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今日は右側の食堂の席で過ごす中で、周りの人が使っている道具や、その場の仕組みにふと目が向いた。

右側の席は、自分で食事を運ぶのではなく、職員が食事を運び、下膳まで行ってくれる席である。つまり、生活の動作そのものに介助が入る場所である。

その中で、自分は現在、手を骨折しているためにその席に座っている。本来であれば足が悪いわけでもなく、年齢としても周囲の中では比較的若い部類に入る。しかし、その場にいる以上、例外ではなく「助けてもらう側」であることに変わりはない。

最初はその状況に少し違和感があった。自分だけが少し違う立場にいるような感覚があった。しかし何度かそこで食事をするうちに、「自分も今は助けてもらう立場なのだ」ということが、だんだんと実感として入ってきた。

お盆を運ぶこと自体が思っていた以上に重く、食事が乗っている状態はもちろん、食べ終わって軽くなったものでさえ運ぶことができない。そのことが身に染みてわかり、人に助けてもらうことの意味が初めて具体的に理解できた。

同時に、それを受け入れることの大切さも感じた。恥ずかしさや申し訳なさのような気持ちは自然に出てくるが、それをそのまま抱えていると、自分の今の状態を受け入れることが難しくなる。今の自分は今の自分として受け入れなければ、介助という仕組みにも入っていけないのではないかと思った。

助けてもらうことは特別なことではなく、その時々の状態に応じた自然な関係なのだという感覚が、少しずつ自分の中に生まれてきている。

また同時に、食堂の中では歩行補助具や車椅子など、さまざまな道具が使われており、それぞれが生活を成立させるために役割を持っていることも見えてきた。

今はまだ、その全体を理解しながら、自分の中で整理している途中である。


重大事件を起こした少年たちは、施設で罪と向き合うだけではなく、「その後どう生きるか」という、とても重い課題を背負っていることを知った。

この章で最も印象に残ったのは、施設の職員が少年たちに「嘘をつくこと」を教える場面だった。

名前や過去、事件について聞かれたとき、どう答えるかを一緒に考え、社会へ戻るための予行演習を行う。

教育者が嘘を教えるということに最初は驚いた。

しかし、それは罪から逃げるためではなく、事件を面白半分に語る人や、憶測や噂を広げる人々から少年たちを守り、社会の中で生き続けるための技術でもあることが少しずつ理解できた。

一方で、彼らは施設の中でも本当の自分を隠し、仮面をかぶって生活している。

仲間ができても、「事件を知られたら離れていくかもしれない」と思えば、心から安心することはできない。

「本当の僕はどこにいるんだろう。」

その言葉が、この章を象徴しているように感じた。

また、先生は、重大事件を起こした少年ほど、朝起きること、三食食べること、人と協力して生活することといった、ごく当たり前の日常を取り戻すことが、更生の第一歩になると書かれていた。

私たちには当たり前すぎて気づかない日常が、彼らにとっては失われていたものだったのである。

そして最後に書かれていた、

「社会に出た時、事件を含めた彼らをそのまま受け入れてくれる人が、一人でもいてほしい。」

という言葉が胸に残った。

罪は消えない。

責任も消えない。

それでも、人は社会の中で生きていかなければならない。

この章は、重大事件そのものではなく、「罪を背負ったまま、どう社会とつながって生きていくのか」を静かに問いかける一章だった。


今日は雨だった。

午前中は歯科医院へ行き、その後、愛媛新聞の経済欄を読んでいた。

何気なくスーパーの折り込み広告を見ていると、一枚の葬儀会社のチラシが目に留まった。

「新規会員登録で商品券プレゼント」
「会員登録で○万円割引」
「入会金・積立金不要」

そのデザインは、まるで卵98円や野菜の特売を知らせる広告と変わらなかった。

もちろん、葬儀会社にも経営がある。

仕事として続けていく以上、利用者に知ってもらう努力も必要なのだろう。

だから私は、その広告を批判したいわけではない。

ただ、どうしても気になることがあった。

思わずフリーダイヤルへ電話をかけてしまった。

担当の方は、とても丁寧だった。

直葬とは何か。

家族葬38プランと58プランの違い。

造花と生花。

僧侶の手配。

戒名。

一つひとつ、分かりやすく説明してくださった。

話を聞きながら、私は「なるほど」と思う一方で、

「それは本当に必要なのだろうか。」

という疑問も、次々と湧いてきた。

広告をきっかけに、子どもの頃の記憶まで思い出した。

お坊さんがお経をあげに来られるたび、母がお布施のことを気にしていたこと。

戒名のお話。

子どもだった私は、足がしびれるほど長いお経を聞きながら、「これは何のためにしているのだろう」と考えていた。

その頃の疑問は、大人になった今も、完全には消えていない。

その後、私は家族(義父)の献体を経験した。

医学教育のために体を役立てたいという本人の希望がかなえられ、医学生たちが学び終えた後、一緒にお骨を拾った。

その時間は、悲しみだけではなく、「最後まで社会の役に立てた」という静かな喜びでもあった。

その経験から、私自身も献体を希望するようになった。

できれば散骨を希望したい。

立派なお墓も望んでいない。

そこに私がいるとは思わないからである。

それは死を軽く考えているからではない。

残された家族に、できるだけ負担を残したくない。

それが、私なりの最後の願いだからである。

人には、それぞれ大切にしたい送り方がある。

宗教も違えば、家族の考え方も違う。

豪華な祭壇を望む人もいれば、静かに見送りたい人もいる。

そのどれも否定するつもりはない。

ただ私は、故人を思う気持ちは、祭壇の大きさや花の数、戒名のランクで測れるものではないと思っている。

一枚の広告から始まった小さな疑問は、いつの間にか「人を送るとは何だろう」という問いへ変わっていた。

私には、まだ答えは出ていない。

けれど、この広告は私に、「人は何のために人を送るのだろう」と問いかけてくれた。

そしてその問いは、葬儀についてだけではなく、「私は人生をどう締めくくりたいのか」という問いでもあった。

その答えを探しながら、私はこれからも、自分らしく毎日を生きていきたいと思っている。


今日の東京市場は、「迷い」と「期待」が綱引きをした一日だった。

朝、市場は弱気だった。

アメリカのハイテク株が下がった影響で、「今日は売っておこう」という人が多く、日経平均は大きく下落した。

ところが10時ごろから流れが変わる。

「AIはまだ伸びる。」
そう考えた投資家が買い始め、市場の空気が一気に変わった。

朝は不安が勝っていた市場が、午後には期待の方が大きくなり、日経平均は69,000円台を回復して一日を終えた。

市場は、数字だけで動くのではなく、人の心理でも動くことを改めて感じた。

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今日はいくつか新しい言葉も覚えた。

「物色される」とは、投資家に選ばれて買われること。

「出遅れ感」とは、まだあまり値上がりしていないので、「次はこの会社かもしれない」と期待されること。

「TOB」は、会社が株を一定の価格で買い集める方法。

「非公開化」は、上場をやめて、証券取引所で自由に売買されなくなること。

「持分法適用会社」は、一部を所有して経営に参加している会社で、完全子会社とは少し違う。

どれも新聞では当たり前のように使われるが、意味がわかると記事の内容がぐっと理解しやすくなる。

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今日一番印象に残ったのは、「増収増益なのに株価が下がる会社」があったことだった。

最初は矛盾しているように思えた。

でも株式市場は、「去年より良くなったか」ではなく、「市場が期待していたほど良かったか」を見ている。

つまり株価は、現在だけではなく未来への期待で動いている。

会社の成績表ではなく、未来の通知表なのだと感じた。

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為替も同じだった。

「1ドル=160円79銭」と書かれていても、「0円02銭高」と書かれていることがある。

これは現在の値段と、比較している基準時刻が違うからだ。

新聞を読むときは、「数字」だけでなく、「何と比べているのか」まで見ることが大切だと学んだ。

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今日の新聞を読み終えて思った。

株価も為替も、結局は人が動かしている。

不安になれば売り、期待すれば買う。

経済欄を読んでいるようで、その向こうには、人の気持ちが毎日描かれているのだと思った。


左肩を骨折した私は、手術までの約一週間を三角巾とバストバンドで過ごした。

三角巾は少し動くだけで緩んでしまう。そのたびに介護士さんに巻き直していただいた。

皆さん本当に親切だった。

「いいよ、遠慮しなくて。」

そう言って忙しい仕事の合間に何度も来てくださった。

ただ、今では三角巾を巻く機会も少ないのだろう。巻き方は人それぞれで、毎回少しずつ違っていた。もちろん誰が悪いわけでもないのだが、私にとってはなかなか落ち着かず、少しつらい時間でもあった。

そこで、自分で装着できるものはないかと探して見つけたのが、医師と理学療法士が監修したアームホルダーだった。

肩・親指・肘の三点で腕を支え、ワンタッチで装着できる。男女兼用、左右兼用で、携帯電話が入るポケットまで付いている。

実際に使ってみると、とても快適だった。

自分一人で着けられるようになり、「すみません、またお願いします」とお願いする回数がぐんと減った。

腕だけでなく、気持ちまで支えてもらったような気がした。

ところが、箱の中には思いがけないものが入っていた。

それは「手足のツボ押しガイド」である。

「最近、体の不調を感じていませんか?」

そんな書き出しから始まり、手や足いっぱいに「頭痛」「糖尿病」「花粉症」「高血圧」「便秘」などの反射区が細かく描かれていた。

私は思わず読み始めてしまった。

実は私は鍼灸師でもある。

国家試験のために経絡や経穴(ツボ)を学び、標準的な経穴を勉強してきた。

だからこそ驚いた。

そこに描かれていた手や足の「ツボ」は、私が学んできたものとは全く別の配置だったのである。

もちろん、世の中にはリフレクソロジーや独自の反射区理論など、さまざまな考え方があることは知っている。

以前、台湾式の足つぼを受けたこともある。

施術者は私の足のある場所を押しながら、「スタマック(胃)」と言った。確かに私は胃が弱い。

そんな経験もあったので興味深く見比べてみたのだが、今回のパンフレットの配置は、それともまた違っていた。

だから私が一番気になったのは、「正しいかどうか」ではない。

「この理論は、どこから来たのだろう。」

その一点だった。

パンフレットには出典も参考文献も書かれていない。

最後のページには「ツボ押しのポイント」として、「血の流れを感じるところ」「正しいツボの押し方」「呼吸のタイミング」なども紹介されていた。

もちろん、健康に関心を持つきっかけになることは良いことだと思う。

しかし、ツボという世界は、それだけで語り尽くせるほど単純なものでもない。

だからこそ私は、「どの理論をもとに作られたものなのだろう」と、つい考えてしまった。

とはいえ、このアームホルダーそのものは本当に素晴らしい商品だった。

骨折した私の日常を支えてくれた、大切な相棒である。

夫も「これは良かったね」と言って、同じものをもう一つ注文してくれたほどだ。

だからこそ、なおさら不思議だった。

これほど使いやすい製品に、なぜ出典の分からないツボのパンフレットが添えられていたのだろう。

答えは分からない。

でも、一枚の紙のおかげで、私は久しぶりに「ツボとは何か」「情報には出典があることの大切さ」を考える時間をもらった。

便利なアームホルダーは左腕を支え、一枚のパンフレットは私の知的好奇心を支えてくれた。

そんな、思いがけない出来事だった。


今日は食欲があまりなく、軽く何かを口にできればいいと思って、こんにゃくゼリーを食べた。

そのとき手に取ったのが、マンナンライフのこんにゃくゼリーだった。いつもと少し違って、「アサイーボウル」と書かれていた。

でも、食べながら不思議に思った。

アサイーボウルとは何だろう。
名前は知っている気がするのに、ちゃんとした説明は思い出せない。

原材料を見ても、それらしい説明はほとんどない。
ぶどう、りんご、ブルーベリー、バナナピューレ、そしてアサイーエキスと書かれているけれど、「アサイーボウル」という料理そのものの説明にはならない。

