシュレットであるが、海外ではなかなか体験できないこの便利さと快適さを、もっと多くの人に知ってほしいと思った出来事である。


(2026.04.08)

滞在先で、義理の娘が「蕎麦サラダを作ったよ」と出してくれた。見た目は少し不思議で、グリーンの野菜や白いオニオン、ナッツの入った甘辛いソースがかかっていた。正直に言えば、私の口にはあまり合わなかった。しかし、感謝の気持ちを伝えるために「美味しかったよ」と言って少しいただいた。

興味深かったのは、これは誰が、どんな意図で作ったのかという点である。キッチンをのぞくと、ちゃんとレシピが用意されており、蕎麦ヌードルを使ったサラダの作り方が記されていた。私はあまり目立たないように写メを撮った。義理の娘は、日本の蕎麦やうどん、ラーメンも知っており、工夫して作ってくれたのだろうと思うと、ありがたく食べることができた。

調べてみると、このレシピは東南アジア系のナッツソースサラダに由来するもので、本来は蕎麦ではなくライスヌードルや小麦の細麺を使うことが多いとのことである。日本の蕎麦に合わせると、味や食感の面で少し違和感があるのは自然なことである。

この体験を通して感じたのは、相手を思って料理を工夫してくれた行為そのものの価値である。文化や味覚の違いから、意図した通りの印象にならないこともあるが、そういう違いを経験することも旅行の面白さである。蕎麦を全く違った形で味わった日として、記録に残しておく。


(2026.04.08)

日本とニュージーランドでは、子どもの食事やランチの習慣に違いがある。

例えば、ニュージーランドの5歳くらいの子どもは、朝食にオートミールを用意しても、その日の気分で「食べたくない」と残してしまうことがある。その後、お腹が空けば、(父親が日本人 冷凍ご飯常備) 自分で冷凍ご飯を温め、ふりかけをかけて食べることも珍しくない。

ランチボックスには、薄くスライスされた食パンにピーナッツバターを塗ったものや、きゅうりや人参、チーズなどを自由に入れることが一般的である。食べきれなければ残すこともある。日本の家庭では「残さず食べる」ことが重視されるが、ニュージーランドでは、子どもが自分で食べる量や内容を選ぶ自由 が大切にされている。

文化の違いを理解することで、子どもの行動を「わがまま」と判断するのではなく、自立心や自己決定を尊重した育て方の一環 として受け止めることができるようになってくる。

異なる文化の価値観を知ることは、子どもを理解する上で重要な視点である。


(2026.04.08)

今朝まで深い霧に包まれていたが、午前中には晴れ上がり、きれいな青空が広がった。天気が良くなるにつれ、気分も少し軽くなるのである。

我が孫も今日で9か月である。もうほとんどつかまり立ちができ、歩き出しそうな様子である。ふと目を離すと何かを口に入れそうになったり、お姉ちゃんの部屋のものを引っ張り出したりと、目が離せない。赤ちゃんのお世話は、たった15分でも神経を使うと、夫と交代した後にはどっと疲れが出るのである。

しかし、自分の中では淡い期待がある。今日、9か月の記念日に立つ姿を見られたらいいなと思うのである。思い返せば、我が子も小さいころは身軽であったため、9か月で歩き出し、みんなに驚かれたことを思い出す。子どもが生まれて育つのは大変であるが、時間はあっという間に過ぎていくものである。


(2026.04.08)

今朝のアレクサンドラは、朝から深いもやに包まれていた。
白く静かな景色の中で、今日のゴミ出しやこれからの一日の予定が頭をよぎる。

今日世話をするのは、9か月の赤ちゃん、7歳の男の子、5歳の女の子の三人。
赤ちゃんはよく眠れたおかげで、離乳食も割とスムーズに食べてくれた。
7歳の男の子は、自分のペースを大切にしつつ、私たちの言葉も少し理解して対応してくれる。
5歳の女の子は、気持ちや好奇心が強く、感情を素直に表す。いたずらや強い言葉もあるけれど、そこに個性と成長の芽が見える。

三人三様の個性に合わせて、接し方や対応を少しずつ考える必要がある。
言葉が十分に通じなくても、彼らの気持ちに耳を傾け、私たちの文化や日常も少しずつ伝えられるように。
今日一日、朝もやのようにすっきりしない、不思議な感じのまま過ぎていくかもしれないけれど、子どもたちとのやり取りの中で、それもまた一つの学びと発見だ。
いつの日か、この日のもやや不思議な時間も、私たちの思い出となり、子どもたちにとっても振り返る記憶の一部になってほしいと願う。


(2026.04.08)

昨日、鍼灸の予約を30分程早く訪ねてしまった。
日本ではそれが礼儀だと思っていたからだ。けれど受付の方は驚いた様子で、「長く待つことになるよ」と言った。

その出来事をきっかけに、ふと気づいたことがある。
ニュージーランドの家の部屋には、どこにも柱時計がない。

日本の家では、顔を上げれば時間があった。
柱時計や壁時計が、家族みんなに同じ時間を知らせてくれていた。
時間は「部屋の中」にあり、「空間の一部」だった。

けれど、こちらでは違う。
時間は部屋に置かれていない。
時間は、それぞれの人の中にある。

今何時か知りたいとき、私はわざわざ携帯を開く。
それを少し不便だと感じながらも、同時にとても新鮮に感じている。

部屋の空気が静かなのは、音が少ないからだけではない。
時間が、そこに主張していないからかもしれない。

時計と共に生きてきた私にとって、
時計の無い空間は、
時間に見張られていない空間でもあるのだと気づいた。

文化の違いは、観光地ではなく、
こういう何気ない部屋の中に、そっと現れるのだと思う。


(2026.04.08)

息子は幼いころからスポーツが好きであった。体操や水泳、さまざまな習い事を経験し、ピアノも上手であった。水泳は選手コースにまで上がり、特に平泳ぎが早かった。

ニュージーランドへ渡ったのは中学2年生の終わりである。英語で困ることはなかったが、それは偶然ではなく、幼少期からバイリンガル教育やインターナショナルバカロレア教育を受けていたことが背景にある。言語や学習環境の違いに適応する力は、こうして培われたのだと思う。

高校はニュープリマスボーイズハイに進学した。中高一貫校であるため、中学2年生から入学し、そのまま高校へ進学した。高校ではバレーやラグビーなどを経験したが、体格の違いやケガもあり、身体を大事にしながら成長していった。

大学ではヘルスサイエンスを学び、卒業後はアレクサンドラで歯科医院を継承・運営した。医院は順調に成長し、現在は安定した収入のもとで家族と生活している。

今日、息子は少しスクワッシュの練習試合に出かけている。彼は父親として、朝から子どもたちの世話をし、午前中働き、お昼を食べようとしても10か月の赤ちゃんが泣くので落ち着いて食べられなかった。午後帰宅後も、赤ちゃんをお風呂に入れ、5歳と7歳を寝かせながら、息子はまた少し出かけるという。スクワッシュの練習試合だそうだ。その体力と気力はどこから生まれるのか、38歳の息子を見て私は思わず疑問に思う。

私は、自分が叶えられなかった夢や願望を息子に託した部分があることを自覚し、申し訳なさも感じている。それでも、息子が自分の人生を歩む姿を見て、彼の人生を尊重したいと思っている。経済的な見返りは求めない。ここまで成長した、社会人・家庭人として幸せそうな姿を見るのが何より嬉しい。


(2026.04.07)

今日は鍼灸の施術を受けるために、徒歩でアレクサンドラの街を歩き、いろいろなことを学んだ日だった。

まず、ナイトアンドデイ。この町には一軒しかないお店で、今七歳の一番上の孫が三歳ぐらいのときに、泣き叫んでどうしても通りたかった思い出がある。日本のコンビニのような店で、どうしても買ってほしいものがあったようだ。アレクサンドラに一軒しかないため、目印としても絶対に忘れられない店である。

次に、慣れないラウンドアバウト。ニュージーランドでは左側通行で、ラウンドアバウト内の車が優先、歩行者は自分でタイミングを見て渡る必要がある。日本でも長野県などに導入されているが、大都市で設置するのは難しいだろう。しかし、交通事故が減り、信号がいらないというメリットがあるので、今後の道路設計にも活かせるのではないかと思う。歩行者としても信号がなく渡るのに困ったが、こちらの運転に慣れていない夫は、いつも「これでいいのかな」と不安げに運転している。

そして、道に迷ったことも忘れられない。行きは夫と予習し、何度も道を確認したが、帰りは疲れもあり、Googleマップの指示だけを頼りに歩くことになった。行きと違うルートに出たり、余分に時間がかかったりしながらも、無事に家にたどり着いた。

今日の学びはこの三つ。道にまつわる思い出と、街を歩くことで見えてくる町の風景、交通文化の違いを改めて感じた一日だった。


(2026.04.07)

今日の午後は、以前から親しくしていただいている鍼灸の先生に施術をお願いした。とてもよく効き、体全体がだるく、強い眠気を感じている。血流が良くなったことによる自然な反応なのだと思う。あるいは、先生にはさらに深い狙いがあったのかもしれない。

鍼灸師が学生時代に解剖学や生理学を学ぶ際、それらを教えるのは主に医師であると認識している。しかし、鍼灸師国家試験に合格した後、さらに優秀な者は、鍼灸学校で教える資格を得ることのできる教育機関へ進む道があるという。この先生もその課程を修了され、かつて鍼灸の学生を教えておられたそうだ。

ワーキングホリデーの年齢制限ぎりぎりでニュージーランドに来られ、英語を学び、日本で取得した資格を活かすために、こちらでも鍼灸の資格を取り直されたという。

施術を受けながら、また折に触れて伺うお話の中で、これまで歩んでこられた道のりのすごさを改めて感じた。ニュージーランドで鍼灸師として患者の信頼を得て働きながら、お二人のお子さんを育て、永住権も取得されたとのこと。その強さと優しさは、簡単に真似できるものではないと感じる。

身体を整えていただきながら、人としての在り方に触れたような、心にも深く残る時間であった。次にお会いできるのはいつだろうかと、静かな余韻の中で思っている。




(2026.04.07)

私はほとんどイヤホンを使わない。
夫が使っているのを見て、安めのものを買って真似してみたけれど、すぐに無くしてしまった。そこで、耳にしっかり収まる少し高めのものを買ったが、聴覚にはあまり良くないと聞き、昼間や長時間の使用は避けるようにしている。

そして今日、久しぶりにイヤホンの片方がなくなった。もともと私は、いつも片方しかつけないのだけれど。

ニュージーランドに来て――いや、それ以前から寝つきの悪い私は、YouTubeで「もしもバージョン」の『薬屋のひとりごと』を流していると、不思議なほどあっという間に眠りに落ちてしまうのである。

『薬屋のひとりごと』は、シリーズ1とシリーズ2だっただろうか。全部で48話まであったように思う。何度も、何度も、お金を払ってまで見た気がする。とにかく猫猫(マオマオ)が好きで、強く惹かれていた。日本で視聴できるものはすべて見て、繰り返し、繰り返し見ていた。

猫猫が孤独を好むところが、私はとても好きだ。彼女はとても複雑な生い立ちを持っているけれど、私自身はそこまで複雑ではないにせよ、泣いても放っておかれることが多かった。だから、猫猫の気持ちが少しわかるような気がする。彼女のような聡明さがあるわけではないけれど、「自分で考える」ということは、もしかすると「一人にされる」という経験から生まれるものなのではないか、と私は思っている。

とにかく、あまりにも何度も見たので、物語の流れはすっかり頭に入り、次に何が起こるのかもすべて覚えているほどである。

YouTubeで「もしもだったら」シリーズというものを見かけたとき、最初は何のことだろうと思った。動画に動きがないので不思議だったのだが、どうやらファンの人たち、あるいは物語を書きたい人たちが、自分で続きを想像して作り、それをYouTubeにアップしているらしい、ということがわかった。

私は寝つきが悪く、なかなか眠ることができない。けれど、『薬屋のひとりごと』以外のものを流すと、たとえば大谷翔平が出てきたりすると、つい見入ってしまい、かえって目が冴えてしまう。その点、『薬屋のひとりごと』は内容をすでによく知っていて、「もうあとはどうでもいいや」と思える。イヤホンの音を小さくして聞いていると、不思議なことに、あっという間に眠りに落ちてしまうことに気がついた。

今朝目が覚めて、耳にしっかりついているイヤホンに気づき、「ああ、今日もなくさなかったな」と思いながら着替えた。洗濯は義理の娘が使っていたので、終わるのを待とうと、イヤホンをしたまま着替えたようだ。ふと気がつくと見つからない。あまりにも疲れていたので、時間が来るまで一時間ほど横になって休んでいた。それから、洗濯物の様子を見に行った。

娘の洗濯は一回目が終わっていたので、干しておいた。二度目の子どもたちの服は、どのように洗えばよいのかわからなかったので、そのままにしてある。ふと、自分の洗濯物の中にイヤホンが紛れていないか確かめてみると、なんと一番底に入っていたのである。ああ、年を取ったなあ、と思った。イヤホンは、気づいたときにすぐ元に戻さないと、これまでも何度もなくしてきた。しばらくはなくさずにいられたのに、またやってしまった。

まあとにかく見つかって充電もしたので、これで「なくなっちゃった」と悔やむこともなくなった。
これでよしとして、今日は午後をゆっくり過ごしたい。
あーー洗濯が残っている。


(2026.04.07)

ずっと心のどこかで気になっていたことがある。

義理の娘は、結婚した当初から、いや、その前からかもしれないが、私たちのことをファーストネームで呼ぶ。私は「TOMOKO」、夫は「MAKOTO」。
「Makoto と Tomoko は響きが似ているね」と言いながら、いつもそのまま名前で呼びかけてくる。

日本では、義理の親を名前で呼ぶことはまずない。だから私は、これが文化の違いなのだろうと思いながらも、どこか不思議な気持ちを抱えてきた。娘ができたというよりも、友達がひとり増えたような感覚に近かったのである。

一方で、娘の結婚相手は私たちのことを「お父さん」「お母さん」と呼ぶ。これが私にとってはごく自然な日本の感覚である。

義理の娘はとても率直な性格で、息子によるとニュージーランド人の中でも特にはっきりものを言う人なのだそうだ。こちらもはっきり伝えなければ話が通じないと感じることがある。それでも、「Tomoko」「Makoto」と呼ばれるたびに、私は少したじろいでしまう。

けれども今回、義理の父母をどう呼ぶのが一般的なのかを調べてみると、英語圏ではファーストネームで呼ぶことが多いと知った。それがごく普通のことなのだとわかり、これまで釈然としなかった気持ちが、すっと軽くなった。

孫たちは、母方の祖父母を「Grandpa」「Grandma」と呼んでいるので、私たちのことは「じいじ」「ばあば」と呼ばせている。
「Tomoko」「Makoto」と呼ばれる私たちと、「じいじ」「ばあば」と呼ばれる私たち。

その違いに、ああ異文化なのだなあと実感する。

戸惑いながらも、これは慣れていくしかないのだと思う。同時に、こうした異文化体験もなかなか面白いものだと感じている自分がいるのである。


(2026.04.06)

今日は3日ぶりに体調が良くなり、子どもたちや孫たちの世話をすることができた。上の孫はお父さんとゴルフへ、真ん中の孫はマフィン作りにお母さんのお友達の家へ行き、私はもうすぐ9か月になる赤ちゃんの世話をした。

赤ちゃんは何でも舐めるし、何でも噛む。お母さんを探して泣いたり、好きなものに執着したりする様子は、いつもの通りだった。食事の時間には、人参やクムラ(さつまいもに似たもの)、きゅうりを小さく切って与えた。きゅうりは生のまま、クムラは少し柔らかく調理されていた。さらに大きめのトウモロコシや、家族が食べていた焼き肉も与えると、歯がまだ生えていないのに一生懸命噛んでいた。

赤ちゃんはスプーンで食べさせようとしても嫌がり、自分で手づかみで食べる。エプロンをつけていても前にいっぱい食べ物が溜まり、こぼれたものも手でつかんで戻す。そのうち指先の使い方が上手になり、最初はこぼしてばかりだった食べ物も、少しずつしっかり掴めるようになってきた。スプーンも自分で取って口に入れようとする姿には、自立の芽生えを感じる。

この3日間で、赤ちゃんの足の力も強くなった。つかまり立ちをすると、かかとがしっかり床につき、一瞬手を離して立つこともある。手で引っかかれたり、足で蹴られたりすると痛いが、それも力がついている証拠だ。大きめの食材に挑戦する姿や、手先・足の力を使って食べる様子は、まるで新しい世界を発見しているかのようで、とても不思議で面白い。

上の二人の七歳と五歳の子どもたちも、かつてこうした時期があったのだろうと振り返る。あっという間に一人で食べられるようになるのだろう、そんな気がした。

日本では手づかみで食べることは「お行儀が悪い」とされることが多く、私が母親だった頃は、スプーンでペースト状のものをあげることが一般的だった。しかし、ここニュージーランドでは手づかみで食べることが普通で、赤ちゃんが自分で食べる姿を見ていると、手の感覚や指先の器用さがぐんぐん伸びているのを感じる。こうした体験が、成長を早めているのではないかとさえ思える瞬間だった。


(2026.04.06)

日本で染み付いた習慣と、ニュージーランドの「自分のペースで動く文化」の違いに戸惑う日々。

3月13日にニュージーランドに来て、今日で4月6日。もう3週間ほど経った。あと1週間で帰国だ。
日本では、食事の場面でも「どうぞ」「いかがですか」と相手を立てるのが当たり前だ。しかしここでは、自分が食べたいときに食べ、周りの人がどう思っていようと関係ない。それがこちらでは当たり前だ。

息子がいると「お父さんもお母さんも食べて」となるけれど、いないと「まあ仕方ない、食べようか」夫婦でそういう感じになる。食事に限らず、義理の娘と孫が外出する間、私と夫は赤ちゃんの面倒を見ているのだが、何の声かけもなく彼らが食べている様子を見守る。日本の習慣だとつい「一緒にどうですか」と声を掛けると思うのだが、ここではそういうお誘いは一切出ず、自分から言わなければ「どうぞ」という言葉は絶対に出ないのだ。

別に悪意があるわけでも意地悪されているわけでもなく、それが当たり前。やっぱり文化の違いだと思い知る。67年かけて染み付いた日本人としての習慣や感覚は、立派なものではないけれど、やはり簡単には変えられない。ニュージーランドの人には彼らなりの考え方や言い分があり、それぞれが自分の立場で物事を見て考え、相手のことを考えたり考えなかったりするのだろう。もう何年もこの地を訪れているが慣れることはない。今回も慣れるのか慣れないのか、たぶん慣れないだろうなと思いながら、あと数日を過ごそうと思う。


(2026.04.06)

ニュージーランドのアレクサンドラで、息子の家に滞在している。
初めてこの家を見たとき、思わず「御殿のようだ」と感じた。あとで住所から調べてみると、土地は約520坪、住居部分だけで約97坪あるという。日本の感覚からすると、建売住宅がいくつ入るのだろうと思う広さである。

広い庭、古い大きな木、ゆったりとした間取り。確かにのびのびしている。だが同時に、この家は週に一度か二度、掃除に来る人を頼んでいる。広さは、管理という仕事も連れてくるのだと気づく。

一方、わが家は40坪の3階建てである。私の父は柔道家で、晩年は足が悪かった。将来引き取るかもしれないと思い、軽量鉄骨でエレベーターを付けて建てた家である。決して広くはないが、掃除はすぐ終わるし、生活はすべて手の届く範囲にある。

孫たちは、自分の家の広さにはあまり驚かない。けれど、日本のわが家に来ると「狭いね」と言いながら、階段とエレベーターを遊び道具のように何度も乗り降りして楽しんでいる。子どもにとって家の印象は、広さではなく体験なのだと気づかされる。

そんなことを考えているうちに、若い頃の記憶がよみがえった。23歳のとき、アメリカのオレゴン州に留学していた。初めて入ったスーパーマーケットで見た巨大な牛乳、巨大な冷蔵庫、何もかもが大きい暮らしぶりに圧倒された。そして友人から「公共の場で toilet と言ってはいけない。restroom か bathroom と言うのだ」と教えられた。

その言葉がずっと記憶に残っている。

カナダに行ったときには、toilet という言葉を使う人もいて、少し拍子抜けした。そして今回、ニュージーランドのスーパーでうっかり「bathroom はどこですか」と尋ねたところ、建物の外へ案内されてしまった。中を探すと、きちんと「Toilet」と表示がある。ここではそれがいちばん自然な言い方なのである。

巨大な牛乳と、トイレの呼び方。
一見まったく関係のない記憶が、今この広大な家の中で、一本の線でつながった。

若い頃に見た「豊かさ」の象徴は、広さや大きさと言葉のやわらかさだったのかもしれない。けれど今、自分の家のことを思い出すと、豊かさは別のところにあるように思える。

誰かの身体を思って設計したこと。
掃除がすぐ終わること。
子どもたちがエレベーターで遊ぶこと。

それもまた、十分に豊かな暮らしなのだと、520坪の家の中で気づいた午後であった。


(2026.04.06)

先日、知り合ったパイロットの青年が、飛行機に乗せてくれるという話があった。しかし、私の体調が優れなかったため、夫だけが乗ることになり、息子から「お母さんは乗らないで」と言われた。確かにそうだ。お休みをもらい子どもの世話も免除してもらいながら、飛行機だけ乗るのは不自然だ。

飛行機は四人乗りで、他に乗る人を探していた。私は、「私が乗らないなら、息子か娘が代わりに乗れば楽しめるのではないか。その間、私は子どもの世話をすればいい」と提案した。しかし息子は、その時間義理の娘はジムに行く予定で、息子は子どもの世話もあるため乗れないという。10か月の赤ちゃんと7歳と5歳の子どもを私一人で見ることはできず、もし怪我でもあったら大変だ。

「せっかくだから私も乗ってみようかな」と言うと、息子は「乗る? 乗れるだけ元気になったわけ? 乗ったらちゃんと子どもの世話ができるわけ?」と聞いてきた。息子の顔を見て、ああ、この子はもう日本人ではないなあと感じた。はっきり物を言う。義理の娘と同じだ。イエスかノーか、良いか悪いか、はっきりさせろというタイプだ。

幼い頃から日英語の環境を与え、13歳でニュージーランドに来てから、英語(と日本語)の環境で育った息子は、わずか1年ほどで「キウイボーイ」と呼ばれるほどにネイティブの発音を身につけた。今では、私には彼の英語のほとんどが理解できない。

歯科医院の経営も大変だ。義理の娘のおじさんから譲り受けたとはいえローンもあり、四人の歯科医やスタッフを抱えて毎月給与を支払う。新しいスタッフを雇う際には弁護士や行政書士、司法書士などに相談し、経営理論も夫婦で学んでいる姿を見ると、本当にすごいと思う。さらに、オーストラリアの方が給料が良いため人が流れる中で、田舎にある息子の医院は日本人院長としての評判が広まり、人気も高いらしい。通常8割の稼働率で良いとされるが、息子の医院は9割以上を維持している。

こちらの人たちは奨学金を借りて大学に行き、10年ほどかけて返す人がほとんどだと聞く。しかし息子は留学生で、莫大な費用がかかり、歯学部まで出ている。最近になって、医院の収入が安定したことで、息子から「学費を少しずつ返したい」という申し出があった。私は同席したが、夫との話し合いだったため、具体的な金額は聞いていない。

私は松山エデンの園に行き、管理費と食費を払えて、その他諸経費も賄えて、もしアルバイトができればとても嬉しい。足りない分は夫が補ってくれるそうだ。息子には頼るつもりはない。

息子は私の夢を押し付けたような存在で、申し訳なさの方が強い。結局、私の夢であったバイリンガルになることを、彼が代わりに叶えてくれたようなものだ。迷惑だったかもしれないと考えると、彼にお金を返してもらおうという気にはあまりならない。返すとしても夫の口座を通すだろうし、私は自分で足りない分を働き、自立したいと思っている。

息子の話を聞き、飛行機には乗れなかったけれど、私は息子を我が子としてよりも、外国人として見てしまったのかもしれない。彼との関係を契約のように捉えつつ、私は一人で生きていきたいと考えている。


(2026.04.06)

ニュージーランドに来て、気づけば3月12日に出発して今日で4月6日である。滞在も残りわずかである。こちらの気温は8℃前後で、秋であるにもかかわらず非常に寒く感じる。息子や娘、孫たちは半袖や短パンでも平気であるが、私には寒さが身にしみ、何枚重ね着をしても体が震えるほどである。

私は低体重で、BMIは14.8、42キロ、身長167センチである。かつて胃潰瘍を繰り返し、早期胃がんの内視鏡手術を受けたため、医師によると胃の吸収力が十分ではない状態である。寒さや活動によって体が消耗すると、体温を自分で維持する力も不足し、プールでの水泳レッスンでも3つ位続けると、レッスンの途中で震えが止まらないことがある。

食事は十分に摂っているつもりであるが、体重はなかなか増えない。血液検査で異常はなくても、これは「病気がない」という意味であり、栄養状態や体力を評価するためには別の視点が必要であると医師に言われた。

日本では、身体が弱いわけでも、寒がりなわけでもない。身体の構造や過去の胃の状態、寒さへの適応力の違いによる自然な反応である。身体を守るためには、吸収されやすいスープや煮込み、柔らかいタンパク質、ヨーグルトなどを少量ずつ回数多く摂ることが必要であるらしい。また、寒さから体を守るため、電気毛布や重ね着で体温を保つことも重要であると聞く。


(2026.04.06)

2026年3月31日、孫娘の5歳の誕生日であり、デイケアの最終日のお祝いに参加した。
孫娘はマオリーの衣装を着て、これまでの歩みを振り返る厳粛な雰囲気の中、保護者も一緒に見守る場面だった。

その途中、孫娘のリクエストで「APT.」という曲が流れた。私は曲のリズムは知っていたが、歌詞の意味までは詳しく知らなかった。曲が流れると、子どもたちは楽しそうに踊り出す。しかし、私には強い違和感があった。さっきまでの厳粛さとのギャップが大きく、また歌詞の内容は恋愛的で、幼稚園やデイケアの最終日にはそぐわないのではないかと思った。

息子に聞くと、孫娘は歯科医院のBGMでこの曲を耳にし、楽しい曲として覚えていたらしい。保育園で「どんな曲がいい?」と聞かれた際、自分でリクエストしたということだった。歌詞の意味は理解していない年齢なので、仕方のないことだと思った。しかし、先生方のチェックは入らなかったのだろうか、という疑問も残った。

改めて曲を聴くと、やはり日本の感覚からするとデイケアの最終日には合わないだろうという思いが湧いてくる。ニュージーランドでは、子どもが楽しめることが優先される文化なのだと納得した一方で、日本人的な感覚は自然に反応し、私の違和感として心に残った。


(2026.04.05)

今日は4月5日、イースターの日。体調が優れず、ふらつきがあって、夕食も横になったまま過ごしていた。

そんな中、ふと思った。「あの薄いパンに、あのニュージーランドのバターをたっぷり塗って、チーズをのせて、軽くチンして紅茶と一緒に食べたい」と。

普段、日本ではあっさりした雑炊やお粥しか食べない私が、体調の悪い日にまでバターとチーズを欲するなんて、とても珍しいことだ。

口に入れると、ふわっと広がる自然なミルクの甘みと、軽く溶けるコク。雑炊やお粥ばかり食べてきた私の体でも、すっと受け入れられる。
「ああ、本当に美味しいものは美味しいんだな」と、改めて感じた瞬間だった。

もうすぐ日本に帰る。ここのバターを味わえる時間も残りわずか。でも、この味を知ったこと、体が欲する美味しさを感じられたことは、忘れられない思い出になりそうだ。
早く、このバターで元気になりたいと思う。


(2026.04.05)

今日はイースター。どこも閉まっていると思っていたのに、New World (スーパー)が開いていて、店内を歩いていると、ホットクロスバンズがたくさん並んでいた。

私はずっと、ホットクロスバンズはイースターの頃だけの特別なパンで、当日にはもう売り切れてしまうものだと思い込んでいた。けれど実際は、値段の高いものから安いものまで並び、しかも安売りまでされている。今日4ドル19セントになっていたものを、思わず買ってしまった。

息子が10日ほど前に何気なく買ってきてくれた時、私は瞬間的に、昔マザーグースで子どもたちと一緒に歌った
“Hot Cross Buns, Hot Cross Buns…”
の歌を思い出し、自然に口ずさんでいた。

歌でしか知らなかったパン。どんなパンなのだろうと思いながら、子どもたちと歌っていたあの頃。
そのパンが、今、異国のスーパーに当たり前のように並んでいる。

息子はその歌を忘れていた。孫たちも知らなかった。けれど孫娘は、その歌を聞いて覚えてしまい、ホットクロスバンズを見ると口ずさむようになった。

私はその様子を見て、とても不思議な気持ちになった。

イースターの象徴だと思っていたパンが、実際には「甘くて子どもが好きなパン」として並び続けていること。
文化の意味は少しずつ変わっていくのだなあと感じる。

それでも、歌を思い出し、孫が歌い出したことで、このパンは私の中で再び歌と結びついた存在になった。

ホットクロスバンズは、もうただの安売りのパンではない。
昔の子どもたちとの時間と、今の孫との時間を、静かにつないでくれる、思い出のパンになった。


(2026.04.05)

今日のアレクサンドラは、一日中8℃ほどで雨が降り続き、体感としてはまるで冬である。孫たちはそれぞれ体感温度に合わせて服装が異なり、7歳の息子は半袖半パンツで元気に走り回り、5歳の女の子は暖かいメリノの上下を着せてもらい、赤ちゃんは長袖で守られている。父親や義理の娘も軽装で過ごしており、家の中にいながら、まるで四季が同居しているかのようである。

私は寒さに弱く、メリノやユニクロの下着を重ね、カイロやセーター、オーバーパンツに靴下二枚と、完全防寒の装いで過ごしている。背中の冷えで眠れず、風邪をひいてしまい、回復に時間がかかっている。体調が優れない中、みんなに迷惑をかけてしまうこともあり、心が重い。

今回の滞在でつくづく感じたのは、年を重ねるということは、体の声を尊重し、時には無理をやめることも大切であるということである。孫の成長を見たい気持ちはあるが、健康を害してまで続けることはできない。無理をせず、体を守ることを優先することが、家族にとっても自分にとっても大切であると感じている。


(2026.04.05)

イースターの日、義理の娘のお母様や親しい方々が訪れる中で、私は体調も優れず、気持ちの整理が追いつかないまま、呼ばれたので出た。ハグをすることで精一杯で、それ以上の交流は難しかった。夫に「お昼に向こうに行こう」と提案したが、彼は「まだ早い」とだけ言い、私の気持ちを理解してくれないことに苛立ち、孤独感を感じた。

長年、夫には人の気持ちを察する能力が欠けていると感じてきた。今では、あの人に対して期待もしていないし、感情的に関わることもほとんどない。将来についても、松山エデンの園に夫が「二年後に来る」と言っていても、本音では来ないでほしいと思っている。

体調や感情のしんどさを理由に、無理をせず自分の心を守ることも、必要な判断だと感じた。私だって彼に思いやりはない。人の思いやりがないと感じる相手との距離を保つこと、そして自分の気持ちを優先することが、私にとって大切なのだ。


(2026.04.05)

4月13日に帰国するので、もうお土産探しに追われる時期になった。毎年思うけれど、日本のお土産文化はやっぱり独特で、気を使う。物価も高く、個包装で壊れにくく、スーツケースで持ち帰れるものを探すのは一苦労だ。

結局、バーやナッツバー、小さな箱に入ったものを選ぶのが一番現実的。今年はジムも新しくなり、仲のいい友達四人だけに買った。去年のようにスーツケースで運ぶ量が多く、歪んでしまう心配もなく、気が楽になった。

人間関係も、これからは少しずつ広く浅くしていこうと思う。全員にお土産を配るわけにはいかないし、ニュージーランドへまた来られるかもわからない。お世話になっている人には買いたかったけれど、それ以外は心の中で感謝しておけば十分だ。

新しいジムでは、私のことを気に入らな人もいるらしい。私の体型、167センチ42キロ、BMIが14.8という細さが気に入らないらしい。私の一挙手一投足を見ては気に入らないと言っているらしいけれど、私は全く気にしていない。女って嫌だなと思うこともあるけれど、どうせ気にしても仕方がない。笑顔で対応して、嫌われたら嫌われたでしょうがない。

松山エデンの園は終の住みかで、死ぬまで住むつもりだ。だから、楽しく笑顔で挨拶をすることは大切にしつつ、人間関係は広く浅くを心がけ、トラブルのないようにしようと思う。向こうからトラブルを持ちかけられたら仕方がないけれど、自分からは無理せず、日々を過ごしていきたい。


(2026.04.05)

今朝は、子どもたちが朝からそわそわしていた。
両親は、「一番下の10か月の子が寝たら、エッグハントをやるよ」と言って、それまで子どもたちを待たせていた。

その間、私たち(夫と私、おじいちゃんとおばあちゃん)が二人の子どもの面倒を見ていた。
やがて時間が来ると、卵の隠し場所が決まり、紙を持った両親が子どもたちを呼びに来た。

二人の子どもに友達も加わり、三人で紙を見ながら次々と卵を見つけていく。
見つけるたびに大騒ぎになり、庭中が楽しそうな歓声であふれた。

全部見つけ終わると、大変なところもあったようだが、三人とも満足そうだった。
私はその様子を客観的に見ながら、「これがエッグハントの意味なのかな。何かを見つけ出すこと、それがエッグハントの意味なのかな」と考えた。

イースターやイースターエッグ、エッグハントは、私たちはこれまでニュージーランドではこの時期に来たことがなかったので、初めての経験である。
スーパーへ行けば、イースター関連のものがたくさん売られており、特別な季節なんだなと思いつつも、それが商売と結びついていることがとても不思議だった。
しかし、このように家の中で子どもたちが楽しそうに遊んでいる姿を見ると、やはり大切な行事なんだなと感じさせられた。

補足:
イースターエッグは、卵の中に命が宿っていることから、死からの復活や新しい命の象徴とされる。
エッグハント(卵探し)は、子どもたちが隠された卵を見つけることで「希望や喜びを見つける体験」を楽しむ遊びであり、春の訪れや命の大切さを感じさせる行事でもある。


(2026.04.05)

昨夜、息子の知り合いの若い男性と話す機会があった。義理の娘がインスタグラムで知り合ったという彼は、まだとても若く、礼儀正しく、まっすぐな目をした好青年であった。

高校生の頃に日本を離れ、あえて日本人の少ないニュージーランド、アレクサンドラの地を選んでやって来たという。最初の2年間は言葉も文化も分からず大変だったそうだ。それでも3年目からこの国での生活が楽しくなったと話してくれた。

やがて飛行機に興味を持ち、パイロットになりたいと思った。しかし学費が足りず、一度日本へ帰って働き、親御さんの助けも受けながら2年間の訓練を終えたという。今は飛行機に乗りながら、訓練生を教える立場にもなっているそうだ。

将来、航空会社で本格的に人を乗せて飛ぶためには学位が必要とのことで、通信制で勉強を続けながら飛行時間を積んでいるという。私の聞き間違いでなければ、現在600時間。目標は2000時間だと話してくれた。

息子より12歳も年下の彼の話を聞きながら、若いということの力、夢を持つということの強さを、まぶしく感じていた。

そしてふと、「ああ、私は年を取ったなあ」と思った。

昨夜は遅くなり、そのまま寝てしまったが、今朝、骨粗鬆症の薬を飲み、人間はこうして少しずつ弱っていくのだなと実感した。同時に、若い時にやりたいことをやっておくことの大切さを、しみじみと思ったのである。

けれど、若者の夢を「まぶしい」と感じられるのは、長い時間を生きてきたからこそ持てる感覚なのかもしれないとも思った。

若い人は前だけを見て走っている。
年を重ねた人は、その姿を人生の流れの中で見ることができる。

昨夜、彼はきっと、自分の夢を安心して語れる相手として私と夫にに話してくれたのだろう。そう思うと、少しだけ、今の自分にもできることがあるような気がした。

若者の夢を静かに受け止めること。
それもまた、年を重ねた者の役割なのかもしれない。


(2026.04.05)

Netflixで久しぶりに観た
魔女の宅急便(英題:Kiki’s Delivery Service)。

子どもたちと何度も観た、大切な作品である。

13歳の少女キキは、しきたりに従い、一人立ちの旅に出る。相棒は黒猫のジジ。海の見える大きな町にたどり着いたキキは、パン屋の女将に親切にしてもらい、屋根裏に住まわせてもらうことになる。

キキは、自分の魔法――ほうきで空を飛べること――を生かし、空飛ぶデリバリーサービスを始める。失敗も多いが、さまざまな人との出会いを通して、少しずつこの町に居場所を見つけていく。

しかし、ある時キキはスランプに陥る。魔法がうまく使えなくなり、ほうきで飛べなくなり、ジジの言葉もわからなくなってしまう。自信を失ってしまうのである。

友人の**ウルスラ**の家で過ごす中で、「描けない時は、描くのをやめること」「自分を取り戻す時間も必要なこと」を教えられ、励まされる。

そんなある日、町に飛行船ショーがやってくる。事故が起き、
**トンボ**が空中に取り残されてしまう。

キキはほうきを手に取り、もう一度飛ぼうとする。それは賭けのような瞬間であった。すると魔法が戻り、再び空を飛べるようになる。キキはトンボを救い、町の人々に受け入れられる。

そして両親に手紙を書く。
「もう大丈夫。この町が好きです」と。

キキは、少し大人になった自分を感じながら、この町で暮らしていくのである。

私の二人の子どもたちは、それぞれに好きなこと、苦手なことがあった。けれどこの作品を何度も観るうちに、スランプに陥っても、じっと我慢することの大切さを、自然と感じ取っていたのではないかと思う。

空を飛べることの素敵さ、物を届ける楽しさとともに、飛べなくなった悔しさも、きっと心に残っていたはずである。そして、もう一度飛べるようになったときの喜びも。

いま孫たち――七歳、五歳、ゼロ歳は、まだこの物語をあまり観ていないように感じている。本当のところはわからないが、かつて彼らのお父さんが何度も観ていた作品である。だからこそ、また親子で観てくれたら嬉しいなと思う。

最初は英語でもいい。いつか日本語でも観てくれたら、なお嬉しい。

誰にだってスランプはある。けれど大切なのは、そこからどうやって立ち直っていくかだと思う。
この物語は、そのことを静かに教えてくれているように思うのである。


(2026.04.04)

私は木村拓哉が特別に好きなわけではないし、嫌いでもない。若い頃、恋愛ドラマを見て「ああ、かっこいい人だな」と思った。でも、自分が年を重ねるにつれ、彼も年を取り、恋愛ものにぴったりの年齢ではなくなった。それと同時に、私は彼の出演する番組をあまり見なくなった。

『教場』に出てきたときは少し気持ちが惹かれたので見てみたが、舞台が学校だったため、長い間学校での仕事の経験もあり、決まりの中で生徒を動かすことがしんどく、最後まで見ることはできなかった。