調べてみると、アサイーボウルとは本来、ブラジル発祥の食べ物で、アサイーという果実をスムージー状にして、果物やグラノーラなどをのせて食べるものらしい。

つまり、本来のアサイーボウルは“器に盛られた食事”であって、こんにゃくゼリーとはまったく別のものだ。

それなのに、なぜこの商品には「アサイーボウル」という名前がついているのだろう。

味のイメージなのか、流行の名前なのか、それとも単に雰囲気を借りただけなのか。説明はどこにも書かれていない。

食べ物の名前は、本来は中身を説明するものだと思っていた。
でも実際には、名前だけが先に届いて、中身はあとから想像するものもあるのかもしれない。

そう考えると、「アサイーボウル」という言葉だけが少し浮いて見えた。

注: アサイーボウルとは、ブラジル発祥のスイーツ(または軽食)です。ポリフェノールや鉄分が豊富な「スーパーフード」のアサイーをスムージー状にし、グラノーラやフレッシュフルーツをトッピングして作られます。ハワイで大ブームとなり、日本でも朝食やカフェの定番として親しまれています。


朝から雨の一日だった。
歯科医院へ、7通目の紹介状を持って向かった。

診察の結果は「異常なし」。
ほっとする一方で、これまでの流れをふと振り返る時間になった。

静岡で使っていた診察券は、いつの間にか貴重品袋から消えていた。
どこかにまとめて片付けたのだろうと思いながらも、少しだけ時間の流れを感じた。

紹介状は7つ目が終わり、来週の泌尿器科で8つ目が一区切りになる。
その後は、胃カメラ、人間ドック、整形外科のフォロー、膵臓のMRIなど、すでに予定は続いている。

病院というものは、単独では完結しない。
紹介状があって初めて、次の場所へとつながっていく。

今回の一連の受診を通して、改めて感じたのは、
医療とは「治療そのもの」だけでなく、「情報の引き継ぎ」で成り立っているということだった。

紹介状を揃え、予約を取り、次へ運んでいく。
それは小さな作業の積み重ねだけれど、確かに自分の体を支える仕組みになっている。

すべてが終わったわけではない。
むしろ、これからも検査と付き合いながら生きていく。

それでも今日は一つの節目だった。
自分の体を守るために続けてきた流れが、きちんと形になっていると感じた日だった。


🟨物語バージョン

体の中には、毎日休まず働いている「浄水場」がある。

その中心にいるのが、腎臓という二つの小さな工場だった。

腎臓はただの“ろ過装置”ではない。
そこにはもう一つの役割があった。

「血を作れ」という指令を出す仕事だ。

ある日、腎臓は静かにホルモンを出す。
それはエリスロポエチンという小さなメッセージ。

そのメッセージは骨の中の骨髄へ届き、
「赤血球をもっと作りなさい」と伝える。

こうして血は新しく保たれていく。



一方で、腎臓の中には「腎小体」という細かいふるいがある。

そこでは、血液がゆっくりとこし取られていく。

必要なものは戻され、
いらないものだけが残される。

尿素、尿酸、余分な水分たち。

それらは原尿となり、尿細管という長い道へ進んでいく。



その途中で、体はもう一度選び直す。

「これはまだ必要か?」
「これは捨てるか?」

そうして最終的にできあがるのが尿だった。



尿はほとんど水でできている。
でも完全な水ではない。

老廃物という“体の残りかす”を少し含み、
時にはごくわずかにホルモンの名残も混ざる。

それは、体が一度使ったものの記録のようでもあった。



腎臓の上には副腎がある。

そこではアルドステロンというホルモンが働き、
塩分と水分のバランスを静かに調整している。

「残すもの」と「出すもの」を決める、もう一つの管理者だった。



こうして体は、
毎日静かに“内側の浄化”を続けている。

誰にも気づかれないまま。


1階では、笹の葉にみんなが願い事を書いて吊るしている。
「健康でありますように」「骨折が治りますように」「病気が良くなりますように」「孫が元気に育ちますように」──内容は似ているけれど、それぞれの人生がそのままにじんでいるように感じる。

最初は、正直「幼稚園じゃないのだから」と思った。
けれど、折り紙や色紙、マジックペンが用意され、職員の方が書くのを手伝ってくれるうちに、笹の飾りは少しずつ形になっていった。
気がつけば、とてもきれいで、見ていて悪くないと思うようになっていた。

生活の中の、ささやかな楽しみ。



7月7日の夕食メニューが掲示されていた。

ご飯、ハモの冷し鉢、長芋の煮物、ツルムラサキのおひたし、ミョウガとオクラの吸い物、ミニケーキ。

栄養量は524kcal、たんぱく質24.1g、脂質9.3g、炭水化物86.7g、塩分2.0g、食物繊維4.0g。

紫色のきれいな用紙に印刷されているのを見て、少し楽しみになった。

入院当初は食事に特別な感情はなかったが、今は「行事食」というだけで気持ちが動く。
子どもが誕生日会を楽しみにするように、日常の食事にも小さな楽しみが生まれる。

慣れてきたのか、気持ちに余裕が出てきたのかは分からない。
ただ、「あ、いいな」「ちょっと楽しみだ」と思える瞬間が増えた。



自分でも七夕飾りを作った。

「孫3人が元気に大きく育ちますように」と書いた短冊。
和柄の折り紙で作ったパクパクの飾りを3つ、それぞれ孫の名前を書いて職員さんに繋いでもらい吊るしてもらった。

さらにもう一つ、和柄の折り紙で別の飾りを作ろうと思っている。
小さな四角を貼り合わせてつなげていくもので、他の人の作品もとてもきれいだった。



ここには、遠くへ出かけられない人や、部屋で過ごす時間が長い人も多い。
だからこそ、こうした小さな行事や飾りが大切になるのだと思う。

大きな出来事ではないけれど、日常の中にふっと差し込まれる小さな楽しみ。
それを「楽しい」と感じられるようになってきたこと自体が、自分の変化なのかもしれない。

生活を楽しむとは、こういうことなのだと思う。


骨折してから、生活の中で一番困ったことのひとつは、デンタルフロスが使えなくなったことだった。

もともと私は歯並びに強いコンプレックスがあり、歯の状態も決して良いとは言えなかった。歯科では「フロスは下に引き抜くのではなく横に抜くように」と繰り返し指導されていたが、つい癖で下へ引いてしまい、そのたびに失敗したと感じていた。

しかし左手が使えなくなったことで、フロスそのものがほぼ不可能になった。

そこで、デンタルピックを2種類使う方法に切り替えた。少し太めのフロスで歯間の汚れを取り、取り切れない部分を細いピックで除去する。その後、電動歯ブラシで通常の倍ほど時間をかけて丁寧に磨くようにした。

特に磨きにくい歯茎の部分は意識して時間をかけるようにしている。電動歯ブラシである。以前、歯科医から「年齢とともに歯茎は下がり、その部分が痛みやすくなる」と聞いたことがあり、その言葉が頭に残っている。

骨折後は、その方法で何とか歯のケアを続けてきた。

また、下の歯が折れたときには治療方針の選択が必要になった。息子(歯科医)に相談したところ、「お金がいくらかかってもインプラントにした方がいい。将来絶対に違う」と強く勧められた。40万円程度、あるいはそれ以上かかる可能性もある中での選択だったが、その助言に従いインプラントを選んだ。

結果として、この判断はとても良かったと感じている。取り外す必要もなく、使いやすさも含めて、日常生活の快適さが大きく違っている。

今回の一連の受診には背景がある。

松山日赤で骨折の手術を受ける前に、術前検査として歯科の受診が必要となり、それが6月24日の検診だった。口腔内に感染源がないか、手術中に問題となる歯がないかを確認するためのもので、結果は「治療が必要な歯はなく、清掃のみで問題なし」という内容だった。

そして今日は、静岡の長年通っていた歯科医の先生が書いてくださった紹介状を持って、松山で初めての歯科受診になる。

これは「別の歯科に行く」というよりも、「これまでの治療の流れを引き継ぐ受診」に近いものだと感じている。

今日は朝から雨で、寒いと感じるほどの天気だった。カッパを着て、転ばないように気をつけながら向かうつもりでいる。

正直なところ、静岡での4月20日の定期検診、6月24日の術前検査、そして今回と短い間隔での受診が続いているため、大きな変化があるとは思っていない部分もある。

それでも骨折という状況の中で、必要な流れとして受け止めている。

今日は9時の予約なので、遅れないように向かう予定である。 徒歩五分程度だが、職員の皆さんから転ばないようにと声をかけていただいている。


私は長い間、節約というより「先に守る」生き方をしてきた。

給料が入るとまず貯金に回す。
残ったもので生活する。
それが当たり前だった。

母から婦人雑誌を通して学んだこともあり、「貯蓄は先に取るもの」という考え方が生活の中心にあった。

金(ゴールド)を持っていた時期もある。
安定資産だと信じていたが、値動きを経験し、永遠に安全なものはないことも知った。

そして数年前、浜名湖のエデンの住まいの話を聞いたとき、最初は現実的ではないと思った。
3000万から5000万という金額は、自分には遠い世界のようだった。

しかし、夫と相談しながら家計を設計し直した。
私の給料や年金を積み立てる形で将来を組み立て、必要な経費以外は徹底して貯めることにした。

気づけば、エデンに入るための資金が整っていた。
それは大きな収入があったからではなく、長い時間の積み重ねだった。

今、そこに住む選択をしている。
後悔はない。むしろ、自分たちでここまで作ってきたことが不思議なくらいだ。

大きな富があったわけではない。
ただ、夫と二人で考え続けてきた結果として、今がある。

これから先、また何か仕事の形が見つかればいいと思っている。
今は骨折の回復もあり、少し立ち止まりながら、次の機会を待っている。


寝る前に髪をとかしたら、白い毛が一本抜けた。
昔は黒い毛の中に白が混ざっていたのに、最近は白い毛そのものが目につくようになってきた。

抜け毛自体は前から気になっていた。
シャンプーのとき、ドライヤーのとき、ブラシに絡まる髪を見るたびに、少しずつ心がざわつく。

出産後に一気に髪が抜けた時のことを思い出す。
あの時は本当に、髪がなくなるのではないかと思うほどだった。
それと比べれば今は落ち着いているはずなのに、白い毛を見ると別の種類の不安がある。

ヘナで染めて、自分で手入れをして、モルティのローションも続けている。
それでも髪は静かに変わっていく。

年齢という言葉で片づけていいのか、まだ少し分からない。
ただ、夜に一本の白い毛を見て、少しだけ自分の時間の流れを感じた。


今日は『少年たちの贖罪』第五章「事件への長い道のり ― いきなり型非行と呼ばれた少年」を読み終えた。

この章を読みながら、私は何度も教員時代のことを思い出していた。

少年は、成績優秀で真面目な生徒だった。

学級委員も務め、周囲からは「手のかからない子」と見られていた。

しかし、その家庭では祖父の介護があり、農業を営む家族を支えるため、朝食を作り、おむつを替え、家族の役割を担っていた。

学校では、その事情を誰も知らなかった。

教師は遅刻を注意し、生徒は理由を言わなかった。

そのすれ違いが積み重なり、取り返しのつかない事件へとつながってしまった。

もちろん、教師を刺すという行為は決して許されるものではない。

しかし、この本が伝えようとしているのは、事件を正当化することではなく、「事件は突然起きたように見えても、その人の中では何年も前から始まっていた」という事実なのだと感じた。

少年は、自分の体臭への恐怖、人には言えない介護、将来への不安、自分でも制御できない怒りを抱えながら生きていた。

それでも成績は良く、大きな問題も起こさなかったため、周囲は「普通の子」だと思っていた。

青島先生は、「普通の子などどこにもいない」と書かれている。

この言葉が、私は一番心に残った。

教員をしていた頃、私は「手のかからない子ほど気をつけなければ」と思っていた。

成績が良く、目立たず、問題を起こさない生徒ほど、本当の気持ちを見失いやすいことがある。

一方で、教師もまた一人の人間であり、学校という組織の中で多くの生徒を指導しなければならない。

規律を守ることも求められ、限られた時間の中で一人ひとりの背景まで知ることは簡単ではない。

教育とは、人を教えることと、人を理解しようとすること、その両方を求められる仕事なのだと、改めて感じた。

この章を読んでいて、少年が最後に語った言葉が忘れられない。

「もし誰かに話せていたら、僕は事件を起こさなかったかもしれない。」

本当にそうだったかどうかは誰にも分からない。

しかし、その一言には、長い間誰にも届かなかった苦しみが込められているように思えた。

第五章を読み終えた今、私は「加害者」と「被害者」という二つの言葉だけでは、この事件を語れないことを改めて感じている。

被害を受けた教師の苦しみは決して消えることはない。

一方で、この少年もまた、事件を起こす以前から長い時間、自分自身の苦しみの中でもがいていた。

青島先生は、そのどちらか一方に立つのではなく、「人はなぜそこまで追い詰められてしまうのか」を問い続けておられるのだと思う。

この章は、私に教育の難しさと、人を理解することの難しさを、静かに考えさせてくれた。


今日は、痛み止めの薬について考えていた。

昨日、病院でもらってきた領収書や診療明細書が何枚も机の上に置いたままになっていたので、整理してみようと思った。

すると、ふと、

「今回の骨折で、私は全部でいくらかかったのだろう。」

そんな疑問が浮かんだ。

今までは領収書を保険や医療費控除のために保管するだけだったが、今回は診療明細書に書かれている「診療報酬点数」という数字が気になった。

手術の欄には「34,722点」と書かれている。

私は初めて、「この点数って何だろう」と調べてみた。

そこで初めて知った。

日本では、診療報酬は1点10円で計算され、私たちが支払っているのは、その一部であること。

私は3割負担しか支払っていなかったが、実際にはもっと多くの医療費がかかっていた。

改めて、日本の医療保険制度に支えられていることを実感した。

そう考えているうちに、若い頃のことを思い出した。

顔面神経麻痺になり、少しでも良くなりたくて、鍼灸院へ通った。

一回数千円の治療費を工面しながら通院していた頃、初めて「医療費控除」という制度を知った。

それ以来、およそ40年近く、毎年欠かさず医療費控除を申告してきた。

病院ごとに領収書をまとめ、処方された薬も整理し、日付順に並べる。

夫の分も合わせて計算し、共済への給付申請も行う。

決して楽な作業ではなかった。

病気になることは望んだことではない。

けれど、その経験があったからこそ、医療制度や保険、医療費との向き合い方を少しずつ学んできたのだと思う。

そして今日は、もう一つうれしいことがあった。

昨日の診察で先生から、

「肘まで使っていいですよ。リハビリになりますから。」

と言っていただいた。

その言葉どおり、シャワーの時に少しだけ肘を動かしてみた。

まだ不自由さは残っている。

それでも、髪を自分で結べるようになり、シャワーも少し楽になった。

ほんの少しの変化だけれど、とても大きな前進だった。

痛み止めから始まった今日だったが、最後は、自分の体の回復と、長い年月積み重ねてきた医療との付き合い方を振り返る一日になった。

病気は決して望むものではない。

でも、病気から学んだことは、確かに今の私をつくっているのだと思う。


今日は珍しく、昼食代わりに寒天を食べたあと、あまりのだるさに横になった。

アイマスクをしてカーテンを閉めると、そのまま眠ってしまい、気がつけば約3時間が過ぎていた。

こんなに昼間眠ったのは、本当に久しぶりだった。

目が覚めた瞬間、最初に頭に浮かんだのは、

「この眠気は、ひょっとしたら痛み止めのせいではないか。」

ということだった。

昨日から飲み始めた新しい痛み止めは、骨折した腕の痛みを和らげるために処方されたものだ。

薬の説明書を読むと、「眠気」「吐き気」「便秘」などの副作用が書かれていた。

今日は吐き気はなかったが、普段は毎日ある便通もなかった。

もちろん、それだけで薬のせいだと決めつけることはできない。

それでも、自分の体の変化と薬の説明書が自然につながったことに、自分でも少し驚いた。

昔の私は、処方された薬は「飲むもの」だった。

仕事を続けるために、薬も栄養ドリンクもゼリー飲料も、その日の体を支える手段として受け入れていた。

教員をしながら夜間に鍼灸学校へ通っていた頃は、とにかく一日を乗り切ることが最優先だった。

ところが、鍼灸学校で体の仕組みや薬について学び、その後、薬について改めて勉強を始めたことで、少しずつ考え方が変わってきた。

薬はただ飲むものではなく、「どんな成分が、どこに作用し、どんな変化が起こるのか」を知りながら付き合うものなのだと感じるようになった。

今は仕事を離れ、自分の体をゆっくり観察できる時間がある。

骨折という出来事は決して嬉しいことではなかったが、そのおかげで、自分の体の変化に耳を傾ける時間も生まれた。

学ぶということは、知識が増えることだけではない。

自分の体の小さな変化に気づけるようになることでもある。

今日の昼の眠気は、そんなことを静かに教えてくれたような気がした。


今日は、エデンの園に呉服店「檜木屋(ひのきや)」さんが来られるというお知らせを見て、少しだけ洋服を見に行った。

本当は疲れていたので昼寝をしようと思っていたのだが、せっかくだから一度見てみようと思った。

店頭には、70代、80代、90代の入居者の方々に合うような、落ち着いた色合いで、ゆったりと着られる洋服が並んでいた。

価格も2,000円前後と手頃で、決して悪いものではない。

でも、見ているうちに、「これは私が着たい洋服ではないな」と思った。

私は静岡から夏物の長ズボンを持って来るのを忘れていたので、自転車に乗れるようになった時のために、丈夫なパンツがあればと思っていた。

骨折を経験した今、もう二度と同じようなけがはしたくない。

以前、自転車で転倒した時も、長ズボンやジャケットを着ていたおかげで、擦り傷がずいぶん軽く済んだ経験がある。

だから私が探しているのは、おしゃれというより、機能性のある服だった。

思えばここ数年、洋服はほとんどユニクロやGU、そしてワークマンだった。

動きやすく、丈夫で、価格も手頃。

「これを着て出かけよう。」

そんな気持ちになれる服が好きだった。

さらに思い返すと、私の生活は運動が中心だった。

自転車でジムへ行き、水泳をして、ズンバやユーバウンド、時には太極拳。

アリーナやスピードの水着を何着も持ち、帽子やゴーグル、耳栓までそろえ、毎日のように泳いでいた。

家では運動帰りの服のまま食事を作り、洗濯をし、また翌日もジムへ向かう。

そんな生活が当たり前だった。

だから今日並んでいた洋服に違和感を覚えたのは、年齢の問題ではなかった。

私がこれまで送ってきた生活とは違う価値観の服だったのだ。

一方で、この施設は「終(つい)の住処」である。

入居前の面談で私は、

「ここは終の住処です。ここで人生を終える覚悟で入ります。だから、一緒に暮らす方々とはトラブルなく、適度な距離を保ちながら平和に暮らしたい。」

と話した。

今でもその気持ちは変わらない。

食堂では長く暮らしている方々を尊重し、席も周囲を見ながら選ぶ。

施設内を歩く服装にも節度を持つ。

ここは私一人の家ではなく、多くの方が一緒に暮らす場所だからだ。

だから今日売られていた洋服は、この施設で暮らす多くの方々にとって心地よい洋服なのだろう。

それはよく分かる。

でも、それと私が着たい洋服は、また別の話だった。

相手を尊重することと、自分らしさを失うことは違う。

今日、洋服を見に行っただけなのに、そんな当たり前のことを、改めて自分の中で確認することができた。

きっと私はこれからも、この場所を大切にしながら、自分らしさも大切にして暮らしていくのだと思う。


今日は昼になってもあまり食欲がなかった。

朝ご飯はしっかり食べたし、骨折してからは安静にしている時間が長いせいか、お昼になると「何か食べなきゃ」とは思っても、食べたい気持ちがあまり湧いてこない。

冷蔵庫を開けてみると、夫が買っておいてくれた寒天ゼリーが目に入った。

「これなら食べられそう。」

そう思って一つ取り出した。

登録販売者の勉強を始めてからは、食品の表示を見るのが少し楽しくなった。

原材料や添加物を読んで、「これは何のために入っているんだろう」と考える自分がいる。

そんな自分の変化も面白い。

でも、今日改めて思ったのは、それよりもっと前から、私は寒天が大好きだったということだ。

子どもの頃から、つるん、ぷるんとした食感が好きだった。

胃が弱くなったから好きになったのではない。

ずっと昔から好きだった。

もちろん、お腹が空いているときはちゃんとご飯を食べる。

母にもそう言われて育ったし、自分でも健康には気をつけてきた。

だから寒天は食事ではなく、ご褒美だった。

以前は寒天の粉を買って、自分で作っていた。

砂糖は入れず、固まった寒天に、きな粉とすりごま、そして少しだけはちみつをかけて食べる。

これが私のお気に入りのおやつだった。

あまりにも私が寒天を食べるので、夫は寒天の粉をまとめて買ってくれるようになった。

そのうち、「これ、おいしそうだね」と夫も食べ始め、「あなたが食べると私の分がなくなるよ」と笑い合ったこともある。

最後には夫まで寒天を作るようになり、二人で一緒に食べるようになった。

寒天には、そんな思い出まで詰まっている。

お饅頭も好き。

お煎餅も好き。

疲れた日にはアイスクリームや抹茶のフラペチーノが食べたくなることもある。

それでも、「一番好きな嗜好品は?」と聞かれたら、やっぱり寒天と答えると思う。

こんな話をすると、「そんなに寒天が好きなの?」と驚かれることが多い。

でも、本当に好きなのだから仕方がない。

人には、それぞれ理由のない「ずっと好き」がある。

私にとって、それが寒天なのである。


私は高校の受験指導に長く関わる中で、日本の大学入試制度の変化を現場から見続けてきた。

かつて大学入試は、大学ごとに出題される筆記試験が中心であり、いわゆる難問・奇問も含めて「その大学が求める力」を直接問う仕組みだった。しかしその一方で、地域差や学校差による不公平も大きく、受験生にとって負担の重い制度でもあった。

その流れの中で導入されたのが、全国共通の基準を作るという発想である。共通一次試験、そしてセンター試験、さらに共通テストへと形を変えながら、「全国同一の物差し」で学力を測ろうとする仕組みが整えられていった。

理屈としては公平性の確保であり、一定の合理性はある。しかし現実には、そこに大学ごとの二次試験が重なり、結局は「共通テスト+大学別試験」という二重構造が続いている。

その結果、受験は単純な学力試験ではなくなり、自己採点、判定データ、偏差値、合否予測といった情報を塾や予備校が提供する仕組みへと変化していった。学校だけでは完結せず、民間教育産業の分析に依存する構造も強くなった。

私は現場にいて、この仕組みの中で生徒の進路が数値化され、データとして振り分けられていく過程に長く向き合ってきた。その中で、制度としての合理性と、人の人生を数字で区切ることの間にある違和感を抱き続けてきた。

共通テストが導入される頃、私は一つの節目として「これで教育は変わるのかもしれない」と感じた。しかし実際には、形が変わっても構造は完全には変わらず、むしろ複雑さを増したようにも見えた。

その過程を見続けたことは、私にとって教育への信頼と疑問が同時に積み重なっていく時間でもあった。

そして今振り返ると、この経験は「教育の正しさ」を断定するものではなく、「制度と人間の間にある距離」を考え続けるための記録だったのだと思う。


今日の愛媛新聞の経済欄を通して、為替や株価の数字を追いながら、「お金の動き」と「社会の仕組み」は切り離せないものだと感じた。

為替では、ドルやユーロなどの数字が上がったり下がったりしているが、それは単なる数字の変化ではなく、「その通貨の強さ」や「国ごとの経済の重さ」を表していることが分かった。表面的には数字が上がっているのに円高・円安の判断が逆に見えることもあり、基準が“絶対値ではなく比較”であることが重要だった。

株式市場では、AI・半導体・電機などの大型株が指数全体を大きく動かし、日経平均とTOPIXが違う動きをすることもあった。特に、ワークマンのように月次売上の結果だけで株価が動いたり、ラウンドワンのように「暑さ」「景気」「遊び方の変化」といった生活感のある要素が株価に影響するのは印象的だった。