今回Netflixで『グランドメゾン東京』を見つけた。タイトルは知っていたが、これまで見たことはなかった。木村拓哉がシェフ役になっていると知り、「見てみようかな」と思った。

彼はいつもどこかふてくされたようで、ハンサムなのに素直でない表情をしていることが多い。もっと素直な表情だったら、さらにかっこいいのになあと思う。しかし、それが彼の料理に対する頑固さや絶対に譲らない意志を表しているのにぴったりだと感じた。

そこへ鈴木京香さんが現れ、尾花を支え助けていく。二人は本当にいいコンビで、鈴木京香さんのはっきりした表現力も相まって、二人の関係性が際立っている。何度も失敗しながら前に進む二人の姿には、決して諦めない強い意志が表れていて、その表情から見てとれる。

美男美女なのに、それを前面に出さず、自然に強さを持っているのがこの二人の魅力だと思う。それが番組全体、そして料理の世界を描いた物語をとても力強いものにしている。もし美男美女が美男美女で終わっていたら、物語にはならなかっただろう。


(2026.04.04)

今日、Netflixで『となりのトトロ』を見た。何度見ても飽きない作品である。サツキとメイの姉妹の自然なやり取り、父親の優しさ、そして森の守り神であるトトロとの出会い。子どもたちの世界が広がる描写には、毎回心が温まる。

この映画は、私にたくさんの思い出をくれた番組でもある。上の孫は最初、日本語でこの映画が大好きだった。「トトロ トトロ」と叫んでいた。しかし、保育園に行き、英語中心の生活になると、トトロも英語で見たいと言うようになった。次の子は、最初からお兄ちゃんが英語で見ていたので、自然と英語で楽しんでいた。やがて、上の子は戦隊ものやアクションアニメに夢中になり、トトロは少しずつ日常から姿を消したが、それでも心の中に残っている。

今こうしてNetflixで再び見ていると、これまでの思い出がいろいろ蘇る。自分自身も楽しみ、家族も楽しんだ物語である。そして、上の孫7歳、2番目の孫5歳、3番目の孫10ヶ月がもう一度日本語でトトロを楽しむ日が来ることを願いながら、私は今日もこの映画を味わっている。

『となりのトトロ』は、家族の絆や子どもたちの純粋な心、そして小さな魔法のような日常を感じさせてくれる、いつまでも色あせない作品である。


(2026.04.04)

今日のお昼、息子が本場に近い中華まんと餃子を蒸し器で蒸してくれた。餃子は蒸したものと焼いたものの二種類であった。大きな蒸し器を見て私は驚いた。私たちは二人暮らしで、蒸し器を使うことはほとんどなく、今はどこにあるのかもわからない。昔はあったのかもしれない。ニュージーランドで蒸し器を見るとは、とても驚きであった。

いただいた料理は非常に美味であり、こういうところで本格的な中華の味を楽しめるのだと感心した。きっと物流網が発達しているのだろう。子どもたちがデザートに食べていたナタデココ入りのゼリーも、日本から輸入されたものであった。値段は高いのだろうが、ここでも日本の味を楽しめるのだと感じた。今回のランチで、中国の本格的な味も味わえるのだと改めて実感した。


(2026.04.04)

今日までという締め切りがあることに気が付き、『The Apothecary Diaries(薬屋のひとりごと)』がNetflixで視聴可能か調べてみた。検索の結果、前半のエピソードは英語字幕と日本語字幕の両方が利用できることが分かり、少し安心して視聴を始めた。

私はマオマオが大好きである。彼女の生き方、一人であることに平気でいる姿に強く惹かれる。母は妓女として売春宿で働いていたが、マオマオは義父のもとで薬屋を学びつつ営み、多くの知識を学んだ。義父からは薬草や薬品、命にかかわる知識を深く学び、人の体に手を触れることだけは禁じられた。「もし触れたなら、墓掘りをしてでも薬を求め続けるだろう」と教えられたほど、彼女は探究心の強い人物である。

マオマオの父親は高い身分にある羅漢であるが、マオマオが自分の子であることは全く知らなかった。そのため、マオマオは孤独な環境で育つことになる。母親も父親も知らず、泣いても誰も助けに来てはくれない状況であった。義女のお姉さんたちは優しかったが、常にそばにいるわけではなかった。そのため、マオマオは孤独で泣いても仕方がないことを学び、人をじっと観察する力を養ったのである。この観察眼が、彼女の知性や機転の源となっている。

物語の中では、王様の妃たちが自分を美しくするためにおしろいを使う場面がある。そのおしろいの粉や成分が舞ったことで、忠告を聞いてはいても耳を貸さなかった上級妃の男の赤ちゃんが命を落としてしまった。しかし、海外から来た妃はマオマオの忠告を聞き、自分へのおしろい使用をやめたため、赤ちゃんの命は救われる。この場面を見て、素直に人の言うことを聞くことの難しさと、その重要性を改めて考えさせられた。

また、物語のもう一つの魅力は、猫猫(マオマオ)と壬氏(じんし)の関係である。壬氏は後宮の管理官で、隠された正体と美貌を持つ人物である。猫猫は当初、壬氏を「厄介な人」と見なしていたが、後に信頼関係が深まる。二人のじれったい恋模様は物語の面白さの一つであり、マオマオの冷静な洞察力と壬氏の慎ましい魅力が絶妙に絡み合う。

私は子どものころ、特別に頭が良いわけでも、特別に技術があるわけでもなかった。しかし、泣いても仕方がない環境で育ったため、泣かずに人を観察する子であった。その点で、マオマオと自分が重なるところがある。好奇心旺盛で、興味を持ったことにはとことん向き合う性格が、私と共通しているように感じる。

だから、私はマオマオには人を信じて幸せになってほしいと思う。彼女の壮絶な生まれや生き方を思うと、壬氏とともに幸せになってほしいと心から願わずにはいられない。これが、私がNetflixで『The Apothecary Diaries(薬屋のひとりごと)』を見て抱いた感想である。


(2026.04.04)

一昨日、夫が The Warehouse で電気毛布を買ってきてくれた。
私は167センチ、42キロ。とても痩せていて、寒がりで、日本では電気毛布と電気アンカ、時には背中に貼るカイロがないと眠れない生活を長年続けてきた。

こちらニュージーランドに来て、息子から「電気毛布は体に良くない」と言われ、しばらく貼るカイロだけで寝ていた。けれど家の中は想像以上に寒く、夜は体の芯から冷えていった。1週間ほどで風邪をひき、なかなか治らなかった。

薬を飲みながら、やはりこれは無理だと感じ、夫に電気毛布とアンカを買ってきてほしいと頼んだ。息子は反対したけれど、夫は私の様子を見て、私の身体を優先して判断してくれた。

ところが、その電気毛布は、たった1日使っただけで電源が入らなくなった。

レシートはある。けれど箱は捨ててしまった。
交換や返品ができるのだろうか、と夫は考えている。

調べてみると、ニュージーランドには Consumer Guarantees Act という法律があり、「購入してすぐ壊れた製品」は店側の責任と明確に定められていることを知った。箱の有無は関係ないという。

これはお願いではなく、消費者として当然の権利だった。

そして、私はもう一つ気づいた。
息子の言うことも、私を思っての一般論。
けれど、夫の判断は、私の体を長年見てきた人の、現実に基づく判断だった。

寒くて眠れないことは、身体にとって何よりも負担になる。
勿論電気毛布には気をつけないといけない点があることも知っている。
電気毛布はぜいたくではなく、私にとっては体を守る道具だったのだ。

壊れた電気毛布を前にして、私はようやく、
「私は無理をしていたのだ」と気づいた。

身体は、理屈ではなく、正直に教えてくれる。

今回の出来事は、
自分の身体に必要なものを、遠慮せずに選んでよいのだという、静かな確認でもあった。


(2026.04.04)

長い間ニュージーランドを訪れていて、私はずっと、彼らの独特のアクセントや発音に苦労してきました。英語そのものというよりも、その土地ならではの話し方が、どうしても耳に馴染まなかったのです。

公の場で先生が話される言葉や、周囲の人たちの会話も、ところどころ聞き取れず、音として流れていってしまうことがありました。そのたびに、少しだけその場から置いていかれたような気持ちになることもありました。

今回、夫が使い始めた翻訳アプリを試してみて、私は驚きました。話されている言葉がその場で文字になり、日本語で意味が示されるのです。

それは「聞き取る」というよりも、「見えるようになった」という感覚でした。

文字になることで、会話の流れや意味、相手の意図までもが、すっと理解できるようになりました。そして不思議なことに、文字で確認していくうちに、これまで聞こえなかった音や、聞き取れなかった音の輪郭が、少しずつ見えてくるようになったのです。

ただ翻訳してもらっているだけではなく、自分の耳も静かに育っているように感じました。

便利な時代になったものだと思いながら、ふと、「あと何回来られるのだろう」という思いもよぎります。

このトランスレーターは、言葉を訳してくれる道具であると同時に、時間の重みや、この旅のかけがえのなさまでも、そっと映し出してくれる、不思議な存在のように思えるのです。




(2026.04.04)

ニュージーランドで過ごした時間の中で、子どもたちとの出来事が私の心に深く残っている。

来て間もない頃、七歳と五歳の孫、そして四歳のいとこがトランポリンで遊び、興奮して物を投げたり、周りの安全も顧みずに飛び回った。最初は見守っていたが、七歳の子が他の子どもにぶつかりそうになったり、危険な行動を繰り返す中で、とっさに止める必要があった。

家の中でも興奮は続き、ソファベッドを積み上げて飛ぼうとするなど、非常に危険な場面もあった。そのとき私は反射的に子どもを抱きしめ、「危ないからやめなさい」と伝えた。七歳の子は涙を流したが、それは安全を守るための行動であった。

この行動が法律的にどう見えるか、ニュージーランドでは児童虐待として見られる可能性もあると知り、息子や義理の家族との間で議論にもなった。しかし、私の行動は四歳の子どもを守るためのものであり、謝罪や後悔の対象ではないと考えている。 どうしても児童虐待と言うのなら、正式に訴えてくれーと譲る気にはならなかった。

五歳の女の子の反応や、文化や考え方の違いを感じる場面も多くあった。彼女は感受性が強く、状況をまだ理解できないため、時に私をにらむこともあったが、物をもらったり褒められたりすると素直に受け入れる姿も見せた。

国が違えば法律や考え方も違う。しかし、子どもの安全を守るためにやるべきことは同じである。今回の体験は、子どもたちの成長や文化の違い、そして自分の判断や体力の限界などを考えさせられる、とても迷う出来事であった。

書き留めることで、自分自身の気持ちを整理し、あとで振り返るための大切な記録として残したいと思う。
私はもうこの地へ来ないかもしれないと思っている。 経済的にも体力的にも無理が大きくなってきた。


(2026.04.04)

私が初めてニュージーランドに泊まったのはホテルであったかもしれない。そこで驚いたのは、シャワールームが割と小さく、全部透明であったことである。外から全身裸が見えるので、家族だから構わないと言えば構わないが、その横にトイレがあると、誰かがトイレを使うときに気を使ったことを覚えている。

その後、息子たちが家を購入してから、さらに驚いたのは、いくつもシャワールームが個室のように独立して設置されていることである。バスタブもあるが、バスタブにシャワーが付いていることはあまりなく、シャワールームは隣にあって透明である。

若い頃体験したアメリカでは、シャワールームが単体で描かれることはほとんどなく、あってもバスタブにシャワーが付いていて、お風呂を入れてシャワーを浴びるか、またはお風呂を入れないでシャワーだけ浴びるかというイメージである。

五歳の孫娘が、自分のシャワールームを持っていて、バスタブにするかシャワールームにするか迷っているのを見ていると、文化が違えば考え方も違うのだと改めて感じる。

長い間疑問に思っていた、本当に透明なシャワールームについて今日知ることができて嬉しい。理由を整理すると次の通りである:
  • 機能的:独立していると水はね防止や掃除が簡単である
  • 空間を広く見せる:透明なのでコンパクトでも開放感がある
  • 家族間の気配:家族が使う場合、透明でも自然に使える
  • 水の節約・効率:短時間でシャワーを済ませる文化に合う

国が違えば、バスルームや入浴に対する考え方もこれほど違うのだと実感する。


(2026.04.03)

今日は孫のゴルフに付き合い、初めてじっくりゴルフ場を楽しんだ。9ホールだそうだ。孫は習い始めてまだ一年ちょっとであるが、左打ちで右手に手袋をし、思い切りクラブを振る姿は堂々としており、成長を強く感じさせる。息子と二人でラウンドする姿も頼もしく、何度も驚かされた。

風が強く、私には少し寒く感じたが、孫は半ズボンで元気にカートを引っ張っていた。孫娘も自分のカートを買ってもらい、時々一緒に回っていた。私たちのカートで孫娘はNetflixを見たりしながら、それぞれの楽しみ方でゴルフ場の時間を満喫していた。

私たちは夫の運転するカートで、コースを回った。風を感じつつ、スイングを見守りながら走る時間は、短いながらも贅沢で心地よいひとときであった。

初心者でありながらも、家族全員で過ごすこの時間は、ゴルフ以上に温かい思い出となった。成長を感じ、笑顔あふれる一日である。

風に吹かれながらも、孫のプレーを見守る時間は、緊張や寒さを忘れさせるほど心地よいものであった。カートを引きながら、自分のクラブを使いこなす姿には、レッスンを取り、遊びながらも努力を重ねてきた成長の跡が見て取れる。

孫娘も自由に過ごしつつ、時折コースに顔を出す姿は微笑ましく、家族全員がそれぞれのペースでゴルフを楽しむ姿が、自然に調和していた。レッスンも始めたばかりだそうだ。

こうした何気ない午後のひとときが、家族の絆を深め、思い出として心に刻まれる。ゴルフ場という空間は、単なるスポーツの場ではなく、成長と笑顔を共有する大切な時間を作る舞台であることを改めて感じた一日であった。


(2026.04.03)

今日はゆっくり休み、10時半まで眠れた。体も少し楽である。
午前中はカフェに行き、その後子どもたちはゴルフに出かける予定だ。付き添おうと帽子や水筒、春用の上着まで用意して準備万端であったが、義理の娘はピラティスに行き、その後友達とカフェに出かけたという。

娘がピラティスやジム、自転車に出かける姿を見て、自分の子育て時代を思い出す。あのころは日々必死で、自分のために時間を使う余裕などなかったのである。

昨日、久しぶりに息子宅で食事をしたが、私の分は用意されておらず、孫や義理の娘が勝手に食べ出す。いつ食べて良いのかわからないまま、彼らは出かけてしまった。会話もなく、食べていいのかどうか分からないまま、静かに少し食べるしかなかった。そのことで息子から「どうしてありがとうと言わないのか」とLINEが来たが、私の気持ちは全く伝わらなかった。

そこで気づいた。ここはニュージーランドである、と。作ってくれた人にまず感謝を示す文化である、と。今朝も息子から「義理の娘にピラティスってから帰って来て会ったら、ちゃんとありがとうと言え」と言われ、「はいはい、言いますよ」と返事したのである。

たった一言、「昨日のの食事、ありがとうね」と言うと、彼女は笑顔になった。文化とは、本当に難しいものである。

できれば息子に、日本の「いただきます」文化や、一緒に食べるときのありがとうの意味も紹介してほしいと思う。しかし、ここはニュージーランドであり、ニュージーランド風の流れで生きることが基本であるのだろう。

今日はやはり疲れた。こうして改めて、自分は日本人なのだと、しみじみ思う出来事であった。


(2026.04.03)

郷に入っては郷に従え。
頭ではよく分かっている言葉なのに、心と体は、いつも同じ速さではついていかない。

言葉の違いよりも、食べ物の違いよりも、いちばん疲れるのは「文化の違い」なのだと、あらためて感じている。

こちらは気を使っているつもりでも、あちらには気を使っていないように見える。
あちらのやり方は、こちらには少し失礼に感じられる。
どちらも悪気はないのに、どちらも戸惑っている。

そのたびに、頭の中で翻訳をする。
これはどういう意味だろう。
私はどう振る舞えばよかったのだろう。
考えて、考えて、また考える。

出来事そのものよりも、
この「見えない翻訳作業」をずっと続けていることが、実はとても疲れるのだと思う。

日本で暮らしているときは、空気で通じていたことが、ここでは言葉にしなければ伝わらない。
こちらでは当たり前のことが、私の中の常識とは少し違う。
食事が用意されたら、みんなで揃って食べることはない。 子ども、奥様、(いれば息子)、 そして私たちのはずなのだが、どこで入っていいか、どこでありがとうを言っていいかがわからない。 これは迷い続けている。 ありがとう を言いたくないわけではないくてどこで言っていいかわからないのだ。 それでいて、言わないでいると息子から、責めるようなラインが入る。 あーあ、 もう勝手にして という感じになる。 今日は彼らが洗車に行き、私はまだ調子が良くなかったので自室へ早めに戻った。 それでも来るライン。 明日 何事もなかったように、昨日はありはとう といおう。

どちらが正しいのでもなく、ただ、設計図が違うだけ。

それでも、合わせようとする。
失礼がないようにと気を配る。
ちゃんと理解したいと努める。

けれど、ときどき、ふっと思う。
私は、うまくやろうとしすぎているのかもしれない、と。

完璧に理解しなくていい。
完璧に合わせなくていい。
にこっとして、ありがとうと言って、疲れたら休む。

それだけで、きっと十分なのだ。

異文化の中で過ごすというのは、
目に見えないところで、ずっと心を働かせ続けることなのかもしれない。

今日は、もうあまり考えずに、少しだけ心を休ませようと思う。


(2026.04.02)

大きな決心をしましたね。

入居費は3,700万円。
さらに、10年ほどのうちに夫へ1,500万円。
管理費と食費を合わせて、月々20万円弱。

年金だけでは足りないでしょう。

夫と息子が補助してくれると言ってくれますが、
できることなら自立したい。
できるかどうかは分からないけれど、
67歳の挑戦です。

自分が自由になるために行くことを決めた、その気持ちを忘れないで。
人間関係は、広く、そしてほどよい距離で。

ニュージーランドも、今年で最後になるのかな。
とても寂しいけれど、お金と体力、気力がついていかない。

さようなら。
わたしの愛する者たちよ。


ニュージーランドの息子の家は、とても広く、庭も大きい。子どもたちはのびのびと走り回り、その姿を見ていると、ああ幸せだなあと心から思う。
その一方で、食べ物があっさり捨てられてしまう場面に出会うと、どこか胸に引っかかる自分もいる。口に出すことは決してないが、「これが本当に豊かな暮らしなのだろうか」と、ふと考えてしまう。

この感覚は、若い頃のある記憶とどこかでつながっている。

かつてアメリカ留学中、ルームメイトの家族に招かれ、クリスマスを一緒に過ごしたことがあった。川のそばの大きな家、巨大な車、空を飛ぶ乗り物、船、そして庭でのクロスカントリースキー。暖炉に薪をくべる方法を教えてもらい、豊かさの象徴のような暮らしを目の当たりにした。

けれどその家族は、両親が離婚し、新しい家族関係の中でどこか緊張が漂っていた。友人は傷ついていた。
そのとき若い私は、「お金があるとは何だろう」「幸せとは何だろう」と、強く感じたのを覚えている。

いま、ニュージーランドのこの家で、広い空間と自由な子どもたちの姿を見ながら、あのときと同じ問いが、静かによみがえる。

豊かさとは何か。
幸せとは何か。
大切にするとは、どういうことなのか。

孫たちが大きくなったとき、いまのこの暮らしをどのように思い出し、どのように自分たちの生活に生かしていくのだろうか。それは私にはわからない。その頃、私はもうこの世にいないだろう。

けれど、こうして感じたことを書き残しておくことで、いつかふと目に触れることがあれば、うれしいと思っている。

朝5:00  

夕方4:30 



(2026.04.01)

今朝は喉の痛みがあり、軽い咳も出たため、10か月の赤ちゃんに移さないよう、息子にうがい薬や喉に塗る薬を頼んだ。午前中は寝て休み、息子から薬を受け取り、夫がチキンライスを持ってくると言ったので、受け取りの準備をしていた。最初はお箸を用意していたが、チキンライスはスプーンで食べるだろうと予想してスプーンに切り替えた。

ところが夫が持ってきたものは、ご飯の上に一口大に切ったチキンカツが乗り、マヨネーズがかかっていた。日本ではこういうものはチキンライスとは呼ばないなと思った。お寿司でも揚げたチキンを上に乗せたり、中に巻いたりするスタイルが人気であるように、このスタイルもこちらでは好まれるのだろう。



私は体力をつけないと治らないと感じ、食欲もあったのでチキンカツご飯を全部食べた。その後、昨日の誕生会のキャラメルケーキが捨てられるというので持ち帰り、冷蔵庫に残っているのに気がついた。甘いものは普段苦手であるが、身体が疲れているせいか、あるいはケーキが上等だったせいか、後を引かずにきれいに食べることができた。その後、薬を飲み、寝ることにした。寝れば良くなると信じている。

夫にはウェアハウスで電気毛布やあんか、湯たんぽを調べてもらい、買ってきてもらうよう頼んだ。背中が寒く、とくに背中が冷えるのがつらい。こちらの人々、とくに孫たちはこの寒さの中でも半袖半パンツで平気である。0歳の赤ちゃんは上半身裸でご飯を食べるので、私には少々こごえそうに感じる。

私は家でも冬は電気毛布と電気のあんかで身体を温めている。痩せているため寒さには弱く、そのようにして保温で生きている。しかし、こちらに来て2週間でやはり体調がおかしくなった。早く元気になろうと工夫しているが、気候に合わせるのは難しいと感じている。


(2026.04.01)

7歳の孫が、14歳向けの500ピースのパズルに挑戦した。
おじいちゃんに少し助けてもらいながらも、ほとんど自分の力で3日程で完成させ、とても嬉しそうな表情を見せていた。私はその姿に心から感動した。

祖母である私は、責任もお金もない立場であるため、ただその瞬間を静かに喜ぶことができる。強い期待や心配は全くなく、純粋に楽しんでいる姿を見守ることができた。 我が子の子育てもこんな気持ちであればよかったであろうと今更無理なことを後悔する。

これからも、この子には好きなことを見つけて楽しんでほしい。彼らしく、楽しく生きてほしいという気持ちだけである。 可能であれば、できるだけその姿を見ていたい。


(2026.04.01)

40年前、義理のお父さんとお母さんに初めて結婚の挨拶に伺ったとき、私ははっきり言いました。「私は同居できません」と。実母の苦労を見てきたので、一緒に暮らすことはできないと。その意思を尊重して受け入れてくれたお二人には、今でも心から感謝しています。

実際にアパートで暮らし、静岡の生活になじむのに苦労しましたが、子どもができてからは、一緒に暮らさなかったことを少しだけ後悔したこともあります。でも、やはり一緒に暮らすことはできませんでした。

子どもが熱を出した時、どうしようもなくなったときは、信頼できるお母さんにお願いすることが多くなりました。夫と私の休みの調整で喧嘩になることもありましたが、最後にはお母さんに助けてもらうしかなかったのです。

お父さんもお母さんも、私に「仕事をやめなさい」と一度も言わなかったことは、今でも感謝しています。私の意思を尊重してくれたことに、心から感謝しています。

仕事に復帰してすぐ、息子が高熱で入院したとき、お母さんがパートの合間に付き添ってくれました。お父さんは家事をせず、私が食事作りや洗濯、食器洗いを担当しました。全く息子に会うことはできませんでした。正直に言うと、泣きたくなるほどでしたが、お母さんの支えがあったからこそ乗り越えられました。

二人目が生まれたときも、お母さんは「この子は保育園に入れない。私が見る」と宣言しました。案の定、娘は虫歯だらけになりましたが、それでも見守ってもらえたことには感謝しています。

子どもたちの小学校入学時には、加藤学園への通学を決めました。遠方でしたが、お父さんとお母さんはJR安倍川駅まで送迎を引き受けてくれました。帰宅途中に乗り越して、ずいぶん心配したこともありましたが、その都度、心配して支えてくれたことを思い出します。

義父を見送り、母のデイケア生活が始まりました。認知症も進み、骨折の回数も増えました。リハビリ病院の先生は、「家へ戻ることは無理だ。」と言われましたが、母の意思は固く、母を迎える準備もしました。家具の移動や廃棄、スロープや手すりの設置など、リハビリの先生の指示を受けて整えました。ところが、母は帰宅してわずか3日で転倒し、救急車を呼ぶことになりました。私は疲れ切り、「帰りが困るから自分の車で行く。救急車にはあなたが乗ってくれ。」という夫の態度と言葉に激怒しながらも救急車に付き添いました。救急車内で義母について尋ねられ、私は義理の娘として答えるしかなく、責任の重さと夫への怒りを感じました。

最終的には、夫と話し合い、弟さんが浜松の施設に母を引き取ってくれることになりました。ちょうどコロナ禍で直接面会できない時期でしたが、それでも母は安心して過ごせたと思います。 94歳で逝ったお義母。 義父と同様検体登録してあったのに、ウイルスが見つかったとかで、残念ながら希望は叶わず荼毘に付されました。 でも、私たちの心にはお義父さんとお義母さんの気持ちは生きています。 私も夫も検体登録を済ませました。

母は手早く、雑ではありましたが、その性格も含めて、男の子二人、女の子一人を育て上げた姿に感心しました。両方の母に世話になったことを思い返すと、心から感謝の気持ちでいっぱいです。お母さん、本当にお世話になりました。

もしもう一度会えるなら、心から伝えたいです。
「お母さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。」


お父さん、私はあなたに伝えたいことがある。

子どもの頃、父は家にほとんどいなかった。私と遊んでくれた記憶もあまりない。
仕事に熱中し、部活動に熱中し、土日も家にいなかった。母が苦労している姿を見ながら、私は父を憎んでいたのかもしれない。

しかし、振り返ると、父は誠実で信頼できる人であった。
教え子のために奔走し、家に生徒を招いてすき焼きパーティーを開き、私はその中で可愛がってもらった。
神戸大学に合格した時や、私がアメリカへ行くことを決めた時も、父は影で喜び、私の意思を尊重してくれた。

父は講道館八段で、武道を極め、多くの賞を受けた人であった。
その厳しさと誠実さは、父の生き方そのものであったのだと思う。

晩年も身体を鍛え続け、ベッドの上で腹筋をするほどであった。
肝臓がんを患い、肝臓を半分切除してもなお鍛えることをやめなかった。
プライドが高く、母にしか世話をさせなかった父である。
それでも母は父を支え続けた。

やがて父は肝臓がんが悪化し、数え年八十七歳で亡くなった。
最後まで、自分の生き方を貫いた人であった。

今思うことは、もう少し家庭を顧みる人であったら良かったと思う気持ちもある。
しかし、仕事に全身全霊を捧げた父の生き方を、私はどこかで見ていたのである。
もう一度会いたいと、心から思う。


幼い頃から母を見て育った。母のようにはなりたくない、と心のどこかで思っていた。そう思うことは母に失礼である。それほど母のことが大好きだったからだ。それでも私は、何度も母に尋ねた。「どうして離婚しないの。こんなにつらい生活なのに」と。そのたびに母は言った。「お金がないからよ」と。私は、その言葉を聞きながら育った。

母は、とても真面目で忍耐強く、自分の仕事や家のこと、祖父母の世話、嫌味やつらいこともすべて我慢しながら私たちを育てていた。

父は柔道部の顧問で、部員たちを全国大会に連れて行くほど熱心であった。一方で、とても奔放な生活をしており、お金遣いも荒かった。私は父を尊敬していたが、母ほど強い思いはなかった。 なぜこの生活を変えてくれないのか?

私は、母から学んだこと――自立して生きることを目標にした。女も自立して生きる、自分でお金を稼いで生きる。それがいつの間にか私の目標になっていた。

勉強はそれなりにでき、大学まで行かせてもらった。その上、大学院まで行きたいと言った。アメリカへ行くお金はアルバイトで自分で稼いだ。とにかく、自分の可能性を伸ばしたかった。しかし、いちばんやりたかった「言語獲得」は、当時の日本では研究できる場所がほとんどなく、それを切り開く力もまだなかった。

二十五歳になった頃、父が退職した。母は私に「就職してほしい」と泣いて頼んだ。その姿を見て、私は思った。ああ、諦める時が来たのだ、と。

私は奈良に住んでいたが、生まれ育った大阪府の採用試験を受け、大阪府の高校教員として就職した。大阪は自由な雰囲気で、高校教員の仕事も肌に合い、それなりに楽しい二年間であった。しかし、静岡に住む今の夫と出会い、結婚することになり、静岡県の教員採用試験をあらためて受けることになった。

「他県から来た人は受からないよ。ここはそういう土地だ。古いんだ」と言われながらも、私は合格した。校長面接では「大阪みたいなリベラルなところから来た人はいらん」と言われ、採用されないのかと思った。しかし、教頭先生から職務について説明があり、「そんなものか」と思った。

職員室の雰囲気は硬く、先生方の態度も厳しかった。印鑑をまっすぐ押していないと書類を突き返されることもあり、まるでいじめのようであった。**辞めたいと思ったのは、就職三日目からである。**しかし生徒たちは大阪弁を面白がり、講座を開いて欲しいと言うほど、温かく迎えてくれた。遠足で「これ何?」と聞くと「みかんだよ。本当に知らないの?」と驚かれ、静岡を全く知らずに来たことを痛感した。

生徒たちに救われ、なんとか教員を続けることができた。

その後、子供が生まれ、生活はますます大変になった。夫は仕事しか頭になく、帰りも遅かった。何を言っても通じず、子供が小さくつらい時でも態度を変えなかった。私は今でも一生の恨みとして、なぜあの時助けてくれなかったのかと思っている。

子供たちが独立し、私と夫は二人になった。私は定年まで教員として働いたが、夜間の学校に通い、51歳で鍼灸師国家資格を取得していた。定年後は家庭で鍼灸と英会話の仕事を開業したが、生活を支えるほどの収入は得られなかった。夫は公認心理師として資格を生かし、さまざまな場所とフリー契約を結び、それなりの収入を得た。

私たちは約束した。**私の年金は松山エデンの園のために貯蓄する。**生活費は夫が賄う。

今、私は最後かもしれないニュージーランドに来ている。夫もあと一年で松山へ来る予定であり、収入や仕事のことは未知数である。

ここまで生きてきた私は、自分に伝えたい。もう十分頑張った。一生懸命生きた。身体を壊し、病気をしながら、慣れない土地で過ごし、離婚したくても、今すれば子供は不利になる。だから今の生活を選んだ。

しかし、日々の食事作りや家事、三階建ての家の管理には疲れた。松山エデンのそのなら、健康管理も安心であり、自由に生きられる。食事は希望すれば三食1600kcalで用意され、大浴場や大食堂も整っている。自分の部屋にはキッチン、トイレ、洗面所、洗濯場もあり、私は自由になれる。

多くの人は「67歳で老人ホーム?」と驚く。元気で泳いでいる私を見て、なお驚く。しかし、私はもう疲れている。十分働いてきた。

だから私は自分に言う。もう休んでいい、と。自由に生きていい、と。縛られなくていい、と。

やっと自由になれる、やっと雑字からも解放される。ご飯作りが好きな人や得意な人はそれをすればよい。私は、買い物もご飯作りも解放されたい。私は好きなことをして生きたい。少しお金も稼ぎたいが、どうなるかわからない。それでも、自分のために生きてよいと思っている。

母から学んだ、自立した女性になること――うまくできたかはわからない。あまりにも我慢しすぎた私の人生、本当の意味で幸せだったのだろうか、とも思う。

そして、今、あなたに伝えたい。もう休んでいいよ。楽になっていいよ。精神的に追い詰められなくていいよ、と。


私の孫たち、ニュージーランドに住んでいる7歳のエヌ君、5歳のエスちゃん、そして8ヶ月のエム君、生まれてきてくれて本当にありがとう。

近くにいられないけれど、あなたたちの成長を見て本当に励まされています。時々考えるのよね。あなたたちが大きくなったとき、世界はどんなふうに変わっているのかなって。AIはすごくなっているかもしれないし、戦争や社会もどうなっているのか分からない。でも幸せであってほしいから、考えられる限りのことを考えたりするのよ。

あなたたちはそれぞれ個性も違うし、興味も違う。だから、自分の好きなことを大切に、伸ばしていってほしいなと思います。毎日お父さんお母さんに叱られることもあるけれど、言われたことを大切にして、これはと思ったことは一生懸命やってほしい。習い事も大変だけど、水泳やピアノ、体操など、楽しみながら才能を伸ばしてほしいな。

7歳のエヌ君は、今日、14歳向けと書かれた500ピースのパズルを仕上げました。おばあちゃんは本当にびっくりしました。いえ、びっくり以上に、心から感心しました。全国統一テストのようなものではないけれど、比較のテストで上位1%に入る力があると聞いて、思わず「まあ……すごいねえ」と何度もつぶやいてしまいました。

5歳のエスちゃんは、とても意志がはっきりしている子です。気に入らないことがあると大きな声で気持ちを表すこともあるけれど、その分、人のことをじっと見ている観察力は抜群です。おしゃれが大好きで、何かを始めると、自分らしさを上手に表現できる、とても魅力のある女の子です。 大人を見抜いているようなその目は、時にどきっとすることもあるけれど、その力を上手に使えたなら、きっと大きなことを成し遂げたり、自分の人生を豊かにしていけるのではないかなと、おばあちゃんは感じています。

8ヶ月の赤ちゃんであるエム君は、もうつかまり立ちができるようになり、何でも口に入れて噛んでしまいます。ソファーも噛んでしまうことがあり、時にはかんしゃくを起こすこともありますが、どんな子に成長していくのか、とても楽しみに思っています。

三人それぞれの個性があります。それぞれが自分の人生を歩むようになるまで、時間は長くも感じられるし、あっという間に過ぎてしまうかもしれません。いつまでその成長を見守ることができるのだろうと、考えることも多いです。ニュージーランドへいつまで行けるのか、彼らが日本にどれくらい来てくれるのか。そして、私の命がいつ尽きるのか、そんなこともよく思います。

でも、私の命が尽きても、あなたたちには自由に生きてほしい。自分の好きな道を、思いきり歩んでほしいと、心から願っています。


昭和11年、1936年に生まれたお母さんは、
この3月10日で90歳を迎えた。本当におめでとうございます。

一男五女の五女として生まれ、戦争の中で父とお姉さんを失った。
私の祖母や家族に支えられながら、貧しい中を生き抜いてきた日々である。

中学校では成績が優秀で、高校進学も迷ったが、
先生の熱心な勧めで進学が決まった。
地域でも成績上位でなければ入れない高校に合格し、
机がなかったので、みかんの箱をひっくり返して勉強に励んだと聞いている。

大学には進めなかったが、銀行員を志望し、知り合いのつてで採用され、
2年間勤めた。
高校時代の先生は柔道家でもあり、父とのお見合いをセッティングしてくれた。
お母さんはお姉さんたちより先に嫁いだ。結婚の日は5月1日、メーデーであった。

結婚後、父は高校の柔道部を全国大会に連れて行く体育教師で、
土日もなく働き続けた。
お母さんは家族を支え、祖父の母、祖父母や父の最期まで世話をし、
合計4人の最期を見取ったのである。

一人暮らしになった後も、しっかりしたお母さんを信じていた。
しかし、冷蔵庫の管理が難しくなり、野菜は腐り、食品も期限切れが目立つようになった。
父の時にお世話になったデイサービスの方に相談し、デイサービスに通うようになり、
要介護認定もついた。

腰椎や胸椎の圧迫骨折も悪化し、最終的に施設に入所、
アルツハイマー型認知症と診断された。

最初は受け入れにくく、やりきれない思いもあった。
あれほどしっかり家族のために生きてきたお母さんが、最後に認知症になってしまうなんて――
そう思うと胸が痛んだ。

しかし、今会いに行ったり、ラインで面会すると、
お母さんはニコニコ笑顔で、表情も明るく、安心して過ごしていることがわかる。
辛かったことや過去の重荷も忘れ、私のことは覚えてくれている。
その姿を見て、今が一番幸せなのかもしれないと思うようになった。

どうか最後までニコニコ笑い、幸せな最期を迎えてほしい。
その日まで、元気で穏やかに過ごしてほしいと、心から願う。
お母さんの笑顔は、私たちにとってかけがえのない宝物である。


I came to my son’s dental clinic for the first time in a while. After this, we are planning to head to a Mexican restaurant to celebrate my five-year-old granddaughter’s birthday. I wonder if this is a place we have been to before. She has just had her first day at school, so she is both tired and unusually excited.

In any case, we will be waiting until my son finishes work. It would be impossible to manage with just one car anyway. I am happy that I can rest a little and still be able to take part in this birthday celebration.