また、ユニ・チャームのインド進出のように「まだ利益が出ていなくても、将来の期待だけで株が動く」という点も、株式市場の特徴として理解できた。

つまり経済とは、今の数字だけではなく、「これからどうなるか」という期待や予測の積み重ねで動いている。

さらに考えたのは、数字や市場の背後にある“制度の違い”である。看護師や歯科医の国際資格の話では、同じ職業でも国によって英語試験や資格の基準が大きく異なり、かつては通用していた資格が今は通用しないこともある。お金の世界だけでなく、人の移動や仕事の自由にも国ごとのルールが深く関わっていることを知った。

そして思い出したのは、アメリカの医療制度を扱った映画『シッコ』の場面だった。医療保険の有無によって治療の選択肢が変わる現実や、国によって「同じ人間でも受けられる医療が違う」という事実は衝撃的だった。経済や制度は、単なる数字ではなく、人の生き方そのものを左右している。

今日の経済欄は、為替・株・企業ニュースという一見バラバラな情報の中に、「期待」「制度」「格差」「生活」という共通の軸があることを教えてくれたように思う。


朝、愛媛大学へ提出する検体の同意書について、ニュージーランドに住む長男から連絡があった。
自筆が必要な書類のため、彼に送っていたものが、今日返送されてくるという。

そのやり取りの前に、動画が3本送られてきていた。
私はエデンの園の食堂にいて、その後マッサージチェアに座りながらそれを見た。

そこには、5歳と1歳の子どもたちが和食のような朝食を食べている様子が映っていた。
白いご飯に梅干しがのっている。納豆巻きや海苔もある。
味噌汁、豆腐、そして焼いた鮭のような魚も並んでいた。

1歳の子は豆腐を口に運んでもらい、嬉しそうに食べている。
5歳の子は醤油をかけた豆腐や鮭を、自分の手で食べていた。
まだ箸は練習用のものを使えるはずだが、手の方が早いのだろう。

納豆巻きが特に好きなようで、海苔に納豆を乗せて巻いて食べる様子もあった。
日本人でも好き嫌いが分かれる納豆を、自然に食べていることが少し不思議でもあった。

さらに、7歳と5歳の孫は、白いご飯をレンジで温め、梅干しやふりかけをかけて自分で食べる姿もある。
気づけば自分で食事を完成させている。

私が滞在した時にも、同じような場面があった。
白いご飯の日、5歳の子がふりかけを差し出してくれたことを思い出す。
その時私はあまりふりかけを好まなかったが、「ありがとう」と受け取った。
そしておばあちゃんが「海苔の方がいいね」と言ったことも覚えている。

また別の映像では、寿司屋で買う大きな三角のおにぎりの話も聞いたし、実際一緒に行ったこともある。
お茶碗三杯分ほどもありそうな大きさで、子どもたちはそれを“ご褒美”のように選ぶという。
7歳の子が、お父さんと同じものを選んで買う姿もあった。
食べきれるかどうかより、「同じものを持つ」ことが嬉しいようだった。

日本とは違う場所にいながら、白いご飯と海苔と納豆が日常の中心にある。
それを見ながら、食べ物というのは味だけでなく、生活の中で形づくられていくものだと感じた。 もちろん基本的にはニュージーランド 人の母が作るニュージーランド 食?が基本である。

離れて暮らしていても、こうして動画を通して、日々の食卓がそのまま伝わってくる。
それは単なる記録というより、小さな生活の断片の積み重ねのように思えた。


物語風まとめ

ある日、体という国に小さな侵入者(細菌やウイルス)がやってきました。

真っ先に駆けつけたのは、体の中で一番人数が多い「好中球たち」でした。
彼らは血管の壁をすり抜けて現場へ飛び出し、侵入者を見つけるとすぐに飲み込み、分解していきます。とにかくスピード勝負の戦士です。

少し遅れてやってくるのが「リンパ球たち」です。
彼らはただ戦うだけではなく、「これは敵だ」と記憶し、次に同じ敵が来たときにすぐ反応できるように準備します。
B細胞は“武器(抗体)”を作り、T細胞は“敵に感染された細胞そのもの”を見つけて排除します。体の記憶と司令塔のような存在です。

そして最後に現れるのが「単球」です。
彼は血液の中では目立たない存在ですが、いざ現場に出ると姿を変え、「マクロファージ」という巨大な掃除役になります。
他の細胞が残した敵もゴミもまとめて片づける、現場の最終処理班です。

こうして体は、スピード・記憶・掃除の三役によって守られています。


昨日のことになるが、朝から雨だった。

骨折して3週間が過ぎ、自立したい気持ちもあって、できるだけ荷物を軽くした。リュックには飲み物、長引いたときの簡単な食べ物、雨がっぱ、そして最低限の貴重品だけを入れた。

右肩には自転車用の小さなバッグをかけ、診察券やマイナンバーカードなど必要なものをまとめた。「病院の中で探し回らないように」という自分なりの工夫だった。

送ってくれる介護職員の方とはすっかり打ち解けていた。帰りについて聞かれたとき、「時間はわからないけれど、職員の方が空いていれば迎えに来られる」と言ってくださったが、私は「自分で帰ります」と伝えた。

ベテルバスの時間を調べ、日赤の近くのバス停から帰る計画を立てた。雨が強ければ無理かもしれないと言われたが、雨がっぱがあるから大丈夫だと答えた。どうしても無理なら電話する、その条件で、自力で帰ることにした。

結果的に、それはうまくいった。

薬局にもファックスで処方を送ってもらい、バスで移動し、薬を受け取り、支払いを済ませ、さらに事務所へ経過報告と次回予約の確認まで自分で行った。7月23日、9時50分。

その途中で、いろいろな人に声をかけられた。「どうしてたの?」と心配してくれる人もいた。ポストにお見舞いの葉書を入れてくださっていた方もいて、そのたびに自分でも小さな手紙を書いて返してきた。そういう積み重ねの中で、人との関係が少しずつできていた。

その流れで、「もう食堂で食べられるんじゃないですか」と言われた。右側の席は配膳や下膳も職員がしてくれるため、そこで食べることになった。



夕食はカレーだった。

「辛口にしますか、甘口にしますか」「ご飯の量は」と聞かれ、辛口でご飯は少し大盛りにした。とても美味しかった。

麦茶は2杯目、自分の足で取りに行った。少しずつ、できることが増えている。

食堂では右側の席だったため、顔なじみの人は少なく、静かにゆっくり食べることができた。



その日の午前中には、ひとつ小さな事件があった。

本を一章だけ読んでから食事に行こうと思い、Kindleを探したが見つからない。しばらく探し回ってから、「ああ、そもそも持ってきていない」と気づき、自分で笑ってしまった。

食堂の席にも小さな社会があった。

事前に職員に確認すると、ある程度席は決まっているという。一番前の席は固定されていることもあるらしい。

空いている席に「ここに座っていいですか」と確認すると、「そこは私の席」と声が上がった。すぐに謝り、別の席を案内してもらい、三列目に落ち着いた。

村社会のような空気もあるが、長く生きてきた経験で、摩擦なくその場に溶け込むことができた。



そしてもうひとつ、ずっと心に引っかかっていたことがあった。

お礼状である。

骨折から3週間、助けてくださった看護師さんや病院への感謝をどうしても形にしたかった。

夫が買ってくれた100円ショップのポストカード(5枚入り)の中から2枚を選び、文面を考え、下手でもいいからとにかく書いた。そしてベテル病院まで持って行った。

バザーコーナーで首からかける袋も買った。身分証や鍵を入れるための小さなものだ。

そのとき、ふと「ひとつ終わった」と思った。

ずっと引っかかっていたものが、ようやく外れた感覚だった。花を見ながら、肩の荷が下りた。



夜、夫にKindle事件の話をすると笑われた。

医師には、アームホルダーをもう一つ買いたいと伝えたところ、「それはいいね」と言われた。思わず「優秀なATMがついています」と言うと、場が少し和んだ。

先生はさらに「アームホルダー全部そろえてもいいな」と冗談を言い、看護師さんたちが苦笑していた。

さらに、3ヶ月は水泳禁止と言われていたことを思い出し、「いつかバタフライは泳げますか」と聞くと、先生は少し考えて「うーん、気合やな」と言った。

それ以上は聞かなかった。



こうして振り返ると、この日は特別なことが起きた日ではなく、生活が少しずつ戻っていく過程の一日だったのだと思う。

雨の中を自分で移動し、食堂で食べ、笑い、手紙を書き、冗談を言いながら帰ってくる。

治るということは、元に戻ることではなく、生活をもう一度組み立て直すことなのかもしれない。


4章を読み終えて、いろいろなことを考えさせられた。

この章は、母親を強く愛し、その母親の再婚と喪失をきっかけに心を大きく揺さぶられていく一人の少年の話である。少年は母親を絶対的な存在として生きてきたが、その関係が再婚によって変化したことを受け入れることができず、義理の父親への反発や暴力へと向かっていく。やがて非行はエスカレートし、少年院送致に至る。

少年院の中でも母親への思いは強く、母の死を経験した後も、謝罪や償いを強く望むようになる。しかし被害者からの謝罪拒否という現実に直面し、自分の行為と他者の回復は一致しないという現実を知ることになる。

最終的に少年は、自分の過去と向き合いながらも、すぐに答えの出ない状態のまま新しい生活へと進もうとする。

青島先生のすごさを、あらためて感じた。こういうお仕事を長く続けてこられた方なのだと思うと、本当に「人の話を聞く」ということの重さを思う。

先生は、本当に人の話を丁寧に聞いてくださる方だったのだと思う。あの先生がいなければ、私はいろいろな意味で立ち直れなかったのではないかと感じる。

そういう思いを込めて、この本を読んだ。そして今も、先生のご著書をご紹介するときに、どうしてもこの重さを一緒に伝えたくなる。

この章を読んでいて特に強く残ったのは、先生ご自身が「こういう罪を背負った子どもたちの心のケアをすることは、自分も加害者の一人と見なされるのではないか」と悩まれていたという部分である。

その問いはとても重いものだと思う。そうかもしれない、とも思う。

それでも先生は、その仕事を続けておられる。そのこと自体に、大きな意味を感じる。

精神科医という仕事をしている方すべてが、この道を選びたいと思っているわけではないと思う。もっと別の道や、別の働き方を選ぶこともできるはずである。それでもあえて、このような場所に関わり続けている。

その姿勢に、この章を読んであらためて強さを感じた。

できれば誰かを傷つけることなく、静かに受け止めたいと思いながらも、うまく言葉にはできないが、この本から受け取ったものを自分なりに残しておきたいと思う。


夕食の前に、私は血の中の世界を少しだけのぞいていた。

そこには、静かだけれど絶えず動き続ける流れがある。



心臓から押し出された血液は、まず「動脈」という道を通って外の世界へ向かう。
逆に、使い終わった血は「静脈」を通って心臓へ戻っていく。

そしてその途中にある細い道――毛細血管では、小さな交換が起きていた。

酸素と栄養は体の組織へ。
代わりに、二酸化炭素と老廃物は血液の中へ戻っていく。

まるで、静かな物々交換のようだった。



その中を流れている赤い細胞、赤血球は少し特別な形をしている。
真ん中がくぼんだ円盤のような形で、たくさんの荷物を積めるようになっている。

その荷物こそが「ヘモグロビン」で、鉄を持つことで酸素をつかまえたり、離したりできる。

肺では酸素を受け取り、体のすみずみではそれを手放していく。
まるで、見えない配達員のようだった。



その赤血球たちは、骨の中にある小さな工場「骨髄」で作られていた。

骨髄は、血液のすべてを生み出す場所。
赤血球、白血球、血小板――どれもここから生まれる。



もしこの工場がうまく働かなくなると、白血病のような病気が起こる。
そのときには、別の人の骨髄を移植するという大きな治療が必要になることがある。

そこには「合う・合わない」があり、それを決めるのがHLAという目印だった。

白血球たちは、その目印を頼りに「これは自分か、それとも違うのか」を判断している。



体の中では、毎日こんな小さな判断と交換が繰り返されている。
気づかないほど静かだけれど、確かに生きるための仕事が続いていた。



■今日の気づき

血液はただの液体ではなく、
「運ぶ」「作る」「見分ける」という役割が分担された小さな社会だった。


今日は夕食前に、青島先生の本を一章だけ読んでから食堂へ行こうと思った。

ところが、本がない。

「どこへ置いたんだろう。」

ベッドの周り、机の上、バッグの中……思いつく場所を全部探した。

昨日まで読んでいたのに、どうしても見つからない。

もう食事の時間も迫っている。

「今日は諦めようかな。」

そう思った瞬間、ふと気づいた。

「あっ……Kindleだった。」

思わず一人で吹き出してしまった。

本棚を探していた本は、最初から紙の本ではなかったのである。

夫に話したら大笑いされた。

「昨日まで読んで感想まで書いてたじゃない。」

確かに、その通りだった。

私は今、自宅でWi-Fiを契約していないので、iPhoneのテザリングを使っている。

動画を見るには少し不便だが、Kindleなら問題なく読める。

iPadで文字を大きく表示して本を読み、iPhoneでnoteの感想を書く。

そんなことを毎日続けていた。

それなのに今日は、「本を読む」と思った瞬間、頭の中では紙の本を探していた。

考えてみれば、私は長い間、「本は紙」で生きてきた。

白内障、老眼、乱視、近視が進み、紙の本を読むのがつらくなって、本から少し遠ざかった時期もあった。

それでも青島先生の本だけは読みたくて、夫が「Kindleなら安く買えるよ」と購入してくれた。

私は毎日読んでいたのに、自分の中ではまだ「Kindleで本を読んでいる」という感覚が完全には身についていなかったのだろう。

人の習慣というのは不思議だ。

頭では分かっていても、身体の記憶はなかなか変わらない。

今日は本を探して右往左往したけれど、最後は自分で大笑いした。

こんな勘違いができるうちは、まだまだ人生も悪くない。

さて、少しだけ登録販売者の勉強をして、青島先生の本を一章読んでから眠ろう。

今度はちゃんと、Kindleを開いて。


今日は、骨折後初めての外来診察だった。

先生からは「順調に回復しています」と言っていただき、ひと安心した。

その帰り、ずっと気になっていたことをやっと終えることができた。

6月18日、転倒して左手を骨折した時、最初に「どうしました」と声をかけ、助けてくださったベテル病院の看護師さんへのお礼状。そして、病院長先生への感謝のお手紙。

どちらも一枚のはがきである。

高価な贈り物ではないし、字も決して上手ではない。

でも、私にとっては、どうしても伝えたかった「ありがとうございました」だった。

あの日は、本当にこの世のものとは思えないほど痛かった。

動くこともできず、どうしてよいかわからなかった私に、看護師さんが声をかけてくださった。

その後は、ベテル病院、エデンの園の職員の皆さん、そして日赤へと、たくさんの方々の連携に支えられた。

手術までの一週間は長く、痛みに耐える毎日だった。

それでも今日、外来を終え、お礼状を届けることができた。

受付で預かっていただき、病院を出た時、不思議なくらい心が軽くなった。
アガパンサスが綺麗だった。

「肩の荷が下りる」とは、こういうことなのだろう。

相手がどう思われるかはわからない。

でも、私は感謝を伝えたかった。

それができた。

それだけで十分だった。

人生は、本当に何が起こるかわからない。

6月18日の朝、私は坂の上の雲ミュージアムへ行こうと思ってエデンの園を出た。

まさか、その日が骨折の日になるとは夢にも思わなかった。

だからこそ、今日という一日を迎えられたことに感謝したい。

そして、助けてくださったすべての方々に、改めて心から「ありがとうございました」と伝えたい。


今日は退院後、初めての日赤外来だった。

レントゲンを見ながら、先生は肩に入っているチタンの固定具について説明してくださった。

「今のところ、このままでも大丈夫そうです。支障があれば、そのとき考えましょう。」

私は水泳が好きなので、思わず聞いた。

「先生、またバタフライ泳げるようになりますか?」

先生は少し笑って、

「うん、気合いだなあ。」

医学的な説明というより、「リハビリを頑張れば」という励ましのように聞こえた。

診察の途中、先生から突然、

「何の仕事をしてたの?」

と聞かれた。

「高校で英語を教えていました。」

そう答えると、

「やっぱりな。切れると思った。」

と言われた。

私は思わず笑ってしまい、

「切れるというより、よく変人って言われます。先生と変人勝負してもいいですよ。」

と言うと、

「お、やろうか。」

診察室とは思えない会話になった。

実は、この先生には以前、病室で少し待ちぼうけをしたことがある。

「あとで写真を見せてあげる。」

と言われたので、私は30分ほど待っていた。

結局、その日は先生は来られなかった。きっと急な手術が入ったのだろうと看護師さんが教えてくださった。

また、外来予約の日程変更でも少し苦労したことがあった。

今日、そのことを話すと、

「なるほど、なるほど。」

と言って軽く頭を下げられた。

きっちり謝るタイプというより、どこか独特の空気を持つ先生なのだと思う。

だからこそ、私は思った。

「この先生、なかなかの変人かもしれない。」

もちろん、これは悪口ではない。

人と少し違う感性を持っている人には、不思議と惹かれることがある。

私自身も昔から「変わってるね」と言われることが多い。

だから、この先生とは、変人勝負をしても案外いい勝負になるかもしれない。

骨折という思いがけない出来事で出会った先生だったが、診察室で笑って帰ってこられたことが、今日は何よりうれしかった。

病気やけがは決して歓迎できるものではない。

それでも、そこに思いがけない出会いや笑いがある。

そんなことを感じた、退院後初めての外来だった。


今朝病院へ行くので、ふと爪を見たら、足の方はそれほどでもなかったが、指の爪が伸びているように感じて切った。ただ、骨折している左手の爪はそれほど伸びていないのに、右手の元気な方の爪の方が明らかに伸びているように見えた。血行不良や骨折の影響ではないかと少し考えたが、実際には冷えもなく、色の変化やしびれもなく、内出血も改善しており、全体として回復は順調に進んでいるように感じる。

病院の受付時間前、2階のローソンとタリーズの前で充電をしながら待機している間に、介護士さんとの会話や現場のスタッフの様子を思い出した。高校教員時代、商業高校の進路指導では介護職の求人は多くても、生徒にとってはあまり人気がなかった。どこかで「大変な仕事」「汚れ仕事」というイメージがあったのだと思う。

しかし実際にべテル病院やエデンの園の看護師・介護士の方々と接してみると、明るく、優しく、仕事に誇りを持って働いている姿があり、自分の中にあった偏見や狭い見方に気づかされた。運転してくださったスタッフにもその思いを率直に伝えることができ、「ここに来られて良かった」と感謝を伝えた。

ただ一方で、現場には当然ながら余裕のない表情の日もあり、忙しい時には声かけを控えたいような雰囲気が出ることもある。それでもそれは悪意ではなく、生活と仕事を両立する中での自然な反応であり、誰もが家庭や時間の制約の中で働いている現実でもある。

エデンの園では夜間は介護棟の夜勤看護師が対応し、ナースコールも看護師につながる体制になっており、介護職員は基本的におられない。守衛さんが玄関を守り緊急事態に備えてくださっている。そこには「生活の場」と「職場」が重なり合う独特の構造があると感じた。

何事も100%はなく、良い面もあれば揺らぎもある。その両方を見ながら関わっていくことが大切だと感じている。


今日は雨である。昨日も今日も天気はあまり良くない。
手術を受けた病院へ退院後の初外来である。施設の方が親切に車で送り迎えをしてくださることに、ありがたさを感じている。

今朝、特に理由もはっきりしないまま、ふと「字を書いてみたい」という気持ちが湧いた。
それは久しぶりの感覚だった。

書道は幼い頃から習っていて、段も取った記憶がある。
しかし最近は毛筆を持つ機会がほとんどなかった。入院する前にも、百円ショップで筆や半紙を買って時々書いていたが、骨折後そのままになっていた。

今朝はその「書きたい」という気持ちが急に戻ってきた。



書きたい文字から始まった思考

最初に「何を書こうか」と考えたとき、
「7月」という月のことが浮かんだ。

そこから「文月」という言葉を思い出した。
昨日久しぶりに七夕飾りに願い事を書いて吊るしていただいたからかもしれない。
しかし同時に、旧暦の月の名前について、はっきりと説明できないことに気づいた。

「睦月」「師走」「神無月」は意味がなんとなく分かるが、
他の月はどういう意味なのだろうか。

「和暦(旧暦の月名)」について調べていくうちに、
それぞれの名前には季節や暮らしの感覚が込められていることが分かってきた。



和風月名の意味に触れて思ったこと

例えば、

* 水無月(6月)は「水が無い月」ではなく、水の月という説があること
* 文月(7月)は、短冊に文を書く七夕に由来するという説があること
* 師走は忙しさを表す言葉であること

こうした月の名前は、単なる呼び方ではなく、
昔の人の生活や季節の感じ方そのものが言葉になっているのだと感じた。



七夕の記憶とつながる気持ち

ちょうど昨日、七夕の笹飾りに、
「孫が元気に大きく成長しますように」と願いを書いて吊るしてもらった。 三番目の孫と義理の娘、そして私自身の誕生月でもある。


そのことも関係しているのかもしれないが、
今朝の「書きたい」という気持ちは、そこから自然につながっているようにも感じる。


エデンの園で七夕の笹飾りが始まり、短冊に「孫たちが元気に育ちますように」と願いを書いた。

そのとき、ふと不思議な感覚がよみがえった。幼いころ、幼稚園や小学校で七夕の飾りをした記憶はあるものの、その意味を深く考えたことはなかった。中学・高校以降は、七夕という行事自体が生活から消えていたように思う。

老人ホームで季節の行事に参加するようになり、改めて七夕という言葉に触れたことで、自分がこの文化をほとんど知らずに過ごしてきたことに気づいた。



七夕は、単なる「願いごとの行事」ではなく、いくつかの文化が重なってできた行事である。

一つは中国に由来する織姫と彦星の星の伝説である。織姫(こと座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)は、天の川をはさんで離れ離れになった夫婦とされ、年に一度だけ七月七日に会うことを許されたという物語である。この話は約2000年前の中国で生まれ、3〜4世紀頃にはすでに現在に近い形になっていたと考えられている。

この物語は奈良時代(7〜8世紀)に日本へ伝わった。当時は恋の物語というより、宮中で行われる儀式として受け入れられていた。

一方で、日本にはもともと「棚機(たなばた)」という信仰があった。神のために布を織る女性の儀式であり、水辺で身を清めて祈るという神事である。この「たなばた」という言葉が中国の七夕と結びつき、今の七夕という呼び方になった。

現在よく見られる「笹に短冊をつるす形」は、昔からあったものではなく、江戸時代に広まった民間の習慣である。もともとは宮中で書や裁縫の上達を願う行事だったものが、庶民の間に広がり、子どもの成長や学びの上達を願う行事へと変化していった。その中で、笹や竹に願いを書いた紙をつるす形が定着した。

こうして見ると、七夕は星の伝説(中国)、日本の神事(棚機)、江戸時代の庶民文化が重なってできた行事である。本来は技芸の上達や祈りの意味が強かったが、現代では「願いごとをする日」として親しまれている。

短冊に願いを書くという行為は、とても単純なようでいて、長い歴史の積み重ねの上にあるものだった。私はこれまで七夕を子どもの行事のように見ていたが、実際には人の祈りの文化が形を変えて続いてきたものだと気づかされた。

ただ願いを書くという行為の中にも、昔から変わらない「誰かの幸せを願う気持ち」が流れているのだと思う。


■ ワールドカップとは何か

FIFA World Cupは、世界中の国が4年に1度集まって「世界一」を決める大会である。

ルールとしては、各地域の予選を勝ち抜いた国だけが本大会に出場し、グループリーグと決勝トーナメントを戦っていく。



■ サッカーとラグビーの違いを知って感じたこと

Association Football(サッカー)は足でボールを扱う繊細なスポーツであり、
Rugby Union(ラグビー)は体をぶつけ合いながら前に進む力強いスポーツである。