(2026.03.31)

夫はフルーツをよく買ってくる。こちらの果物は小ぶりで、丸かじりが当たり前である。皆がそうして食べる中、私はほとんど手を伸ばさなかった。

理由は単純である。前歯を守るよう、主治医から強く言われてきたからだ。差し歯ではないが、処置をしてある歯であり、硬いものを前歯でかぶってはいけないのである。丸かじりは、実は前歯に横方向の力がかかり、いちばん負担が大きい食べ方なのだ。

皮をむいて食べられるオレンジのような果物は食べた。しかし、りんごや梨のように皆が当然のように丸かじりする果物は、遠慮してきた。食べなかったのではない。歯を守るために、食べ方を選んでいただけである。

風邪をひいた日、夫がりんごを食べていて「あなたは食べないの?」と聞いた。悪気のない、素朴な疑問である。そこで私は、初めて理由をきちんと伝えた。風邪だから本当は食べたいこと、でも前歯を守るように言われていること、だから丸かじりができないことを話した。

すると夫は、初めて果物を切ってくれた。カットフルーツのように、小さく食べやすくしてくれたのである。

長い間、伝わっていなかったことが、たった一言で伝わった瞬間であった。

その後、私は歯を磨いてしまっていたので「あとで食べるね」と言った。夫は「色が変わるよ」と気にしてくれたが、私は体を優先して休んだ。

そして先ほど、よく眠り、体調はかなり戻った。写真を撮り、切ってもらった果物を少し口にした。やっと元気が戻ってきた実感がある。

丸かじりできないことは、弱さではない。体を長持ちさせるための、静かな習慣である。そしてそれを伝えることは、遠慮ではなく、相手に理解してもらうための大切な一歩なのだと気づいた。


(2026.03.31)

昨日から喉に違和感があった。持参していた処方薬を、これまで「おかしいな」と思ったときに飲んできたが、昨日で尽きてしまった。市販薬はあるものの、今朝起きると喉の痛みはかなり強く、体もだるい。このままではよくないと感じた。

それでも今日は、孫娘の5歳の誕生日の朝である。7時までに母屋へ行き、用意していたプレゼントを渡した。たくさんの贈り物に囲まれて、うれしそうで、少し緊張もしているように見えた。パンケーキをたくさん食べ、10か月の赤ちゃんもかわいらしい服を着せてもらい、兄妹三人そろって、両親とともに出かけていった。そのにぎやかな朝を見届けた。

その前に、息子にそっと「風邪みたい、喉が痛い」と伝えると、「みんなには言うなよ」と言って、風邪薬をいくつか用意してくれた。皆が出かけたあと、その薬を飲み、夫に洗濯を頼み、2、3時間眠った。

起きてから水分をとり、軽い昼食をとり、もう一度薬を飲んだ。だいぶ楽になってきたので、久しぶりに自分で鍼を打った。自分で自分に鍼を刺すのは、思っている以上に気力がいる。面倒でもあり、背中には打てない。それでも今回は打っておこうと思い、打てる範囲に打った。喉に効くとされる天突のツボには、あらかじめ貼る鍼バイオネクスを貼って眠っていた。

かなり回復してきた実感はある。もう一度眠れば、子どもたちの面倒も見られるのではないか、そんな気持ちもよぎる。けれど、いまはまず休むことを優先する。体はまだ感染と戦っている最中なのだと思う。

ノートも思うように書けないが、この一日の流れは記録として残しておきたい。
次に目が覚めたとき、さらに楽になっていることを願いながら、もう一度横になる。


(2026.03.31)

我々の取り決めとして、朝食と昼食は別々に、夕食だけ「声がかかったら一緒に」ということになっている。

しかし、これが意外に気を使うのである。

大皿に盛られたメインディッシュやサラダを、あとで帰宅する息子の分まで考えながら取り分けていると、つい自分の分は少量になる。 上の子どもたちは、好きなものは一気に食べ、嫌いなものはきっぱりと残す。さらに、8か月の赤ちゃんを見る役目も、私か夫であることが多い。

要するに、自分が何をどこでどれだけ食べたのか、よく分からなくなるのである。

その結果、離れに戻ってから、ラーメンやうどん、お茶漬けや雑炊を食べ直すことになるのだ。

これも異文化理解と呼ぶべきなのだろうか。

この地に来て2週間。ちょうど折り返し地点で、はっきりと疲れを感じ始めている。

明日の朝は7時までに母屋へ行かなくてはならない。孫娘の5歳の誕生日である。学校初日は疲れるだろうから、朝のうちにプレゼントを渡すのだそうだ。

従うしかないのだ。

低血圧で朝に弱い私にとって、なかなかにしんどい日々が続いているのである。


(2026.03.30)

昨年7月に生まれた赤ちゃんは、あっという間に8ヶ月になった。この8ヶ月間で、ただ母親に抱かれていた存在から、自己主張をはっきり示す存在へと変化してきた。泣き、わめき、笑い、手掴みで食べる姿、水を赤ちゃん用のマグカップで飲む姿、好きなおもちゃで遊ぶ姿――どれも日々の成長の証である。

つかまり立ちも進み、最初はつま先だけで支えていた足も、今ではかかとも床につき、安定して立つことができるようになった。手先の器用さも向上し、苦手な食材も口に入れられるようになり、周囲への好奇心も日々広がっている。上の子たちもこの成長の過程を経て、同じように学んできたのだろうと感じる。

日常には安全管理も欠かせない。小さなものを口に入れないよう、大人が注意を払いながら見守る必要がある。赤ちゃんは靴の裏やソファまで舐めて世界を学ぶが、この自由な探索が感覚や運動の発達に重要な役割を果たしているのだろう。

また、私たち大人の役割も日常に組み込まれる。赤ちゃんが手掴み食べをした後のベビーチェアやシートの片付けは、単なる掃除ではなく、成長を支える大切なサポートである。ある日、5歳の孫が私がベビーチェアの食べこぼしを掃除しているのを見て、「おばあちゃん、なんでその子のベビーチェアをじーっと見てるの?」と尋ねた。私は「見ているのではなく、掃除しているんだよ」と答えると、孫はきょとんとした表情をしていた。小さな子どもには、大人が環境を整える意味がまだわからないのだろう。

こうして、赤ちゃんの成長は日常の一瞬一瞬に表れ、身体的・感覚的・情緒的な発達が家族とともに支えられていることを実感する。自らの衰えを感じている私67歳、夫69歳にとって、赤ちゃんの変化の速さは驚きであり、同時に、日々の成長を見守る喜びの大きさを改めて感じるのである。


(2026.03.30)

今日は孫娘のデイケア最後の日である。明日で五歳になる孫娘は、朝はお姫様の衣装で元気に出かけた。しかし、イベントが始まる前にその衣装を脱ぎ、マオリの衣装を身につけた姿に思わず驚かされた。王冠をかぶった姿は少し意外だったが、彼女はとても誇らしげであった。

マオリの衣装は、ニュージーランドの先住民マオリの文化に根付くもので、特別な行事やお祝いのときに着るものであるらしい。この日、孫娘は先生やお友達に囲まれ、これまで描いた絵や作った作品を見てもらいながら、「明日誕生日だね」とお祝いされたのである。

(私の聞き間違いでなければ、先生が流して皆で踊った曲は APT. である。サビのフレーズ “I'ma pass, I'ma pass…” が、日本語耳には「アパツ アパツ」と聞こえる。曲の歌詞は本来「私はパスする=やらないよ」という内容だが、明るくキャッチーなリズムと「自分の意思で選ぶ」というニュアンスが、子どもたちが自ら作品を見せたり、アイスキャンディーを配る場面の雰囲気に合っていたと思われる。)

そして最後には、家族と一緒にお友達に感謝を込めてアイスキャンディーを配った。アイスクリームではなく、アレルギーの心配がなく、どの子でも食べられるアイスキャンディーである。秋ではあるがまだ暑く、冷たいものがちょうど良かった。普段は“与えられる側”の子どもが、こうして“与える側”になる瞬間――その小さな一歩に、子どもの成長と教育の大切さ、文化の深さを改めて感じたのである。そして彼女は明日からは、小学校へ通うことになる。


(2026.03.30)

私が32歳のとき、あなたを身ごもった。お兄ちゃんが生まれてから約3年後のことである。長男は1988年3月に生まれ、あなたは1991年2月に生まれた。お兄ちゃん出産のときに顔面神経麻痺を経験し、とても辛く、二人目はやめた方がいいと言われたこともあった。

お父さんは女の子が欲しいと顔に出ていた。それも自分と同じ血液型A型の女の子である。お兄ちゃんは私と同じO型であった。私も、もしもう一人だけ産めるなら女の子が欲しいと思い、当時流行っていた産み分け法の本を読んで、できる限り努力した。

あなたを身ごもったとき、「男の子かな、女の子かな」と思ったが、お腹が大きくなるにつれ、お兄ちゃんのときとは全く違う感覚があった。お兄ちゃんは前に突き出す感じであったが、あなたは横に広がるようであった。胎動も優しく、「これは違う存在が入っているな」と感じた。

出産のときも、あなたは本当に親孝行であった。公立病院の平日昼間に生まれ、陣痛促進剤も使わず、スルリと生まれてくれた。そのおかげで出産費用もお兄ちゃんのときよりずっと安く、安心して迎えられた。

あなたは小さく、おっぱいの吸い方もお兄ちゃんとは違った。ぐちゅぐちゅ、ちゅくちゅくと吸う力が弱く、量も少なかった。それでも生まれたときは少し大きめで、たしか3360g位であったと思う。保健指導の際も「小ぶりな赤ちゃんというだけだから大丈夫」と言われ、安心したことを覚えている。

幼少期には、おばあちゃんが仕事を辞めたこともあり、三歳から幼稚園へ通った。背の順に並んだとき、あなたは前から3番目で、小ささを感じたこともあった。それでも元気に育ち、お兄ちゃんと一緒に加藤学園へ通い、ニュージーランドでの経験もした。帰国後は、女子寮の厳しさから自分で行かないと判断した。

あなたはお稽古事もたくさん経験した。ピアノ、エレクトーン、英語、くもん、体操、水泳など、できる限り挑戦した。それでも性格かもしれないが、やりきることは少なかったかもしれない。一生懸命やったことが良い思い出になっていればと思う。

学校生活や結婚後の生活も、あなたらしく、自分の道を選んで歩んでいる。お相手とともに広島で自分たちの人生を築き、農家や自営業のお手伝いをしながら生きていることを、母として誇りに思う。

体調や健康のことも気になるが、どうか大事にしてほしい。人生には迷いもあるが、今ある自分の生き方や人生を大切に、元気に明るく、希望を持って生きてほしいと思う。

私たちは男の子と女の子を育てたが、完璧な親ではなく、迷惑ばかりかけたと思う。だから、もし赤ちゃんができなかったとしても、それはそれで二人の人生である。二人で自由に生き、その人生を楽しむことも素敵な生き方である。

二人の子どもを育てる中で、私はあなたと似ていないと感じることも多くあった。あなたにすれば、似なくてよかったのかもしれない。あなたの人生を見守り、支えることができたことに感謝している。

あなた方お二人は反対だったけれど、5月に松屋エデンの園に入園を決めた。 愛媛大学医学部への検体、後見人による収骨、業者散骨 と遺言を残す。  多くの迷惑をかけてきたけれど、最期は誰にとっても負担のない形を望んでいる。
理解していただけてら幸いである。


私が29歳の時、あなたを身ごもった。まだ静岡での教員生活に慣れておらず、担任を持ったばかりで、妊娠に戸惑ったのを覚えている。しかし、エコーであなたの命を見たとき、これは大切なものだと強く思った。

静岡で教壇に立ちながら、あなたはお腹の中でどんどん大きくなっていった。立っていることがしんどかった。静岡になじめなかった私は、実家へ戻って出産することにした。寒い1月か2月であった。祖父母はまだ生きており、母はその世話で忙しかった。帰らない方がよかったのかと迷う気持ちもあった。

臨月に入り、私は顔面神経麻痺を発症した。総合病院、神経内科に回され、老医師の「マッサージで治る」という言葉を信じたが治らなかった。それでもあなたはお腹の中で生き続けていた。

3月2日に陣痛が来た。性別は知らされておらず、ひな祭りに男の子が生まれるのはかわいそうだなと思ったことを覚えている。微弱陣痛で一度帰され、3月4日の夜8時頃、あなたは誕生した。時間がかかったためか、あなたの顔は少し長くなっていた。生まれるとすぐに爪を切られ、新生児室へ連れて行かれた。その後、私は大出血を起こした。

胎盤などが残っていたのだろう。一晩中痛みに苦しみ、シーツを何度も替えてもらった。朝になり、酸素マスクをつけられ、まるで掃除機のようなもので、中のものを吸い出す処置が行われた。私は力も根も尽き果て、部屋に戻された。

母から「力をつけないとおっぱいは出ない」と言われ、必死で食事をとった。やっとあなたに会えたとき、あなたの吸う力は驚くほど強く、乳首が切れて血が出たのを覚えている。それがあなたとの出会いである。

少しでも良くなりたいといくつもの病院を回った。でも無駄だった。鍼灸との出会いはその顔面神経麻痺がきっかけだった。ある看護師に「もう子どもは産んではいけない」と言われたことが悔しかったのかもしれない。あるいは、あなたのお父さんが女の子を望んでいるのを感じたからかもしれない。私はもう一人産もうと決心し、妹が生まれた。

私は勝手な夢を抱いていた。子どもをバイリンガルに育てたい、自分が叶えられなかった海外への夢を託したいというエゴである。2人とも加藤学園のバイリンガル教育へ進んだ。あなたは13歳でニュージーランドへ飛び立った。妹はニュージーランドが合わず日本を選んだ。

あなたはニュージーランドで飛び級し、同級生が後輩になったことでいじめも経験したと後で話してくれた。勉強も大変だったと思う。それでもHEALTH SCIENCEに合格し、「夜中にポケベルで起こされる医者は嫌だ。人間らしい生活をしたい」と言って歯科医の道を選んだとき、私は驚いた。

今、あなたはニュージーランド人の女性と結婚し、三人の子どもの父となり、歯科医院を経営している。その姿を誇らしく思っている。

一方で、あなたが遠くにいることで、私やあなたのお父さんが亡くなったとき、あなたは困るだろうと考えるようになった。すぐに帰って来られる距離ではない。それがきっかけで、自分の最期について考え始めた。

私は自立型の老人ホームに入ることを決めた。献体登録もしている。亡くなった後はすぐ愛媛大学医学部へ搬送される。後見人に収骨をお願いし、業者散骨も希望している。正式な遺言書も司法書士と作成するつもりである。あなたが帰国のことで悩まなくてよいように準備している。

母である私の勝手な思いで、あなたには多くの苦労をかけた。申し訳なく思っている。それでも、その経験が少しでもあなたの人生の力になっていればと願っている。

最期ぐらいは、自分の思いを通させてほしい。これ以上迷惑をかけたくないのである。

あなたはあなたの人生を、精一杯生きてほしい。できれば、日本人としての覚悟もどこかに持ち続け、孫たちに何かを伝えていってくれれば嬉しい。しかし、それは私の願いであり、あなたはあなたらしく生きてくれればそれでよい。

たくさんの迷惑をかけたことを、心から謝りたい。

ごめんなさい。


あなたと私は非常に奇跡的に出会った。私は神戸大学大学院生で、アメリカから帰国したばかりだった。面白い宣教師のような人に誘われ、万座キャンプに参加することになり、アメリカで習ったエアロビクスも披露した。その場にあなたはいた。静岡大学を卒業し教員をしていた。なぜか話すことになり、夜遅くまで語り合ったが、それだけで別れた。本当にそれだけのことであった。

私が研究者を諦め、高校の英語教員になるとわかったとき、あなたから何が書いてあるかわからない手書きの手紙が届いた。「会ってくれないか」という内容であった。私はあなたに特別な感情を持ってはいなかったが、悪い人ではないと思い、会うことにした。あなたは静岡から奈良まで会いに来てくれた。手紙も毎日届き、そのうち、この人となら、と感じるようになった。私は家を出たいという願望もあり、結婚して子どもを持つことを望んでもいた。そして結婚を決め、静岡県の教員採用試験を受け、結婚式と静岡県の教員採用が同時期となった。

静岡での生活は、言葉も文化も違う非常に保守的な環境で、辛いことばかりであった。あなたはそれを理解しているようで、十分には理解してくれなかった。子どもが二人になるうちに、病気が次々私を襲ったが、懸命に子育てをした。あなたは夜遅くまで仕事に追われ、家庭は私が守る状況であった。本当に腹立たしかった。

私は子どもたちをバイリンガルに育てることを夢として、英語と日本語で話しかけ、教材を集め、ピアノを習わせるなど尽力した。しかし一人では手に余り、次第にパニックになった。私とあなたの喧嘩は絶えず、決してあたたかい家庭ではなかったと思う。

それでも私たちは、二人の子どもをイマージョン教育の加藤学園に通わせることを決心した。両親の反対もあったが、意志を貫き、あなたは安倍川駅から静岡駅までのローカル線を使い、ホームライナーやバスで学校まで行く方法を教え、練習させた。あの時の努力は、危険が多い今では考えられないが、あなたには私にはできないことをやる力があった。

子どもたちはそれぞれ自立した人生を歩んでいる。一人は13歳でニュージーランドへ行き、家庭を持って自立している。もう一人は広島で古い風習のある農家の方と結婚し、自営業を営んでいる。それぞれに、それぞれの人生がある。

私たち二人の時間は長くなったが、働いている間は会う時間も少なかった。退職後、あなたは公認心理師としての仕事に没頭し、孫たちに日本語を教えている。私は教員を離れ、51歳で取得した鍼灸師の資格を活かし、鍼灸と英会話サロンを自宅で開いている。知人限定の完全予約制にしたので、ジムに通い、水泳やダンス、エアロビクスを楽しむ日々を送ることができている。

退職後、私たちは毎年ニュージーランドに1か月間滞在しており、今年も孫娘の5歳の誕生会に合わせて滞在している。4月12日に旅立ち、13日には帰国する予定である。帰国後は家の片付けを終え、5月から松山エデンの園に私一人で入園する予定である。自立でしか入れない老人ホームでとても人気があり、3〜4年待ってやっと順番が回ってきた。

私は、松山エデンの園への入居を叶え、先に入るつもりである。あなたは年単位の契約仕事の区切りがついてから入ると言う。私は遺言を準備しており、愛媛大学医学部に検体登録しているので、特別な事情がない限り検体として使ってほしい。後見人を立て、遺骨の扱いも後見人に委ねるつもりである。葬儀やお墓は一切希望しない。最期は業者による散骨を希望している。あなたや子どもたちに余計な負担をかけず、この世から去りたい。それが私の希望である。

息子は「思った通りにはならないかもしれない」と言うが、確かに、死んでしまえばどうすることもできない。私は、自分の人生に大きな価値はなかったと思う。本当にやりたかったことはできず、次善の策しか取れなかった。しかし、最後は迷惑や負担をかけず、少しでも人の役に立ち、精神的・時間的・金銭的負担を誰にもかけずに、この世から去りたい。それを叶えてほしい。それがあなたに伝えたいことの全てである。


朝早く起き、こちらでは当たり前でも、日本ではあまり考えられないような簡単な朝食をとる。身支度をして主屋へ向かい、赤ちゃんを見守りながら、子どもたちの動きを気にかける。息子が食事を済ませて仕事へ出て行き、やがて義理の娘が来て、子どもたちを連れて学校とデイケアへ向かう。私たちは残って、赤ちゃんを見守る。

そんな朝が、しばらく続いている。

正直に言えば、少ししんどい。気も張るし、身体も使う。それでも、この慌ただしさの中に、今しかない時間が流れていることも感じている。

今日は孫娘にとってデイケア最後の日である。明日は彼女の5歳の誕生日だ。プリンセスの格好をして出かけていったあの後、どんな時間が待っているのか想像している。日本のような式典ではないだろうが、きっとその子らしい形で、やわらかく区切りがつくのだろうと思う。そして明日から小学校生活が始まるのだ。

そして明日は家族による彼女の誕生日会でもある。家族だけのささやかな集まりだが、本人にとっては大きな一日になるはずである。 準備したプレゼントを気に入ってくれるだろうか?

出来事そのものよりも、
それを迎えるこちらの気持ちのほうが、いまは大きい。

慌ただしい朝。少しの疲れ。楽しみな今日。息子がデイケアまで連れて行ってくれるらしい。気になる明日。
その全部を抱えながら、「あともう少し」と思っている。

この朝を、楽しみながら過ごしていこうと思う。


(2026.03.30)

先日、7歳の孫のクラスで折り紙教室を開く機会があり、夫と共に「パクパク」「ぴょんぴょんガエル」「飛行機」を作った。記念に持っていた鶴が、担任の先生にとても気に入られ、「さだこの鶴ね」と言われ、驚いた。

その日の放課後、先生がクラスで鶴について話してくださったようで、孫は帰宅後「いつか鶴を折れるようになりたい」と言い出した。

私は33年間、高校で英語を教えてきた経験から、異文化交流の中で折り紙が重要な役割を果たすことを知っている。浴衣や日本茶、簡単な日本語講座も文化体験になるが、折り紙は言葉がなくても、手を動かすことで直接日本文化に触れられる。特に鶴は、世界中で平和の象徴として知られており、子どもたちも生徒たちも自然に興味を持つ。

しかし、鶴は折るのが非常に難しい。折り線をつけても開くのが難しく、端を合わせたり羽を形作る工程もあいまいで、大人、高校生、特に幼い子どもには理解が難しい。

そこで私は、折り鶴を16工程に分解することを決心した。半分に折る、また半分に折る、折りじわをつける、羽を上げる…など、子どもが迷わないように番号をつけ、矢印で注意点も示した。折り鶴を16工程に分けた折り紙は16枚になった。

今日、孫と二人で折ってみたところ、最初はきょとんとしていたが、折り線の意味が分かると次第に理解し、自分で折る感覚をつかんでいった。最後の首や尾の細かい部分は一緒に手伝ったが、それでも孫は「自分の最初の鶴」と言い、ダディとマミーに見せるために高いところに飾った。

孫は自分で作る喜びを味わい、私は折り鶴の文化的意味、学びのプロセス、そして世代を超えた記憶の伝達を改めて実感した。折り鶴は日本文化と平和の象徴であるが、その価値を次世代に伝えるためには、折る人の工夫が不可欠であると強く感じた体験である。 これだけAI が進化している現在、折り鶴が誰でも簡単に折れる方法があれば、日本の子供達だけでなく、世界でもっと受け入れられるのではないかと感じている。


(2026.03.29)

33年間、日本の高校で英語を教えてきた私は、可算名詞と不可算名詞――いわば「数えられる名詞」と「数えられない名詞」を意識して日々授業に臨んできた。

可算名詞(Countable Nouns / [C])は形が定まっており、1つ、2つと数えられるものである。単数形なら a/an、2つ以上なら複数形を使う。例として dog/dogs、apple/apples、book/books、person/people などがある。
不可算名詞(Uncountable Nouns / [U])は形がなく、分割してもそれ自体を数えられないものを指す。水、情報、液体、抽象概念、材料などであり、単数・複数の区別はなく、a/an は付けない。数える場合は a cup of water のように単位を伴う。例として water, milk, information, money, music, luggage などがある。

授業では、名詞を扱う際には常に神経を使っていた。自信がなければ必ず辞書で調べ、[C]か[U]かを確認してから教えていた。抽象的に「可算か不可算か」を説明するだけでなく、具体的に「形が描けるかどうか」「箱に入っているか、材料として扱うか」など文脈も丁寧に伝えてきた。

ところが、昨日ニュージーランドで、夫がウェアハウスで子供たちにおもちゃを買った場面で、ふと思った。夫は夜中に子供たちが探しに来るかもしれないと思い、おもちゃを隠してメモに “The toy I bought is not here” と書いた。上の子は文字が読めるので意味は伝わるが、下の子にはあまり意味がない。

そこで私は疑問に思った。ネイティブスピーカーは、可算・不可算をどれほど意識して日常で使い分けているのだろうか。体験的に身についているのか、学校で学習したことや読書経験、知的レベルによって差があるのか。辞書やAIに聞くと、やはり toy は数えられる名詞であり、複数の具体的なおもちゃを指す場合は “The toys I bought are not here” が文法的に正しい。

このニュージーランドの夜、子供たちの寝顔を見ながら、私は長年の教員生活で培った「名詞への敏感さ」を日常の小さな場面で再確認した。抽象的に教えていた文法が、実際の生活の中で「TOYは可算名詞か、不可算名詞か」と自問させる瞬間があることを、改めて面白く思ったのである。 教員であった日々を忘れたいと願っているが、身体に染みついたものは簡単には消えないと思い知らされた。


(2026.03.29)

霧のためフライトが遅れ、**Aucklandを発った息子たちの到着はかなり遅くなりそうだった。夕食はサブウェイか寿司にして欲しいという連絡を受け、7歳と5歳の孫を連れて、Alexandra**で一軒だけの寿司屋へ向かった。

「静かに選ぶ」と約束していても、店内ではにぎやかで、寿司を落とさないようトングで取らせるだけで一苦労である。それでも二人は自分の好みをはっきり持ち、それぞれ迷いなく選んでいた。上の子は父親そっくりで、大きなおにぎりまで選んでいる。血は濃い、似るものだと感じた。

ジュースをその場で開け、店内の席に座らせて待たせ、その間に夫と私が交代で自分たちの分を選ぶことにした。子どもたちを見ながらなので、慌てて選んでいたが、そのときふと「California roll」という文字が目に入った。

揚げ物が巻いてあったり、上にのってあったりと、私は食べたいものが中々見つからない。本物の寿司が懐かしかった。
ふと、カリフォルニアロールという文字が目に入った。別に食べたかったわけではない。
カリフォルニアロールとは、アボカド、きゅうり、カニカマなどを具材にした、海苔を内側にしてご飯を外側に巻いた“裏巻き”の寿司である。生魚は入らず、北米で日本食に慣れていない人でも食べやすいよう考案されたものである。

文字を見た瞬間、昔日本に来ていたALTの女性の顔が鮮やかによみがえった。彼女は回転寿司でカリフォルニアロールを探し、「なぜ無いのか」と不思議がっていた。その表情が思い出され、思わず私はそのカリフォルニアロールを手に取っていた。

普段は夫任せで選ぶことが多い寿司屋だが、今日は初めて自分で選ぶ体験をした。慌ただしい中で目に入ったカリフォルニアロールは、ただの食事以上に、不思議な記憶の引き金となった。


(2026.03.29)

この3年間、自分の耳の聞こえについて少し不安を感じながら、人間ドックのオプションで聴力検査を受けてきた。今年は特に、テレビの中の人の会話の声が聞き取りにくく感じた。コマーシャルになると急に音が大きくなるので、その差も関係しているかもしれない。

人間ドックでは異常なし、耳鼻科でも異常なしである。でも、自覚としては聞こえが少し悪くなっている気がする。専門医の話では、聴覚の老化は40代・50代から始まり、高い音や「か行・さ行・は行」が聞き取りにくくなることがあるとのことである。治すことは難しいが、補聴器を前向きに考えることや、日常生活で耳を守る工夫はできる。

具体的には、大きな音を聞きすぎない、ヘッドホンで音量を上げすぎない、禁煙や有酸素運動、耳に良い栄養を摂る、自律神経を整える、カフェインの摂りすぎに注意、化学物質への配慮などがある。耳のツボ押しや、頭や体を前傾・垂直方向に動かす動作で耳石や有毛細胞を刺激することも耳ケアになる。

「加齢による変化はしょうがない」という話もあるが、だからといって何もしないわけではない。今できることを考えて実行するのが、年を重ねた私たちの知恵である。


(2026.03.29)

今日はアレクサンドラ、珍しくザーザー降りではないが、しとしと雨がやまない。洗濯物を内干しにした。ここは乾燥しやすく、3月の雨の日は月に5日程度、年間でも月に4〜7日しか雨は降らない。普段は外干しで十分である。

家は平屋で段差も少なく、子ども部屋から夫婦の部屋、リビングやキッチンまで、お掃除ロボットが自由に行き来できる。雨の音に似た動作音がすると、つい「雨かな」と思ってしまうほど、大活躍である。

一方、日本の我が家では三階建てで二階に外干し用の物干しがある。晴れの日が少ない地域の妹の家を参考に、我が家にも「干し姫様」なるものを設置した。これは 室内で洗濯物を干し、ロープで上方に吊り上げて乾かす機械であり、乾燥機と併用すれば雨の日でも洗濯物が乾く。
狭い部屋や階段が多いし、エレベーターもあるため、お掃除ロボットはぶつかって止まり、ほとんど役に立たない。広い家であればロボットは活躍できるであろうが、我が家の場合は難しいのである。

ニュージーランドの広い平屋で、ロボットが自由に動き、洗濯物が乾きやすい気候を眺めると、便利さと合理性をあらためて実感するのである。


(2026.03.29)

今回の訪問は、少し値段はいつものより高めであるが、単三電池1本で動く携帯用ウォシュレットを持ってきて使用したている。非常に快適であり、やはりよくできていると実感した。

夫も初めて使用し、「すごく気持ちがいい」と言ったことは、私にとって大きな衝撃であった。男性でもこれほど快適に感じるのかと気づかされる瞬間であった。

それに比べ、私たちの住む息子の大きな家では、ほかの設備は豪華であるにもかかわらず、トイレだけは冷たい便座でウォシュレットはなく、わざわざ携帯用を使わねばならない状況である。海外においても、ウォシュレットが一般家庭に広まっている様子はあまり見られない。

ふと、昔のTOTOのコマーシャル「お尻だって洗って欲しい」を思い出した。当時は批判が殺到したらしいが、徐々に理解され、現在では日本では家庭の当たり前となっている。

では、なぜ海外ではまだ広まらないのか。文化や習慣の違い、住宅や水・電気設備の事情、コストや心理的抵抗などが理由であるとされる。

いつの日か海外でもウォシュレットが広まることを願う。そして、携帯用ウォシュレットを持ち歩きながら、その日が来ることを楽しみにしている。


(2026.03.29)

息子は13歳でニュージーランドへやってきた。現在は38歳、25年の歳月が経った。何度も訪れてきたが、結婚して自立し、自分の家を持つようになってから、4つの色のゴミ箱を目にし、息子に言われるままに分別して入れていた。しかし、ずっと不思議だなと思っていた。

今回、息子たちがいない中で自分たちで分別をしてみて、ああ、そういうことかとようやく理解することができた。
ニュージーランドでは、ゴミは大きく分けて4色で回収される。黄色はリサイクル用で、洗ったプラスチック容器や缶、瓶、紙や段ボールなどが一緒に入る。
日本人の感覚からすると、缶や瓶、紙や段ボールが一緒に入るというのは非常に違和感がある。日本では瓶や缶は別に特別な日を決めて地域で集めるため、一緒にまとめることには抵抗があった。
緑は庭ゴミ用で、草や枝、葉などを入れる。
赤や黒は可燃ゴミで、汚れた紙やティッシュ、プラスチック袋など、リサイクルできないものが入る。
青はガラス専用で、瓶やビンを入れる。

回収は曜日ごとに決まっており、一般的には月曜日が黄色(リサイクル)、水曜日が赤/黒(可燃ゴミ)、木曜日が緑(庭ゴミ)、青のガラスは自治体や店頭で随時回収される。この仕組みは住所によって多少異なるため、最新情報は自治体のカレンダーで確認する必要がある。

もちろん、すべての人が完璧に分別できているわけではない。スーパーの袋のように家庭ゴミ箱では回収できないものを専用ボックスに持って行くのは面倒であり、現実には守れない場合もある。しかし、それも含めて、この国のゴミ分別の考え方の一部であり、文化や環境に合わせた仕組みなのだと思う。何が良い、悪いではなく、それぞれの国に応じた考え方があるのだと感じた。


(2026.03.29)

昨日、両親が不在なので、7歳と5歳の孫を連れて、学校と地域の行事であるGALAへ出かけた。会場を歩き回り、ブースを巡り、彼らはゲームに夢中で、お菓子を食べ、最後はアイスクリーム。大人はコーヒーで一息つき、皆くたくたになって帰宅した。

一昨日からの約束で、夕食をきちんと食べてお利口に過ごせたら、**The Warehouse**で好きなおもちゃを買ってよいことになっていた。帰宅後、「歯みがき、シャワー、もう一度歯みがき、そして静かに寝られたら、明日おもちゃを渡す」という約束をすると、子どもたちは驚くほど素早く動いた。とくに7歳の男の子の動きは見事だった。おとといは泣いて寝なかった5歳の女の子も、「お兄ちゃんと寝る」と言って、二人で眠りについた。

本朝、7時に起きると、家のあちこちの電気がついていた。のぞくと、7歳の子はすでに起きてパズルに取り組んでいた。6時に起きて、おじいちゃんからおもちゃを受け取り、どれから始めるか考えた末、いちばん好きなパズルを選んだのだという。

5歳の子は自分の部屋で、お人形を椅子に座らせ、ミルクを用意し、エプロンをかけて、赤ちゃんごっこをしていた。



写真を撮っていいかと聞くと、7歳の子は「いいよ」と言い、すぐに両親へ送ることができた。5歳の子は「いや。パパとママに直接見せたいの」と言った。その違いもまた、その子らしさなのだと思い、そのまま受け止めた。

いつもはなかなか起きず、朝ごはんもなかなか進まないのに、今日はまだ何も食べずに、ただひたすらおもちゃに向かっている。
子どもは「やるべきこと」では動かないが、「やりたいこと」には驚くほどの力を出す。

子どもを育てるとは、やる気を出させることではなく、
その子が夢中になれるものを見つけてあげることなのかもしれない。

今日はこれから朝ごはん。けれど、しばらくはこのまま遊ばせておこうと思う。午後には両親が戻ってくる。それまで怪我なく、安全に過ごせたら、それで十分。そんな朝である。


(2026.03.29)

2日前の折り紙教室で、私はパクパクなどを作ったが、折り紙といえばやはり鶴だろうと思い、記念に2羽折って先生にプレゼントとして渡した。すると先生が「これはサダコの鶴ですか?」と尋ねられたので、私は「はい」と答えた。先生は孫にも「いつかこれを折れるようになってね」と話された。その瞬間、私はただ折り紙を渡しただけであったが、孫が家に帰ると「僕も折りたい」と言った。幼い7歳の彼はもう忘れてしまったかもしれないが、私はその気持ちを大切にした。

寝る前に、孫が真似して折れるようにと、15通りの順番で折り方を整理した。小さな手でも折れるように、難しい部分を分解し、折る楽しさと達成感が伝わるように工夫したのである。

佐々木禎子さんの話を思い出す。白血病で入院し、治ることを願って千羽鶴を折った彼女の手先の器用さと祈りの心である。私も高校の修学旅行で生徒たちと千羽鶴を作り、広島や長崎に捧げた。あの時の平和への思いが、今、折り鶴を通して孫に伝わるかもしれない。まさに小さな種をまく瞬間であると思う。



時代とともに教育内容は変わる。大事な話が教科書から消えることもある。しかし、個人の小さな行動でも、子どもの心に平和の意識を芽生えさせることはできる。孫やその友達が折り鶴を楽しみながら折ることで、少しでも平和や歴史に興味を持つきっかけになることを願っている。

難しいのは、ニュージーランドのお嫁さんや長男が、このような話を7歳の孫にどう伝えるかということである。無理に強制せず、聞こえないところで、分かる範囲で小さな種をまく――それが最も賢いやり方であろう。

私の気持ちは、先生が折り鶴を知っていたことで、昔の平和教育の思いが蘇り、孫に少しでも伝えたいと思ったのだと考えている。折り鶴は単なる折り紙ではなく、平和と祈りの象徴なのだろう。


(2026.03.28)

息子夫婦がオークランドへ歯科研修に出かけ、私たちは孫たちの送り迎えや食事の世話をした。
その合間に出かけた The Warehouse の帰り道、
「$2ショップへ行こう」と向かった場所に、もう店はなかった。

とても残念で、理由を調べてみた。

世界を見ると、Daiso は今も多くの国に広がっている。
およそ25以上の国と地域で展開し、価格は現地に合わせて変えながら、
「安いのに質がよい生活雑貨の店」として受け入れられている。

特に店舗が多いのは、たとえば次の国々である。
  • 韓国(非常に多い店舗網)
  • ブラジル
  • アメリカ
  • 台湾、タイ、フィリピン などのアジア地域

これらの国では、日本文化への親しみや、人口規模、都市の集積があり、
「たくさん売ることで利益を出す」商売が成り立ちやすい。

一方で、私が滞在している ニュージーランド は、
人口がおよそ500万人、人口密度は日本の約1/50台といわれる国である。

人が少ないということは、土地に余裕があり、家は横に広く建てられる。
息子たちの家も、日本の感覚から見ると驚くほど大きく、庭も広い。
けれど同時に、人が少ないということは、
「大量に売ることで成り立つ店」にとっては不利になる。

$2ショップは、まさに薄利多売の代表のような存在だった。
しかし、物価上昇、輸送費の高騰、人件費の高さが重なる中で、
「$2で売る」という仕組みそのものが難しくなっていったのだと思う。

その役割は、今では
Kmart Australia や
The Warehouse のような、
大規模に仕入れ・販売できる店に置き換わっている。

そしてダイソーは、ニュージーランドでは
オークランドとウェリントン周辺に数店舗のみ。
価格を柔軟に変え、「安さ」だけでなく「品質や楽しさ」という価値で成り立っているから、
都市部に絞って続けられているのだろう。

$2ショップは、子どもたちが小さな宝物を見つける場所であり、
私にとっては、ベリーダンスの練習着を見つけた思い出の場所でもあった。
なくても困らないけれど、あると楽しいものが並ぶ店だった。

その店が消えたことは寂しい。
けれど、この国の人口や経済の成り立ちを知ると、
少しだけ、その理由が見えてきた気がした。


(2026.03.28)

今日は孫たちとウェアハウスへ行った。ウェアハウスはニュージーランドの大型ディスカウントストアで、日用品、衣料、文房具、玩具など生活に必要なものを幅広く揃えている店である。日本でいうとドン・キホーテやジャンボエンチョウのような総合的なお店である。昨日はスーパーで高くついたので、今日は20ドルの予算で自分たちで選ぶことにした。夫と「走らないこと」「帰ったらシャワーを浴びること」「買ったおもちゃは明日まで開けないこと」を約束して出発した。

7歳の孫は、以前は物を選ぶのに時間がかかって迷う子であったが、今日は数字が大好きで計算が得意なため、20ドルの中で最適に選ぶことができた。年齢に合わないパズルを選んだが、予算内で調整しながら、最終的に縄跳びも購入し、残り数セントで終了した。計算しながら選ぶ姿に成長を感じた。

一方、もうすぐ5歳の孫は、赤ちゃんの弟を意識して抱っこできるおもちゃやミルク、エプロンを選んだ。数字よりも感覚や興味で選び、15ドルほどで満足した。ところが、兄が複数買ってもらっているのを見て「もう一つ欲しい」とぐずり始めた。チョコレートは却下され、最終的にはレジ近くで見つけた**キティちゃんのガシャポン($4)**で解決した。

帰りの車内では大騒ぎであったが、「泣かずに寝ること」「シャワーを浴びること」「歯を磨くこと」という約束をして、二人とも走ってシャワーを浴びに行った。夫はおもちゃを見えないところに隠し、明日の朝の楽しみにした。

子どもたちの成長がよく分かる一日であった。迷っていた7歳が計算で最適に選び、5歳は弟を思って赤ちゃんごっこを楽しむ。子どもの考え方や興味の違いを見ていると、本当に面白いと感じた。


(2026.03.28)

現代はメールやSNS、ラインなど便利なツールがあり、連絡は瞬時に届く。しかし便利な分、誤解や混乱も起きやすい。学校や先生への連絡も、簡単に送れるからといってデジタルで済ませられるわけではないだろう。それは危険と隣り合わせかもしれない。ではどうすれば良いのだろうか? 時には基本に立ち返る必要があると感じる。

折り紙教室で、子どもたちは「パクパク」という折り紙で遊んだ。これは夫が一番最初に時間をかけて作ったもので、子どもたちは自ら折ることができた。その後、私があらかじめ準備していた番号を書き、中に「ジャンプ」「シング」などの動作や、ラフな表情やスマイルを入れて用意しておいたもう一つのパクパクで遊んだ。ニュージーランドの子どもたちもとても楽しんでいた。

折り紙自体はすでに楽しんでいたが、先生は「パクパク」という名前に興味を示し、意味がわからない様子であった。私はおそらく日本語の口を動かす動き「パクパク」に似ているからではないかと思った。しかし、先生に伝えるにはいい加減なことは言えない。帰宅後、私はその名前の由来を調べ、GPTさんにも聞きながら、まずメールやLINEで瞬時に送れないかと考えた。しかし便利なツールがある時代であっても、学校の仕組み上、先生個人宛に送ることはできないと気がついた。

そこで最終的に、折り紙の裏に手書きで短く説明を書き、翌日孫を送っていった際に、先生に直接渡した。先生はハンドライティングを褒め、説明を読んで理解してくださった。

便利なツールがあふれる時代でも、基本に立ち返る手書きの力は確かに有効である。便利だからこそ、原点の大切さを改めて感じた出来事である。





パクパク折り紙の説明

「パクパク」は日本語の擬態語で、口を開け閉めするような動きや、食べるときの様子を表している。( 例  子どもたちは、この折り紙の中に番号や動作(ジャンプ、シングなど)、表情(スマイルなど)を書き入れて遊ぶ。)