同じ「フットボール」から生まれたのに、ここまで違う形になったことが不思議で、スポーツというより文化の分岐のようにも感じた。



■ イギリスが複数チームで出ることについて

United Kingdomは1つの国なのに、サッカーではイングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドが別々に出場する。

最初は「なぜそんなことが許されるのか」「他の国から見て公平なのか」と違和感があった。

でも調べていくうちに、これはズルというよりも、サッカーが生まれた歴史の中で自然に残った“例外”なのだと少しずつ理解できた。

それでも完全に納得したというより、「そういう複雑さを抱えたまま世界は動いているのだ」と感じるところで止まっている。



■ 今回の日本代表の試合について思ったこと

今回のブラジル戦は2対1で惜敗だった。

結果だけ見れば負けなのに、内容としては「あと少しだった」と思える試合で、悔しさと同時に「よくここまで戦えた」という気持ちもあった。

特に好きな選手であるKaoru Mitomaが怪我で出場できなかったことは残念で、もし出ていたらどうなっていたのだろうと考えてしまう。



■ ブラジルの強さについて

Brazil national football teamは、やはり少ないチャンスでも決め切る力と、個人の技術の高さが際立っていた。

日本はチャンスを作るところまでは来ているのに、最後の一歩で違いが出てしまう。

その差は大きいようでいて、でも「届きそうで届かない距離」にも感じられた。



■ 全体を通しての気持ち

今回一番強く残ったのは、

* 残念だったという気持ち
* でも完全な敗北ではないという印象
* 日本は確実に強くなっているという実感
* それでも世界の壁はまだあるという現実

そして、スポーツの世界は単純な勝ち負けだけではなく、歴史や文化、国の背景まで重なっていることを少し理解した気がする。



■ まとめ

結果だけではなく、その裏にあるものを少し考えるようになった試合だった。

「惜敗」という言葉はたぶん正しくて、同時に「まだ届かない現実」も含んでいるように感じる。


初めに

心臓、動脈、静脈などは鍼灸学校時代に厳しく指導され、テストも多かったと思う。しかし、49歳から51歳に夜学で学び国家試験を受けて合格していても、綺麗に記憶は消えている。

所々、何となく覚えている感じである。

こうして再び学び直すと、とても面白い。多分時間に余裕があるからだと思う。

勉強とは本来、楽しいものだと実感する。



本文

今回あらためて循環器の基礎を学び直したことで、心臓や血管の仕組みが少しずつつながってきた。

心臓は胸の奥にあるポンプで、血液を全身へ送り出している。

血液の流れは
全身 → 右心 → 肺 → 左心 → 全身
という一方向の循環で成り立っている。

右心は肺へ血液を送り、左心は酸素を受け取った血液を全身へ送り出す役割を持つ。

また、血管には動脈と静脈があり、動脈は心臓から血液を送り出す道、静脈は心臓へ戻る道である。

静脈には逆流を防ぐための「弁」があり、特に足など心臓から遠い部分で重要な役割を果たしている。

立ち仕事などで足がむくむのは、この静脈の戻りが重力の影響で弱くなるために起こる現象である。

血圧についても、収縮期(最大)と拡張期(最小)の違いを理解することで、心臓の動きと連動していることが分かってきた。



まとめ

循環器の仕組みは一見複雑に見えるが、「流れ」と「役割」を整理すると理解しやすい。

* 心臓=ポンプ
* 動脈=送り出す道
* 静脈=戻る道
* 弁=逆流防止装置

こうして見ると、体の中の仕組みは非常によくできていると感じる。


新聞をしばらく取っていなかった。家計を切り詰めるために、新聞はやめて、ニュースはネットやテレビで十分だと思っていたからだ。夫は反対したが、それでも私は「これで大丈夫」と考えていた。

ところが、この施設に入ってから、再び新聞に触れる機会が増えた。ここでは数紙の新聞が置かれていて、空いていれば手に取って読むことができる。

その新聞の後ろに、いつも気になるものがあった。最初はただの紙の束だと思っていたが、よく見るとそれは広告チラシだった。

スーパーの特売、家電量販店のセール、七夕のキャンペーン。そうした広告が、新聞ごとにまとまって大量に挟み込まれている。気がつけば、新聞本体よりもチラシの方が厚いのではないかと思うほどの量になっていた。

これだけの紙を印刷し、カラーで作り、さらに新聞に挟み込んで各家庭へ届けるには、いったいどれほどの費用がかかっているのだろう。そんな疑問が自然と湧いてきた。

調べてみれば、チラシは一枚あたり数円から十数円ほどのコストがかかるとされる。それを何万部、何十万部と配布しているのだから、広告費は決して小さくない。それでも続けられているのは、やはりそれ以上の効果があるからなのだろう。

スーパーはその広告で人を呼び込み、目玉商品で客を集める。そして来店した人が、他の商品も一緒に買っていくことで利益が成り立つ。安い商品で入口を作り、全体で回収する仕組みだということが見えてくる。

そんなことを考えているうちに、今度はドラッグストアのことが頭に浮かんだ。

以前は薬屋だったドラッグストアが、いつの間にか食品や日用品まで扱うようになっている。スーパーと変わらない品揃えの店も多い。松山に来てから利用することが増えた「レディ」でも、梅酒や食料品が驚くほど安く売られていた。

薬だけではなく生活全体を扱う店へと変わっていった背景には、法律の緩和と、経営戦略の変化があるのだろう。薬の販売制度が変わり、ドラッグストアは収益の柱を広げていった。その結果、今では「生活のすべてをまとめて買える場所」へと進化している。

新聞のチラシから始まった小さな疑問は、気がつけばスーパーの戦略へ、そしてドラッグストアという生活インフラの形へと広がっていった。

日々目にしているものの裏側には、必ずお金の流れと仕組みがある。それを少し意識するだけで、見慣れた風景がまったく違って見えてくる。


新聞でフェルメールの《真珠の耳飾りの少女》展の広告を見た。

その瞬間、ふと「この絵をどこかで見たことがある」と強く感じた。しかし、どこで見たのか思い出せない。日本だったのか、海外だったのか、それさえはっきりしない。

私はオランダ以外にもヨーロッパ各地を旅したことがある。ルーヴル美術館には若い頃に長く滞在した記憶もある。しかし、今回思い出そうとしても、この少女と結びつく場所が見つからない。

それでも不思議なのは、「場所が分からない」ということよりも、「強い印象だけが残っている」という事実である。

私は普段、人物画よりも印象派の風景画が好きだ。モネのスイレンのような、光や色が溶け合うような絵に惹かれる。だからこそ、人物画でここまで心に残るものがあるのは珍しい。

この少女の絵は、背景も物語もほとんどない。ただ振り向いた一瞬と、真珠の耳飾り、そしてこちらを見る瞳だけがある。その単純さが、逆に強く記憶に残っているのかもしれない。

そしてもう一つ印象的だったのは、「耳飾り」という日本語である。英語では “earring” と訳されているが、日本語の「耳飾り」という響きには、単なる装飾品以上の静かな余韻があるように感じる。

この展覧会に実際に行けるかどうかは分からない。体力的にも経済的にも無理はできない。ただ、こうして思い出し、考える時間そのものが、すでに小さな旅になっている気がする。

どこで見たのかは分からない。けれど、「見た」という感覚だけは確かに残っている。


今日も愛媛新聞の経済欄を読んだ。

以前は経済の記事を見るだけで、「難しそう」と思って閉じてしまっていた。日経新聞のような専門的な記事は情報量も多く、どこから読めばいいのか分からない。私には少しハードルが高かった。

ところが、エデンの園に入居してから、1階ラウンジに置かれている愛媛新聞を手に取るようになった。

経済欄は決して多くはない。それが私にはちょうどいい分量だった。

最初は、円相場や日経平均株価の数字を眺めるだけだった。

最近は少し見方が変わってきた。

「今日はなぜ株価が上がったのだろう。」

「ニトリはなぜ売られたのだろう。」

「利益が増えているのに、なぜ株価は下がるのだろう。」

そんな疑問を持つようになった。

今日の記事では、AI関連株が買われる一方で、小売や食品株は売られていた。

また、円安はトヨタのような輸出企業には追い風になることもあるが、象印のように海外から部品を仕入れる会社には逆風になることも知った。

同じ「円安」という出来事でも、会社によって意味が違うことが分かり、経済とは一つの答えではなく、人や会社によって見え方が変わる世界なのだと感じた。

さらに印象に残ったのは、韓国の半導体投資のニュースが日本の株価にも影響するという記事だった。

経済は日本だけではなく、世界とつながっている。

そう考えると、新聞の数字の向こう側に、人や企業、そして世界の動きが見えてくる気がする。

まだ分からない言葉はたくさんある。

それでも、一つひとつ意味を調べながら読む時間が楽しい。

以前、「経済欄は数字ではなく、人の動きを読むものだった」と感じたことがあった。

今日も、その思いを少しだけ深く実感した一日だった。


今日は、青島多津子先生の『少年たちの贖罪』第三章を読んだ。

この章では、一人の少年が幼い子どもを死なせてしまった事件が描かれている。

読んでいて胸が苦しくなった。

事件だけを見れば、「加害者」で終わる。

私もこれまでは、残虐な少年事件の報道を見るたびに、「もっと厳しく罰すべきではないか」と感じることがあった。

被害者や遺族の立場に立てば、それはごく自然な感情だと思う。

しかし、この章は、その先を読者に問いかけてくる。

その少年は、幼い頃から暴力の中で育ち、愛情を知らず、自分を必要としてくれる人に初めて出会ったのが、一歳のユウタ君だった。

「ユウタが笑うと、自分も自然に笑った。」

その一文が忘れられない。

ところが、薬物依存、長期間の疲労、経済的な追い詰められた生活、自らの幼少期の虐待体験など、さまざまな要因が重なり、彼は取り返しのつかない事件を起こしてしまう。

青島先生は、その後の彼にPTSDの症状が現れたことを丁寧に記している。

事件の場面が繰り返しよみがえる。

被害者の痛みを自分の痛みのように感じる。

自分が虐待された記憶と、被害者への暴力の記憶が重なり、自分が加害者なのか被害者なのか分からなくなる。

しかし先生は、加害者のPTSDを語ることが、被害者の苦しみを軽くすることでは決してないと書いておられる。

むしろ、加害者であり、同時に幼少期には被害者でもあった人の治療は極めて難しいという現実を、精神科医として伝えておられるのだと思った。

印象的だったのは、事件から一年後、少年院でユウタ君の一周忌法要が営まれた場面だった。

正直に言えば、私はこれまで法要を「長いお経を聞く時間」くらいにしか考えていなかった。

けれど、この少年にとっては違った。

自ら準備をし、亡くなった子どもを静かに思い、一時間のお経を微動だにせず聞き続けた。

その後、彼の精神状態は目に見えて落ち着いたという。

法要そのものに魔法のような力があるということではなく、自分の罪と向き合い、亡くなった命を悼む「節目」の意味があったのではないかと感じた。

章の最後では、彼は墓参りを望んだが、その願いは叶わなかった。

「自分は許されない。」

その思いを抱えたまま、社会へ戻っていったという。

第一章で青島先生は、ご自身のもとに被害者側から脅迫めいた手紙が届いたことを書かれていた。

被害者家族から見れば、加害少年の心のケアをする先生もまた、許せない存在だったのかもしれない。

その気持ちも理解できる。

それでも先生は、淡々と少年たちと向き合い続けてこられた。

私は、この本を読んでも、被害者の立場に寄り添う気持ちは変わらない。

失われた命の重さは決して変わらない。

しかし同時に、「加害者」という一言だけでは、人間を理解したことにはならないのではないか、と初めて考えた。

その人は、どんな家庭で育ち、何を失い、どんな傷を抱えてきたのか。

それを知ることは、罪を正当化することではない。

二度と同じ悲劇を繰り返さないために、人間を理解しようとすることなのだと、この章は静かに教えてくれた。


朝日新聞か愛媛新聞か、昨日は2紙しか読めなかった。その中で藤井聡太名人のことが取り上げられていた。

名人、と言っていいのだろうか。前のタイトル戦では、ぎりぎりまで追い詰められながらも勝ち取った天才。まだ23歳、デビューから10年という時間の中で、すでに到達している場所があまりにも遠い。