英語では同じ折り紙を指す名前が他に二つある:
  • Fortune Teller(占い遊びに使われるため)
  • Cootie Catcher または Salt Cellar(形や遊び方に由来)
日本語では「動き」を名前にしているのに対し、英語では用途や形を名前にしている点が大きな違いである。


(2026.03.28)

今日は初めてGALAに参加した日である。両親がオークランドへ研修に出て不在のため、私と夫が7歳ともうすぐ5歳の孫を連れて出かけた。GALAがどのような催しかもよく分からないまま訪れ、まずチケットを買う必要があることを知った。最初は要領が分からず戸惑ったが、子どもたちはすぐに自分のやりたいことを見つけ、思い思いにチケットを使い始めた。

上の子は的当ての遊びがとても上手で、一発で当てて大きなお菓子を手に入れた。長靴を投げてバケツに入れる遊びもあり、年齢や背の高さによって距離が決められている。入れば自分で好きなお菓子を選ぶことができる仕組みである。子どもたちは「自分で選ぶ」ということを心から楽しんでいる様子であった。

綿菓子やヨーヨー釣りなど、日本の縁日を思わせる遊びも見られた。一方で、的に当てると上から水が落ち、座っているボランティアの人がずぶ濡れになるという遊びもあり、日本ではあまり見かけない発想に驚かされた。

空気の入った大きな遊具で子どもたちが跳ねて遊ぶ場所もあり、これはチケットもお金もいらない遊びである。楽しそうな反面、転び方によっては危ないと感じる場面もあった。そのようなときには、近くにいた年上の子どもたちがさりげなく止めに入り、小さい子を守っている様子が見られた。大人が介入するのではなく、子ども同士で自然に調整している姿が印象的であった。

行列は長く、待ち時間もゆったりと流れていた。下の子は顔のペインティングと髪の飾り付けを選び、上の子は途中で気が変わり、水の遊びに挑戦した。アイスクリームを買う場面では、大きさや味を自分で決め、自分で注文させた。祖父母である私たちは、つい口を出したくなる気持ちを抑え、「自分で決める」ことを優先させた。

結局、二人ともアイスクリームを食べきることはできなかった。私や夫が残りを食べることになったが、それもまた今日の一場面である。

朝夕は冷え込むためジャケットを着せて出かけたが、途中で暑くなり脱いだ。私はそういう事態を予想していたため、大きな背負えるバッグを持っていったので、脱いだ上着や獲得したお菓子などをすべて入れることができた。夫には「持ってきて正解だった」と言われたが、正直なところ、かなり疲れていた。

帰宅すると子どもたちはお菓子でお腹がいっぱいで昼食はいらないと言う。私も同じ気持ちであった。お菓子は食べていない。疲れでお腹がいっぱいだった。大きなチョコレートは今日は食べないと約束させ、冷蔵庫に入れ、明日に回した。気づけば午後2時50分であり、一日の大半が過ぎていた。

子どもを育てるということは、もしかすると無駄になるかもしれない準備をいくつも重ねることの連続である。使わないかもしれない袋を持ち、飲まないかもしれない水を用意し、起こらないかもしれない事態を想定する。それは親であった頃にしてきたことであり、祖父母になり、異国にいても変わらず身についている行動である。

ただ一つ違うのは、自分が年を重ねた分だけ、疲れが深いということである。今日はそのことを静かに実感した一日であった。


(2026.03.28)

今日は GALA(ガラ) に行ってきた。GALAは、日本ではあまり聞かない言葉であるが、学校や地域の人々が一緒に楽しむ お祭りや文化イベントのような日 である。地域の人や学校の先生、子どもたちが集まり、ゲームや屋台、パフォーマンスなどを楽しむものである。

息子夫婦がオークランドで研修中のため、私と夫がおじいちゃんおばあちゃんとして二人の孫を連れて行った。

会場にはさまざまな遊びや屋台があった:
  • ヨーヨー釣り(日本発祥)
  • わたがし(日本のお祭りでもおなじみ)
  • 缶倒しゲーム(ピストルで缶を当てて景品をもらう)
  • 長靴投げ(Boot Throw)
  • 顔や髪のペインティング
  • バウンシーキャッスル(跳ねる気球のアクティビティ)
今日の孫たちの様子は次の通りである:
  • 上の孫は 長靴投げで一発で大きなお菓子をゲット し、さらに缶倒しゲームも3回挑戦した。
  • 二人とも ヨーヨー釣りでヨーヨーを釣り上げ 楽しんだ。
  • 下の孫は ペインティングで髪や顔に色を塗ってもらい、とても嬉しそうであった。
この顔や髪のペインティングや飾り付けは、日本の学校ではまずやらないものであるため、お祭りだからこそできる異文化体験だと感じた。
  • 上の孫は少し バウンシーキャッスルで遊んだあと、ラージサイズのアイスクリーム を選んだ。下の孫も甘いものを楽しみ、私たちもコーヒーで一息ついた。

どちらも待ち時間や列を気にせず楽しんでいて、笑顔がいっぱいの一日であった。写真も撮ったが、他の子どもが写らないように気をつけながら、孫たちの楽しそうな様子を息子夫婦に送った。


(2026.03.28)

7歳になった孫が、『The 26‑Story Treehouse』に夢中で、人の話も聞こえないほど読みふけっていた。あまりの熱中ぶりに、私も「一体どんな本なのだろう」と興味を持って調べてみた。

『The 26‑Story Treehouse』は、オーストラリアの児童文学作家 Andy Griffiths(アンディ・グリフィス)とイラストレーター Terry Denton(テリー・デントン)による、絵と文章が一体になったユーモア児童書である。主人公のアンディとテリーが、26階建てに拡張された奇想天外なツリーハウスで、冒険や騒動を繰り広げる様子が描かれており、子どもたちの想像力と読書の楽しさを引き出す構成になっている。本文と漫画風イラストが組み合わさった軽快な語り、そして言葉遊びやユーモアが特徴で、世界中で高い人気を誇る。シリーズは英語圏で13巻以上出版され、オーストラリアやアメリカ、イギリスをはじめ多数の国で読まれている。

一方、日本では翻訳版は一部しか出版されておらず、認知度や入手のしやすさは限定的である。日本国内での広がりが限定的である理由としては、絵のスタイルやキャラクターが日本の子ども向けの典型的な可愛い絵ではないこと、文章がユーモアや言葉遊びを含むため翻訳で面白さを完全に伝えにくいこと、シリーズ全巻が揃わないこと、そして章読み物の文化や読書習慣の違いなどが考えられる。

この作品は、子どもが自発的に楽しんで読むきっかけとなり、英語力を伸ばす大きな可能性を秘めている。親や教師は、翻訳の有無にかかわらず、海外で人気の児童書や絵と文章が融合した本に触れる機会を作ることで、読書の楽しさや英語の理解、発話・リスニング・読解への関心を高めることができるだろう。英語の楽しさを体験するきっかけとして、こうした本の存在を知り、環境を整えることが重要である。


(2026.03.28)

昨晩、5歳の子が両親の不在で泣きながら寝付けなかった。「マミー」と呼ぶ姿は、日中の疲れや我慢が一気にあふれた瞬間である。夫はベッドの一方に座り、お兄ちゃんを呼んで反対側に座らせ、そばにいることで安心を与えた。さらに、昔の経験を思い出して波の音を流すなど、眠るための工夫をした。その結果、5歳の子は朝までぐっすり眠り、お兄ちゃんも一人で寝ることができた。

私は、口を出さず外から見守る立場を選んだ。泣き続ける子にずっと付きっきりになるのは現実的に無理であり、少し距離を置くことで安心できる場合もあると考える。自分は冷たいと思う部分もあるが、それは長い人生を通じて、自分で立つしかない、孤独に生きる力を培ってきた結果である。

23歳でアメリカに渡り、イエス・ノー文化に触れた経験は、私の人生観に大きな影響を与えた。結婚して静岡に住み、都会育ちの私には合わない環境で、学校でも孤独を感じ、一人で生きる覚悟を学んだ。結婚や子育てがあっても、人生の最後まで一人で向き合わなければならないという思いは、今も強い。

この夜を振り返ると、正解は一つではない。泣き出すことも、安心して眠れるようになる過程のひとつであり、家族それぞれの見守り方の違いがうまく調和した夜である。子どもにとって大切なのは、泣いても大丈夫だという安心感である。それは形や距離の違いで示すことができる。


(2026.03.28)

7歳になった孫が『The 26-Story Treehouse』に夢中で読む姿を見て、驚きと感動を覚えた。
5歳で小学校に入った頃はアルファベットも十分書けず、フォニックスで単語を読む程度であったのに、今は絵や文脈を頼りに想像しながら文章を楽しんでいる。文法の反復練習は嫌がるが、想像力を働かせる読書は大好きである。

一方、私が日本で33年間教えてきた英語教育では、文法や暗記中心の授業で、点数や偏差値に追われる生徒たちに、「このやり方で本当に英語が使えるようになるのか」と悩みながら教えてきた。公文や文法の反復で基礎力はつくが、楽しんで読む経験や自然な英語を体験する時間はほとんどなかったように思う。

孫を見て気づいたのは、英語力は文法や単語の暗記だけでは育たず、楽しみながら読んだり聞いたり、考えたりする経験が大切であるということだ。テスト中心の学習では正確さや速さは身につくが、楽しむ力や想像力、自発的な学習意欲は育ちにくい。

この体験を通して、「文法や暗記だけでなく、楽しむ英語体験」を提供することの大切さを改めて感じた。もし授業や学習の中で、自発的に楽しむ時間を作れたなら、生徒たちももっと英語を好きになったであろうと思う。



日本の教育でできる小さな工夫リスト(例)
  • 短時間でも英語の絵本や児童書を読ませる(年齢に合わせて)
  • 音声付きの本やオーディオブックでリスニング体験を取り入れる
  • 学校の課題とは別に、自分の興味で選んだ英語教材を使わせる
  • 英語の歌や動画で楽しく聞く機会を作る
  • 読む・聞く・話すを「楽しむ時間」として区切る


(2026.03.27)

日々、子どもたちの様子を見守っていると、思わず笑ったり、ハッとさせられたり、ちょっと困ったりする瞬間がある。観察することで、小さな学びや気づきが自然と見えてくる。

1. 子どもの姿から学ぶこと
  • 5歳の女の子は、学校では大人しいが、家では安心して声を大きく出す。時に少し乱暴な言葉も出るが、そこには安心感があるのだろう。家に帰ってきてほっとする姿を見ていると、学校と家の違いが面白くもあり、少し困ることもある。
  • 7歳の子は、整理整頓が苦手で、同じことを繰り返すのを嫌がる場面もある。真面目で頭は良いが、なかなか見つからない持ち物や苦手なことがあって、観察していると個性がよくわかる。
2. 文化や環境との違い
  • 夫は日本人で長い教員経験があるため、子どもに対して典型的な日本式の指示を出す。細かく、順序立てて指示を出すそのやり方は、私にとっては少し息苦しく感じることがある。
  • 私も元教員で日本人だが、同じやり方をしたくないと思っている。しかし、無意識に影響されそうになったり、つい同じ指示の出し方をしてしまいそうになったりする。その結果、夫との間で小さなぶつかりやイライラが生まれることが多い。文化や価値観の違いを身近に感じる瞬間でもある。
3. 観察の意味
  • 子どもや環境を丁寧に見守ることで、小さな発見や学びが生まれる。
  • その発見をノートに書くことで、自分の考えや感情も整理される。日常のちょっとしたドラマを記録することが、家族との関わりをより豊かにすると感じている。


(2026.03.27)

朝5時に起きて、息子夫婦と8ヶ月の赤ちゃんを見送った。行き先はオークランド。歯科の実習のためのフライトだ。家に残ったのは、7歳と5歳のきょうだいと、私たち夫婦。

学校とデイケアへ送り出すまでの時間は、なかなかの緊張感がある。特に5歳の彼女は、賢くて、そして繊細で、時々ぐずる。夫が日本語で伝えることを、私が英語に訳す。すると、困った顔をして、はっとして動き出す。その一瞬一瞬に、こちらも気を張る。

送り届けて家に戻ると、どっと力が抜けた。夫は新年度の書類仕事があると言いながら、プールまで車で送ってくれた。私は迷わず泳ぐことにした。気分転換が、どうしても必要だった。

向かったのは Alexandra Pool。
ここは、足がつかないほど深い25mプールだ。日本のプールに慣れていると、最初は少し怖い。でも、泳ぎ始めると、この深さがとても理にかなっていることに気づく。

今日はフィンを借りて、バタフライの練習をした。個人レッスンで教わったこと―― 「第一キックを深く、視線は足の親指あたりへ。手で“この字”を描くように水を押し、第二キックは体を浮かせるために」――それを、フィンをつけて試してみた。

すると、体が自然にうねり、進む。
フィンを外して泳いだとき、思わず心の中でつぶやいた。

「あ、こういうことだったのか」

頭で理解していたことが、体の感覚に変わる瞬間だった。

バタフライ25m、背泳ぎ25m、平泳ぎ25m、クロール25m。これを何本か繰り返す。息は上がるのに、心は静かになっていく。泳いでいる間、他のことを一切考えない。呼吸と、うねりと、水の感触だけ。

気がつくと、肩の重さも、気持ちの張りつめも、すっと抜けていた。

水の中は、私にとって「強制的に頭を空っぽにしてくれる場所」なのだと思う。

午後2時には子どもたちを迎えに行く。ランチボックスを出させて、まずは表情を見る。疲れているのか、お腹が空いているのか。それから対応を決める。スクリーンタイムは残り90分。どこで使うかを考えながら、夕方5時半の夕食までを組み立てる。

今日は、両親がいない日。だから、言うべきことは、角が立たないように、でもきちんと伝えるつもりだ。

深いプールで泳いだあと、私は少しだけ余白を取り戻している。
その余白があるから、午後の時間を、静かに整えていける気がしている。


(2026.03.27)

今朝は5時に起きて、息子夫婦をオークランドへ送り出した。8ヶ月の赤ちゃんも同行する。
5歳の女の子は別れが辛くてずっと泣き、機嫌も悪かった。しばらくそっとしておくことにした。二人はNetflixを見始め、夫が学校とデイケアの準備ができたら見ることができると、試聴時間10分の約束をさせた。7歳と5歳の二人は急いで学校・デイケアの準備を確認し、タイマーも本人たちが確認・了承のうえでスタートさせた。

朝ごはんはそれぞれ好みのまま。上の子はパンの耳を残し、下の子はホットクロスバンを半分食べて残したままにした。Netflixを見ている子に残りを「ばあば」が食べても良いか聞くとダメだと言い、自分で食べ出した。私は食べ物について、「もったいない」気持ちや貧乏性の感覚をどうしても捨てられない。

日々の子どもたちの成長や、感情を表に出す姿を見守る時間は疲れるけれど大切だと思う。学校やデイケアへ送り出す瞬間はほっとする一方で、まだ緊張が続いている。
8:15、約束の時間に二人はランチボックスの入った大きなリュックを持って車に乗った。夫は3つの約束を決めた。
  1. 危ないことはしない
  2. 片づける
  3. 時間を守る(食事・就寝・スクリーンタイム)

英語に訳すのは私の仕事だが、夫を見ていると、いつまでも教員だなあと感心する。そして、人の良さが出るのだろうか、子どもたちは「じいじ」が大好きだ。

約束が終わり、息子夫婦に送る写真を撮った後、夫が5歳の子、私が7歳の子をそれぞれデイケアと学校まで送った。

ほっとして帰宅した。お掃除ロボットの音だけが響く部屋でしばし落ち着く。14:30のお迎えまでの休息時間だ。いや、息子が用意した夕食の準備もまだある。

でも泳ぎに行こうと思う。夫は仕事があるらしいが、車で送迎してくれるという。気分転換には、私にとってとても大切な時間だ。

こうした朝の忙しさ、子どもたちの多様な感情、自分の感覚を、記録として残しておきたい。


(2026.03.27)

セントラル・オタゴの小さな町、
Clyde。

石造りの建物が並び、時間がゆっくり流れているこの町で、私たちは夕食をとった。場所は、かつて本当に郵便局として使われていた建物を改装した
Post Office Cafe & Bar。

長い歴史をまとったその空間で、こちらにお住まいの日本人女性お二人と、夫と私、四人で食卓を囲んだ。

ビーフサラダやシーフードサラダをいただきながら、話題は思いがけず「金(ゴールド)」の話になった。

この一帯は、1860年代に起こった
Otago Gold Rush
で栄えた土地だという。私は、ゴールドラッシュといえばアメリカの話だと思っていたので、ニュージーランドにもその歴史があったことに驚いた。

しかも今、この近くの山で企業による金の採掘計画が進んでいるという。
150年前、人々が夢を抱いて掘った金を、現代の会社が再び掘ろうとしている。

地面の中の金の話から、自然と「お金」の話へ移っていった。

株のこと、資産形成のこと、子どもたちへの金融教育のこと。
ニュージーランドでも日本でも、早くからお金について学ぶ時代になっているらしい。

その話を聞きながら、私は自分の昔を思い出していた。

かつて私は、
田中貴金属工業 の純金積立をしていた。
「金は安定資産」と信じて、忙しい教員生活の中、毎月引き落としで積み立てていた。

ところが1990年代、ふと残高を見ると、増えていない。
金の価格が下がっていた。

そんなことがあるのか、と驚いた。
それでもやめずに続け、やがて価格が戻り、少し上がった時、私は全部売った。

もう相場に気持ちを振り回されるのが嫌だったからだ。

今日、その話をしながら、ふと思った。
もし持ち続けていたら、今ごろ大きなお金になっていたかもしれない、と。

でも同時に思う。
あの頃の私に、相場を気にし続ける余裕はなかった。

お金よりも、目の前の子どもたち、学校、生活が大切だった。

別の話も思い出した。
退職後、毎日パソコンの前で株を見続け、大きな利益を出し、旅行をたくさん楽しんだ叔父のこと。
「退職金は一銭も使っていない」と誇らしげに言っていた。

すごいと思う。けれど私は、そこまで株にかぶりつく人生は、しんどいなあと感じる。

お金は増やすためのものなのか。
残すためのものなのか。
それとも、今を生きるためのものなのか。

Clyde の歴史ある建物で食事をしながら、そんなことを考えていた。

150年前、人々は夢を見て金を掘った。
今の人は、資産を守るために株や金を考える。

でも私にとって豊かさを感じる瞬間は、
その夜、四人で笑いながら食事をした時間そのものだった。

明日は、息子夫婦が研修のため早朝にオークランドへ飛び、私と夫は孫たちの送り迎えと夕食をともにする二日間が始まる。

きっと慌ただしい。けれど、こんな時間こそが、私にとっての「使っているお金の形」なのかもしれない。

金の町で、金ではない豊かさを考えた夜だった。


(2026.03.26)

今日は、8ヶ月の赤ちゃんと長い時間を過ごした。

つかまり立ちをし、はいはいで家中を巡り、
目に入るものすべてを口に入れようとする。
暖炉の囲い、ドアストッパー、枯れ枝、マジックのふた、靴、ぬいぐるみの耳。

そのたびに私は、危ないものを取り上げ、
安全な場所へ連れて行き、
また次の「冒険」を追いかける。

まるで小さな探検家の後ろを、必死でついて歩くガイドのようだった。

けれど、この「なんでも口に入れる」「つかまって立つ」「何度も挑戦する」という行動は、
ただのいたずらではなく、
この子の脳が世界をものすごい勢いで吸収している証なのだと気づかされた。

舐める。触る。握る。落ちる。立つ。転ぶ。確かめる。
そのすべてが、脳と体をつなぐ大切な経験になっている。

自分が子育てをしていた頃、
私はきっと、こんなふうには見ていなかった。
食べさせて、寝かせて、泣けばあやして、毎日が必死だった。

「いつの間にかできるようになっていた」
そんな記憶しか残っていない。

でも今日は違った。

一つひとつの動きが、
「人が大きくなっていく過程」そのものに見えた。

8ヶ月で、ここまで世界に向かっていく。
4ヶ月前(来日した時)は、抱っこされているだけの存在だったのに。

この子は今、全身で学んでいる。
私はそれを、ただ横で見て、支えるだけ。

祖母という立場になったからこそ、
初めて見える「成長の細部」があるのかもしれない。

そして、正直に言うと、私はとても疲れた。
目を離せない緊張と、危険から守る責任と、
それでも続く赤ちゃんの好奇心。

けれど同時に、
「人はこうやって大きくなっていくのか」と、
静かに感動している自分もいた。

来年会うとき、この子はもう歩いているだろう。
今日のこの姿は、もう二度と見られない。

だからこの一日は、
私の中で、とても大切な記憶になる気がしている。


(2026.03.26)

2026年3月26日、ニュージーランドの小学校で折り紙教室を行った。
対象は7歳の子どもたち22人。45分という限られた時間の中で、どこまで伝えられるのか、不安も抱えながらのスタートであった。

はじめに、孫が「Twinkle, Twinkle, Little Star」を鍵盤ハーモニカで演奏した。これは昨年、日本の学校体験で学習したものである。やわらかな音色に、教室の空気がふっとほどけ、子どもたちの視線が自然と集まっていった。ニュージーランドでは、鍵盤ハーモニカはあまり使われていないらしい。



導入のあと、床に座って折り紙の時間に入った。
最初に取り組んだのは「パクパク」である。一見シンプルだが、最後に指を入れて開く工程は難しく、戸惑う子も見られた。それでも、教師、私たち、そして孫がそれぞれにサポートに入り、ゆっくりと進めることで、誰一人取り残されることなく全員が完成にたどり着いた。

印象的であったのは、子ども同士の助け合いである。
できる子が自然に隣の子に手を差し伸べ、言葉を越えて伝え合う姿があった。英語が十分でなくとも、「見せる」「真似する」「一緒にやる」という行為の中で、学びは確かに成立していた。

完成後は、すぐにゲームへと移った。
あらかじめ用意しておいた番号と英語の動作(jump, shake, laugh など)を用い、ペアで遊ぶ形式である。ニュージーランドの子どもたちは、体を動かすことをためらわず、思いきり表現する。その自由さの中で、教室は自然と笑いに満ちていった。

時間に余裕があったため、次に「ジャンピングフロッグ」を行った。
うまく跳ぶものもあれば、ひっくり返るものもある。それぞれの違いがそのまま面白さとなり、「それもいいね」と声をかけると、子どもたちは何度も試しながら遊びを深めていった。正解が一つではないこと、その中で工夫することの楽しさが、自然と共有されていた。

終盤、時間が限られる中で、紙飛行機は制作せず、夫が一つ飛ばして見せた。
それだけで子どもたちは大きな歓声を上げ、「飛ぶ」という体験の力を改めて感じた。

最後に、日本の折り紙として「鶴」を紹介した。
担任の先生から広島の佐々木禎子の話に触れられた。これは少し難しい折り方であるが、いつかできるようになったらよいと伝えた。あらかじめ折っておいた鶴と余った折り紙は、担任の教師に託し、必要に応じて子どもたちに渡してもらうこととした。

子どもたちは、作り、遊び、助け合い、そして静かに文化に触れたと思う。
折り紙は単なる紙遊びではなく、人と人とをつなぐ体験となっていた。

45分という短い時間ではあったが、その場には確かに共有された時間があった。
それは、後になってふと思い出されるような、小さな種のようなものであってほしいと願っている。




(2026.03.26)

ニュージーランドでの私たちの家族生活は、文化の違いと日常のリアルさにあふれている。

家族の食事はとてもシンプルで効率的である。焼くだけ、切るだけ、大皿に盛って取り分けて食べるのが基本である。朝食は食パンにピーナッツバターやバターを塗り、牛乳と一緒に食べることが多い。ランチボックスもピーナッツバターサンドイッチやスナック、野菜、飲み物という簡単なものだ。「いただきます」や全員そろう儀式はほとんどない。

義理の娘は8ヶ月の赤ちゃんを抱っこしながら食べさせたり、ベビーチェアに座らせて食べさせたりする。まだ手づかみでぐちゃぐちゃに食べるので、床は食べこぼしで混乱状態である。息子が赤ちゃんの世話をしている間に、まず義理の娘が何も言わずに食べ始める。こども2人も食べ始める。夫と私は、息子に促されて食べ始める。私たちが食べるタイミングを見計らうのが日常である。 これがとても疲れる。

義理の娘はスポーティーで、自分のランニングやジムに行く時間を作るため、赤ちゃんを私たちや息子に預けて外出する。子どもたちの習い事(ピアノ、体操、公文など)や家事の管理も行うため、時間調整はとても難しい。家族としての役割や振る舞いに迷う場面も多いが、文化の違いや個人の性格を理解しながら柔軟に対応している。

食事、育児、家事、習い事の管理、時間の調整まで、すべてが学びの対象である。赤ちゃんの「混沌」とした食事風景や義理の娘の多忙な生活も、家族として柔軟に調整しながら日常を回しているリアルな姿である。

ニュージーランドの家族生活は、文化の違いと役割の複雑さを理解する学びの場であり、海外経験を通して価値観の多様性や柔軟性を知る土台にもなっている。

でも、私は家族が揃って 「いただきます」 をしてから家族揃って食するほうがホッとすると言うのが本音である。


(2026.03.25)

海外に限らず、普段の生活から離れると体のリズムは崩れやすい。ニュージーランドに来て約2週間、少し慣れてきた頃だった。

昨日、久しぶりに夫と二人で近くのプールへ行き、それぞれに泳いだ。帰宅後しばらくして、夫が右膝の内側の痛みを訴え始め、やがて首の痛みも出てきた。歩くのもつらそうな様子だった。

本来であれば全身調整を行いたいところだが、その日は気力が足りず、局所に絞ることにした。
鍼は寸3の2番。

(寸3(すんさん・1寸3分)2番の鍼は、長さが約40mm(4cm)、太さが0.18mmの、一般的に最もよく使用される細めのディスポーザブル(使い捨て)鍼です。日本製の鍼では、2番は0.18mm、3番は0.20mmの直径が標準的です。 )

まず膝の内側。腫れは強くないが、触れると硬さがあり、圧痛がはっきりしている部分を中心に数カ所施術。刺鍼を進めると、触れてわかる硬さがゆるんでいく。

次に首。風池から肩井にかけてのラインに緊張があり、特に本人が強く痛みを感じる部位を優先して数本。ツボ名にこだわるよりも、指先で感じる反応を頼りにした。

その後、最小限の全体調整として、下肢・膝裏・肩・頭部に軽く配し、刺激量が過剰にならないところで止めた。

仕上げに、痛みの強い膝内側と肩周囲に貼る鍼を用い、湿布とサポーターで保護。あとは無理をさせず、しっかり休むように伝えた。

翌朝、「歩ける」とのこと。痛みは残るものの、回復の方向に入っている。

久しぶりに鍼を持ち、あらためて思う。
ツボの名前よりも、触れたときの違和感や硬さ、そしてそれが変わっていく感覚。その一つ一つが、自分の仕事の核だったのだと。

旅先で、少しだけそれを思い出した。


(2026.03.25)

1. 家庭での日常と文化の違い

私は日々、ニュージーランドで暮らす孫たちや息子夫婦を見ていて、文化や価値観の違いを強く感じる。例えば、食パンの耳である。私たちの世代でも残す人はいるだろう。しかし、私の場合は、父や母、特に母、祖母から戦争中の食糧不足や貧しかった話を聞かされて育った。そうした経験が、食べ物を大切にする価値観を自然に体に染み込ませている。

母は、実の父を戦争中に亡くした。その後、母や母の兄弟姉妹(一男五女)は、祖母一人で育てられた。戦争中、母の長女の姉は道を歩いて友達の家に本を返しに行く途中、爆弾で亡くなり、遺体は見つからなかった。祖母(母の母)は長女を失い、しばらく立ち直れなかったと聞いている。次女(母の二番目の姉)も早くから働き、叔父(母の唯一の男性の兄)も非常に優秀だったが、大学に行くことは叶わず、働く道を選ばざるを得なかった。祖母は一人で子供たちを育て、社会からの目や戦争による制約の中で、さまざまな苦労を強いられた。

また、戦争中、母の父(祖父)が亡くなった時には「座棺」という形式で弔った。座棺とは、棺桶に座らせる形で弔う方法である。通常は寝かせて弔うところを、当時の事情で座らせたまま棺に入れるしかなかった。要するに、お金がなかったのである。母は子供心におかしいと思い、「お兄ちゃん、なんでお父さん座ってはんの?」と聞いたらしい。「金がないんや。」 が答えだったという。 現代の人には理解しにくいかもしれないが、当時は仕方のない形式だったのだらしい。



2. 食べ物の大切さの体験

こうした家庭の歴史の中で、食べ物の大切さを学んだ。次女(母の二番目の姉)が我が家へ手伝いに来た時のことを今でも覚えている。ご飯を食べ終わり、炊飯器を洗おうと水を張ると、残ったご飯が浮いてくる。そのご飯を普通は捨てると思うのだが、彼女はざるですくって一人で食べていた。その様子を見て、私は「そこまでしなくても」と思った。しかし、食べ物がどれほど貴重だったかを実感させられる光景でもあった。

こうした体験は、私の中で「食べ物を残さず最後まで食べる」という価値観の基盤となった。



3. 現代との比較と文化の違い

だから、孫たちが食パンの耳を残すのを見ると、つい「もったいない」と思う。しかし、口に出さず見守ることに徹している。彼らには彼らの価値観があり、私の考え方を押し付ける必要はない。孫や息子夫婦のやり方は、彼らの文化の中では自然なことであり、尊重すべきものだ。

なお、日本でも最近はサンドイッチやランチパックで、パンの耳を落として食べることが普通になっている。つまり、耳を残す習慣は、日本でも珍しいことではなく、文化や時代によって変化しているのだ。私はあくまで観察者として、自分の感覚を保持する――それが今の私にできる最善のことだと思っている。



4. 世界への思いと無力感

同時に、私の心は世界の現実にも向く。戦争や貧困で食べるものに困る人々は今も多い。自分にできることは寄付くらいで、実際にはなかなか行動に移せない。海外青年協力隊などの活動も一つの方法だろうが、現実的には簡単ではない。そう考えると、人間は何ができるのか、と自問することもある。

家庭での小さな出来事――食パンの耳や孫たちの行動――は、私にとって、自分の価値観を確認するポイントであり、世界の広さや不条理を感じるきっかけでもある。



5. 観察と受容、そして小さな行動

この家庭での経験から学んだことは三つある。
  1. 家庭内の価値観は尊重する
     口出しせず、観察者として受け入れることだ。
  2. 自分の価値観は守る
     食べ物の大切さや、戦前・戦中を生き抜いた家族から受け継いだ価値観は、自分の誇りとして保持することだ。
  3. 世界への思いは小さな行動に
     無力感を抱くこともあるが、寄付や知ることなど、できる範囲で関わることだ。
こうして家庭内での摩擦を避けながらも、自分の価値観を大切にし、世界に思いを向けることが、静かで確かな学びになっている。



6. 日常の中での気づき

日常の小さな出来事――孫たちの笑顔、食パンの耳、何気ない会話――は、私にとって価値観を確認し、世界を考えるきっかけだ。

口に出さず、波風を立てなくても、自分の中で感覚を整理し、思いを言葉にしておくことは、静かな学びであり、私自身の心の平穏につながる。

家庭と世界、日常と価値観――その両方を意識して生きることが、私にとっての「今の形」なのだと感じている。


(2026.03.25)

ニュージーランドに来てから、
ふとした瞬間に、昔の記憶がよみがえることがある。

今日は「Hot Cross Buns」という歌を思い出した。 息子が何気なくスーパーで買ってきてくれたパン?を見てである。
イースターの時期になるとよく見かける、十字の入った甘いパンの名前でもある。

Hot Cross Bunsは、イギリス発祥のとても古いマザーグースの一つで、
シンプルなメロディと、繰り返しのやさしい歌詞が特徴だ。

Hot Cross Buns (https://youtu.be/re3gXNTtwig)

この動画のように、ゆっくりとしたリズムで歌われるのを聞いていると、
なぜか懐かしい気持ちになる。

けれどそれは、自分が子どもの頃の記憶ではなく、
自分の子どもたちに歌っていた時間の記憶だ。
他のマザーグースもよく歌っていた。 テープかビデオがあって模倣していたのだと思う。

"Hot cross buns, hot cross buns,
One a penny, two a penny, hot cross buns"

小さかった子どもたちに、
繰り返し歌っていたあの時間。

意味を考えるというよりも、
ただ音のリズムを楽しみながら、英語の音が彼らに残ってほしいと願いながら、
一緒に過ごしていた時間そのものが残っている。

昨日、ふとこの歌の話をしてみた。
けれど、孫はこの歌を知らない様子で、
お嫁さんもあまり馴染みがないようだった。

同じ国にいても、同じ言葉に触れていても、
記憶として受け取るものは、少しずつ違っていくのかもしれない。

この「one a penny, two a penny」という言葉も、
当時は何も考えずに口にしていたけれど、
改めて見ると少し不思議に感じる。

調べてみると、これは昔のパン売りの呼び声のようなもので、
人を引き寄せるためのリズムある言葉だったらしい。

正確な意味よりも、
耳に残る響きや、繰り返される音。

だからこそ、子どもにもすっと入っていったのだと思う。

ニュージーランドのスーパーでも、
この時期になるとHot Cross Bunsがたくさん並ぶ。

その光景を見ながら、
遠いイギリスの街角と、
子どもたちと過ごしたあの時間、
そして今ここにいる家族との時間が、静かに重なった。

つながっているものと、
つながらないもの。

そのどちらも含めて、
今の時間があるのだと思う。


(2026.03.25)

今日は、ふとしたことで長く忘れていた思い出が次々と蘇った。

息子たち夫婦が食事にケバブを用意してくれた瞬間、私の中に家族旅行で訪れたトルコの光景が鮮やかに浮かんだ。イスタンブール、カッパドキア、そして気球――安いツアーでお正月に出かけた、子どもたちも私も楽しみにしていた旅の思い出である。息子が屋台でたくさんケバブを食べていた光景や、天候の都合で気球に乗れなかったことまで、忘れていたのに、ケバブが引き金となって一気に思い出した。私が高校の授業で使用していた副読本の中にカッパドキアの気球の勧めがあったことまで思い出した。

さらに、その日の夕方、息子がスーパーで買ってきてくれたパンの中に「ホットクロスバンズ」があった。袋の文字とパンの形状を見た瞬間、幼い子どもたちに繰り返し歌って聞かせたマザーグースの歌が、ふっと口をついて出てきた。「ホットクロスバンズ、ホットクロスバンズ、ワナペニー、トゥアペニー…」――歌詞の意味もよくわかってなかったが、夫と調べて、一緒に食べながら「あ、そういう意味だったのか」と笑った。

こうした体験は、脳の中で 感覚・記憶・感情がネットワークのように連携 して起きる現象であるそうだ。ケバブやパンというきっかけ(視覚や味覚)が、過去の旅や子ども時代の教育、夢や思い出と結びつき、海馬(記憶の司令塔)が過去の情報を呼び起こす。その情報はウェルニッケ野(言葉や意味の理解を担当)で認識され、ブローカ野(言葉や歌を口から出す指令を出す部分)が働いて、口から歌が自然に出てくる。感情や喜びは前頭前野や扁桃体で補強され、記憶がより鮮明になる。
私の大学院時代は、「聞く、読む」はウエルニッケー後頭葉 「話す、書く」は運動と関係するブローカー習ったものだ。 鍼灸学校時代の解剖学で、脳は水に浮いたお豆腐のようで、どこからどこまでと切り離せるものではないーと学習して目から鱗だった。

脳を例えるなら、ウェルニッケ野やブローカ野は豆腐の中の濃い部分のようなもので、記憶や感覚、感情という“水”が通ると、ネットワーク全体で情報が自由に流れる。だから、今日の私はパンを見ただけで幼いころの歌が自然に蘇ったのだ。日常の中に、ふと小さな「記憶の贈りもの」が現れることを、今日改めて感じ、あまりの鮮明さに驚いたのである。


(2026.03.24)

朝はとても寒く、体が縮こまるような一日だった。
けれど昼を過ぎると、太陽の光で一気に空気がやわらぎ、外に出たくなるような暖かさになった。

今日は、久しぶりに夫と二人で歩いて アレクサンドラプール へ行き、ゆっくり泳いだ。
本当は帰りにスーパーに寄るつもりだったが、赤ちゃんが戻ってくる時間だったので、そのまま家へ戻った。

家に帰ると、8ヶ月の赤ちゃんがいて、お嫁さんも戻ってきて、もうすぐ5歳になる子は学校体験から帰宅し、7歳のお兄ちゃんも帰ってきた。 一気に家の中がにぎやかになる。

7歳の子は少し機嫌が悪そうだった。
学校で何かあったのか、それとも疲れていたのかもしれない。

そんな中、お嫁さんがふと「泳ぎに行こう」と言い出した。
プールかと思ったら、向かったのは川だった。

そこは何度か連れてきてもらったことのある、家族みんなが大好きな場所、
クルーサ川。

水温は16度ほど。とても冷たい。
それでも子どもたちは元気に水に入り、お嫁さんも一緒に泳いでいる。

私と夫は、岸で8ヶ月の赤ちゃんを抱きながら、その様子を見ていた。
赤ちゃんは少し泣いていたが、抱っこすると落ち着いていった。

30分だけ泳いで、4時半には上がる予定だという。
そのあと、家に帰って夕食を作り、子どもたちはまた勉強やピアノの時間になるらしい。

そのエネルギーと切り替えの速さに、少し圧倒される。
けれど同時に、とてもいいなとも思う。

ニュージーランドの人たちは、自然をとても大切にしている。
自然の中で遊び、過ごすことが、特別なことではなく、日常の一部になっている。

朝は寒く、昼は暖かく、夕方にはまた冷えていく。
その変化に合わせて、暮らしも動いていく。

最近、少しつらいことが続いていた。
でもこうして、川辺で子どもたちの声を聞きながら、赤ちゃんを抱いている時間や、
お嫁さんと自然に言葉を交わせるようになってきたことが、心を少しずつほどいてくれる。

まだ明るい午後の光の中で、
これがニュージーランドの暮らしなのだと、静かに感じている。

日本ではお目にかかることのなくなったゴミ箱が分別で置いてある。 安全なのはどちらだろうか。





(2026.03.24)

今朝のアレクサンドラはとても寒く、朝7時の気温は約10℃前後である。私はセーターを着てカイロを貼っているのに、半袖の人もおり、自分にはとても辛く感じる。しかし、それは自然なことであろう。同じ気温でも体調や慣れによって感じ方は違う。

息子は仕事で、義理の娘と赤ちゃんはは上の子二人を連れて学校に出かけた。今は少し自分だけの時間である。寒いが、夫と相談して歩いて15分ほどのプールへ泳ぎに行き、気分転換をすることにした。帽子をかぶって、しっかり着込むつもりである。泳ぐのはバタフライ50m、背泳ぎ50m、平泳ぎ50m、クロール50mを最低限泳ぐ予定で、疲れすぎないよう加減しながら楽しむつもりである。

お気に入りのレインボーのArena の水着を着ると気分も少し上がる。また、携帯ウォッシュレットも下ろして使ってみた。自分の部屋で使うと、とても快適で心地よく過ごせる。海外では特に便利で、日本では必要なかったが、今回は大活躍である。小さな快適さが心を支えてくれる。

さらに、朝noteを書きながら、よく読んでくださる方のためにホームページとnoteのアドレスを整理して出すことができた。少しすっきりし、一人でも読んでくださる方がいることにありがたいと感じた。

明後日は七歳の孫の学校で折り紙教室である。ほとんどパクパクの予備は作れた。番号を振ったり、中にジャンプ他、動作などの言葉を書いて遊びやすくしてあげる予定である。説明もうまくできるよう、最後に夫と一緒に確認して進めるつもりだ。

今日は寒い朝であるが、体を温めつつ、自分の快適さを大切に、気分転換と小さな達成感を意識して過ごす一日にしたい。


(2026.03.24)

先程、ニュージーランドで食した多国籍テイクアウトの話から、ケバブをふと突然思い出した。 私は昔、家族でトルコ・イスタンブールに旅行に行ったことを鮮明に覚えている。新聞か何かで見た格安ツアーの広告をきっかけに、夫と私、息子と娘の四人で行った旅行である。子供達は十代半ばくらいであっただろうか?娘はもう少し幼かったかもしれない。出発はお正月で、家族全員が揃える貴重な時間であった。どの観光地を訪れたか、何を見たかはあまり覚えていないが、家族四人で仲良く過ごせたことだけは鮮明である。喧嘩が多い家族だったので、特に印象に残っている。

中でも忘れられないのは、息子が屋台で食べたケバブのことである。1ドルのケバブを次々と買い、食べては買い、また食べて……。十個くらい食べただろうか?「うまい うまい」と叫んでいた。息子の勢いと楽しさを見ているだけで、私までお腹いっぱいになった気がする。娘や私、夫は息子ほど食べられなかったが、息子が初めてのケバブを楽しむ姿だけが鮮明に残っている。

旅行のオプションとしてカッパドキアにも行った。私は高校で教える英語の副読本に「カッパドキアに行ってみましょう。気球に乗ると楽しいですよ」という英文があり、2年間連続で同じテキストで教えたので、ずっと気球に乗ってみたいと思っていた。「カッパドキアに行ってみましょう。」と教えながら、行ったことのない自分が情けなく寂しかったからだろう。現地では別料金のオプションで気球に乗る予定であったが、天候のせいで飛ばず、とても残念であった。子供たちもとても残念がった。気球に乗りたかったのだろう。しかし、カッパドキアの景色や家族で過ごした時間の記憶は、今も温かく残っている。

その後、最後に四人で行った家族旅行は香港だったと夫は言うが、私はほとんど何も覚えていない。こうした思い出を振り返ると、家族というものは面白く、時間や状況によって形が変わるものである。私は両親と妹の四人で育ったが、妹と私がそれぞれ結婚し家庭を持つことで「家族」の形は変わった。私たちの子供達もそれぞれ独立し、新しい家庭を作っている。

家族とは、ある時一緒に暮らし、共に食べ、共に泣き笑いする時間の中で形作られるものかもしれない。そして人によって「家族」の定義は違うだろう。それでも、それぞれの家族の形があり、それでよいと感じている。。私にとって、トルコ旅行の思い出やケバブの記憶、カッパドキアの景色や気球体験は、そんな時間限定の「家族」を思い出させる、大切な瞬間である。

私の「家族」はあの日々4人で悪戦していた頃なのだと思う。色々な思いから家族に迷惑をかけたくないとここでの滞在(ニュージーランド長男宅)(3/12〜4/13)、が終わると 松山エデンの園という自立で入る老人ホームへ入所する。 検体(愛媛大学医学部に登録済み) 後見人による骨拾い 散骨と 正式な遺言に残す。 今も書いているが、公正証書にするつもりだ。 両親の最後を見て(実母だけは認知症で施設にいるが) 何も残さず逝きたいと思うようになった。 家族は思ったようにはならないかもしれないーと言うが、可能な限り私の意志を尊重してもらいたい。






(2026.03.23)

今日は息子夫婦がタイ料理を買ってきてくれた。焼き飯のようなものや、少し牛乳っぽい風味の料理もあった。日本ではあまり馴染みのない味であるが、ニュージーランドの人々には日常的に楽しめる味である。

これまでにアレクサンドラで食べてきたテイクアウト料理を振り返ると、タイ料理以外にも、韓国料理(キムチ、ビビンバ、韓国チキン)、ベトナム料理(春巻き、フォー)、中華料理(ヌードル、天津飯、餃子、中華まん)、インド料理(カレー、ナン)、イタリア料理(ピザ、パスタ)、メキシコ料理(タコス)、そして日本料理(寿司)などがある。

なぜこれほど多国籍料理が身近にあるのか疑問に思い、調べてみると理由がわかった。ニュージーランドは長い移民の歴史を持つ国であり、19世紀からヨーロッパ系、20世紀後半以降はアジア系の移民が増加した。移民たちが持ち込んだ料理は、現地の食材や味覚に合わせて広まり、ニュージーランド人の日常食文化として定着したらしい。

このような背景があるため、アレクサンドラのような地方都市でも、手軽に多国籍料理のテイクアウトを楽しむことができる。日本人の口には少し合わない場合もあるが、新しい味にチャレンジする楽しさがあり、食事の幅を広げる機会となる。

私はやはり、寿司とは思えないーアレクサンドラの寿司が最も好きである。




(2026.03.23)

はじめに

木曜日に予定している孫のクラスでの折り紙教室の準備についてまとめておく。
今回のクラスは7歳の子ども22名を対象にしている。私たちの目的は、子どもたちに折り紙の楽しさを体験してもらい、達成感を味わってもらうこと、そして日本語や文化に少し触れてもらうことである。



使用する折り紙と進行

メインは「パクパク」で、完成形と10工程程度に分けた見本を事前に用意している。 仕上がったものも、折り紙の折り返しの中に「当たり」や簡単な動作(clap, jump など)を入れて、遊びの要素も取り入れていれて22人分に加えて予備も作り、計25個用意した。

7歳の孫はほぼ完全に作成できるので私たちのヘルパーになってくれることを期待している。

箇条書きポイント
  • 予備を含め25個作成(仕上がり)
  • 新しい折り紙からスタート。難しい工程は見せてゆっくり補助
  • 早くできた子はヘルパー役として、困っている子を補助
  • 完全でなくてもOK、できたらラッキー、笑いながらやる

時間が余れば、「飛ぶ飛行機」を使った遊びや「ぴょんぴょんガエル」も予定していり。飛行機はシンプルで確実に楽しめるため、全員で飛ばすと盛り上がる。ガエルは跳ね方に差が出るので、予備として用意している。



夫の取り組み

夫は工程ごとの英語説明を作り、パソコンやノートで練習している。
子どもたちが理解できるよう、短い英語とジェスチャーを組み合わせた説明を考えている。

箇条書きポイント
  • 簡単な英語+ジェスチャーで進行
  • 各工程ごとの言葉を用意
  • 子どもが理解しやすい工夫



私の役割

私はパクパクの見本作りや工程ごとの折り紙の整理、番号付けを担当している。
完成形も展示して、必要に応じて子どもや夫を補助する形で関わる。



名前紹介(時間が余れば)

家族の姓「石川」は、石=stone、川=riverとして紹介予定。
半紙と筆ペンで書いて見せることで、子どもたちにも意味が分かりやすく伝えられるようにする。



まとめ・工夫

今回の折り紙クラスで一番大事にしているのは、子どもたちが楽しめることである。
完成の喜びを優先し、できなくても笑える工夫を取り入れた。
時間が読めない中でも、パクパクを中心に、余裕があれば飛行機、さらに余裕があれば名前紹介を行う予定である。英語は短く、ジェスチャーで補助することを意識している。

箇条書きポイント
  • 完成する喜びを最優先
  • 難しいところは見せて補助、完璧でなくてもOK
  • 子どもたちの笑顔と楽しさを基準に進める



感想・心持ち

夫の努力に感謝しつつ、私は最小限のヘルプで十分だと考えている。
当日の結果は未知だが、準備できたことで安心感がある。折り紙クラスの準備は、私の心を落ち着ける時間にもなっている。


ポイントメモ
  • 子どもたちの笑顔を優先
  • 「できた!」「楽しい!」を基準に進める
  • 難しいところは見せて補助、完璧じゃなくてもOK

(2026.03.23)

I feel deeply exhausted, both physically and mentally, after the trouble with the children yesterday. Today again, I have no motivation and find myself lying down most of the time. I know that sleeping too much isn't good for my body, but I simply can't bring myself to move.

For the pain in my neck, I applied adhesive acupuncture patches (Bionette). I brought a reasonable amount with me, and they are fairly easy to use. However, I didn’t bring many of the fireless moxa called "Taiyo," because they are relatively expensive. Even though Taiyo feels warm and very comforting, and makes my body feel much better, they take up space and the cost is something I remain aware of. Thinking about this, I realize that while I want to take more proactive care of myself, in reality, I am not able to do so as much as I would like.

Usually, I see myself as an active and proactive person. Yet today, I notice a different side of myself-one that is less active, more dependent on others-and I feel a slight sense of negativity toward it. But this, too, is an honest reflection of how I am right now. There is no need to push myself. When the body is tired and the mind is tense, it is only natural not to feel proactive.

Relying on methods like adhesive acupuncture patches or fireless moxa—things that require little thought or effort-is not a bad thing. Warming my body and allowing myself to rest is, for now, the most important form of care and also a source of comfort for my mind.

Today, instead of judging myself, I will simply observe. The part of me that is not proactive, and the part of me that needs rest-both are a part of who I am right now.

(2026.03.23)

7歳の孫が、遊んでいるうちにかなり興奮してきた。ソファーベッドを積み上げた上から飛び降りて遊びだした。そこに4歳の子も真似をし始め、私は強い危険を感じた。口で注意しても聞く耳はない。怪我をさせてはいけない、その一心で、とっさに体を使って止めに入った。

その際、孫と私はソファーベッドに挟まれる形になった。それでも私は構わないと思った。とにかく小さな子を守りたかったからだ。

しかしその行動が、芝で見ていたお嫁さんのお母様には、「虐待」と受け取られたらしい。お嫁さんに連絡が入ったのだろう。彼女は離れたところにいて口頭で優しく注意をしていただけだ。

息子を通してその言葉を聞いたとき、私は深い衝撃を受けた。自分のしたことは、危険を止めるための行動だったという確信があるからだ。にもかかわらず謝罪を求められ、私は初めてそれを拒否した。
ニュージーランドと日本では 虐待 の定義が違うらしことを聞いてもそれは変わらなかった。

これまでの私は、どんな場面でも自分が我慢すればいいと思ってきた。波風を立てないことが大切だと信じていた。

けれど今回、はっきりとわかった。
我慢し続けることは、自分を守ることにはならない。

思い返せば、過去の滞在でも心に残る出来事があった。体調を崩して動けなかったとき、お嫁さんから「みんなのストレスだから荷物まとめて今すぐ出て行け」と言われたこと。

そして今回、2番目の孫のバースデーパーティーに体調不良でおy出ないと伝えたとき、息子から「今すぐ出て行け」と言われたこと。

私は、この言葉を受けて吹き出しそうになってしまった。そんなにすぐに飛行機のチケットは取れない。 そう言う状況を知っていたからこそ、これからの自分の生活と、息子や家族への影響を考え、看取りやその後の後始末までお願いできる松山エデンの園に入所する決心をしたのだ。 全て正式な遺言にしてあるが、松山エデンの園に入れば書き直しをするもりである。 夫や私の両親の生き方や最期を見て徐々にそう言う考え方になった。

孫たちのことは、今でも大切に思っている。
けれど、自分の心と体をすり減らしてまで関わることは、もうできない。

今回の出来事は、私にとってひとつの区切りになったのだと思う。

これからは、無理をしない。
自分の感覚を大切にして生きていく。

それが、今回私が得た一番大きな気づきである。

(2026.03.23)

ニュージーランドの文化に合わせること自体は、それほど苦ではない。例えば、食事の作法や日常の生活習慣の細かい違いも、多少タイミングが合わなかったり、指摘を受けたりしても自然に順応できる。しかし、それだけでは十分ではない。息子やその奥さんには、「日本ではこうする」という文化やマナーも同時に伝える必要があると思う。

私が直面した具体例としては、夜中にトイレの水を流すだけで目が覚めるほど音に敏感な家庭環境や、孫を守るために立てかけたソファーベッドを二つで挟んで安全を確保したことが虐待だと非難されることなどがある。また、息子は「口に物を入れたまま喋るな」と言う一方で、奥さんが出してくれた食べ物に対しては、そのタイミングで「サンキュー、ありがとう」と言えと求められる。これは同時に守ることができず、心理的に大きな負担となる。表面的な行動マナーだけで済むならまだしも、生活音や心理的な許容範囲といった、精神的な負担に関わるマナーは非常に難しい問題である。

息子夫婦の子どもたちは、日本とニュージーランド、二つの文化を受け継いでいる。そのことを理解し、家庭内で尊重し合うことは簡単ではない。しかし、文化理解とは、単に相手に合わせることではなく、両方の文化を尊重し、柔軟に調整することである。表面的な順応だけではなく、心理的安全や倫理観を守る判断も含めた文化のバランスが、家族関係を健全に保つ鍵である。

正直なところ、散々異文化理解と取り組み、生徒を沢山指導してきて退職した。 今は一人静かに、日本でお茶漬けを食べる時間が最高だと思っている。

(2026.03.22)

昨日の出来事を思い出すと、今でも強い怒りが込み上げてくる。

あのとき、本当に危なかった。7歳の子が高く組んだソファーから飛び降り、その様子を見て4歳の子が真似をしようとしていた。あのままでは、頭を打つかもしれない、大きな怪我につながるかもしれないと、強く感じた。

私は何度も止めようとした。でも、言葉はまったく届かなかった。興奮している子どもに、優しい声だけでは止まらない状況だった。

だから、私は体を使って止めた。それしか方法がないと思った。一瞬の判断だった。あの場で何もしなければ、取り返しのつかないことになるかもしれないと、本気で思ったからだ。

それなのに、その行動が「虐待かもしれない」と言われた。その言葉を聞いた瞬間、体の中がひっくり返るような怒りが湧いた。私は傷つけるためにやったのではない。守るためにやったのだ。

日本で育ってきた自分にとって、「虐待」という言葉は、明らかに子どもを傷つける行為、決して許されない深刻なものを指す。だからこそ、その言葉を自分に向けられたことに、強い拒絶感を覚えた。

一方で、ニュージーランドでは、子どもに対する関わりの中で「危険になりうる行為」や「強い制止」も含めて、より広い意味で「虐待」と捉えられることがあると知った。問題が起きる前の段階から介入し、子どもを守ろうとする考え方が強い社会なのだと思う。

つまり、同じ「止める」という行為でも、その方法や見え方によって評価が変わる。その違いが、今回の出来事の背景にあったのだと感じている。

それでも私は、あのときの自分の判断が間違っていたとは思えない。目の前で小さな子が危険にさらされようとしていた。その状況で、ただ見ていることはできなかった。

むしろ、あの場で優しく言葉をかけるだけで止められなかった状況の方に、強い苛立ちを感じている。危険が目の前にあるのに、なぜ止めないのか、なぜ本気で止めようとしないのか、そのことの方が理解できなかった。

謝るように言われたが、私は拒否した。何に謝れというのか? 自分の行動が間違っていたとは思えないからだ。怖い思いをさせた可能性はあるかもしれない。それでも、あのとき止めなければならなかったという判断は変わらない。

今日は、その出来事から距離を取りたくて、ほとんどの時間を眠って過ごした。考えたくない気持ちもあったし、まずは心と体を休めることが必要だと感じたからだ。

孫娘の誕生日パーティーには少しだけ顔を出した。長くいる気持ちにはなれなかったが、それでもその場に行けたことは、自分の中でひとつの区切りのようにも感じた。

今は、もう一度ゆっくり眠って、明日からはできるだけ普段の生活に戻りたいと思っている。何事もなかったように、というのは難しいかもしれない。それでも、静かに日常に戻っていきたい。

私は、あのときできる限りのことをした。守るべきものを守ろうとした。この気持ちは、簡単には変えられない。それでも、少しずつ気持ちを整えながら、またいつもの自分に戻っていこうと思う。



参考:ニュージーランドと日本の児童虐待事情

件数
  • ニュージーランド:年間通報 約80,000件、虐待と認定 約12,800人(人口 約500万人)
  • 日本:身体的虐待 約52,535件、ネグレクト 約35,612件、性的虐待 約2,520件、合計 20万件以上
年齢
  • ニュージーランド:約半数が5歳未満
  • 日本:乳児期(0歳)と幼児〜小学生が多い
種類・特徴
  • ニュージーランド:心理的虐待・環境リスクも含む。性的虐待割合が高い。予防重視の社会
  • 日本:ネグレクトが最多、次に身体的虐待。心理的虐待も増加。事後対応が中心
社会的背景
  • ニュージーランド:疑わしい場合は早期介入。止め方や見え方も評価される
  • 日本:家庭内の問題と見られやすく、通報・介入が遅れることがある

(2026.03.22)

昨日、4歳の子を守るために7歳の子を叱った。
命を守ろうとしただけなのに、義理の家族から「児童虐待だ」と言われ、非常に腹が立った。
自分が正しいと思ってやった行動が、こんなふうに誤解されるなんて……。

そのせいで、夜も眠れず、睡眠薬でなんとか寝るしかなかった。
心も体もフラフラで、疲れが抜けないまま今日を迎えた。

今日は孫娘の誕生日パーティー。
息子に「割り切ってパーティーに出なさい」と言われ、出ないなら出て行けとも言われた。
葛藤が大きかったけれど、すぐに出て行ける場所もないので、仕方なく出席することにした。

気分は最悪で、心も重い。
それでも、静かに座り、必要以上に話さず、時間が過ぎるのを待つことにする。
仕方ないと割り切るのは悲しいけれど、今は安全に過ごすことが最優先。
昨日の出来事も今日の葛藤も、自分の心と体を守るために最善を尽くした結果だ。

家族とは何だろう?

(2026.03.22)

過去に撮った虹の空の写真を思い出した。虹の空は、心を温かくし、夢や希望を運んでくれるように感じる空である。

しかし、昨日はとても辛いことがあった。人間関係での悩みで、自分の感情のコントロールもうまくいかず、心がざわついていた。ふと外を見ると、夕焼けが美しかったので、写真を撮りに出かけた。雲は低く垂れ、家の上や下を覆っていたが、その上に赤い夕焼けが広がっていた。

「一日が終わる。どんなことがあっても一日が終わる。また明日が来るのだ」と思うと、心が少し落ち着いたのである。

空にはいろいろな姿がある。真っ青な空、雨がザーザー降る空、虹の空、ギラギラ輝く太陽の空、雲がいっぱいの空。そして夕焼けに染まり真っ暗になる空、星が輝く空である。

空は、私たちに希望や安心を与えてくれる存在であるかもしれない。虹の空も、夕焼けの空も、私にそう語りかけてくれるのである。






(2026.03.22)

今日は久しぶりに孫二人の世話をした。 息子夫婦は従兄弟の結婚式に出かけた。
最初は穏やかであったが、外でトラポリンを始めかなり3人とも興奮状態だった。室内へ入っても、7歳の孫が高いところからジャンプする危険な遊びを始め、5歳の孫も巻き込まれる状況となった。さらに、義理の娘の妹の子である4歳の男の子が華奢で、危険に巻き込まれそうになった。彼は義理の娘のお母さんと一緒に遊びに来ていた。私は責任を感じ、瞬時に判断して危険を防ぐために行動した。そのとき、7歳の孫は泣き、5歳の孫は私を睨んだ。

その行動を見ていたのは義理の娘のお母さんである。彼女は義理の娘に「虐待では」と伝えた。私はそれで済むと思っていた。しかし、そのことが息子と義理の娘の間で議論となり、私の行動が虐待ではないかという話になったり、「一生懸命やってくれた」と評価されたりした。義理の娘のお母さんも、最初は虐待だと言っていたが、話の流れで「よくやってくれた」となったりと、状況が揺れた。

私は飛行機で帰ろうかとも考えたが、まずチケットが取れるかどうかわからない。クイーンズタウンまでの足がなく、タクシーもないため、どうするか思案している。心の中では疲労と苛立ちが混ざっている。

それでも、私の目的は明確である。孫二人と、危険にさらされる可能性があった周囲の子どもを守ることであった。誰も傷つけずに収めることは難しかったが、私はできる限りのことをしたと思う。

今日の出来事をノートに残すことで、自分の気持ちを整理し、少し落ち着きを取り戻したい。怒り、恐怖、疲労もすべて、この一日の記録として残す。

子育ては忍耐が必要だったことを改めて思い出している。

(2026.03.21)

長い間、人との関わりの中で、私はできるだけ相手に合わせ、場の空気を読み、文化や礼儀を大切にして生きてきた。海外でも、日本でも、その場その場で「郷に入っては郷に従え」と思い、違いを受け入れようとしてきた。

けれども、年齢を重ねる中で、少しずつ自分の中に変化が生まれている。
人と関わること自体が嫌になったわけではない。ただ、これまでのように深く関わり、気を使い続けることに、正直なところ疲れを感じるようになった。

ここニュージーランドの家族の集まりや日常の会話の中でも、言葉や文化の違いに戸惑うことがある。良かれと思って大切にされているマナーも、時には自分にとっては負担になることがある。相手に悪気がないこともわかっている。それでも、自分のペースとは違うところで無理を続けることに、少しずつ限界を感じている。

また、日本の中でも、人の集まりには独特の空気がある。何気ない会話の裏にある評価や、見えないところでのやり取りに、心が疲れてしまうこともあった。そうした場面に対して、これまではできるだけ波風を立てないように振る舞ってきたが、それもまた小さな積み重ねとして心に残っている。特に、女性の集まりは時に恐ろしい。

だからこそ、これからは少しだけ生き方を変えてみようと思う。
人間関係を断つわけではない。挨拶をし、必要なやり取りをし、相手を尊重する気持ちはこれからも大切にしたい。ただ、それ以上に無理をして関わりを深めようとは思わない。

「浅く広く」という関係も、ひとつの健やかな形だと思う。
すべての人と分かり合う必要はなく、自分にとって心地よい距離を保つことも大切にしたい。

帰国後は5月より松山エデンの園での生活が待っている。
これからは、自分が好きなことや、やりたいことに、もう少し素直に時間とエネルギーを使っていきたい。静かな時間や、一人で過ごす時間も、決して後ろ向きなものではなく、自分を整えるための大切な時間だと感じている。

無理をしないこと。
背伸びをしないこと。
そして、自分の感覚を大切にすること。

それが、これからの私の望む在り方である。

(2026.03.21)

戦争を身近に感じる今の時代、ふと色々なことを考える。ニュージーランドに来て、この国にも徴兵制がないことを改めて実感した。日本も徴兵制はないが、自衛隊がある。

それぞれの国はどうやって自分の国を守り、攻撃を受けたときにどう戦うのだろうか。そんなことをぼんやりと考える。

世界を見渡すと、徴兵制のある国とない国は大きく分かれているようだ。最新のデータでは、 約68カ国で徴兵制(義務的な軍事サービス)が実施されている のに対し、 約93カ国は徴兵制がなく志願制の軍隊を採用している とされる。※国によって数字には幅があるが、徴兵制がある国とない国が世界の中で混在していることは確かである。

徴兵制のある国の例
  • フィンランド:18歳以上の男性は全員義務的に兵役に服し、最短で約165日、長い場合は約347日間の軍務。
  • スイス:成人男性は兵役に服し、任期後は予備役として活動。市民軍モデルを採用。
  • デンマーク:男性は義務的だが、2025年からは女性も対象となる予定。
  • アゼルバイジャン:18歳以上の健康な男性が12〜18か月の兵役義務。
  • エリトリア:男女とも徴兵制があり、長期の国民サービスとなる場合もある。
  • スウェーデン:一度廃止した後、2017年に再導入し男女両方が対象。
地域によっては、政治的・地政学的な緊張が背景にあり、徴兵制を新たに議論・導入する国もある(ラトビア、クロアチアなど)。

徴兵制のない国の例
  • ニュージーランド
  • 日本(自衛隊は志願制)
  • オーストラリア、カナダ、イギリス、アメリカ など多くの西側諸国は志願制を採用
どちらが良い悪いではなく、歴史や地政学的な状況、国民意識などによって選択が異なる。

徴兵制のある国では、若者が一時的に軍事訓練を経験することで国民全体の防衛意識を育む役割がある。一方、徴兵制のない国では志願して参加するため、長期的なキャリアとして続けやすいという特徴もある。

ニュースを見ていると、何が本当の情報なのか分からなくなることもある。平和を維持するのはなぜこんなにも難しいのだろうか、と考えてしまう。いつの時代も誰かが犠牲になる。とても辛いことだが、その現実から目をそらしてはいけないと思う。

徴兵制という言葉を通して、ニュージーランドや日本、そして世界の国々の状況を考えると、とても難しい問題だと改めて思う。どう考えるべきなのだろうか、と自分自身に問いかけ続けている。

(2026.03.21)

息子夫婦が初めて建てた家は、最初の子どもが生まれるので8年程前に出来上がった。私たちには十分広く思えたが、音に敏感な妻のために離れがあった方がよいこと、三人目の子どもが生まれることもあり、前の家からそう遠くない場所にかなり広い家を2、3年前に購入した。

その家には完全な別棟の離れがあり、シャワーやトイレ、簡単なキッチンも備え付けられている。私たちは、1ヶ月の滞在も大して気兼ねなく過ごすことができ、とてもほっとする。彼らのリビングから見える庭には、樹齢何百年かと思われる立派な松の木が2本あり、その横にはトランポリンや果樹、孫のゴルフ練習場などが広がっている。広い庭のおかげで、生活の一つひとつがのびのびと感じられる。

さらに、暖炉の薪置き場には砕いた薪もあり、冷え込んだ朝には暖炉に火が入って、とても暖かい。キッチンも印象的で、冷蔵庫も大きく、収納スペースや食器洗い機も日本の家庭の何倍もあるようだ。1日中使った食器を夜に洗い、朝に片付ける、そんな暮らしである。私たちも家を建てた際、家庭用の大きな食洗機(当時は業務用のメーカーが家庭用も作っていた)を使っていたが、現在のものはほとんど入らず、結局使っていない。改めて台所の広さの重要さを実感している。

バスルームやトイレも充実しており、主寝室である息子夫婦の部屋にはもちろんついている。孫たちの部屋にはそれぞれないが、孫娘の隣と孫息子二人の間に1つずつあり、さらに客室用やシャワールームもあるため、日本の感覚とはかなり違っている。

ニュージーランドと日本はどちらも島国で国土の広さもさほど変わらないが、家の大きさや庭の広さは驚くほど違う。
人口密度の違いだろうか? 日本の家に来た孫たちは狭さに驚くが、私たちの三階建ての家では、エレベーターや階段で遊ぶのが大好きである。狭さにも狭さなりの面白さがあるようだ。

広さや設備の違いを通して、文化や生活感覚の違いをしみじみと感じる、そんな日々である。










(2026.03.21)

息子夫婦の結婚記念日は三月十七日である。
彼らは今年も二人でランチに出かけた。 義理の娘は少しドレスアップしていた。
その日、義理の娘に「お義母さんたちの結婚記念日も三月なんですよね」と言われた。

そう、私たちの結婚記念日は三月二十一日である。
当時は春分の日で祝日だった。

私たちは教員同士の結婚で、その時期がいちばん休みを取りやすかった。
ちょうど年度末でもあり、私は大阪府から静岡県へ移動する予定もあった。
そうした事情が重なり、その日に決めたのである。

しかし、年度末は次の年の準備や、子どもたちの新しい学校・新しい学年への支度に追われ、三月はとても忙しい時期であった。
そのため、結婚記念日を思い出すこともあまりなく、祝うこともほとんどなかった。

二人で働いていた頃、結婚記念日を祝った記憶はほとんどない。
結婚指輪も、夫は太って外れなくなることを気にして外し、私は痩せて抜けてしまうために外した。
金庫に入れておいたはずであるが、今となってはどこへ行ったのかも分からない。

振り返れば、現役で働いていた頃は、まるで闘いの中にいたような日々であった。

義理の娘からその話があったので、昨日、三月二十日に夫に「明日は何の日か覚えているか」と尋ねてみた。
今年は春分の日が三月二十日で、もはや三月二十一日ではないことも伝えたうえで、それでもなお聞いてみたのである。

すると彼はしばらく考え込み、やがて「ああ、人事の発表が新聞に載る日だな」と言った。

私は「ああ、もうこれはだめだ」と思い、「あなたとは話したくない」と言って、その話は終わった。

そして今朝、私のほうから「今日は結婚記念日だよ。覚えていなかったでしょう」と伝えると、彼は「悪かったなあ」とだけ言った。

今日は、息子たちは彼らの従兄弟の結婚式に出席するため、八ヶ月の子は連れていくが、五歳と七歳の子を預かることになり、四人での生活である。
とても結婚記念日とはほど遠い一日になるであろう。

それでも、退職後には一度か二度、夫が近場の熱海や箱根へ、食事と温泉の小さな旅に連れて行ってくれたことがある。
そのささやかな時間もまた、私たちの歩んできた年月の一部である。

こういう結婚は成功というのか、失敗というのかー謎のままである。

(2026.03.21)

私たちは2026年3月12日から4月13日までニュージーランドのアレクサンドラの長男宅を訪問している。南半球のニュージーランドは日本と季節が逆で、3月は夏から秋に移る時期である。しかし実際には昼間は日差しで暖かくなることもあるが、朝晩は冷え込み、風が強いと体感温度はぐっと低くなる。そのため、何を持って行くかで毎回悩むのである。

持参した服は以下の通りである。
  • ユニクロのヒートテック(インナー)
  • ハイネックや丸首の長袖
  • ユニクロのタイツや下着
  • パンツ
  • ダウンや防風ジャケット
  • 必要に応じて春用カイロ(現地で購入)

昼間はヒートテックと長袖で十分な場合もあったが、朝晩の冷え込みや風の強い日には、上からジャケットやダウンを着る必要があった。

旅が始まって約一週間、夫は「メリノウール(Merino Wool)」という素材を調べてきた。夫曰く、ニュージーランドではよく使われており暖かい素材であるという。そこで夫は息子に尋ねたところ、息子は「もう着ないメリノウールがある」と言い、義理の娘から私たちに送ってくれたのである。

メリノウールは次の特徴がある。
  • 思っていたほど重くない。薄手であるのに暖かい。
  • ヒートテックより暖かく感じる。
  • 半袖+長袖のメリノウールを重ねると、さらに暖かい。
  • 朝晩の冷えや風に強く、自然な暖かさを感じる。

天然素材であるため、体に優しく、快適である。

ヒートテックとの違いは以下の通りである。

ヒートテックとメリノウールの比較(note用)
素材
  • ヒートテック:化学繊維
  • メリノウール:天然ウール(メリノ種の羊毛)
暖かさ
  • ヒートテック:軽く暖かい
  • メリノウール:湿気があっても暖かい、自然な保温力がある
蒸れ
  • ヒートテック:蒸れやすい
  • メリノウール:蒸れにくい
臭い
  • ヒートテック:出やすい
  • メリノウール:出にくい
肌触り
  • ヒートテック:伸びが良くフィット感がある
  • メリノウール:柔らかく肌に優しい
価格
  • ヒートテック:安価(数千円程度)
  • メリノウール:やや高価(1万円~数万円程度、ブランドや厚さによる)

ヒートテックは軽く扱いやすい利点がある。メリノウールは湿気や長時間の着用でも快適である点が大きな違いである。

メリノウール製品の価格は用途やブランドによって異なる。
  • ベースレイヤー(肌着・トップス):約8,000~25,000円
  • ミドルレイヤー(厚手・保温用):約15,000~40,000円以上
  • 高性能モデル:2~3万円以上

ヒートテックと比べると高価であるが、快適性や機能性は段違いである。購入は日本でも可能である。
  • 登山・アウトドア用品店(モンベル、パタゴニア、ノースフェイスなど)
  • 量販店やスポーツ用品店
  • ネット通販(Amazon、楽天など)

ヒートテックをインナーに着て、その上からメリノウールを重ねる方法は非常に快適である。
  • ヒートテック:軽くフィットする
  • メリノウール:自然の断熱で暖かさを保つ

重ね着することで、昼間の暖かさや朝晩の冷え、風の強い日にも対応可能である。

まとめると以下である。
  • 私たちは旅先で朝晩の冷えや風の強さに対応するため、ヒートテックを中心に重ね着でやりくりしていた。
  • メリノウールを長男と義理の娘から譲ってもらい、着てみるととても快適で暖かい。
  • ヒートテックよりも湿気やにおいに強く、長時間の外出にも向いている。
  • ヒートテック+メリノウールの重ね着は相性が良く、旅先の服装に非常に役立つ。
  • メリノウールは値段が高めであるが、日本でも入手可能である。

来年、もしもう一度この地に来ることがあっても、持ち物にはあまり悩まなくてすみそうだ。
そう思うと、元気で長生きして、孫の成長を見たいと改めて願う自分がいた。

(2026.03.20)

ニュージーランドに来て、すでに一週間が経過した。
今回は第三子の孫が生まれたこともあり、多忙ではある。 しかし、上の子のプールレッスンを見にいくついでに夫と2人で4泳法などフリーで泳ぎ、息子の家までゆっくりと歩いて帰宅する時間を持つことができた。
プールからの帰り道、ふと空を見上げると、電柱も電線も見当たらないことに気づいたのである。

住宅街や町中を歩きながら、そのことを何度も確認した。
建物の間を横切る電線も、道路沿いに立つ電柱も見えない。
日本では当たり前の光景であるが、ここでは違うのである。
おそらく、ほとんどの電線は地下に埋められているのだろう。



過去との意識の違い

思い返すと、息子は13歳で ニュープリモスボーイズハイスクール に留学し、そのまま卒業した。
その後、 オタゴ大学Health Sciense から 歯学部へ進学した。
当時は空や電柱のことに注意を向けることはなかったと思う。
日本の街並みに慣れていた私たちにとって、電柱や電線は日常の一部であり、特に意識することはなかった。



都市部と地方での違い

ニュージーランドの街を歩くと、場所によって電線や電柱の印象が大きく異なることに気づく。(確認に調べたことも含む。)
  • 大都市(オークランド、ウェリントン)
     古い住宅街や街の中心部では電柱や電線が存在する。
     日本ほど密集しているわけではないが、視界に入ることはある。
  • 地方・郊外(アレクサンドラなど)
     電線は地下に埋設されることが多く、ほとんど目立たない。
     空が広く、建物も低いため、電線の存在を意識することは少ないのである。



小さな気づきの意味

景色や街の「当たり前」と思っていたものが、文化や場所によって変わることに改めて気づくことができる。
子どものころや若いころには意識しなかったものも、年齢や経験を重ねることで見えるようになるのかもしれない。
こうした小さな気づきが、日常の見え方や心の動きに新しい視点を与えてくれる。



ニュージーランドでの散歩は、ただの移動ではなく、目に見えない文化や生活の違いを感じる時間であった。
次に空を見上げるとき、私は電柱や電線のことも意識するであろう。
日常の景色の中に、小さな発見を探しながら歩く楽しさを改めて知ったのである。
電柱や電線のない空は広々としていて、その青さが際立ち、とても美しいと感じる。

(2026.03.20)

息子夫婦は長い学びの道を歩んできた。
上の子は7歳、結婚して9年ほどになる。
学生時代から同じ学部で学び、長く厳しい勉強を共にしてきた。
その歩みを思い出すきっかけとなったのが、**静脈内鎮静(Intravenous sedation, IV sedation)**の研修であった。

痛みに敏感な子どもに対して、静脈に注射して鎮静してから治療を行う手法であるが、子どもだけでなく、大人でも痛みに敏感な人や不安の強い患者に用いられるそうである。
息子と義理の娘は研修のため、夫婦でオークランドへ土日に出かけることになり、その間、私が孫たちの面倒を見ることになった。

この出来事をきっかけに、息子の歩みやニュージーランドの教育制度について整理して振り返る機会となった。



高校での学習とNCEA

息子は13歳でニュージーランドの ニュープリモスボーイズハイスクール に留学した。(北島)
高校時代、ニュージーランドでは NCEA(National Certificate of Educational Achievement) という制度に従って学習していた。
NCEAはレベル1(Year 11)、レベル2(Year 12)、レベル3(Year 13)に分かれ、科目ごとに単位を取得する仕組みである。
  • レベル1〜3の学習内容と成績が、大学入学資格に影響する
  • 生徒の希望や進路は尊重され、農場を継ぐ、職業に就くなどの場合は大学進学が必須ではない
  • この柔軟な制度により、生徒は自分の将来や興味に応じて学習計画を立てることができるのである



大学への進学希望と出願

NCEAを修了した後、息子は大学進学を希望した。
ニュージーランドの大学入学は日本のような一発試験方式ではなく、成績を基に希望大学に出願する柔軟な制度である。
  • 高校時代の成績(NCEAレベル3)に基づき出願する
  • 希望学部やコースごとに入学条件が設定される
  • 複数の大学に同時に出願可能である
  • 息子はオタゴ大学の Health Sciences に入学したが、オーストラリアの大学にも合格していた。



学部・専攻の選び方

大学に入ってからの学部選択は、文系と理系・健康系で大きく異なる。
  • 文系(法学部、文学部など)
  • 入学時点で学部を決定する
  • 希望する学部に出願し、合格すればその学部で学ぶ
  • 理系・健康科学系(医学部、歯学部、Physiologyなど)
  • まず共通の基礎課程(例:Health Sciences)に入学する
  • 1〜2年の学習成績や選抜試験により最終的な学部・専攻を決定する
  • 息子の場合も、まずHealth Sciencesで基礎を学び、2年後に希望と成績により 歯学部 に進学した
理系・健康系の学部は、入学後に成績と希望をもとに選択可能であることが特徴である。



息子の進学経緯のまとめ
  1. 高校で NCEAレベル1〜3 を修了した
  2. 大学進学を希望し、オタゴ大学 Health Sciences に入学した
  3. 2年間の基礎課程を修了後、希望と成績により 歯学部 に進学した
  4. 現在は歯科医師として歯科医院を開業している
この経緯から、ニュージーランドの高校・大学制度は、生徒の希望と成績を尊重し、柔軟に進路を決められる仕組みであることがよくわかる。 また、息子夫婦の学びの道のりを振り返ると、学ぶ期間の長さと努力の大きさが改めて実感されるのである。

(2026.03.20)