以前からすごい人だと思っていた。ただ、彼の発する小さな声は聞き取れないことも多く、その中に、単語そのものが分からない言葉が混じることさえある。「この人はどうやって育ってきたのだろう」と、何度も思ってきた。

将棋の内容そのものは私には分からない。それでも、彼という人物そのものに強く惹かれる。勝負の世界に生きる一人の人間としての在り方や、彼の言葉の持つ独特の深さに、なぜか心を引き寄せられる。

一番頭が下がるのは、その謙虚さだと思う。決して怒らないし、どれだけすごい、素晴らしいと褒められても、「まだまだ勉強することがあります」と静かに言う。

彼の発言は、言い方は違っても、いつも同じ方向を向いているように感じる。まだまだ上を目指すところがある、学ぶところがある──そういう姿勢だ。

あれほどの天才であり、すでに頂点に近い場所を見ている人が、23歳という若さでなお「まだまだだ」と言い続ける。その澄んだ心というのか、将棋に対する真摯な思いというのか、その姿勢に本当に驚かされる。

もう一人は大谷翔平選手である。

あまりにも有名で、毎日のようにニュースになり、もはや国民的な英雄でありスターでもある。その存在は特別というより、日常の中に溶け込んでいるようでもある。

ただ、ある新聞か雑誌で読んだ記事が印象に残っている。野球界に限らずかもしれないが、大きな富を得た人は、その後に失敗することが多いという。賭け事、車、そして女性関係などで身を崩していく例がある、と。

しかし彼には、そうしたものへの強い関心がほとんど感じられない。賭け事に興味があるとは思えないし、常に早く帰って休み、睡眠時間も非常に多いと聞く。

女性関係についても、奥様を深く大切にしていることが伝わってくるだけで、他の女性に目を向けるような気配は感じられない。

車についても、良い車に乗っていることはあるのだろうが、それを誇示したり、何台も所有して見せびらかすような姿勢は見えない。

もう一つ印象に残っているのは、大谷翔平選手のエピソードである。シーズンが始まる前だったと思うが、彼が関わるスポンサーの時計(セイコーの「セイコー アンバサダー」モデルだったと思う)をスタッフ全員や清掃の人にまでプレゼントしたという話だ。

彼はたびたびこうした贈り物をしていると聞くが、いわゆるロレックスのような海外高級ブランドではなく、日本のブランドを選び、それをSEIKO(成功)として広めているように見える。

また、東京で試合が行われた際には街中にそのポスターが貼られ、コンビニのおにぎりにも彼の姿があり、チームメイトが「これは普通じゃない」と驚いたという話も印象的だった。

彼自身ももともと服装には頓着がなく、サイズの合わないスーツを着ていたこともあったと聞くが、結婚後は奥様が自然に整えているという話も微笑ましく感じた。

奥様も派手なブランドを好む方ではなく、普段はシンプルな服装をしていると言われており、その生活感は大谷選手ととてもよく合っているように思える。

それともう一つ、大谷翔平選手が化粧品ブランド「DECORTÉ(デコルテ)」のモデルを務めたときのことも強く残っている。街中にポスターがあふれ、日本全体が彼で埋め尽くされているような状況だったという。 充分な睡眠時間を取っっている彼の肌は美しい。

結局のところ、彼にとって中心にあるのは野球であり、それ以外のものは必要以上に前に出てこないように見える。

それは単なる広告ではなく、一人の人物が社会全体の風景になっているような印象だった。

最後に、やはり思うのは藤井聡太名人の姿勢である。大谷翔平選手もそうだが、彼らには「ここまでやった」という誇示がほとんどない。

むしろ、「まだまだ発展途上だ」「やることがある」「勉強することがある」と常に先を見ている。

どんな人でも、「もう十分だ」と思ったときに成長は止まるのだろう。

私は67歳の庶民だが、それでも少しでも学びたいという気持ちは残っている。

彼らは経済的にも十分満たされているはずなのに、それでもなお上を目指し続けている。その姿勢に強く心を打たれる。

できることなら、これから年を重ねてもその生き方を変えず、高みを目指し続けてほしいと思う。


今日は6月の最終日である。エデンの園で提供される食事を、日々ありがたく、美味しくいただいている。

1日およそ1,600キロカロリーで、管理栄養士が栄養バランスを考えて作成した献立である。以前、声の大きい男性が「ここで食べていればサプリメントは不要である。栄養士がすべて計算しているため、これだけで健康になる」と語っていた。その言葉は強く印象に残っている。

その影響もあり、食事というものの意味を改めて考える機会となっている。

本日の夕食は特に美味であり、記録として残しておく。

主食はご飯であり、大盛りを選択している。白米のほか、もち麦ご飯、16穀米、やわらかいご飯など複数の選択肢が用意されている。本日は16穀米であったと記憶している。

内容は以下の通りである。

・肉団子の照り焼き
・根菜の煮込み
・もやしのくるみ和え
・卵豆腐の吸い物
・黒ごまゼリー

特に肉団子の照り焼きは非常に美味であり、印象に残る一品であった。

栄養成分は以下の通りである。

・エネルギー:598 kcal
・たんぱく質:23.8 g
・脂質:17.3 g
・炭水化物:90.2 g
・塩分:2.6 g
・食物繊維:5.8 g

入院後しばらくは胃腸の調子が安定しなかったが、ようやく回復しつつあり、食事を美味しいと感じられるようになったことは大きな喜びである。

また施設内では七夕の飾り付けが行われており、短冊に願い事を書いて飾ることができるようになっている。「素敵な人と巡り会えますように」といった願いを書こうかという話題もあり、場が和んでいた。

こうした季節の行事があることで、日常生活に楽しさが生まれている。

年齢を重ねるほど、食べること自体が大きな楽しみになることを実感している。人間は本来空腹を感じる存在であり、その基本的な感覚を思い出させる生活である。

食事を買いに行く必要はなく、献立を考える必要もない。調理や片付けも不要である。カロリー計算もすべて管理されている。ただ「いただきます」と「ごちそうさま」を伝えるだけで成立する生活であり、深い感謝を感じる。

サプリメントについて強い意見を述べていた男性の言葉も印象的である。その影響もあり、エビオスやチョコラBBなどのサプリメントは現在中止しているが、体調は安定している。

6月の最終日に、この日の食事と感じたことを記録として残しておく。


今日、エデンの園で同じ階に住んでおられるご夫婦からお土産をいただいた。その奥様のお父様がシベリア抑留から帰還され、舞鶴に戻られたそうで、お父様の思い出を大切にするために舞鶴へ行ってこられたのだと聞いた。舞鶴のお土産をいただき、そのことがきっかけで、自然と自分の父のことを思い出した。

父は昭和二年生まれで、肝臓がんで亡くなったときは八十四歳だった。生きていれば九十九歳になる。

父は体育教師であり柔道家だった。生涯の中心は柔道部であり、朝練から夜の稽古、長期休みの合宿まで、すべてが柔道部を中心に回っていた人だった。家庭においてもその延長のようなところがあり、生徒を自宅に招いてすき焼きの会を開くことも多々あった。そのたびに母は買い物に付き合い、家計のやりくりをしていた。

父は経済観念という点では不器用な人だったが、人間としては非常に一直線な人でもあった。京都の武道専門学校で学んでいたと聞いており、そこでは先輩後輩の関係が非常に厳しく、武道の精神と上下関係の濃い環境の中で過ごしていたらしい。その頃の経験が、父の人間観や教育観の原点になっていたのだと思う。

その記憶の中で特に印象に残っているのが、映画館の話である。暗い映画館の中では誰がいるかわからないため、もし先輩がいるかもしれないと思うと、暗闇に向かって「こんにちは」と大声で挨拶したという。今では考えられないような厳しさと独特の礼儀が、その時代には確かに存在していたのだと思う。
さらに、似たような逸話として、市電に乗っている先輩の姿が見えると、次の停留所まで走って追いかけ、先回りして挨拶をしたという話もあった。電車よりも早く走って次の駅で先輩に挨拶することが礼儀だという、その世界の価値観があったのだと思う。

父は成績や肩書きで人を判断することはなく、生徒の背景や事情に関わらず向き合うところがあった。その一方で、武道の世界の厳しさや上下関係の濃さもそのまま持っている人だった。

私自身は子どもの頃から、教員という職業をあまり信じていなかった。父やその同僚の姿を見て、理想化された職業ではなく、極端さや矛盾を含んだ現場の仕事として見ていたからだ。

それでも、父の中にあった一本の軸のようなものは確かに感じていた。柔道部の生徒のためなら生活の多くを費やし、身体が弱ってからも鍛え続けるような生き方は、単純に評価できるものではないが、強い一貫性を持っていた。

今日のお土産の話をきっかけに、父の生きていた時代と人間関係の濃さを久しぶりに思い出した。戦後という時代の中で、武道と教育と生活がまだ分かれきっていなかった頃の、ひとつの教師像だったのだと思う。


今日は、愛媛新聞の経済欄をいつもより時間をかけて読んだ。

毎日目を通している欄だが、記事が短くコンパクトにまとまっているので、私にも読みやすい。最近は、一つ一つの記事を丁寧に読みながら、円相場や株価がなぜ動いたのかを考えるようになった。

最初は、円相場や株価の数字を一つ一つ確認することから始めた。ドルやユーロに対して円安とはどういうことなのか、日経平均株価やTOPIXが上がるとは何を意味するのかを整理していくうちに、「数字の変化」には必ず理由があることが少しずつ見えてきた。

さらに印象に残ったのは、日経平均株価の一日の値動きを表すグラフだった。

朝はアメリカ株安の影響で大きく下落したが、その後は「ここまで下がったなら買おう」と考える投資家が増え、株価は少しずつ持ち直していった。午後には再び売りが出る場面もあったが、最後は買いが優勢となり、前週末の終値を上回って取引を終えた。

折れ線グラフは、ただ価格を表しているだけではない。その時々の投資家の不安や期待、迷いや判断が積み重なってできていることを初めて実感した。

個別企業の記事も興味深かった。売上が前年より落ちれば株価は下がり、来期の利益が大きく伸びる見込みが発表されれば株価は上がる。「利益確定の売り」や「買い戻し」といった言葉も、その背景にある人の行動を考えると理解しやすくなった。

AIや半導体関連株について、「これまでの経験則が通用しないほど大きな変化が起きている」という記事も印象に残った。私自身も生成AIを学びながら、その変化の中に生きていることを改めて感じた。

経済欄は難しい数字の羅列だと思っていた。しかし今日学んだのは、数字を暗記することではなく、その数字の向こうにいる人々の動きや心理を想像することだった。

これからも毎日少しずつ経済欄を読み続け、自分なりの言葉で理解できるようになりたいと思う。


今日、エデンの園で流れているクラシックを聴いていて、「アダージョ」という曲名が気になった。

調べてみると、「アダージョ」はイタリア語で「ゆっくりと」「穏やかに」という意味だそうだ。

なるほど、眠くなるほどゆったりした曲なのも納得した。

さらに調べると、「アルビノーニのアダージョ」には、戦争で失われた楽譜や復元をめぐる興味深い歴史があることも知った。

でも、今日いちばん心に残ったのは、その曲の背景ではなかった。

エデンの園では、共用スペースにいつも音楽が流れている。

部屋の中までは聞こえないけれど、一歩廊下へ出ると、ロビーや食堂にはその週の音楽が流れている。

フロントには、その週に流しているCDが飾られていて、お願いすると裏面の曲目も見せていただける。

写真を撮って、気になった曲だけ後でYouTubeで聴いたり、少し調べたりするのが、今では私の楽しみになった。

先週はビートルズ。

その前には『津軽海峡・冬景色』。

そして今週は、アダージョばかりを集めたクラシック。

「ビートルズの次は演歌?」

「今度はクラシック?」

その幅広さに、思わず驚いてしまう。

職員さんに伺うと、CDは100枚ほどあるそうだ。

毎週違う音楽が流れるので、同じ曲ばかりということがない。

私は特別な音楽好きというわけではない。

家で音楽だけを聴くことは、ほとんどない。

それでも、暮らしの中にさりげなく音楽が寄り添っていることの心地よさを、この場所で知った。

来週はどんな音楽が流れるのだろう。

そんな小さな楽しみが一つ増えたことも、エデンの園に入って「よかったな」と思える理由の一つである。


今日は呼吸器系について学習した。

最初は、咽頭(いんとう)と喉頭(こうとう)の違い、肺胞や間質の意味がよく分からず混乱したが、一問ずつ解説を読みながら整理していくことで、少しずつ理解できるようになった。