私は祖母として、毎年この国を訪れ、1ヶ月程ではあるけれど、子どもたちと一緒に過ごしている。

今日は、8か月の男の子と長い時間を一緒に過ごした。

何もできないように見えるのに、
彼はずっと周りを見ている。
音のする方へ顔を向け、
人の動きに目をとめ、
手にしたものを口に入れて、確かめている。

「見ている」というより、
「感じ取っている」と言った方が近いかもしれない。

人はこうやって、世界を知り始めるのだろう。



夕方になると、7歳の男の子と5歳の女の子が帰ってきた。

学校と保育園から戻ったばかりの二人は、
何かを話しているようで、話していない。
出来事の断片のような言葉が、ぽつぽつとこぼれる。

でもその前に、まず「お腹がすいた」が先にある。

食べて、少し落ち着いて、
それから宿題や、オンラインの日本語レッスンの準備が始まる。

一日の終わりに、また「やること」が待っている。



七歳の男の子は、ピアノの宿題を弾いて聞かせてくれた。
一つ一つ確かめるように、丁寧に鍵盤に向かっている。

その横で、五歳の女の子も同じようにやりたがる。
けれど、まだ思うようにはできない。

うまくいかないもどかしさから、
気持ちがあふれて、パニックのようになることもある。

それでも彼女は、やりたいのだ。



その女の子は、おしゃれがとても好きだ。
今日はお母さんと一緒に塗ったネイルを、嬉しそうに見せてくれた。

小さな指先に、自分の「好き」がしっかりとある。



8か月の子は、ただ感じている。
5歳の子は、感情のままに動いている。
7歳の子は、やるべきことの中で頑張っている。

それぞれが、同じ一日の中にいながら、
まったく違う時間を生きている。



子どもはどうやって育つのだろう。

教えられて育つのか、
経験して育つのか、
それとも、ただ時間の中で自然に育っていくのか。



見ていると、答えは一つではないように思う。

ただ確かなのは、
どの子もその時その時を、ちゃんと生きているということだ。



大人はつい、何かをさせたり、整えたり、急がせたりする。
けれど本当は、

少し離れて見ていると、
子どもは自分の力で、少しずつ前に進んでいる。



祖母としてできることは多くはない。
けれど、こうして見ている時間の中で、

それぞれの子どもが持っているものを、
そのまま感じていたいと思う。



そんなことを思いながら、
今日も三人の姿を、静かに見ていた。

(2026.03.20)

今日、近くの公営プールで、子どもたちの水泳レッスンを見学した。着衣レッスンは2回目の見学である。子どもたちは普段の洋服を着たままプールに入り、泳ぐ練習や浮く練習をしていた。日本ではあまり見ないスタイルであり、何度見ても印象的であった。

しかし、レッスンの翌日にプールは突然閉鎖された。理由は、水中に糞便が浮いてしまったためらしい。日本ではあまり聞いたことがない出来事であり、正直かなり驚いた。

閉鎖は約4時間程続き、その間にプール水の消毒が行われた。作業はまず、浮いている糞便を網で取り除き、次に塩素という水の中の細菌やウイルスを殺して安全にする化学物質の濃度を一時的に上げて、水全体をしっかり消毒する。塩素は私たちの日常生活でも使われており、水道水の消毒や漂白剤、トイレやキッチンの掃除など、身の回りの衛生を守る働きがある。水が十分消毒され、安全が確認された後で、プールは再び開放された。

普段は当たり前のように見ているプールも、こうした予期せぬ事態に備え、安全管理がとても厳格に行われていることを実感した。今回の体験を通して、プールでの衛生管理や子どもたちの安全に対する意識が、ニュージーランドでは非常に高いことを改めて感じた。そして、着衣での水泳レッスンも、いざという時の水への耐性や安全対策の一環であると考えさせられた。

(2026.03.20)

ニュージーランドに来て慣れてはいるもののがっかりすることのひとつは、トイレの便座の冷たさである。日本では温かいのが当たり前であり、温かく迎えられていない感覚を受けることがある。しかし今回は便座の話は軽く触れる程度にとどめ、主にナプキン文化について考えたい。



ナプキン文化の違い

アメリカでの留学生活やホームステイを通して、私は紙ナプキンの重要性を強く意識した。家庭でも食事の際には必ずナプキンが置かれ、膝や首にかけて使用する人もいた。ナプキンを置くお手伝いをしたこともある。子どもたちも手を汚すことが多く、ナプキンがあると非常に便利である。紙ナプキンは衛生面だけでなく、マナーの象徴としても機能していた。

一方、息子がニュージーランドで生活していると、家庭でもレストランでもナプキンはほとんど置かれない。手で食べる料理もあるが、アメリカで見たように必須のものとして使われているわけではない。私の感覚では、食べ物自体がそんなに大きく違うとは思えず、便利なのにどうして使わないのだろうという疑問がわく。



なぜ違うのか
この違いにはいくつかの理由が考えられると思う。
  1. 文化的価値観の差
    • アメリカ:紙ナプキン=マナーや清潔の象徴。家庭での教育から身につく。
    • ニュージーランド:紙ナプキン=必要に応じて使う補助的な道具。生活の必需品ではない。
    • つまり、紙ナプキンに対する「文化的意味」が違う。
  2. 紙やナプキンの価格の影響
    • ニュージーランドでは紙の値段が日本やアメリカより少し高い傾向にあるらしい。
    • 高価であるがゆえに、必要な人だけが使うという意識が働き、必ず置くという習慣になりにくい可能性がある。
  3. 食事習慣との関係は限定的
    • 食べるものの種類ではそこまで大きな違いはない。
    • ナプキンの使用習慣は、食事内容よりも 文化的・生活習慣・教育の差 に左右されていると思われる。



まとめ
  • 同じ英語圏でも、紙ナプキンの使われ方には大きな差がある。
  • 違いの理由は食べ物ではなく、文化や教育、紙の価値観(価格や必需性)にある。
  • アメリカでは「家庭でも必須」、ニュージーランドでは「必要な人だけ使用」という違いが顕著である。
  • 紙一枚の文化差から、国ごとの生活習慣や文化の違いを読み取ることができる。

(2026.03.20)

私が初めてニュージーランドを訪れバスに乗ったのは、息子が13歳頃、つまり今からおよそ25年前である。息子は北島西部の町で留学生活をしており、その頃彼の友人宅へホームステイに行くためにバスに乗ったとき、私は初めて 裸足でバスに乗ってくる人を何人も見て驚いた。日本では考えられない光景であり、非常に印象深い体験であった。

裸足文化の体験と観察

その後、ニュージーランドの様々な場所で、裸足で歩く人や裸足で活動する人を目にすることがあった。特に北島西部や小さな町の海沿いでは、カジュアルに裸足で日常生活を過ごす人が少なくなかった。

息子が成人して北東地域を訪れるようになったときは、都市部や南東の地域では裸足の人を見ることはほとんどなかった。都市化や環境の違い、気候の差も影響していると考えられる。

一方で、子どもたちは裸足で遊ぶことを好む。庭や公園、海辺などでは自由に裸足で駆け回る光景が見られ、裸足で過ごすことが快適で自然なことと認識されていることがわかる。子どもにとって裸足で遊ぶことは、身体の感覚を育て、自然との接触を楽しむ文化的習慣でもある。



マオリ文化との関わり

ニュージーランドの先住民族であるマオリは、ポリネシア系の文化を持ち、独自の言語や伝統、生活様式を守ってきた民族である。マオリ文化では自然とのつながりや身体感覚を大切にする生活習慣があり、裸足で過ごすこともその一環として見られることがある。とはいえ、裸足文化はマオリだけのものではなく、ニュージーランド全体の人々の生活にも広がっている。



背景文化
  1. 生活スタイル・文化的価値観
    • ニュージーランドのライフスタイルは比較的カジュアルでアウトドア志向が強く、裸足で歩くことが心理的に受け入れられやすい。
    • 靴を履かなくても日常生活に支障がない環境が整っており、郊外や海沿いでは裸足で過ごすことが普通とされる。
  2. 気候・自然環境
    • 暖かい季節や海辺の地域では裸足が快適であり、危険な動物や危険物が少ないことも安心して裸足で歩ける理由となっている。
  3. 地域差・都市差
    • 北島西部や海沿いの小さな町では、裸足でバスや街中を歩く人を目にすることがある。
    • 南東地域や都市部では、裸足の人は稀である。
    • この差は地域・生活スタイル・気候・場面によるものであり、民族差だけで説明できるものではない。
  4. 子どもへの影響
    • 子どもは裸足で遊ぶことを好み、遊びや運動を通じて身体感覚や自然との接触を楽しむ文化が残っている。
    • 家庭や学校の教育として、裸足での活動が肯定されることもある。



まとめ
  • 25年前、北島西部のバスで裸足の人を見て驚いた体験は、ニュージーランドの一部地域に根付く 裸足文化の象徴的光景 であった。
  • 地域によって裸足の人を見かける頻度は大きく異なる。北島西部や海沿いでは見かけやすく、都市部や南東ではほとんど見られない。
  • 子どもたちは裸足で遊ぶことを好み、遊びや学びの一環として裸足文化が今も息づいている。
  • 裸足文化は、民族差だけでなく 地域・生活スタイル・環境・季節 によって左右される生活習慣である。
  • マオリ文化もこの裸足文化に影響を与えているが、ニュージーランド全体で受け入れられている習慣である。

(2026.03.20)

私の母は非常に几帳面で、洗濯物もミリ単位でそろうように丁寧に干していた。とても時間がかかり、子ども心に「洗濯って大変だな」と感じた。

学生時代、寮で自分の洗濯をすることになったとき、無意識に母のやり方を真似していた。洗濯物を干すことは、当たり前の行為だった。

大学時代、初めてホームステイさせていただいたご家庭では洗濯物を干すということがなかった。太陽がさんさんと輝いていても、ご近所さんも皆乾燥機を使っていた。大学院でアメリカへ1年間留学したときも洗濯物はほとんど干さず、みんな乾燥機を使っていた。「干せば気持ちいいのにな」と思ったが、洗濯物は乾燥機で乾かすのが当たり前だった。

その後、教師としてカナダやオーストラリアへ生徒を引率したときは、洗濯物を外に干していた。洗濯ロープがあり、自然に乾かしていたのだ。モロッコのホームステイ先でも同様だった。乾燥機は使われていなかった。

日本にも乾燥機一体型洗濯機が導入され、私たちも子どもができてから便利さを考え購入した。しかし、滅多に乾燥機は使わず、ほとんど外に干す。外に干した方が気持ちがよく、しわくちゃになりにくい。雨が続くときだけ乾燥機を使う。

アメリカは今でも乾燥機中心の文化なのだろうか、ときに不思議に思う。もう家庭の中へ入ることはないだろうが、あの電気代はもったいないなあと思ってしまう。若い日に受けた衝撃――何があっても洗濯物は乾燥機にかけて外へ干さない――は、本当のアメリカの家庭の姿なのだろうか。

さらに思い出したことがある。友達がメキシコ近くで教員になるというので、一度見に行ったことがある。その時、国境近くで移民の人たちが洗濯物を干している姿を見た。アメリカで洗濯物を干している家庭を見たのはそれだけだと思う。それは文化なのか、プライドなのか、貧困や貧富の差を表すものなのか、とても不思議だ。

今日、ここニュージーランドで久しぶりに子どもたちと娘と息子たちの洗濯物を干した。そして取り入れもした。五人分である。乾いた洗濯物を五人分に分けていると、ああ家族が増えたんだなあと思わされる。彼らも乾燥機を持っているが、それでも外に干す。やはり外に干すのは気持ちがいいと思う。 (ここは花粉が気にならないから余計そう思う。)

(2026.03.19)

私は鍼灸師であり、日常的に患者様に施術したり、東洋はりで施術の勉強をする機会がある。今日、義理の娘が午前中に受けた施術を見学したが、そこでは鍼を刺し、左足首の痛みに対して電気パルスを流す電気鍼が行われていた。これは、私が顔面神経麻痺を発症した29歳頃から35歳頃まで受けていた施術に非常に似ており、鍼灸の普遍性を感じた。

娘から「ニュージーランドではお灸はしないのか」と尋ねられたが、私は、バイオネックス(貼る鍼)や自分や夫に刺す鍼は持っているが、お灸は息子や娘の家では匂いが気になると娘が言っていたため、持ってこなかったと答えた。以前はお灸を非常に嫌っていた娘であるが、今回は興味を示したので、アロマ灸のように香りの良いお灸も出てきていると紹介したところ、試してみたいという反応を示した。ニュージーランドでもお灸は存在するが、煙や匂いの問題から使用頻度は低く、鍼やカッピングに比べるとオプション的な位置づけである。一方、カッピングはよく使われ、鍼灸の一部として定着していることが分かる。

ニュージーランドでは、ACC(Accident Compensation Corporation)という国の保険制度により、事故やケガに起因する痛みに対して鍼灸を含む施術がカバーされる。医師の紹介があればスムーズに受けられ、患者負担も少ない。この制度により、鍼灸は代替医療として日常的に利用されている。

対して日本では、鍼灸保険は厚生労働省により定められた6疾患のみ適用される。医師の同意書や手続きが必要で、継続的な利用には手間がかかる。このため、患者も施術者も手間を嫌い、保険を利用した施術は続かない傾向にある。費用設定や信頼度の面でも、日本での鍼灸の普及は限定的であり、制度的・文化的な制約が大きい。

日本の鍼灸は歴史的に技術が豊富であるにもかかわらず、現代社会での制度や費用の設定により普及が停滞しているように感じる。一方、ニュージーランドのように制度が整い、医療費削減の観点から代替医療として自然に受け入れられる国では、鍼灸は社会に定着している。

私はせんねん灸のセルフケアサポーターでもあり、家庭で使える安全なセルフケア製品の可能性も伝えたい。せんねん灸は、ドラッグストアで誰でも購入できる安全な製品もある。ネットではアロマ灸、棒灸なども購入できる。棒灸はリラックス効果も高いので是非試していただきたい。こうした家庭でのセルフケアの情報を広めることも、鍼灸の価値を日常生活に浸透させる一つの方法である。

(2026.03.19)

私たち夫婦と息子は、彼が13歳までしか一緒に暮らしていない。彼が13歳でニュージーランド へ留学したからである。そのため、彼と私たちが、和食中心だったのか、どんな食事をしていたのか、もうほとんど記憶にない。

彼は中高を男子寮で過ごし、大学生になるとよくおにぎりを買って食べていたが、どんな食べ物を好むのかはあまり分からなかった。ニュージーランドを訪れた際には、彼がレストランに連れて行ってくれ、フォークとナイフで洋食を食べる私たちに食べ方やマナーを教えながら、自分も食べていたことを覚えている。

息子が結婚して家を構え、私たちがその家を訪れるようになると、彼らの食生活が少しずつ見えてきた。驚いたことに、彼は毎日炊飯器でご飯を炊き、梅干しやふりかけ、海苔など、日本の食材を揃えて食していた。

子どもが生まれると、上の子(現在七歳)は離乳食を終えた頃から、息子が用意したご飯に梅干しを添えて食べて育った。二番目の女の子(現在五歳)も同じように育ち、二人の好物は父親の影響で、ご飯に梅干し、ふりかけ、そしてその他の日本の食材になった。もちろんお母さんの影響も大きくニュージーランド の食べ物も大好きだ。

不思議なことに、息子は13歳までに身体の中に入った食文化が、彼の中に深く刻まれていたのであろう。そして、全く異なるニュージーランドの血を引く子どもたちが、父親の食べ物を見て食べ、それを好むようになる。

孫二人はお腹が空くと、冷凍庫のご飯(1人分)を2分間レンチンして梅干しやふりかけで食べる。

私はそれを見て、とても不思議な気分になるおばあちゃんである。


ここ2日間、赤ちゃん語りかけ英語の音声をnoteに貼ろうと、あらゆる方法を試した。
アプリを落として、ネイティブ音声を18個準備し、noteの埋め込みや録音、音声ファイル、ビデオ、画像……思いつく限りの方法をすべて試した。(AI 様のお助けで)

しかし、どれも思うように貼り付けることができなかった。
何度も挑戦したが、結局できなかったのだ。

とても疲れた。
でも、この経験は無駄ではない。
完璧にはできなかったけれど、やり方を考え、試し、限界にぶつかる過程で多くを学んだ。

今は一旦、この作業から離れ、気分転換をしたい。
それも大切な選択である。
できなかったことを悔やむのではなく、「やってみた自分」を記録しておくことに価値があると思う。


近くにはキャンピングカー用の駐車場があり、午後2時から3時頃になると、多くの車が出入りする。
ちょうど私がプールから家に帰る時間で、その様子を目の当たりにした。
駐車場には大小さまざまなキャンピングカーが並び、到着する車が次々に入ってくる。


【駐車場の午後の様子】

息子たちもかつてはキャンピングカーを持っていたが、仕事が多忙なこともあり手放したらしい。
今はクィーンズタウンに貸別荘を持っており、そこへ行くことが多いという。
キャンピングカーを持つニュージーランド人の生活について少し調べてみた。



ニュージーランドの人口と車事情

ニュージーランドの人口は、2025年時点で約 5,342,000 人。
国土面積は日本とほぼ同じだが、人口は日本の約 1/25。
人口密度は非常に低く、広大な自然を自由に楽しむ暮らしが可能だ。

車の保有状況も特徴的で、登録車は約 470 万台。
人口 1000 人あたり約 815 台 に相当する。
さらにキャンピングカー(モーターホーム)の登録台数は、約 54,000 台。
つまり 100 人に1台以上 がキャンピングカーを持っている計算になる。



キャンピングカー文化と生活

この数字から分かるように、キャンピングカーは単なる観光用ではなく、
多くのニュージーランド人にとって 生活の一部であり、自由なライフスタイルの象徴 だ。

私の家からプールまでの道を歩くと、電線や電柱が全くなく、
広々とした青空の下、丘や畑が広がる景色が見える。


【プールから家までの風景】

こうした自然環境の中で車を自由に走らせ、キャンピングカーで移動する文化が根付いているのも納得できる。



日本との違い

日本とは異なる生活文化が見えてくる。
決して国土の大きさだけではなく、人口密度や文化的背景によって、
人々の暮らしや旅のスタイルが大きく異なることを実感する。

ニュージーランドでは、キャンピングカーは単なる「車」ではなく、
アウトドア中心で自由な生活を象徴する「移動する家」と言えるだろう。

(2026.03.18)

ニュージーランドの薪ストーブの歴史は、どれほど古いものなのだろうか。人々はずいぶん昔から火のある暖房とともに暮らし、それを大切に受け継いできたのではないかと想像する。

この国では、多くの家庭が広い敷地を持ち、隣家との距離もゆったりとしている。そのため煙突を設けても周囲への影響が比較的少なく、薪ストーブを生活の中に取り入れやすい環境があるのかもしれない。また、自然とともに生きるという意識の中で、薪という身近な資源を活用する暖房方法が定着してきたとも考えられる。

暖房について、私はこれまで深く考えたことがなかった。日本では住宅事情もあり、エアコンや電気式の暖房が主流である。年齢を重ねると、火を使う暖房は危険ではないかと周囲から言われることもあり、ますます機械的な暖房に頼る生活になっている。

しかし、ニュージーランドで火のぬくもりに包まれる暮らしを見ていると、暖房とは単に寒さをしのぐための装置ではなく、人の心や時間の過ごし方にも関わるものなのだと感じるようになった。炎のある空間には、不思議と人を落ち着かせ、集わせる力がある。

暖房とは何か。快適さとは何か。暮らしとは何か。異国の家のリビングで薪ストーブを見つめながら、そんなことを静かに考えているのである。

「暮らしの違いとは、こうした小さな温もりの違いから生まれるのかもしれない。」

(2026.03.18)

昨日3月17日は、息子とお嫁さんの結婚9周年だった。私たちはすっかり忘れていた。この9年間で、息子夫婦には3人の子どもが生まれ、家を建て、引っ越し、大きな家で3人の子どもを育て、歯科医院を経営し、働いている。仕事は大変だろうが、二人は自分たちの時間も大切にしていて、昨日は多忙で行けなかったので、今日はレストランで昼食を楽しむとのこと。私たちは8か月の孫の世話を担当した。

私たち自身の結婚記念日は3月21日(春分の日、祝日、年度末)。私が27歳、夫が29歳で結婚したが、年度末の忙しさの中で、結婚記念日を意識したことはほとんどなかった。子どもが二人生まれてからは、さらに忙しく、新しい学年や子どもたちの新しい幼稚園・学校を迎え、生活に追われていたように思う。

結婚記念日や記念日に関して、日本人はどのくらいお祝いするのかよくわからないが、ニュージーランドでは二人の関係次第だ。息子夫婦を見ていると、子どもをベビーシッターに預けたり、私たちに預けたりして、二人だけの時間を大切にしているように思う。文化の違いなのか、個々人の状況や仕事の多忙さによるのかはわからないが、生活に余裕があることの大切さを改めて感じる。

私たち教員は、今「ブラックだ」と言われ、なり手が減っているようだが、私たちが働いていた頃も本当に大変だった。夫の帰宅は夜10時〜11時、私は保育園の迎えもあり、子どもを持つ女性は仕事ができないと言われたことも多々あった。要するに、長時間労働するのが当たり前で、長時間働けない女性は仕事ができないと見なされていたのだろう。今は状況も少しずつ変わっているのかもしれない。

退職してからは、一度だけ、ポイントバケーションという会員制の権利を利用して、夫が熱海か箱根に一泊の予約をしてくれ、結婚記念日に食事をして泊まったことがある。それだけのことだ。かえって今は、一人一人別々に好きなことをして過ごす方が気が楽になった。 時すでに遅しーーかもしれない。

(2026.03.18)

ニュージーランドに滞在していると、子どもたちの育ち方について考えさせられる場面が多い。
この国の人々には大らかさがありながら、英語ではイエス・ノーをはっきり伝える文化がある。その空気の中で、孫たちはのびのびと生活している。

去年の十月、息子家族は日本に一か月滞在し、我が家の近くにマンションを借りて暮らした。上の孫は小学校一年生として、下の孫娘は保育園の年中として体験入学をした。
上の孫は環境に慣れるのが早く、特にピアニカに強い興味を示した。自分のものが欲しいと言うので買ってやると、嬉しそうに何度も弾いていた。 保育園では孫娘が生け花を体験したり、友達と遊んだり、給食という文化に初めて触れたりして、それぞれに楽しい時間を過ごしたようである。
今回こちらに来てみると、上の孫は小さな電子ピアノをきっかけに、週一回ピアノを習っているという。男の子がピアノを習うことに少し意外な気持ちを抱いたが、そう言えば彼の父(私たちの息子)も幼い日からピアノを習っていたことを思い出した。
一方、もうすぐ五歳になる孫娘は体操を習っており、側転が得意である。水曜日は兄がピアノ、妹が体操の日であり、二人とも嬉しそうに練習の成果を見せてくれる。

さらに二人とも、早くから水泳を習っている。歩いて行ける距離にプールがあり、母親も父親も水泳経験が豊富であるため、家族の生活の中に自然に水泳が根付いているように見える。楽しみながら続けている姿はとても印象的である。

日本の母親に見られがちな「やりなさい」「やらなければならない」という切迫感は、ここではあまり感じられない。できるときにやればよいという、どこか余裕のある関わり方である。
もちろん葛藤はあり、上の孫は、公文の課題が次々と画面に現れると、ため息をつくこともある。それでも、それを過度に問題視しない空気が流れている。

私と夫は今日も、上のの孫水泳教室を見に行ったあと、自分たちでも空いているコースで四泳法を泳いだ。バタフライの練習中であり、個人レッスンの内容を思い出しながら復習した。帰宅後は腰にパイオネックスという貼る鍼を使いセルフケアを行った。
学んできたことが自分の体や夫の身体に生かせるのは、ありがたいことである。

息子の家では朝食と昼食をそれぞれ別に取る生活である。日本では納豆ご飯が多いが、こちらでは薄いパンを焼き、濃いバターを塗ったトーストや、コクのあるヨーグルトがとても美味しく感じられる。
食べ物の違いは、土地の暮らしを実感させる。

こうして一日を振り返ると、子どもの可能性とは何かを考えさせられる。
用意された道を進むことも、好きなことを見つけて歩むことも、どちらも成長の形である。
大切なのは、その子の内側から生まれる興味や喜びを見つけ励まし、見守ることなのだろう。

今日はそんなことを静かに思った一日であった。




(2026.03.18)

ニュージーランド滞在中、右膝の内側に痛みを感じることがあった。
もともと平泳ぎの動作などで違和感が出ることがあり、今回は赤ちゃんの抱っこや移動の疲れも重なって、少し症状が出やすい状態になっていた。

そのようなとき、私は膝だけを強く施術するのではなく、全体のバランスを見ながらセルフケアを行っている。

まず中心にするのは
膝の内側、膝のやや外上部、そして膝裏の反応点である。
ここに浅めの刺激で調整することが多い。

さらに、膝の負担は股関節や大腿部の緊張とも関係するため、
内転筋の張りや膝上の硬さを確認しながら整えていく。

腰に疲労が来ていると感じる場合には、
下肢だけでなく骨盤周囲や体幹の反応点にも軽くアプローチする。
このように全体をゆるめることで、膝の動きが楽になることがある。

運動を再開するときは無理をしないことも大切だ。
私は水泳をする際、まず水中歩行やゆっくりしたクロールから始め、
膝に違和感が出ないかを確かめるようにしている。

平泳ぎは膝への負担が大きくなりやすいため、
キックの幅を小さくし、痛みが出たらすぐに中止する。

また、マッサージクリームや防水サポーターなどを用いて、
冷えや過度な動きを防ぐことも役立っている。

膝の痛みがあると不安になりがちだが、
体の反応を丁寧に感じ取りながら整えていくことで、
無理なく日常や運動を続けることができると感じている。

同じように膝の違和感に悩む方の、
ひとつの参考になれば幸いである。

私は以下のツボが好きである。 よく効くし、軽く手で圧迫するだけでも良い。
ぜひお試しください。






(2026.03.18)

少し寒さがやわらいだ朝である。
昨日感じていた薬の副作用もおさまり、朝の眠気もない。

持参してきた携帯ウオッシュレットを試してみた。
日本のメーカーのものと、いわゆる100円ショップのもの、両方である。
100円ショップのものは、日本でも時々使うことがある。

一方、日本のメーカーのものは、実に「本物感」があり使いやすい。
単3電池1本で動くというのもありがたい。

日本では多くの場所に温水洗浄便座が導入されており、持ち歩く必要はほとんどない。
しかし海外では事情が違う。
赤ちゃんのおむつ替えにも使えると知り、今回、息子夫婦にも提案してみた。

予想はしていた。
それでも少し期待はしていた。

返事は
No
であった。

しかも、驚くほど速く、間髪入れずの
No
である。

若い頃、アメリカへ留学した時のことを思い出す。
このようなはっきりした返事に驚き、自分が何か悪いことをしたような気持ちになったものである。
やがてここでは Yes と No を明確に言わなくてはならないのだと学び、慣れていった。

しかしその感覚を抱えたまま日本へ帰ると、今度は別の意味で戸惑う。
物事をはっきり言わない文化の中で、自分の言葉が強すぎるのではないかと悩むこともあった。

ここニュージーランドでも同じである。
家族の間であっても、率直な No に、時にきつさや冷たさを感じることがある。
文化の違いだと理解していても、心はやはり揺れる。

自分は、はっきり物を言わない、言えない日本人なのだと改めて自覚する。

ところで、携帯ウオッシュレット。
他社のものもいくつか集めている。
日本に置いて来た。
さて、これらをどうしようかと思案中である。

もし、にこやかに
「はい、ください」
と言ってくださる方がおられたら、差し上げたいものである。

旅先の小さな出来事が、文化や自分自身を見つめ直す時間を与えてくれる。
そんな朝である。

(2026.03.18)

七歳の孫息子が学校から帰宅した。
母親にいろいろ聞かれたり注意されたりして、少しご機嫌が斜めになっていた。
その後、六時から公文のオンラインがあるという。
明日の水曜日はピアノのレッスンなので、ピアノの練習をやってしまいなさいと言われたが、いい返事はなかった。

母親は五歳の妹を連れて水泳レッスンへ出かけ、家には私と夫と孫息子の三人だけが残った。
彼は本当はトランポリンやゲームをしたかったが、私との約束で、妹の誕生日のために「ハッピーバースデー」をピアノで五回練習した。

弾けるところはそのまま弾き、少し難しいと感じたところで止まる。
「難しくて弾けないところを五回やってみよう」と言うと、不服そうだったが、私がそばにいるので五回繰り返した。
すると、弾けるようになり、流れるように弾ける箇所も出てきた。
3/4拍子を取ることも難しかったが、手を叩きながら示すと理解したようである。
五回やり終えた後、せいせいした表情で「さあ遊ぶぞ」と思ったが、公文の時間が迫っていた。現地時間18:00からである。

その後、母親が帰宅してスナックを食べたが、夕食前に「もうお菓子はダメ」と言われ、それもとても不満そうだった。
お父さんが帰宅し、六時からの公文オンラインに向けて、食事を済ませるよう指示された。
さらに私との約束で、翌日のピアノレッスンのため、右手・左手の簡単な楽譜を五回ずつ練習することになっていた。
しかし、弾けないところに来ると先ほど同様嫌がって止まり、なかなか上手にはならない。 できないところを5回、指番号に注意してやると急にぐんと伸びた。 嬉しそうに笑った。
八ヶ月の赤ちゃんと五歳の妹もいる中で、両親は歯科医院の経営や診療で忙しい。
それを見守る私は、仕方がないと思いつつ、少しでも手助けや褒め言葉を与えられれば、もっと伸びるのにな、と感じた。

過去の子育てを振り返ると、息子も娘も「公文をやる」と言われると疲れた顔をしていた記憶がある。 通学が遠く、他の習い事もあり、公文は通信教育だった。 保護者に最も負担がかかる形かもしれない。
色々なことで疲れていた子どもたちも、ほんの少しの手助けで急に伸びる瞬間があった。
今回も、少し私の忍耐が必要だが、孫の努力の成果が出る瞬間を見守ることができる幸せを感じる。

公文のおかげで(?)、七歳の長男は算数で力を発揮し、クラスで一番になって喜んでいるという。
公文オンラインの国語(英語)のチェックでは、知らない単語も出てきて、ネイティブのような文章で、間違いのチェックだけで私が疲れてしまうほどだった。
長男は自立の一環として、翌日のランチボックスを作り、作り終えると冷蔵庫に入れた。
五歳の妹はすでに作り終えていた。 なんとりんごまで自分で切って入れていた。

人間はその場しか生きられず、人生の全体を見通すことはできない。
子どもに与えるものが正しいかどうかは分からないが、親としてできることは精一杯尽くすことである。
その一方で、ほんの小さな関わりや褒め言葉が、子どもにとっては大きな意味を持つこともある。
欠けてしまうと、少しかわいそうだと思う。

今日一日、私はボンビバという薬の影響で体調があまり良くなく、昼間は少し寝ていた。
それでも帰宅後の孫たちの様子を見て、子ども三人の大変さを少しずつ理解できた。
息子も義理の娘もよくやっていると思う。
ただ、あと一歩、優しい語りかけや手助け、褒め言葉があればもっと伸びるのにな、と心の中で思った。
この思いは、絶対に本人たちには言わないでおこう。

学習や練習は、親のほんの小さな関わりで前向きに受け取られることもあれば、伸びないこともある。
それでも少しの関わりや褒め言葉を欠かさなければ、子どもは十分に育つのだろう。

(2026.03.17)

7歳の孫が学校から帰宅した。
まずランチボックスを取り出し、中のゴミをゴミ箱へ捨てる。
そのあと水でざっと洗い、流しにつけ置きまでしていた。

それだけでも十分お利口だ、と私は思った。

けれど、お母さんからは
「もう少しきれいに洗って、食洗機に入れるように」
と声がかかる。少し厳しい調子だった。

孫はゲームをしたい。
スナックも食べたい。

けれど、その前にやることがある。
ピアノの練習もしなければならない。

小さな体の中に、小さな葛藤が生まれているのが見える。

もうすぐ、妹の水泳レッスンに出かける時間だ。
家の中には、子どもたちの成長を支える忙しいリズムが流れている。

こういう光景を見ていると、ふと自分の子育てを思い出す。
私も子どもたちが小さかった頃、いろいろなお稽古をさせたものだ。
向いているのか、好きなのか。
立ち止まって考える余裕は、あまりなかったように思う。

親はいつも子どものためを思っている。
けれど、その思いが、ときに子どもの中に小さな葛藤を生むこともあるのだろう。

今、目の前で子どもたちを育てているお母さんは本当に忙しい。
それでも、子どものためにと一生懸命日々を回している。

その姿を見ながら、
子育てはこうして次の世代へと受け継がれていくのだと感じる。

ニュージーランドの静かな放課後。
私は少し離れたところから、その成長の時間を見つめている。

(2026.03.17)

3月17日 — 孫息子と笑いの朝
今朝、孫息子は学校へ元気いっぱいに出かけた。
お母さんと妹、自分とおじいちゃんと一緒に行き、校長先生や担任の先生におじいちゃんが紹介された。
すると先生が「おじいちゃんの名前は?」と聞いた孫息子は、しばらく考えて、ついに”TOMOKO”
「智子」と答えた。
智子はおばあちゃん、つまり私の名前で、夫の名前は”MAKOTO”である。
この小さな間違いに、家族みんなで大笑いした。
孫息子らしい、とても自然な反応である。

彼はスポーツが大好きで、サッカー、水泳、ゴルフが好きである。
LEGOやゲーム、算数系の遊びも大好きで、トランポリンなど、動くこと全般が得意である。
文字や読書も嫌いではなく、お父さんに買ってもらったワンピース英語版45冊をあっという間に読んでしまった。

ただ、人や名前にあまり興味がないわけではないが、妹ほど敏感ではない様子である。
5歳の妹と比べて淡白に見えるのは、男の子と女の子の違いなのか、性格の違いなのか、そんなことを考えた朝であった。

今日の一連の出来事は、家族みんなで笑い合う楽しい時間になった。

(2026.03.17)

今日(17日)は月に一度、骨粗しょう症の薬、ボンビバを飲む日。
起きてすぐ、180ccの水で1錠服用。
その後60分は横にならず、食事や他の薬も我慢。
忘れずに飲めて、ほっと安心。

去年3月、胸を軽く打ったあと、コーチの指示で、平泳ぎを1000メートル泳いだ日。
胸の痛みがだんだん強くなり、救急で整形外科を受診した。
レントゲンで胸骨3番が「くの字」に曲がっているのを見て、先生から「骨折です」と言われ、びっくりしたのを覚えている。
骨密度を測ったら大腿骨が少し弱く、腰椎は普通。
それをきっかけに整形外科の先生の指示でボンビバとビタミン剤を始め、生活も見直した。

小学校から牛乳が苦手だったが、骨のために毎日200cc飲む生活も始めた。
1年経った今、骨折もなく、痛みも出ず、体の衰えは感じつつも、大きな怪我などは避けられたことに感謝。

今朝は、孫娘が呼びに来たので、
「朝ごはんを少し食べてから行く」と話すと、理解して戻っていった。タイマーは後20分だ。
さらに、「みんなにそう言ってくる」とも言ってくれたので、すでに連絡は済んでいるが、安心して準備ができる。
我が孫ながら、理解が早く思いやりのある子だと感心する。

(2026.03.17)

孫たちの両親(息子とニュージーランド人のお嫁さん)は、幼い頃から私たちのことを「じいじ」「ばあば」と教えてきた。
子どもたちもずっとそう呼んできたので、この呼び方はこれからも自然に続いていくものだと思っていた。

実際、その流れは今も変わっていない。
けれど、もうすぐ5歳になる孫娘の中には、いつの間にか「おばあちゃん」という言葉も育っていたのだ。

本日、夫と私と8か月の赤ちゃんの三人で過ごす時間がかなりあった。
赤ちゃんが少しぐずり始めたので、私は気持ちをそらすように声をかけながら関わっていた。

「じいじ」「〇〇くん」「ばあば」
そんなふうに順番に呼び、その人の方に体を向けて、赤ちゃんの視線が私たちの間を行き来するようにしてみた。 ( 赤ちゃん自身には私がじっと目を見たり、頭を撫でたりして呼びかけた。)
結構私はしつこい。 言葉は繰り返しだと信じているからだろう。

そこへ保育園から帰ってきた孫娘が近づいてきた。
私はふと思いつき、赤ちゃんに向かって「お姉ちゃん」と伝え、彼女の方を見せた。

すると孫娘は、赤ちゃんに向かって私を見ながら
「おばあちゃん」
と呼びかけたのである。

私はニュージーランドへ来て、初めてそう呼ばれた。
  いつの間に覚えたのだろう。
いつの間に状況に合わせて、その言葉を選べるようになったのだろう。

言葉の力の大きさと、子どもの認識の豊かさに、あらためて心を動かされた。
5歳という年齢は、決して侮れない。

状況と結びつけながら、繰り返し語りかけていくこと。
そこには忍耐がいる。
けれど同時に、世界が静かに広がっていく手応えもある。

その日私は、言葉が育つ瞬間に立ち会ったような気持ちになった。

(2026.03.16)

今日は3月16日月曜日。12日に到着したので、移動日を除くとちょうど4日目である。

義理の娘は小児歯科医であり、少しずつ仕事に復帰しているが、今日は家にいた。8か月の赤ちゃんも一緒である。上の子7歳は学校が始まり、真ん中2番目の女の子は保育園が始まり、息子も仕事へ行った。

今日は、上の子の学校で「服を着たままプールで泳ぐ練習をする週」が始まったとのことで、一緒に見に行った。季節は夏から秋へと変わろうとしているこちらであるが、こういう訓練は大事だと思う。本当に溺れるときは、水着よりも服を着ていることが多いのかもしれないと感じた。

上の子は去年よりずっと上手になっており、クロールは見違えるほどである。水泳レッスンの成果だろう。バックもやっていたが、まだこれからの段階だと感じた。服を着て泳ぐ姿は新鮮であり、私自身も経験がないので、とても勉強になった。

その後、子どもたちは学校へ戻り、義理の娘は8か月の赤ちゃんと帰宅した。私たちはせっかく来たので、プールで少し泳ぐことにした。アップの後、コースが空いていたので、疲れない程度にバタフライに似た泳ぎを50メートル、背泳ぎ50メートル、平泳ぎ50メートル、クロール50メートル泳いだ。その後、プール横のジャグジーで体を温め、歩いて帰宅した。

こちらに来て初めて、子どもたちが学校と保育園へ行った日である。ちょっとした休暇気分も味わえた。帰りに夫とアイスクリームを買い、少し若返った気分になった。このプールには毎年来ており、7歳の子がまだ3〜4歳の頃、一緒に通ったことを思い出した。

今日は、子どもたちの成長や、服を着て泳ぐ経験から多くを学んだ一日である。

(2026.03.16)

ニュージーランド滞在中、息子の家の庭にある大きなトランポリンで遊ぶ機会があった。
安全ネットがぐるりと張られ、ジッパーでしっかり閉められる本格的なものだ。

今日は夫と私、そして7歳と5歳の孫たちの4人で中に入り、思いきり飛んだ。
子どもたちは元気いっぱいで、かなり荒っぽい。
身体ごとぶつかってきたり、思いもよらない方向へ跳ねたりするので、最初は少し怖かったが、やがてその勢いが楽しくなってきた。

そのとき、ふとジムで行っているUBOUNDのことを思い出した。
一人用の小さなトランポリンの上で音楽に合わせて動くあのレッスンである。
最初は不安定で恐る恐る跳ねていたが、慣れてくると不思議なリズム感が生まれ、身体も心も軽くなる。

前回のレッスンではマイケルジャクソンの「スリラー」が流れ、思わず気分が高揚した。
彼と私は同い年である。
暗いスタジオの中で、みんなが一斉に弾むように動く。
まるで若い頃に戻ったような気持ちになり、終わった後は爽やかな疲労感に包まれた。

庭の巨大トランポリンと、ジムの小さなトランポリン。
大きさも使い方もまったく違うのに、どちらも身体を宙に浮かせる楽しさがある。

雄大なニュージーランドの空の下で飛びながら、
小さなスタジオで味わうリズム運動の奥深さを思い出した。

年齢を重ねても、新しい楽しみはまだまだ見つかる。
そんなことを感じた午後だった。

(2026.03.15)

ニュージーランドの子どもたちのランチボックス(お弁当)は、サンドイッチや果物、ヨーグルトやスナックを中心とした、シンプルで実用的な「冷たいランチ」が主流である。学校に給食はなく、毎日家庭から持参するのが基本である。

大きな仕切り付きのランチボックスに、自分の好きなものを詰める自由度の高いスタイルが特徴であり、子どもの自主性が重視されている。チーズやハムのサンドイッチ、ラップサンド、リンゴやバナナなどの果物、ヨーグルト、ポテトチップス、クッキーやシリアルバーが定番である。日本のような温かいおかずやご飯、彩り豊かなキャラ弁は一般的ではない。

本日夕食後、8か月の次男がハイハイをし、今にも立ち上がろうとする様子で目が離せない中、7歳の長男と、もうすぐ5歳になる長女が自分たちで明日のランチボックスを作り始めた。昨年は見られなかった光景である。

ぶどうを房から外して入れ、クッキーを入れ、韓国のりを入れ、そして自作のサンドイッチを用意していた。長男はピーナッツクリームを塗り、長女はバターとニュージーランド特有の黒いペースト「マーマイト」をパンに薄く塗り、半分に切って詰めていた。

マーマイトはビール醸造の酵母エキスを主原料とする食品で、濃い茶色から黒色の粘り気のあるペースト状である。ビタミンBが豊富で、強い塩味と独特の香ばしさを持つ。バターを塗ったトーストの上に極薄く塗って食べるのが一般的である。

さらに午前10時頃の「モーニングティー」と呼ばれる休憩時間用に、オーツやダークチョコレート、コーンフレーク、くるみが入った焼き菓子のバーも入れていた。日本の菓子と比べるとランチボックスはかなり大きなサイズであるが、車で親が送り迎えをする生活スタイルだからこそ可能なのだろう。

ニュージーランドでは食物アレルギーへの配慮から、学校によってはナッツ類の持ち込みが禁止されている場合がある。幼い子どもは他人の食べ物との区別が難しく、誤って口にしてしまう可能性があるためである。デイケアでもピーナッツバターは禁止されているという。

長女は3月末に5歳の誕生日を迎えると小学校へ通い始める。入学式のような特別な行事はなく、週に1〜2回、午前中のみ通う形から学校生活が始まるそうである。

1年の間に、自分のランチを自分で用意し、冷蔵庫に入れておくようになった。幼い弟の誕生という事情もあるのかもしれないが、子どもたちの成長の早さには改めて驚かされるのである。

(2026.03.15)

ゴルフ場のカフェでコーヒーを飲んだ。
夫はラテ、私はフラットホワイト。

ニュージーランドのコーヒーはエスプレッソベースが主流で、
きめ細やかにスチームされたミルクを使うのが特徴だという。

フラットホワイトはラテより泡が少なく、
ミルクのなめらかさとコーヒーのコクがしっかり感じられる。
小さめのカップだったが、味はとても濃厚だった。

値段は5ドル。
どうも税金分なのか、あるいは外国人と分かってのサービスなのか、
少しおまけしてくれたような気もする。
旅先では、こうした小さな出来事も心に残る。

午後はいちご狩りへ。
日本では最近、コンビニで「丸ごといちご」という商品が500円ほどに値上がりしている。

だからここでは、思いきり食べた。
残りは量り売りで購入した。

近くにはアイスクリームの車販売が来ていた。
ニュージーランドではよく見かける光景らしい。

こちらも小さいサイズが5ドル。
夫と半分ずつにしようと、ミックスにしてもらった。 ブルーベリーとバニラ!

ベンチは子ども連れでいっぱいだったので、
私は木の下に座って、ぼんやりと過ごした。

近くを茶色い鳥が歩いている。
ニワトリだろうか。

人も動物も、どこか違う。
それでも同じ空の下で、静かな午後が流れていく。

旅先では、そんな時間が何より贅沢なのかもしれない。

(2026.03.15)

滞在3日目の午後である。孫のゴルフから帰宅した。途中でお寿司を買い、帰宅後に食べた。少しゆっくりした後、孫たちはそれぞれの用事に出かけた。二人目の孫は友達のバースデーパーティーに行って、帰ってきた。義理の娘と子供たち3人は、いちご狩りに出かけている。午後2時半、息子と私たち夫婦もそこへ行く予定である。

綺麗に晴れた良い日である。少し風が強く、昼間は暖かく感じるが、寒くもある。朝晩は私たちにとってまだ寒い秋である。日本とは逆の季節である。これからイチゴ狩りかブルーベリー狩りに行く予定であるが、少し楽しみである。一方で、疲れるのではないかと少し心配でもある。

少しグーグルとヤフーで日本のことを調べた。安青錦は大関になり、今度は横綱をかけているのに、4敗してしまったようだ。昨日は熱海富士に負けたらしい。熱海富士は静岡出身だが、私は少し残念に思う。ウクライナから来た彼は、いろいろなことを聞かれてもウクライナのことや戦争のことを決して答えない。だから、私は彼をすごい人だ、強い人だと思っていた。気持ちが強いのだろうと思っていた。舞の海さんの解説で連敗した彼を見て、「彼も人間ですね」と言ったことが、とても印象に残っていた。これから先、どうなるか分からないが、できるだけ頑張ってほしいと思っている。



飛行機の中で偶然見た、最新版で公開されていた「国宝」という映画は、170分以上であったため早送りして観たが、やはり印象に残っている。吉沢亮、横浜流星、渡辺謙、それぞれ素晴らしいと思う。引き取られた吉沢亮が、渡辺謙の後継者として、代役として、我が子である横浜流星よりも先に選ばれたあの切ないシーンは、非常に心に残った。

こちらに来て、国宝という映画を調べてみると、アカデミー賞などで非常に有名であることが分かった。何も知らずに観たが、帰りの飛行機でも観たいと思っている。

ゆったりと流れていく時間である。人は時間をどのように感じ、どのように使うのか、この地に来るといつも考えさせられる。バタバタと生きてきた私だから、なおさらそう感じるのかもしれない。

(2026.03.15)

4月15日。滞在三日目である。前日の疲れもあり、ぐっすりと眠っていた。ところが朝7時半、二人の孫が迎えに来て目が覚めた。というより、起きざるを得なかったのである。 「ジイジ バアバ」 と連呼!

この日は、8時に出発してゴルフ大会に向かうか、あと2時間待って義理の娘と八か月の子どもと一緒に出るか、二つに一つの選択であった。急いで朝食を済ませ、結局8時に出発した。

七歳の孫は男の子であるが、急に背が伸びたように思える。そのせいか、体も細く見える。前歯も抜けている。成長の早さをしみじみ感じる。周囲の様子をよく見ており、状況を理解しながら行動している様子にも驚かされる。

ゴルフをしている姿を見て、さらに驚いた。普段は食事も他のことも右手で行うのに、クラブを振るのは左手なのである。コーチに、右手では飛距離が伸びないので左手に変えてみてはどうかと言われ、試しに左手で振ってみたところ、よく飛ぶようになったという。

大会が始まった。三人の男の子たちが、それぞれカートを引きながら歩いていく。どうやら実力が二番目に上のクラスの子どもたちのようである。最初のショットが終わり、無事に飛んだのを見て胸をなで下ろした。見ているこちらのほうが、よほど緊張する。

青い空。真っ青な空に白い雲が浮かび、まぶしい太陽が照りつけている。大きな木々に囲まれたゴルフ場に立ち、自然の中にいるのだと実感する。 二打目も無事に打ち終え、少しずつ落ち着いてきたようだ。
 
六ホール回る予定らしい。やがて義理の娘が八か月の子どもを連れて到着した。途中で二番目の娘のグループとも出会う。四ホール目を終えたあと、玄関前のホールへ一度一人で戻った。トイレという名目で休みたかった。相当な距離を歩いているはずだ。

三人の子どもに対して、少なくとも一人の親が付き添い、互いに他の子どもの成績を記録し合いながら進んでいく。日曜日の午前中、時間はゆっくりと流れていく。私たちの子どもたちが幼かったころ、このような時間の過ごし方を想像すらできなかった。

やがて一番上手な子どもたちのグループが戻ってきた。次は七歳の孫のチームの番のはずである。ずいぶん上達した。空振りがない。それだけでも大したものだと思う。全員がそろうと、どうやらパーティーが開かれるらしい。

若いころ、私自身もこのような世界に身を置いてみたかったと思う。しかし、気がつけば歳を重ねすぎてしまった。若い時にしかできないことがあるのだと、改めて感じるのである。

とはいえ、今さら悔やんでも仕方がない。これから先、死ぬまでに自分にできることは何かを考えていこうと思う。雄大な自然の中で、そんな思いが静かに胸に広がっていった。

(2026.03.15)

2026年3月12日(移動日)
日本を出発し、ニュージーランドに到着した。
飛行機ではスカイカウチを利用し、快適に過ごすことができた。
長時間の移動であるが、体は思ったより軽く、空港や機内での様子も観察できた。



2026年3月13日(滞在初日)

家族宅で過ごす初日である。
荷物を整理し、子どもたちと遊び、家族で食事を共にした。
ほとんどの時間は日常の支度や観察で過ぎたが、夜、時差の関係で目が覚めた。赤ちゃんへの語りかけをnoteにまとめてアップしていたが、音声はできていなかった。調べつつ何とか音声データも作りnoteに貼り付けてアップできた。

これは私がかつて第二言語獲得について研究していた経験もあり、赤ちゃんの言語習得や成長に非常に興味があるためである。
子どもたちの言葉の成長を観察し、自分の育児や教育の経験を振り返る貴重な時間となった。



2026年3月14日(土)(滞在2日目)

滞在2日目である。
今日は息子の車でスーパーへ買い物に行った。
五歳の孫娘は子ども用カートを押して歩き、七歳の孫は庭でゴルフの練習をしていた。
こちらでは幼い子どもがゴルフを習うのは珍しくなく、家の庭で練習することも多い。

スーパーでは、子どもが無料で食べてもよい果物が置かれており、日本との違いを感じた。
帰宅すると、七歳の孫はまだゴルフの練習を続けていた。
日本から持参したゴルフボールを渡す予定である。
ボール自体は規格上日本と同じであるが、ブランドや触感が少し異なるため、良いお土産になるだろうと考えている。

週末の夕食は我々も共に食卓を囲む。
夕食後は、食べ残しを生ごみ用のボックスに捨て、その他のごみは色分けされたバケツに出す。
ごみ収集車は独特で、長い腕のような機械でバケツをつかみ、トラックの中に投げ込む。
その光景は見ていて面白い。

皿洗いは、大きな食器洗い機を使用する。
大きな皿はほとんど立ててセットするタイプで、形や順番に注意しながら入れる必要がある。
「積むだけ」と言うと簡単そうに聞こえるが、実際は整理しながら並べる作業である。
八か月の赤ちゃんがいることもあり、後片付けは主に息子が担当していた。
残り物でまだ食べられそうなものは保存容器に入れるが、あまり食べている様子は見られない。

夜は、孫たちの様子や学習の工夫を観察し、静かにその時間を味わった。
平日は朝食と昼食は別に取り、夕食も基本的には別にしている。
週末だけ家族で囲むことは、住む場所や食事の距離感があり、人間関係を穏やかに保つ秘訣だと感じる。


(2026.03.14)

ニュージーランド時間、午前11時47分。
日本とは4時間の時差がある。

広い公園でのんびりお茶をした。
抹茶ラテを頼んだが、抹茶の味がほとんどしない。
薄すぎる……。
こちらの人にはこれがちょうど良いのだろうか。

まだ時差ボケが抜けず、
子どもたちと一緒に走る元気はない。

サングラス越しに、広い空を見上げた。

7歳の男の子とは、
二台の電子ピアノで
「ハッピーバースデー」の練習を始めた。

3月31日の
二番目の女の子の誕生日会に
間に合うだろうか。

でも、間に合わなくてもいい。
こうして一緒に過ごす時間の方が
ずっと大切だと思う。

その女の子が、ケーキをくれた。
夫が “Thank you.” と言うと

「No.」

そう言って、
小さな声で

「ありがとう。」

と言った。

私たちが
「ありがとう。」と言い直すと

彼女は少し誇らしげに

「どういたしまして。」

と答えた。

昨年、日本の保育園で過ごした
一か月の成果なのだろう。

胸がじんわりと温かくなった。

(2026.03.14)

ニュージーランドの真夜中に目が覚めた。
時差の関係で、日本はもう朝の時間だろう。

海外に来ると、忘れ物をしたり、うまくいかなかったり、
「ああ失敗した」と思うことも多い。
それでも私は
生きていればそれでいい、生きていれば儲けもの
そう考えるようにしている。

前向きに、前向きに。

それは言語を身につけるときにも
とても大切な感覚だと思う。

私は鍼灸師として身体について学び、資格を取った。
けれど本当は、若い頃から
言語獲得の研究をしたいという夢があった。

子どもはどのように言葉を話し始めるのか。
二つの言語はどのように身についていくのか。

自分の子どもには二言語で語りかけ、
バイリンガル教育の環境を整えた。
そして今、長男はニュージーランドで暮らしている。

けれど私はずっと思っていた。

語学教育は
お金がある人だけのもの、
特別な環境に行ける人だけのもの、
そうであってほしくない、と。

日本人は長い時間英語を勉強している。
本当は、もっと話せるはずなのに、
受験英語の経験から
「英語は苦手」と思い込んでしまっている人が多い。

それがとても悲しかった。

そんな中で、
赤ちゃんへの語りかけという形なら、
誰でも言語の世界に入っていけるのではないか
そう思うようになった。

まずは日本語の日常の語りかけを考え、
それを簡単な英語にする。
短く、やさしく、生活の中で使える言葉にする。

録音の方法もよく分からず、
海外で戸惑いながら勉強しながら、
ついに自分の声で音声を録音し、
noteにアップすることができた。
そしてブログ「赤ちゃん英語は『お母さんの声』でいい 英語が苦手でも大丈夫」に。

ネイティブの発音ではない。
それでもいいと思っている。

赤ちゃんにとって一番大切なのは
完璧な英語ではなく、
一番近くにいる人のぬくもりのある声
だからだ。

これから、年齢別に、
そして生活のさまざまな場面ごとに、
日本語と英語の語りかけを作っていきたい。

それを使った子どもたちが成長し、
自然に日本語と英語を話すようになったら
こんなに嬉しいことはない。

これは、
私の残りの人生のライフワークになるかもしれない。

そして伝えたい。

これまで勉強してきた英語を
どうか否定しないでほしい。

たとえ下手だと思っても、
その英語は誰かの役に立つかもしれない。

前向きに、前向きに。
言葉は、きっと自分のものになっていく。

(2026.03.13)

ニュージーランド南島の
クイーンズタウン は、
ワカティプ湖 のほとりに広がる世界的なリゾート地である。

周囲の山々と湖の美しさが「ヴィクトリア女王 にふさわしい」と称えられたことから名付けられたと言われ、四季を通して世界中から観光客が訪れる。
バンジージャンプ発祥の地としても知られ、「アドベンチャーの首都」と呼ばれる町である。

また、この町は世界遺産地域
テ・ワヒポウナム にある
ミルフォード・サウンド への玄関口でもある。

クィーンズタウン空港に到着した。
まず立ち寄ったのは、いつもの寿司店である。
サーモンの握りを口にすると、長旅の緊張が静かにほどけていった。

空港には、息子と、もうすぐ五歳になる孫娘が迎えに来てくれていた。
前に会ったときより背が伸び、表情もどこか大人びて見える。
時の流れの早さを実感する瞬間である。

そこから車で
アレクサンドラ へ向かった。

車窓の向こうには、どこまでも広がる大地と空。
同じ島国でありながら、日本とはまるで違うスケールの風景である。

ニュージーランドの人口は約五百三十万人。
広い国土に対して人口密度は非常に低く、日本の約十八分の一ほどとされている。
人口の多くは最大都市
オークランド などに集中し、それ以外の地域には手つかずの自然が残っている。

羊の数のほうが多いと言われるのも、うなずける光景である。

やがて息子の家に到着した。
家では七歳の男の子と、生後八か月の男の子が待っていてくれた。

孫は三人。
もうすぐ五歳の女の子、七歳の男の子、そして八か月の男の子である。

これから一か月、この家で暮らす。
私たちのために用意してくれていたのは、完全に独立した離れであった。
バス・トイレ、キッチン、テレビ、冷蔵庫も備えられ、生活に不自由はない。

気兼ねなく過ごせる環境に、心から感謝している。

広い空。
静かな時間。
そして家族の笑い声。

この国で過ごす一か月が、ゆっくりと始まったのである。

(2026.03.13)

オークランドで荷物を受け取り、入国審査の後、食べ物などの申告に並んでいる。
思ったほど混んでいない。名物の犬も姿を見せた。

ここでは、食べ物の申告がとても厳しい。スーツケースの中でも果物やお菓子はしっかりチェックされる。やはり農業国だからだろうか。

以前、ここで手続きに時間がかかり、乗り継ぎ便に間に合わなかったこともある。
国が違えば、空港での手続きや移動の感覚も異なるのだと実感する。

(2026.03.13)

wifi 遅いので 画像は後ほど

成田を離陸した。
ニュージーランドへ向かう夜のフライトである。

今回はスカイカウチ。
2人で3席を取った。

前列が空席だった。

アテンダントさんが
「前の席もお使いください」と声をかけてくれた。

結局、
一人で3席。

足を伸ばして、横になれる。
長いフライトでは、この余裕がありがたい。

もうすぐ夕食。

食べたらすぐ横になろうと思う。
朝食まで、できれば5時間は眠りたい。

年齢を重ねると、
長距離フライトはやはり疲れる。

プレミアムエコノミーも快適だが、
身体を横にできるスカイカウチの方が
私には優しい気がする。

いま、機内映画「国宝」を見ながら
この文章を書いている。

18禁?

いろいろ言われる人ではあるけれど、
やはり思う。

渡辺謙は、
芝居がすごい。

そしてやっぱり プラダを着た悪魔 に戻った。
すぐ寝てしまったけど。

空の上の夜は長い。
少し眠って、朝には南半球だ。
ニュージーランド 北島 オークランド。
入国審査の後 乗り継いで南島 クィーンズタウンへ。
息子の迎えー アレクサンドラまで約1時間半のドライブ。

体力勝負

(2026.03.12)

飛行機の中で夕食にパンとバターが出た。
ニュージーランドでは、マーガリンを見かけたことがない。

聞くところによると、マーガリンは健康に良くないとされるが、本当だろうか。
子どもが小さい頃、日本ではバターも手に入ったが価格が高く、庶民は安価なマーガリンをよく使っていた。

調べてみると、ポイントはこうだった。
  • バター:生乳から作る自然な乳製品。風味豊かで、ニュージーランドでは主流。
  • マーガリン:植物油を加工したスプレッド。昔のマーガリンには トランス脂肪酸(加工油でできやすい脂肪で、摂りすぎると心臓病リスクを高める)が含まれ健康リスクがあったが、現在の製品はほぼ安全。
  • 日本との違い:お菓子作りではマーガリンは安価で使いやすいが、バターのみだと少し値段が上がる。
  • 子どもへの影響:昔のマーガリンでも少量なら問題なし。現代品ならほぼ心配いらない。
結論として、ニュージーランドでバター文化なのは 味と文化の影響 が大きく、
マーガリンは昔ほど危険ではない。
どちらも適量を使えば安心だ。

飛行機の中で、この小さな違いに気づき、旅の楽しみがひとつ増えた気がした。

(2026.03.12)

成田を出発し、飛行機の中にいる。

今回は、夫と二人で
スカイカウチを 2人で3席 取っていた。

横になれる席で、長いフライトにはありがたい。

すると、客室乗務員の方が声をかけてくださった。

「前の席も空いていますから、どうぞお使いください。」

前を見ると、そこは誰も座っていない三席。

つまり、
二人で六席使っていいということになる。

思いがけない贈り物のようだった。

夫は前列のは3席をスカイカウチでベッドのように横になり、
私は後ろの3席でスカイカウチを作り足を伸ばして寝る。

長いフライトも、少し旅の楽しみの時間になる。

飛行機の中では、
こういう小さな親切がとても嬉しい。

空の上で、
思いがけない余裕をもらった気がした。

ニュージーランドの旅は、
こうして静かに始まっている。

(2026.03.12)

ラウンジを出てすぐ左にトイレ。夫と交代で席を立つ。
トイレはTOTOで、もちろんウォシュレット付き。
日本のトイレはどこも清潔で快適だけれど、海外に出ると状況は一変する。

過去の旅では、いろんな体験をしてきた。
中東では、ガイドさんが「便器に座れない場合は、エアーでお願いします」と教えてくれたこともある。
(お尻を浮かせて…という意味です。)
ロシアでも、これはなかなか大変だった。

そんな経験を経て、改めて日本のトイレのありがたさに感謝。
携帯用も持っているけれど、やっぱり本物のウォシュレットには勝てない。
小さな幸せは、ウォシュレットのボタンひとつから。

(2026.03.12)

今、成田空港のラウンジにいる。以前よりサービスは簡素になり、飲み物だけの提供になっていたけれど、それでもほっとする。リアルゴールドがあって、少し元気が出た。

荷物を減らすため、私は重ね着作戦を決行した。上はユニクロのフリース丸首に始まり、同じくフリースのハイネック、半袖のTシャツ、その上にセーター。さらにベスト、薄いジャケット、ユニクロのダウンが最外層。下は薄いタイツ、ユニクロの厚手タイツ、厚手のパンツに靴下二枚。手袋と毛糸の帽子、首には百均の首巻きを巻き、手首にも巻いた。

ニュージーランドは日本と季節が逆だ。長男たちが住むアレクサンドラは盆地で、夏から秋への変わり目。朝夕は寒く、昼は暑い。体感温度も違うので、彼らは日本の11月頃でも半袖で平気だが、私たちはダウンを着て寒さをしのぐこともある。

とにかくパッキングを楽にするため、たくさん着て荷物を減らす作戦は成功したが、今日は汗だく。夫との待ち合わせでトイレ前に立っていたが、もう立っていられず、久しぶりに地べたに座って待った。アメリカ時代を思い出すように、東京でも平気で座ってしまう自分に笑ってしまった。当時「ジベタリアン」と呼ばれていたが、今でも通じるだろうか?

荷物を少なくするには工夫がいる。最小限にする知恵も必要だ。今日は暑いけれど、ラウンジでリアルゴールドや野菜ジュースを飲みながらぼーっとしている。もうすぐチェックインの時間だ。動き出さなくては。

長男から連絡。中東情勢で、かなりのニュージーランド航空が欠航しているらしい。ここではまだそのような話は出ていない。世界は動いている。

(2026.03.12)

私と夫は、本日日本を立ち、明日長男家族に会いに旅行に行く。航空券や保険など、大きな出費ではある。しかし、目的は観光ではない。孫たちの成長をそばで見て感じることが、この旅行の価値である。

夫は言う。いつまで行けるかわからない、と。長男家族も一年に一度はやって来る。限られた機会を大切にしたい。可能な限り、この旅行を続けるつもりである。

旅行中は長男家族の家の別棟でお世話になる予定である。元気に、笑顔で過ごせるよう心がけるつもりである。なお、息子から夫に電話が入った。明日緊急手術(歯科)が入ったため、迎えが30分ほど遅れるという。予定の変更もあるが、穏やかに過ごすつもりである。

この旅行は、旅ではなく旅行だそうだ。目的と滞在場所が明確であり、計画的である。道中に観光やビーチに立ち寄ることがあれば、それは旅行中の観光活動として楽しむ。

孫たちの笑顔、家族との時間、そして日常から離れた心地よい時間。これらこそ、この旅行の大切な思い出である。

(2026.03.12)

帰国時も新幹線に乗る予定である。
今回の旅で(毎年だが)、恐らく一番印象に残るのは、移動の連続と荷造りの大変さである。限られた時間と荷物の中で、必要なものを調整しながら準備するのは想像以上に骨の折れる作業であった。

それでも、移動中に見る景色や、駅やバス、空港での些細なやり取り、そして孫や家族への思いを胸に抱く時間は、旅の楽しさと重なり、忘れられない経験となった。

東京から静岡まで、そして帰国時も新幹線に乗ることで、旅の始まりと終わりがつながっていることを改めて感じる。
恐らく、次に同じような海外旅行に行くときも、この道のりやルーティンを思い出しながら、準備や移動を楽しむことになるであろう。

何歳まで楽しむことができるかは、大きな謎である。

(2026.03.12)

地元のローカルバスでJR安倍川駅へ向かった。
静岡駅までは一駅であるが、先に昼食を取るために下車した。駅すぐそばの新鮮な海鮮丼屋に立ち寄る。なぜかニュージーランドに行く前は必ずここに寄ってしまう。美味しいお刺身と丼は、しばしのお別れだからであろうか。

昼食の後、駅に入り、いつものようにスターバックスで抹茶クリームフラッペチーノを注文した。抹茶とクリームを増量にカスタマイズした。

その後、新幹線に乗る。
長年、「なぜ静岡にのぞみが止まらないのか」と不満を言い続けてきたが、今回の旅で私は静岡を離れる。新幹線のない松山での暮らしはどのようになるのだろうか。

東京では成田空港までバスで移動する。
昔、子どもが小さいころ、家族で「成田エクスプレス」を使ったことを思い出す。バスは安く、気が楽である。

第一ターミナルに無事到着し、チェックインできるか心配であるが、今一度パスポート、現金、カードを確認した。何度も同じ作業を繰り返す。

孫へのお土産もたくさん購入した。大きくなったことであろう。7歳の男の子はピアノを習い始めたそうである。
3月31日の二番目の女の子の誕生日には、「ハッピーバースデーツーユー」を一緒に弾きたいと思う。

あっという間に東京に着きそうである。
旅日記は、気が向くままに更新していくつもりだ。

(2026.03.12)

ニュージーランド旅行の朝である。
パッキングは2、3日前から少しずつ準備していたが、最後の仕上げが最も大変である。

今回、ニュージーランド航空のエコノミーでの旅である。スカイカウチ(+7万円?)を利用できるが、スーツケースは1個、重量は23キロまで。手荷物は7キロまでである。

限られたスペースに必要なものを押し込むのは至難の業である。
出したり入れたり、何度もやり直すうちに、新幹線の時間が迫ってしまった。

旅行のワクワク感と同時に、荷造りの緊張感も味わう朝である。

(2026.03.12)

「簡単!お母さんの声で英語18フレーズ」

いくつかのサンプルです。まず一度聞いてみてください。

赤ちゃんに英語を聞かせたいお母さんは多いと思います。

でも、「私の英語でいいの?」と思う方も多いでしょう。

大丈夫です。赤ちゃんにとって一番大切なのは
正しい英語より、お母さんの声です。

赤ちゃんは、お母さんの声を一番よく聞いています。



とても簡単な方法
  1. お母さんが日本語で話しかける
  2. 同じ意味の英語を聞く
  3. お母さんが少しまねをする

完璧でなくて大丈夫です。

赤ちゃんが聞いているところで
お母さんの英語を少し重ねるだけでOKです。

フレーズ例(日本語) (易しい英語)
  • おはよう
  • よく眠れた?
  • 起きよう
  • 朝だよ
  • お腹すいた?
  • 食べよう
  • おいしい?
  • ミルク飲もう
  • 遊ぼう
  • 見て!
  • もう一回
  • すごいね
  • 外に行こう
  • 靴をはこう
  • 手をつないで
  • もう寝る時間だよ
  • いい夢見てね
  • おやすみ
  • I love you
  • I'm proud of you
  • Be careful
  • Come here
  • Yay!
  • Oops!
  • Wow!
  • Let's try again
  • Please
  • Thank you
  • You're welcome
  • Let's clean up
英語を完璧に話す必要はありません。
大切なのは、赤ちゃんと一緒に楽しく話す時間です。 

お母さんが落ち着いていて、赤ちゃんがご機嫌な時、ほんの少しでも試してください。
言葉は模倣 繰り返し 理解 発話 と進んでいきます。

きっと楽しい時が待っていますよ!


私はもう、慣れている。

「ここにいられなくなるよ」と言われることも。
噂を立てられることも。
服装を注意されることも。
スマホを見過ぎだと言われることも。

正直に言えば、いい気分ではない。

でも、驚きはしない。
女の世界では、珍しいことではないから。



表の社会は、まだ男が決めている。

国会を見ればわかる。
画面に映るのは、ほとんどが男性。

けれど、長く生きるのは女。
家庭を回すのも女。
老後を支え合うのも女。

女は、表よりも裏で強い。

しかし――

女の世界は優しいかと言えば、そうでもない。

そこには女の規範がある。
空気がある。
序列がある。

目立ちすぎないこと。
出過ぎないこと。
波風を立てないこと。

それを越えると、
静かな圧力がかかる。

嫉妬。
やっかみ。
排除の空気。

露骨ではない。
でも確実に存在する。



私は痩せている。
病気も経験した。
人より少し目立つのかもしれない。

でも、誰かを刺激するために
生きているわけではない。

好きな服を着て、
好きな運動をして、
思ったことを書いているだけ。

それでも
「いられなくなる」と言われる。



未来へ向けた挑戦とは何だろう。

女性がトップに立つことだろうか。
制度が変わることだろうか。

それも大事だ。

でも本当は、

女の世界の中で
悪意を増幅させない人間でいること。

嫉妬に巻き込まれないこと。
噂に火をつけないこと。
排除に加担しないこと。

それが、私の挑戦なのかもしれない。



私はもう若くない。
でも、まだ学んでいる。

傷つかないわけではない。
ただ、騒がないだけだ。

淡々と、泳ぐように。

浮かびながら、生きる。


― 愛情でも義務でもなく、仕組みとして再設計する ―

私は長いあいだ、食事を作ってきた。

母から学び、
家庭科で習い、
本を読み、
栄養を考え、
家計を計算しながら。

それは愛情だった。
責任だった。
生活そのものだった。

けれど若い頃、私は体を壊してまで作っていた。

仕事と家事の板挟み。
時間は足りない。
夜中に仕込み、
朝早く起き、
倒れそうになりながら台所に立った。

あの頃の私は、
「やらなければならない」という構造の中にいた。

夫が何もしないわけではない。
時々、食器も洗う。

買い物だって、
毎日3時間もかかるわけではない。
車でまとめ買いすれば効率はいい。

問題はそこではない。

問題は――

食事というものが、人生の中心に居座り続ける構造だ。

買い物をすれば整理がある。
まとめ買いすれば2時間かかる。
献立を考える時間がいる。
栄養を考える。
価格を考える。
家族の好みを考える。

若い頃は、自分の時間などなかった。

ピアノを弾く余裕も、
ジムに行く余裕も、
ただ座って考える時間もなかった。

体を削って回していた。

それが「普通」だった。

でも今、思う。

食事は愛情だけでは回らない。
根性でも続かない。
犠牲でもない。

設計の問題だ。

料理が好きな人は続ければいい。
極めたい人は極めればいい。
お菓子作りが生きがいなら、それは素晴らしい。

でも、好きな人であっても、
  • 栄養を知らずに作るのか
  • カロリーを意識せずに作るのか
  • 価格を無視して作るのか

そうではないはずだ。

今はデータの時代だ。

価格と栄養と時間を、
リンクできるはずだ。

献立は自動提案できる。
今週安い食材を提示できる。
必要量だけ届けられる。
半調理で20分で完成できる。

完成品宅配ではなく、
“選択可能な半完成”。

食事をなくしたいのではない。

台所から逃げたいのでもない。

食事という構造を、再設計したいのだ。

人生の時間を、
食事が支配しない形へ。

若い頃、体を壊してまで守ったものを、
次の世代に同じ形で背負わせたくない。

愛情は否定しない。
料理好きも否定しない。

でも、仕組みは変えられる。

未来への挑戦とは、

「私が頑張る」ことではない。
「構造を疑う」ことだ。

私は今、
食事そのものを問い直している。

それは、
台所からの逃避ではなく、

人生の時間の主導権を取り戻すための再設計である。


早朝4時、目が覚める。
冷蔵庫に切っておいた野菜を使い、夕飯の下拵えをする。教員時代からの習慣である。朝は早く、帰りは遅い。疲れているからこそ、前もって準備する生活を続けてきた。

私は長年、家族の食事を整えてきた。

ニュージーランドに住む長男は言う。
「口に食べ物を入れたまま喋るな。」

アメリカで学んだファミリースタイルでは、大皿から父が取り分け、母へ回し、幼い子の近くに母が座る。全員に行き渡り、祈りを捧げ、母が食べ始めてから皆が食べる。周囲のペースを考えながら、食事を共にする。

それに比べ、日本の家庭はどうであったか。

私の世代では、母は立ちっぱなしであることが多かった。男たちは競うように食べる。戦争体験の影もあるのだろう。食事は「生き延びるためのもの」であった。

夫もまた、早く食べる。外食でも、私の料理が届く頃には食べ終わっている。長い間、「少しは気を遣えないのか」と言い続けたが、届かなかった。

やがて私は気づいた。

食事のマナーとは、箸の持ち方や順番ではない。
共に食べる人への配慮である。

今、私たちは別々に食べる。それが一番穏やかである。老後、もし可能なら、三食きちんと整えられた食事を、ゆっくり味わってみたいと思う。

それは贅沢ではない。
私にとっては、長年求めてきた「普通」なのである。


長男が13歳でニュージーランドに留学して以来、私たち親は食事のマナーに敏感になりました。20歳頃には、私たち親世代の食べ方に口を出すほどになり、「口に食べ物を入れたままで話すな」「少し残すのが礼儀」など、色々教えてきました。

しかし、自分の家を持ち、ニュージーランド人の妻を迎え、子どもが生まれると状況は一変しました。
野菜の葉は切って捨て、不要になった食べ物も簡単に捨てる。漬物文化や「もったいない」精神で育った私にとって、それは最初、とても我慢できない光景でした。思わず口出しすると、妻は一喝。「文句があるなら出て行け」と。

その時、私は悟りました。自分の力では変えられない。戦争の話も理解されないだろう、と。
ニュージーランド人は皆そうなのか?フードロスに興味がある人はいるのか?
食べ物が豊かな国では、こうした文化は簡単には変わらない――そう自分を納得させるしかありませんでした。

今年もニュージーランドに行きます。体が動くうちに、3人の孫たちに会いたいと思っています。


結婚して静岡に来たとき、私は黒はんぺんが嫌いだった。

スーパーの売り場で初めて見たとき、「変なものが売っている」と思った。
黒くて、硬くて、魚の匂いが強い。
二十七年間食べてきた白はんぺんの、あのやわらかさがどこにもなかった。

けれど静岡では、はんぺんといえば黒だった。
白はどこにも売っていない。

やがて子どもが二人でき、食費と栄養を考えるようになった。
黒はんぺんは安く、骨ごとすり身にしてあるからカルシウムもある。
お弁当にも入れやすく、焼いても揚げても煮てもいい。

仕方なく使い始めたはずなのに、
気がつけば私は迷わず黒はんぺんを手に取っていた。

子どもたちにとって、「はんぺん」といえば黒だった。
白を知らないまま十数年を過ごしたのだと思う。

そして今日。
静岡で暮らして四十年、夫が初めて白はんぺんを買ってきた。

懐かしかった。
これが、私が育った味だ。

けれど不思議なことに、あまり食べたいとは思わなかった。

白は思い出の味になり、
黒は静岡で生きてきた私の暮らしの味になっていた。

四十年とは、
人の舌まで静かに変えてしまう時間なのだと思う。


私自身の部活経験は一生懸命だったが、教員として見た部活はまったく別の顔を持っていた。特にある地方都市の商業高校の野球部は、学校運営の中心であり、男子生徒は低い入試点でも「野球部だから」と合格することがあった。その矛盾に私は怒りを覚えた。

卒業生やOBたちが強い選手を呼び込み、教員は従うしかなく、生徒の中には「勉強しなくていい、野球すればいい」と言い残して辞めていく者もいた。校長が男女差別を肯定しつつ、マスコミが入った途端に「実はやめたかった」と告白した時の失望も忘れられない。

反対の声を上げた結果、私は転勤させられ、別の公立高校や市立の商業高校で教員生活を続けた。後者ではTOEIC対策や商業英語で生徒を指導しつつ、野球部の表向きのマナーと裏の闇に直面した。

高校野球には非常に多くの資金が流れ、少子化が進んでもなくならない仕組みがある。教員として、この現実には疑問と悩みを感じ続けた。

野球が嫌いなわけではない。 それを作る大人の仕組みに大きな疑問を持っている。


夢に出てきたスパゲティ

昭和33年生まれ。
戦後13年。

最近、父や叔父、叔母の戦争体験を書いてきた。
重い話ばかりだった。
もう書く人はいないと思っていた。

私は大阪で生まれ育ち、神戸で学び、アメリカへ留学した。
本当は学者になりたかった。
でも母に泣かれ、教員になった。

大阪府の高校は自由だった。
赤っぽくて、発言も自由で、少し反社会的で、私は納得して働いた。
たった2年。

結婚し、静岡へ。
面接で言われた。
「大阪みたいなリベラルな人はいらない。」

言葉も文化も違った。
みかんの木も知らなかった。
生徒に笑われた。

でも、生徒は受け入れてくれた。
「先生、大阪弁講座やって。」

英語を好きになってくれる生徒もいた。
でも私は心のどこかで思っていた。
英語が好きになっても、社会はそんなに甘くない、と。

それでも一生懸命ついてくる生徒は、かわいかった。

生徒指導で苦しんだ記憶のほうが重く、
楽しかったことは忘れていた。

後に、気分の変化が大きい時期があり、気持ちを落ち着ける薬を使うこともあった。
そのため、あまり夢を覚えていない。

そんな私が、今朝、夢を見た。

家庭科室。
少人数。
大きな釜でスパゲティを茹でる。
わあわあ言いながら、火傷させないように見守る私。

ナポリタンを四つに分けて、
「ここに置いとくから、チンして食べよう」と言う私。

楽しかった。

教員人生で、初めて楽しい夢だった。

私はずっと、暗い記憶だけを抱えていた。
でも、光もあったのだ。

戦争体験を書き終えた私に、
夢はスパゲティの湯気を見せた。

私は、闘ってきただけの人ではなかった。
私は、育ててきた人だった。
そして、生徒に育てられた人だった。


これまで戦争を1から10まで語ってきたが、この11番目は私の伯母の記録である。それは国家の紛争以上に残酷な、逃げ場のない「密室の戦争」であった。
1. 資産家の仮面と病の侵食
縁があって、美貌を認められて資産家へ嫁いだ。だが、その家は内側から腐っていた。義父が外から持ち込んだ梅毒により、義母の産んだ子は斑点だらけで死亡した。その「穴埋め」として連れてこられた「もらい子」が、伯母の夫となった。これが、この家の実態である。
2. 徴用された労働と奪われた母性
叔父も伯母も、この家では血の繋がらぬ「余所者」であった。家系維持の道具に過ぎなかった。伯母は過酷な家事と工場の労働に徴用された。壮絶ないじめの中で、我が子を抱く時間さえ奪われたーと聞く。子供たちは外へ預け出され、親の愛を十分に知らずに育ったらしい。家庭という名の強制労働所?であった。
3. 空襲を越えた先の戦場
大阪空襲の火の海を生き延びた先に待っていたのは、安息ではなく、執拗な攻撃であった。趣味もなく、ただ働き、タバコの煙に逃げる。それが叔父の日常であった。彼の肺を病ませたのはタバコではない。この家が放ち続けた「毒」である。
結び:11番目の戦記
1945年に戦争は終わったとされるが、それは嘘だ。伯母の戦争は、彼女が死ぬまで続いていた。これは、歴史に埋もれた一人の女性の、孤独な戦いの記録である。 そしてそれは彼女の嫁いびりに続いた。
私は施設に叔母を見舞った。何度目かに、「あんたはん どなたはん?」と言われて見舞うのをやめた。


母の母、祖母は武士の娘だったという。
八重菊――強く咲く花の名を持つ人だった。

祖父とどう出会い、どう結ばれたのかは知らない。
聞いたこともなかった。
ただ、一男五女をもうけた。産めよ増やせよの時代だった。

祖父は戦前か戦中、中国(満州)へ渡り働いた。
しかし食べ物が合わず、帰国後まもなく亡くなったという。

母は幼くして兄に尋ねたそうだ。
「お父さん、なんで座ってはるん?」

「金がないんや。」

寝棺ではなく、安い座棺だった。
座ったまま、荼毘に付されたという。
想像もつかない。

祖母は、ほとんど自分の意見を言わない人だった。
「へえ、よろしおまんな」
「へえ、ありがとさんです」

けれど、本好きだった長女が本を返しに行く途中で空襲に遭い、帰らなかったとき、
さすがに「へえ」では済まなかっただろう。
遺体は見つからなかった。

それでも祖母は、わずかな米でおにぎりを作り、道端に倒れている人の口に運んだという。
家族が止めてもやめなかった。

やがて顔面神経麻痺を発症した。

戦後は進駐軍で働いた。
周囲の目は決して温かくなかったが、生きるためだったのだろう。

子どもたちが成長し、家には祖母と次女の叔母と叔父が残った。
叔父は結婚の際、
「嫁さんはおばあちゃんだけでも気を使う。姉ちゃんは一人で住んでくれ」
と言ったという。

叔母は泣きながら家を出た。

代わりに入った義理の叔母は倹約家だった。
焼き鳥の肉は細く長く切り、串に刺さる量を減らすよう言われたという。
男の子が二人いるのに、と母は胸を痛めた。

めったに愚痴を言わない祖母が、あるときふと漏らした。
「ゆっくり湯に浸かりたい」

五人家族で祖母はいつも最後の風呂。
足し湯もできず、冷めた湯に身を沈めていた。

これもまた、祖母の戦争だったのだと思う。
戦争は、終わっていなかった。

寝たきりになっても
「おむつがもったいない」
「替えてもらうのが申し訳ない」
そう言って水分も食事も控えたという。

そして静かに入院し、静かに逝った。

私はそのとき二人目の子を身ごもり、臨月だった。
大阪へは戻らなかった。

心の中でつぶやいた。

おばあちゃん、ごめんね。
やっと、戦争が終わるね。


叔父は戦争で父を亡くし、母と二人で生きてきた人だった。
高卒で働きながら、神戸のパルモア学院に通い、英語を学び続けた。
勉強しすぎて入院したこともあるほどだった。

外資系の会社で実力を認められ、昇進し、家を建て、三人の娘を育てた。
叔母は中卒だったが、料理と裁縫が得意で、家に外国人を招いてパーティーを開く人だった。

私は神戸大学に進んだ。
学歴の話をして叔母に叱られたことがある。
人を学歴で見るな、と。

その意味が本当にわかったのは、私自身が英語を本気で学び始めてからだった。

パルモア学院に自分で申し込み、
定期テストで二度一位を取り、学費を免除してもらった。
TOEFL550を取り、正規留学した。

アメリカでの一年は強烈だった。
三か月間、何も聞こえなかった。
YesかNoか。
そして理由を求められ続けた。

帰国すると、その考え方は日本では煙たがられた。
だから私は学んだ。
日本では日本の思考で。
英語では英語の思考で。

私は戦争を知らない世代だ。
でも、戦争で父を亡くした叔父の背中を見て育った。
その記憶を残したいと思っている。

そして今、病気を経て、松山エデンの園に入ることを決めた。
主婦をやめる。
食事を作らない。
その時間を、自分の回復と、書くことと、音楽に使う。

私はたぶん、今も戦っている人なのだろう。
でも少しずつ、戦いを減らしている。

イエスとノーの間で、
私はこれからも生きていく。


大阪大空襲(第一次)は、1945年(昭和20年)3月13日深夜から14日未明にかけて、米軍のB29爆撃機によって行われた。大阪市街地は焼夷弾で無差別に爆撃され、約4,000人が死亡、約50万人が被災したとされている。

昭和11年生まれの母は、その時9歳であったと思われる。

母の記憶で最も鮮明なのは、逃げ惑う夜の光景である。何度も空襲を受け、家が完全に燃えたのは最後の空襲だったという。そのとき母は、叔母に抱き抱えられて逃げたのだと話している。幼かった母は自分で走ったのではないという。

逃げる途中、前を走っていた中年の男性に爆弾が直撃した。お尻が真っ二つに裂けた光景が、母の心に深く刻まれた。母と叔母は、その横を必死に走り抜け、川に身を寄せ、火の手が収まるのを待った。ただただ怖かったと、母は何度も語ってきた。

食べ物は何もなかった。家族で分け合い、飢えをしのいだという。そして幼い母の胸には、「死んだ人はどうなるのだろう」という思いが残った。

戦後、母は貧しい環境で育った。中学では成績が一番であったが、高校進学は一度諦めかけた。しかし担任の強い勧めにより進学を決意した。就職の際には片親であることを理由に断られたが、知人の紹介で銀行に勤めることになった。

今、母は一人で認知症施設に入っている。あれほど聡明で、真面目に生き抜いてきた人の晩年がこのような形であることに、私は複雑な思いを抱く。しかし、母が生き抜いた時代と、その確かな足跡を、こうして書き残すことに意味があると信じている。


私は昭和33年、1958年生まれ。
戦後13年目の子どもだった。

市場で、片腕のない元少尉軍人を見た。
母の後ろに隠れながら、
「なぜ腕がないの?」
「なぜお金を恵んでもらうの?」
幼い私は、戦争を知らないまま、その傷跡だけを見ていた。

戦争は遠い出来事のはずなのに、
どこかすぐそばにある気がした。

中学は荒れていた。
長いスカートの不良、いじめ。
巻き込まれずに勉強するには、
子どもなりの“知恵”が必要だった。

高校は進学校、
大阪府立天王寺高等学校。

制服はなく、校章だけ。
学生運動の名残を残す、自由な校風。

社会科の教師は赤旗を立てて授業をした。
「歴史は科学です」と言い、
教科書を使わず、オリジナルプリントで教えた。

そして女性教員が、
念仏踊りを一人で踊って見せたこともある。
生徒は円陣を組んで、それを見ていた。

戦後民主主義の熱が、まだ教室に残っていた。

なぜそれほど“自由”なのか、
戦後13年目の私には、よく分からなかった。

大学は神戸大学。
最初に出会ったのは、マルクスだった。

家族が語るのは、庶民の戦争。
学校が語るのは、イデオロギーの戦争。

私はそのどちらにも、完全には属せなかった。

戦争は、
すぐそばにあるようで、
手の届かない架空の世界。

それなのに、
いつもどこかで縛られている感覚があった。

受験勉強で吹っ切れたと思った。
大学へ行けば自由になれると思った。
けれど、そこにもまた別の戦いがあった。

私は、どっちつかずのまま大人になった。

そして今も、
どこか「戦争に負けた子ども」を
心の奥に引きずっている気がする。

けれどそれでも、
未来へ向けた挑戦は続いている。


地下鉄の駅で、いとこのお兄ちゃんのお嫁さんが泣いた。

「トモちゃん、聞いてよ。
お母さんの通帳、やっと見つかったのよ。ゴミの中から。残高ゼロよ。」

彼女はこぼすように言った。

何のために義理の母に向き合ってきたのか。
世話を焼いたわけではない。
叔母は自分の好きなことをして生きていた人だった。
けれど、後始末をするのは残された者である。

家は物であふれていた。
通帳はその山の中から出てきた。

調べると、叔母はまだしっかりしていた頃に、自分の貯蓄をすべて娘に送っていたらしい。

最後に選んだのは、やはり娘だった。

鬼のような姑にいじめられ、
働きづめで子どもと向き合う時間もなく、
その反動のように娘を溺愛した母。

苦しい人間関係の中で、心はどこか壊れていったのだろうか。
それとも、戦争という時代に翻弄された一人の女性だったのだろうか。

私はよくわからない。

ただ、残高ゼロの通帳だけが、
その人の選択を静かに物語っている。


母は五女。そのすぐ上の四女が、私の叔母である。

叔母はあまり勉強が好きではなかったらしい。家も裕福ではなく、中学を卒業すると和裁の先生に弟子入りした。詳しいことは聞いていないが、針仕事は見事だったという。

若い頃、叔母は一人の男性と恋に落ちた。
しかしその相手は、当時差別の対象とされた出自の方だった。家族は強く反対した。結婚を考えていた二人は引き離され、叔母は姉の嫁ぎ先である裕福な家に身を寄せ、事実上“隔てられる”ことになった。

叔母は納得していなかったようだが、抗うこともできなかった。
その時代の娘として、流れに身を置くしかなかったのだろう。

やがてお見合いで、のちの叔父と結婚した。
叔父は貧しい家の出で、高卒ながらカナダ系の会社に勤めていた。夜は英語学校に通い、実力で道を切り開いた人である。年収は一千万円を超え、確定申告を自ら行う立場になった。

学歴ではなく、努力と力で評価される世界。
私はその姿を見て、「英語圏は実力主義なのだ」と思ったことを覚えている。

叔母は、その叔父を支えた。
会社関係者を招いたホームパーティーでは、決して華美ではないが、あるもので工夫を凝らし、心を尽くしてもてなした。私も何度か招かれたことがある。そこには、夫とともに歩む喜びが確かにあった。

三人の娘はそれぞれ成長した。
長女は美容師となり、同じ職の人と結婚した。
次女は在日韓国人の方と恋に落ち、周囲は再びざわついたが、叔母は反対しなかった。かつて自分が経験したことを、胸のどこかで覚えていたのかもしれない。
三女は幸せな結婚に見えたが、子どもに重い難聴が見つかり、相当な苦労をした。

人生は思うようにいかない。
差別を越えても、努力を重ねても、別の試練は訪れる。

叔母は最初の恋について何も語らなかった。
悔いがあったのか、なかったのか、私は知らない。
けれど、その胸の奥に何かが残っていたのではないか、と今も思う。

人生とは、流れに逆らえないものなのかもしれない。
それでも、その流れの中で、誰かの選択を守ることはできる。

叔母は多くを語らなかった。
だが、その沈黙の中にこそ、時代を生きた一人の女性の強さがあったのだと思う。


母は五女であった。
兄が一人、頭が良かったという。その兄が、私の叔父である。

彼らの父、つまり私の祖父は、戦争中に商いのため中国へ渡った。だが食べ物が合わず、帰国後まもなく亡くなったと聞く。祖母は、残された子どもたちを抱え、ひたすら働いたそうだ。

長女である叔母は空襲で命を落とした。だが、遺体は見つからなかったという。
祖母は、地面に横たわる他人の亡骸に、わずかなおにぎりを供える日々を送ったと聞く。娘かもしれない、そう思いながら。やがて祖母は顔面神経麻痺を発症した。

二番目の叔母は、すぐに働きに出た。
そして叔父は、戦時中の花形ともいわれた航空学校へ進んだ。しかし敗戦により学校は廃校となる。大学へ進むには、家はあまりに貧しかった。

叔父は電電公社へ就職した。

これは、本人から何度も聞かされた話である。

大卒と高卒では、出世の道も、給与表も違う。
どれほど仕事ができても、その壁は越えられない。惨めといえば、惨めな現実であっただろう。

それでも叔父は働き続け、結婚し、二人の息子に恵まれた。
自分が果たせなかった大学進学を、どうしても息子たちには叶えさせたかったらしい。

退職後、叔父は叔母と二人、これでもかというほど海外旅行をした。
偏屈で有名な人であったが、なぜか私は気が合った。変人どうしであったのかもしれない。

自宅を訪ねると、リビングには大きなパソコンとスクリーンが据えられていた。株で儲けるのだと言う。

「ともちゃん、わし、退職金一銭もつこうてないんや」

それが口癖であった。

そんなに貯めてどうするのだろう、と言いかけて、私は黙った。

やがて叔母が癌で亡くなり、叔父は一人になった。家族葬で、親戚にも知らせなかったという。ある日、叔父から私に電話があった。母(叔父の妹)と妹に伝えてくれとのことだった。

確か昭和六年生まれである。
デイサービスにも通わず、自転車か徒歩でスーパーへ行っているらしい。

「野村證券ともお別れや」

そう言っていたが、本当にお別れできたのかどうかは定かではない。

戦争がなかったなら、叔父の人生はどのようなものになっていただろうか。

ただ、今も健在である叔父の健康を祈るばかりである。


三つ目の戦争の話を聞いた。
夫の叔父のことである。

義父の兄、石川重雄という人だ。
俳句の選者を務めるほどの名手だった。

彼はコンニャク屋の長男として生まれた。
空襲の夜、爆弾が落ちてきたとき、まず家族を逃がした。
そのあと父親とともに店に残り、家業を守ろうとした。

だが火の手が上がり、逃げるしかなくなった。

安倍川沿いにある静岡商業高校まで逃げ、
もうこれ以上は無理だと思い、マンホールを開けた。
父親を先に中へ入れ、自分も続こうとしたとき、
駆けてきた女性に「お先にどうぞ」と譲った。

その瞬間、爆弾の破片が顔を直撃した。

爆撃が収まるまで地獄の苦しみだったという。
安倍川に身を浸し、水で冷やした。
医者を探してもどこも開いていなかった。
物売りのおばさんの家で顔を冷やしてもらったとも聞いた。

命は助かったが、顔にはケロイドの跡が残った。
いくつもの医者を回ったが、よくなることはなかった。

「俺みたいな顔では結婚はできないだろう」

そう思っていたという。

だが、のちに叔母となる人が現れた。
「俺みたいな顔でいいのか」と尋ねると、
「なんにも気にしないわよ」と答えたそうだ。

二人は結婚し、二人の娘が生まれた。

終戦後、叔父は反戦運動に身を投じ、共産党に入った。
俳句を詠み続け、その多くに反戦の思いがにじんでいた。
爆弾は一瞬で落ちるが、その後の人生は長い。

公営住宅の狭いアパートで、母と妻と暮らし、
やがて母を見送り、妻を見送り、一人になった。

それでも寂しそうではなかった。
俳句を読み、体を動かし、自分の信じる道を歩き続けた。

叔母の葬儀では、当時の日本共産党委員長、
志位和夫氏から弔辞が届いた。
私はその場で驚いて聞いていた。

晩年はホームの個室に入り、
そこでも俳句を楽しそうに読んでいた。

私は顔面麻痺になり、自費出版で本を出した。
それを読んだ叔父から手紙が届いた。

「男の俺でも顔のケロイドは辛かった。
あんたは麻痺が残ってどんなに辛いことかと思う。」

その一文に、叔父の痛みと、私への思いやりがにじんでいた。

叔父はもういない。
大正生まれだったのだろう。
最後は静かな死だったと聞いている。

叔父から得たものは本当に多い。
傷を抱えて生きること。
思想を持つこと。
言葉を磨くこと。
そして、自分の痛みを他者への理解に変えること。

三つ目の戦争は、叔父の物語であり、
いつしか私自身の物語でもあった。


母の姉、てるこ。

「輝く子」と書く。

戦争で姉を失い、
婚約者も戦争で亡くした。
その日から、家の長女として生きることになった。

丸善石油株式会社(現在は合併し、コスモ石油)に勤め上げ、
定年まで働いた。

着付け、茶道、刺繍。
あらゆる習い事を学び、資格を取った。
けれど先生にはならなかった。

ただ黙って働き、
私たち姪や甥を支えた。

大学時代、神戸にいた私は、
友人とよく叔母に「おごって」と言った。

叔母は嫌な顔ひとつせず、
少し誇らしげに、
思いがけず高い店へ連れていってくれた。

あれは嬉しかったのだろうか。
それとも、私の思い違いだったのだろうか。

父や母の体調が悪いとき、
叔母はよく手伝いに来てくれた。

電気釜に残ったご飯を、
洗剤を使わずお湯で浮かせる。
ザルで受け、
スポンジで丁寧に集め、
そして自分が食べる。

私は、そこまでしなくてもと思った。

けれどそれは、
本当に食べ物に困り、
兄弟姉妹を食べさせなければならなかった人の、
体に刻まれた記憶だったのだろう。

叔母は狭いアパートに生涯暮らした。
共同トイレ、風呂なし。

マンションを買えという勧めにも耳を貸さなかった。

実印を紐で胸に下げ、
金庫には八千万円があったという。

使わなかったのか。
使えなかったのか。

最後は夜中、ひとりで倒れていた。
気づかれたのは、しばらくしてからだった。

それでも私は思う。

姪に惜しまず使い、
資格を取り、
働き抜き、
誰にも頼らず生きた。

釜の底のご飯を、
静かにすくうその手。

てるこ は、
輝く子、その名のとおりの人だった。


84歳で父は逝った。
肝臓癌であった。

亡くなったあと、私は父について書いた。
書かなければならなかったのだと思う。

父は武道家であった。弘道館八段。
弘道館の八段である。
大阪府立高校体育科の教員として、柔道部を何度も全国大会へ導いた。
教え子は多く、父を慕う人は後を絶たなかった。

しかし父の少年時代は、決して恵まれたものではなかった。

高知出身。豪農の長男。
だが厳格な小学校校長を父に持ち、病弱な母を抱える家で育った。
相撲大会で優勝するほど体は強かったが、勉強は父の言われるがまま。
成績が悪いと転校させられたという。

妻が病弱だったため一家は大阪へ出た。
父は教員を志した。
だが多くの兄弟から金を無心され、やがて祖父は極端な倹約家になった。
父とその弟は修学旅行にも行かせてもらえず、穴の空いた靴も買ってもらえなかったという。

その反動だったのだろうか。
父は経済観念の薄い人になった。

生徒には惜しみなく物を買い与え、
家出をした生徒を北海道まで追いかけ、
韓国籍の生徒も、被差別部落出身の生徒も、分け隔てなく大切にした。

家の外では大きな人であった。

しかし家の中は、私にとって安らぎの場ではなかった。
祖父母と父は折り合いが悪く、物が飛ぶような喧嘩をした。
私は祖父母と別に暮らしたいと願っていた。
母は「お金がない」と言っていた。

私が二十歳のとき、大阪から神戸大学へ通っていた。
神戸大学である。
その頃、父の教え子で一級建築士となった人が段取りをし、
母が工面した金を出して、奈良に家を建てた。

私はそこから通えず、寮に入った。

父は私の大学合格を喜んでいたらしい。
教え子にこう言われたという。
「先生に似なくてよかったなあ。子どもは母系に似る言うからなあ」

父は、少し照れたように、しかしどこか誇らしげだったと聞いた。

自分の歩んだ道の厳しさも、家庭の複雑さも、
すべて承知の上での言葉だったのかもしれない。

身長に恵まれなかった父は寝技を得意とした。
やがて脚を痛め、杖をつくようになった。

そして肝臓癌。

弱った父は、自宅の介護ベッドで母に手鏡を求めた。
頭は最後までしっかりしていた。
鏡に映る自分の顔を見て、ぽろりと涙をこぼしたという。

やがて昏睡状態に入った。
私は静岡から奈良へ戻ったが、いつ逝くかは分からなかった。
夫は残るようにと言ったが、私は授業が気掛かりで静岡へ戻った。

数日後、妹からのメール。
「逝きました」

一週間分の自習課題を印刷し、午後、管理職に告げて帰宅した。
車で奈良へ向かい、その夜は父の横で眠った。

かつて私が「一年間アメリカへ勉強に行く」と言ったとき、
父は了承してくれた。
母は「嫁に行けなくなる。大学院にアメリカなんて」と泣いたそうだ。

父は言ったという。

「あの子の人生、好きなようにやらせなさい」

厳しく、矛盾し、家族を振り回し、
それでも多くの若者を救い、
最後まで自分を見つめた人。

いろいろなことがあった。
決して美しい思い出ばかりではない。

けれども、私の中で父は今も、生き生きと生きている。


なぜ、子翠はホオズキを噛んだのか。
それは本当に堕胎のためだったのか。
それとも、別の意味があったのか。

薬屋のひとりごと に描かれる妊娠予防や堕胎の描写は、単なる薬草や毒の知識にとどまらない。
そこには、女性の立場と身体の問題が静かに横たわっている。

子翠がホオズキを好んで噛み、ふっと吹き飛ばす場面がある。

猫猫が「行儀が悪い。それに──」と言いかけると、子翠は言う。

「わかっている」

その一言が、妙に重い。


ホオズキはそれほどのものだったのか

ホオズキ には、
  • 子宮収縮を促す可能性のある成分
  • 月経を促すと考えられてきた民間利用
があるとされる。

中医学では「活血」「通経」に分類され、妊娠初期には禁忌とされた植物の一つである。

しかし、噛んだだけで確実に堕胎できるほど強力なものではない。
量や体質、妊娠週数によっては何も起きない可能性も高い。

それでも、あの場面が強く印象に残るのはなぜか。


意図という強さ

あの場面の重さは、薬効そのものではなく「意図」にある。

猫猫が言いかけたのは、
  • 妊娠中には良くない
  • 後宮では禁忌である
  • 女にとって特別な意味を持つ
ということだろう。

そして子翠は「わかっている」と遮る。

それは、
知らずに噛んでいるのではなく、
意味を知って噛んでいる、という宣言である。


女性の身体と生存

後宮や遊郭では、望まぬ妊娠は立場を崩すことに直結した。

子の父は誰か。
身分はどうなるのか。
未来は守られるのか。

妊娠は祝福ではなく、時に危機であった。

だからこそ、
  • 月経を促す薬草を知ること
  • 妊娠しにくい身体を保とうとすること
は、生き延びるための知恵であった。


今も変わらない問い

今の時代でも、避妊を女性側から口にすることは簡単ではない。

望まぬ妊娠によって、
身体を傷つけ、
心を傷つけるのは、昔から多くの場合女性である。

だからこそ、ありったけの知識を用いて自分を守ろうとする女性に、私は強さを感じる。

子翠のホオズキは、薬ではない。
それは意思の象徴である。

静かで、覚悟を伴った強さである。


これは、臨月で発症した顔面神経麻痺と、東洋医学との出会いの記録である。

29歳、初産の臨月。
出産を目前に控えたある日、突然、顔が動かなくなった。

不安と恐怖。
母になる直前の出来事であった。

西洋医学的治療を受けたが、十分に納得できる回復には至らなかった。そんな中で出会ったのが鍼灸である。

初めての施術で、私は驚いた。
顔の病であるにもかかわらず、顔にはほとんど鍼をしない。足や腹部、頭頂への施術であった。

なぜ、そんな離れた場所に?

当時の私には理解できなかった。

後に学んだ東洋医学では、経絡という身体をつなぐ流れを考える。特に足の陽明胃経は、顔から足先までを結ぶ経絡である。
  

三番目に学んだその経絡で、霧が晴れた。

繰り返す胃潰瘍。
妊娠という大きな変化。
そして顔面神経麻痺。

点が線になった瞬間であった。

2025年の私は「答えを見つけた」と思っていた。しかし今は少し違う。経絡は原因を断定するためのものではない。身体のバランスを読むための地図である。

あの臨月の出来事が、今の私を形づくっている。

私はこれからも、学び続けながら施術していきたい。


長く通っていたジムが閉店し、新しいジムへ移って4ヶ月が経った。
慣れ親しんだ場所を離れるのは、年齢を重ねるほど少し勇気がいる。

新しいジムには、見慣れないレッスン名が並んでいた。
とりあえず、いくつか試してみよう。
そう思って参加した中で、思いがけず夢中になったのが UBOUND(ユーバウンド) だった。


UBOUNDとの出会い

UBOUNDは、一人用のミニトランポリンを使ったフィットネスプログラムだ。
高く跳ぶのではなく、低くリズミカルに弾む。
それだけなのに、心肺機能、下半身、体幹を同時に使う、意外とハードな運動である。

このレッスンを支えているのが音楽だ。
EDM(Electronic Dance Music/エレクトロニック・ダンス・ミュージック)を中心に、ビートがはっきりしたダンスミュージックが流れる。

音に合わせて身体を弾ませていると、「運動している」という意識が薄れていく。
気がつくと、音楽に身体を預けている感覚になる。


最初は、怖かった

正直に言えば、最初は怖かった。
「トランポリンから落ちないだろうか」
そればかりが気になっていた。

けれど、音楽が流れ始めると、次第に余計な考えが消えていく。
落ちないことだけに集中していると、いつの間にか嫌なことを考える余裕がなくなっていた。

これは、いい。
ストレスが、音と一緒に抜けていく。

コーチの逞しい筋肉、迷いのない動き、そして絶妙な選曲。
すべてが相まって、圧倒されるような時間だった。

こんなに地上で跳べるなんて。
年齢を忘れそうになる。

このまま、ずっと次の日が来そうな気がした。
未来が、まだ続いているという感覚。


もう一つの発見、アクアビクス

もう一つ、私の中で大きく印象が変わったのが アクアビクス だった。

前のジムにもレッスンはあった。
けれど当時の私は、泳法(4泳法)の習得に夢中で、「水中で踊る」という発想に、あまり関心を持てずにいた。

アクアビクスは、水の浮力と抵抗を利用して行う全身運動だ。
関節への負担が少なく、それでいてしっかりと身体を使う。
音楽に合わせて動くことで、運動が「楽しい時間」に変わる。

ある日、泳法レッスンの後に、そのままアクアビクスが続いていた。
しかも、UBOUNDと同じコーチだった。

プールサイドでは、事前に「シンデレラ・ハネムーン」が流れていた。


アバンギャルディと私

私は、アバンギャルディのファンである。
制服姿で、表情を抑え、完璧に揃った動き。
昭和歌謡を大胆に使った、独特の世界観を持つダンスチームだ。

「もしかして、このコーチも…?」
そう思い、アクアビクスに参加した。

選曲は、完全に私好みだった。
動きは難しい。
それでも、とにかく楽しい。

最後に再び流れた「シンデレラ・ハネムーン」。

私は、完全に乗っていた。

コーチがぽつりと聞いた。
「アバンギャルディ、知ってる人?」

思わず手を挙げてしまった。
「はい、ファンです。」

上手かどうかなんて、どうでもいい。
楽しいのだ。


私は、跳んでいる

私は跳んでいる。
地上でも。
水中でも。

未来へ向かって。

気がつけば、私はこのコーチの「推し」になっていたのかもしれない。
若い人の言葉だと思っていた「推し」という言葉が、今はすっと腑に落ちる。

私も、まだまだいけるかもしれない。
未来は、まだあるのかもしれない。

そう思わせてくれる日々を送っている。
67歳の、今。


大寒を過ぎても、厳しい寒さが続いている。
この冬、治療院を訪れる患者の多くが、体の冷えを訴えている。

私は女性専科の鍼灸師として、足先やふくらはぎの冷え、腹部の冷え、全身の冷えなどを日々診ている。
そのような冷えを抱える人には、胃腸の不調があったり、自律神経の乱れがあったり、体のあちこちに痛みを感じていたり、長い間不妊に悩んでいる人も少なくない。
本当に、さまざまである。

不妊に悩む人と向き合うとき、私はすでに子どもを持つ立場であることに、申し訳なさを感じることがある。
それでも、その人たちは本気で、心から子どもを望んでいる。

西洋医学の力を借り、決して安くはない治療を受けながら、かわいい赤ちゃんに会いたいと願っている。
受精しても着床に至らないなど、思うような結果が出なかったとき、医師から鍼灸を勧められて来院する人もいる。

しかし、鍼灸をしたからといって、妊娠するわけではない。
私にできるのは、自律神経の乱れを整え、冷えた体を温め、硬くなった体を少しずつ柔らかくし、「産むことが可能な状態の体」へ戻す手助けをすることだけである。

そうした日々の中で、人はなぜ子どもを産むのだろう、という問いが浮かんでくる。

せっかく得られた命を、自ら断つという行為も、現実には確かに存在する。
私の人生の中でも、そうした出来事に触れた経験が、いくつかある。

若い頃、身近な人が妊娠し、産むことができない状況に置かれた。
当時は今のように情報が簡単に手に入る時代ではなく、限られた選択肢の中で、結果として中絶を選ばざるを得なかった。

それが、その人の人生にどのような影を落としたのか、私には分からない。
ただ、一つの命を断つという経験が、心の奥深くに残るものであることは想像できる。

また、教員として働いていた頃にも、若い女性が同じような選択を迫られたことを、後になって知ったことがある。
大人として、教育に携わる立場として、何ができたのかと考えたが、その問いに、今も明確な答えは出ていない。

世の中には、これほど子どもを望む人がいる一方で、生まれなかった命があり、生まれてほしくなかった命があり、生まれたあとに重い現実を背負う人生もある。

私自身は、二人の子どもを産んでいる。
一人目の出産では、後産の処置が不十分で、大量出血を起こし、命の危険にさらされた。
あのとき、私は死んでいてもおかしくなかった。

一つの命を生み出すことは、母親自身の命を危険にさらすことでもある。
生む(産む)という行為は、それほどの危うさを内包している。

人生には、特に女性には、生むこと、生まないこと、生めないことがある。
多くの人は赤ちゃんをかわいいと思う。
しかし、どのような家族関係を築くかによって、その思いが変わることもある。

どれが正しいという話ではない。

人は人に助けられながら生きる。
それでも、生まれてくるときは一人であり、家族をつくっても、つくらなくても、最後は一人で死んでいく。

だからこそ、自分の人生を他人と比べることなく、自分自身で見つめて生きることが大切なのだと思う。

その上で、生むこと、生まないこと、生めないことがあったとしても、自分を責めることなく、生きていけたらいい。

※本文では、出産という身体的行為を指す場合は「産む」、女性の意思や生き方として語る場合は「生む」を用いている。

去年の11月、ニュージーランドに暮らす息子家族五人が、一か月間の日本の学校・保育園体験のために来日した。
上の二人は、小学校一年生と保育園の年中。三人目の孫は、生後四か月だった。

赤ちゃんを連れての長時間フライトに、私と夫は正直、言葉を失った。
けれど、義理の娘はあっけらかんと言った。
「0歳児は動かないから、楽よ」

彼らは別のマンションに滞在し、私たちは登下校や通園の手伝いをした。
上の二人は、日本の学校や保育園の中で、日本語に囲まれて生活した。

三番目の孫は、ちょうど人見知りが始まった頃だった。
少し抱っこすると、すぐにお母さんやお父さんを探して泣き出す。
長い時間は抱いていられなかった。

やがて家族はニュージーランドへ帰った。
それからは、フェイスタイム越しに成長を見る日々が続いている。

新年になり、義理の娘がインスタグラムに動画を上げていた。
三番目の孫が、床にちょこんとお座りをしている。
お母さんが一言声をかけると、ケラケラと声を立てて笑う。
それを、何度も繰り返している。

はあ、と息をついた。
この子は、こんなに笑うこともできるようになったのか。
こんなにも早く、こんなにも豊かに、成長しているのか、と。

その次の日のフェイスタイムでは、
三番目の孫はベビーチェアに座り、両手でテーブルをバンバンと叩いていた。

上の子が、水を入れたストロー付きのボトルを、父親――私の息子のところへ持ってくる。
父親がそれを少し振ると、赤ちゃんは目を離さず、
欲しい、欲しいというように手を動かす。

まだ、はっきりした言葉はない。
けれど、そこには確かなやりとりがある。

その様子を見ながら、私はふと、昔のことを思い出していた。
この子の父親――私の息子が、まだ小さかった頃のことだ。

私は大学院時代に一年間、アメリカへ留学した。
TOEFLのスコアもそれなりに高く、正規留学だったが、最初は講義の英語がまったく聞き取れなかった。
音は聞こえるのに、意味にならない。

三か月ほど経ったある日、
「あれ、今の、聞こえたかもしれない」
そう思えた瞬間から、理解は一気に広がった。

その経験から、私は「聴くこと」が言葉の根幹だと学んだ。
だから、我が子が生まれたとき、
この子に残せるものがあるとすれば、
英語と日本語を同時に手渡すことだと思った。

時間を決めて、日本語と英語を分けて話しかけた。

ところが、息子の言葉の出始めは、少し遅かった。
心配になり、保健所に相談したこともある。

けれど、間もなく彼は何かを話し始めた。日本語なのか、英語なのか?
ある日、保育園の散歩で、手押し車に乗っていた息子が、
橋のたもとで野菜や果物を売るおばさんを見て、
突然、「apple」と言ったのだそうだ。

日本語より先に出た、英語の「りんご」。
その場にいた先生も、子どもたちも驚いたという。

言葉は、教えた順に、思い通りに出てくるものではない。
あのとき私は、そう実感した。

息子が五年生の頃だっただろうか。
英検二級を受け、二次試験の面接を終えて帰ってきた。

私は、何気なく聞いた。
「どんな話だった?」

すると息子は、楽しそうに言った。
「中国のでっかい壁」

万里の長城を見たこともない。
詳しい名前も、歴史も知らない。
それでも、「中国にあって、とても大きな壁」という意味を受け取って、
会話は成り立っていた。

そのとき私は、はっとした。
ああ、言葉は、全部を知らなくても通じるのだ。
単語や知識が十分でなくても、
意味が共有されれば、コミュニケーションは成立する。

直感的に、合格するかもしれない、と思った。
そして実際、息子は合格した。

今、その息子は父親になり、
赤ちゃんに向かって、振り、見せ、待つ。
言葉を語りかけ、やりとりをしている。

言葉は、音や単語になってから始まるのではない。
人と人とのあいだで、
関係の中で、すでに育ちはじめている。

上の孫たちが日本で過ごした一か月。
三番目の孫の笑い声と、叩く手。
そして、その父である息子の「apple」と、「中国のでっかい壁」。

それらが一本につながって、
私は今、そう感じている。

言葉は、教えるものではなく、
人と人のあいだで、育っていくものなのだと。

(補足)
TOEFL とは
Test of English as a Foreign Language

日本語にすると、
「外国語としての英語能力試験」

何を表す試験?
主に 英語圏の大学・大学院への留学 のために使われる
読む・聞く・話す・書く の4技能を測る
世界中で通用する英語試験

ひとことで言うと
「英語で授業についていけるか」を測る試験

松山エデンの園への入居が決まり、少しずつ準備を始めている。
学んでいる鍼灸で区切りの試験があり、その直後で、気持ちも身体もまだ疲れている。書くことが好きな私でも、考えをまとめるのが大変である。しかし、記録を兼ねて、少しでも前に進みたい。
まず衣類から始めることにした。
衣類といっても、いわゆる洋服だけでなく、下着や着物も含まれるので、ここではまとめて「衣類」と呼ぶことにする。
すでに、昨年の12月にエアコン工事立ち合いで松山エデンの園の自室に行った際、「一番着そうなもの」を季節ごとに2〜3着運んでいる。
今回は、残された衣類をどう選別するかという作業である。老人ホームと言ってもマンションのようであるが、流石に収納は限られる。ある意味で、感情の問題かもしれない。「これは私にとって衣類なのか、もう不必要なゴミなのか?」その線引きに迷う。頭ではわかっている。でも、週に2回のゴミの日に、生ゴミなどと一緒に並べて、かつて活躍してくれた衣類を袋に入れて出す決断に時間がかかるのだろう。
これまでも、子供達が巣立った後、彼らの物を整理し捨てる際には包装紙などで包んでゴミ袋に入れ、気持ちを切り替えて捨ててきた。
今回の衣類整理も、きっと同じなのだと思う。
未使用のものもあり、メルカリで売ることも考えた。
けれど、衣類は思っていた以上に難しい。サイズや体型、条件の制限があり、誰でもが私の衣類を着られるわけではない。まとめ販売も難しい。衣類は、その人特有のものなのだと、改めて感じた。だから次第に、無理に手放し先を探すより、自分の中で区切りをつけて捨てる方が良いと思うようになった。
両親の生き方、そして義理の両親の生き方が大きく影響していると感じる。私の母はまだ健在だが、認知症で施設でお世話になっている。空き家になった実家には、亡き父と母の衣類が山のように残っている。母は捨てられない人だった。そしてこれから先、それらをどうするかは、妹と私の決断になると思う。
一方で、夫の両親が亡くなった後、夫は業者に依頼してすべてを処分し、家はリフォームされ、今は他の人が使っている。
自分にとって大事なものが、残された人にとっては、負担や迷惑になることもあるーその事実に、私たちはもっと気づく必要があるのではないかと感じている。

私が67歳で松山エデンの園への入居を決めたのは、自分の意志が自分で決められるうちに、自分の最期を決めておきたかったからである。
細々ではあっても、カノン鍼灸/英会話サロンをまだまだ継続できたと思う。
でも人はいつかこの世に別れを告げる。1人では死ねない。特に日本の文化や法律では残された者の負担が重いことが多い。子供達は遠方で自立して暮らしている。子どもたちに、迷惑をかけたくない。あるいは、「負担を残したくない」。
私は献体をし、解剖していただき、その後は散骨希望という遺言書を書いている。残さない、という選択である。

衣類の整理は、そのためのほんの一つのステップにすぎない。けれど、その「ほんの一つ」が、思っていた以上に時間を要している。
すべて捨ててしまえば楽になる。それでも、気持ちに整理をつけながら進みたい。
だから、こうしてブログという形で言葉にしているのだろう。