まず覚えておきたいのは、呼吸器の順番である。

鼻 → 咽頭 → 喉頭 → 気管 → 気管支 → 肺

咽頭は鼻腔と口腔の奥にあり、空気と食べ物の両方が通る共通の通路である。そのため、呼吸器と消化器の両方に属する。

一方、喉頭には声帯があり、発声を行う器官である。私は以前、声帯ポリープや声帯結節で手術を受けた経験があるので、「声帯があるのは喉頭」と自分の体験と結びつけて覚えることにした。

気管は左右に分かれる前の一本の管であり、左右に分かれてから肺の中で何度も枝分かれする部分を気管支という。

また、肺胞はブドウの房のように並んだ小さな袋で、ここで酸素と二酸化炭素の交換が行われる。肺胞の周囲には毛細血管が網のように取り囲み、さらに肺胞と毛細血管を支えている組織を間質ということも学んだ。

ガス交換では、

- 酸素は肺胞から血液へ入る。
- 二酸化炭素は血液から肺胞へ移動し、呼気として体外へ出る。

この向きを間違えないことが大切である。

さらに、呼吸器には異物や病原体から体を守る仕組みが備わっている。気管から気管支までの粘膜は線毛上皮で覆われており、細かな毛(線毛)が粘液に付着したほこりや細菌などをのどの方へ運び、体外へ排出しやすくしている。

今日は「呼吸」という分野に苦手意識があったが、一問ずつ理由を確認しながら学ぶことで、「なぜそうなるのか」を理解できた。丸暗記ではなく、仕組みを理解して覚えていきたいと思う。


今日、骨折してから初めて、自分で髪を結ぶことができた。

もちろん、左手はまだ十分には使えない。痛みのある左手をほんの少し補助に使いながら、右手で何とか結んだ。

実は、ずっと困っていた。

髪を結べないのは思っていた以上に不便で、切ってしまおうかとも考えた。

でも、ふと思った。

「本当に無理なのかな。」

片手を骨折する人は私だけではない。同じように困った人はたくさんいるはずだ。みんながショートカットにしているとは思えない。

そう考えて、YouTubeやインターネットで「片手で髪を結ぶ方法」を探してみた。

いくつかの方法を試してみると、曲がりなりにも結ぶことができた。

とてもうれしかった。

同じようなことは三角巾でも経験した。

毎回職員さんに結んでもらうのが申し訳なく、自分で着けられる医療用の三角巾を探したところ、先生からも「これなら大丈夫」と言っていただけるものがあり、夫がAmazonで注文してくれた。

今では自分で着けられるようになり、とても快適に過ごせている。

ただ一つだけ、自分ではどうしてもできないことがあった。

最後にベルトを器具へしっかり差し込むには、まだ左手の力が足りなかったのだ。

昨日は十分に固定できないまま寝たため、器具が肩に当たって痛かった。

そこで今日は職員さんに「お時間ありますか」とお願いし、その部分だけ直していただいた。

すると、驚くほど楽になった。

そのとき、こんなことを思った。

自立とは、一人で何でもできることではないのかもしれない。

自分で調べられることは調べる。

自分でできることは工夫してやってみる。

そして、どうしてもできないことだけは、素直に助けてもらう。

その積み重ねこそが、自立なのではないだろうか。

骨折するまでは、「助けてもらうこと」は、どこか申し訳ないことのように感じていた。

でも今は違う。

できることを少しずつ増やしながら、本当に必要なところだけ助けてもらえばいい。

そう考えられるようになった。

今日は髪を結べた日だった。

でも、それ以上に、「本当に無理なのかな」と考えてみることで、物事が少し違って見えるようになった日でもあった。


今日は『少年たちの贖罪』の第二章を読み終えた。

この章を読んで感じたのは、「償い」とは、一度深く反省すれば終わるものではないということだった。

かつては、十分に反省したら過去を忘れ、新しい人生を歩めばよいという考え方が主流だったという。しかし、人はそんなに簡単に過去を切り離して生きられるものではない。

少年たちは、自分が何をしたかは認めていても、その行為がどれほどの意味を持ち、相手や周囲にどのような影響を与えたのかまでは、すぐには理解できないことが多いという。

印象に残ったのは、人は成長するにつれて、その年齢なりの贖罪意識を持つようになるという考え方だった。

十五歳には十五歳の理解があり、三十歳には三十歳の、六十歳には六十歳の振り返りがある。

贖罪とは、一度で終わるものではなく、生涯を通して少しずつ深まっていくものなのだと感じた。

また、「祈る像」の章では、手のない像を作った少年の言葉が忘れられない。

「手があったらまたやっちゃうじゃん。」

その一言には、自分の中にある暴力への恐れや、自分自身と向き合おうとする苦しさが込められているように思えた。

「赤切れの手」の章も心に残った。

ある少年は、自分の手を見せながら「先生、僕の手を触って気持ち悪くないですか」と尋ねる。

その手は、彼自身にとっては過去の事件と切り離せない手だったのだろう。

先生は何も説教せず、ただ黙って軟膏を塗り続けた。

その場面から、罪を犯したことと、その人の人間としての存在を同じものとして扱わない姿勢を感じた。

最後の「誰のための謝罪か」という章では、謝罪とは誰に向けられるものなのかを考えさせられた。

社会に向けた言葉は必要な場面もあるだろう。

しかし、本当に謝ろうとするとき、人が最初に思い浮かべるのは、傷つけてしまった相手その人なのではないだろうか。

社会への影響まで理解するには、さらに長い時間と人生経験が必要なのだと思う。

この章を読み終えて、私は「償い」とは過去を消すことではなく、自分の行ったことを人生の中に位置づけながら、生き方を問い続けることなのだと感じた。

まだ答えは出ていない。

それでも、この本を読み進めることで、「人は罪を償うことができるのだろうか」という問いを、これからも考え続けていきたいと思う。


肩を骨折して退院し、一人で暮らす部屋へ戻った。

夫は数日間手伝ってくれたあと、静岡へ帰っていった。

助かったことはたくさんある。

それでも、夫が帰ったあと、私は改めて気づいたことがあった。

私は、物が少なく、掃除しやすく、静かな空間で暮らしたいのだ。

夫とは四十年以上一緒に暮らしてきた。

大きなことで衝突したというより、毎日の小さな積み重ねだった。

食べこぼし。

物が増えていくこと。

片付け方。

仕事への向き合い方。

私は家事も子育ても仕事も同時に進めなければ生活が回らなかった。

だから、先を読んで早めに動くことが身についた。

夫は目の前の仕事に集中する人だ。

公認心理師という仕事が好きで、責任感も強い。

それは尊敬している。

でも、その間に生活の細かなことは後回しになり、そのしわ寄せを私が受け止めることが多かった。

若い頃は、それが当たり前だと思っていた。

けれど今は違う。

子どもたちは独立し、私も退職した。

人生の残り時間を考える年齢になった。

だからこそ、ようやく手に入れた松山での暮らしを大切にしたい。

広い家ではない。

それでも、物を増やさず、必要なものだけで暮らすこの空間が、私には心地よい。

夫が将来ここへ来る可能性はある。

そのことを私は拒否しているわけではない。

ただ、一つだけ願いがある。

この暮らしを壊さないでほしい。

物を増やさず、部屋を清潔に保ち、お互いが気持ちよく暮らせること。

それが、一緒に暮らすための私の条件である。

長い結婚生活の中で、相手を変えることは難しいと学んだ。

だから今は、相手を変えようとするよりも、自分が大切にしたい暮らしを守りたい。

骨折をして初めて、その思いが以前よりもはっきり見えてきた。

人生の最後くらいは、自分が心から落ち着ける場所で暮らしたい。

それが、今の私の一番素直な願いである。




6月18日に肩を骨折して以来、私はずっと三角巾のお世話になっている。

白い布を首に掛け、腕を支え、肘を支え、結果的に肩を守る大切な道具だ。

ところが、この三角巾が思っていた以上に難しい。

結び方は人によって少しずつ違うし、看護師さんでも「久しぶりだから少し考えちゃった」と言いながら結んでくださる方がいた。介護士さんもそれぞれ結び方が少しずつ違う。

そして何より、よくずれる。

寝て起きるとずれている。食事をしていても少しずつずれてしまう。

そのたびに介護士さんが、

「結び直しましょうね。」

と優しく声を掛けてくださる。

本当にありがたい。

でも、そのたびに「私一人のために申し訳ないな」という気持ちにもなった。

何とか自分でできる方法はないだろうか。

そう思ってAmazonで「医療用 三角巾」「一人で装着できる」と検索してみた。

すると、一人でも着脱しやすそうなアームスリングが3種類ほど見つかった。

先生に写真を見せると、

「いいですよ。」

と許可をいただいた。

Amazonのページは送れなかったので、スクリーンショットを夫に送り、見てもらった。

値段は2,000円弱から3,000円弱までいろいろある。

どれも一人で装着できるという点では共通していたが、細かな工夫が少しずつ違っていた。

すると夫は、自分だけで決めずにChatGPTにも相談したそうだ。

私の骨折や手術後の状態を説明したところ、「この状態なら一番上位のモデルが合っている」と勧められたらしく、約3,900円の商品を注文してくれた。

夫はAmazonプライムなので、商品はあっという間に松山へ届いた。

今日、エデンの園のフロントから

「荷物が届いています。」

と電話をいただき、受け取りに行った。

その場で箱を開け、早速装着してみる。

ストラップの長さだけ少し職員さんに手伝っていただいたが、それ以外は自分一人で着けることができた。

親指を支えるホルダーがあり、肩ひもの長さも細かく調整できる。

余ったベルトを留める部分もあるが、今のところ私は使わなくてもよさそうだ。

実際に着けてみると、思っていた以上に安定感があり、とても楽だった。

首への負担がずいぶん軽くなった気がする。

さっそく装着した写真を撮って、静岡へ戻った夫へ送った。

「ありがとう。すごく使いやすいよ。もしこのまま良かったら、洗い替えが欲しいな。」

そう送ると、

「わかった。」

と返事が返ってきた。

同じものになるのか、別のタイプになるのかは分からない。

でも、私が少しでも楽に、自分で生活できるように考えてくれる夫には、本当に感謝している。

私は67年間生きてきたが、三角巾のお世話になったことは一度もなかった。

だから、腕を支えるだけで首にこんなに負担がかかることも知らなかった。

食事をすればずれ、寝ればもっとずれる。

そして一人では結び直せない。

今回、自分で調べてみると、同じ悩みを解決するための商品がちゃんとあった。

世の中には、本当に便利なものがあるものだ。

きっと誰かが同じことで困り、「もっと楽にならないだろうか」と考えた結果、生まれた製品なのだろう。

まだ使い始めたばかりなので、本当に自分に合っているかは、もう少し使ってみないと分からない。

7月2日の外来では、手術をしてくださった先生に

「先生、このアームスリングで大丈夫でしょうか。」

と確認してみるつもりだ。

困ったときは、自分で調べてみる。

分からなければ、人に相談してみる。

そうすると、思いがけず解決策が見つかることがある。

今日、私には「自分でできること」が一つ増えた。

そのことが、今は何よりもうれしい。


今日は食欲がなかった。

昨日は夫が静岡へ戻る前に、私が昼に食べられそうなものをたくさん買ってきてくれた。寒天、こんにゃく畑、ゼリー飲料、わらび餅……。骨折してから昼食を頼んでいないので、しばらく困らないようにと考えてくれたのだろう。

ところが昨日は、お昼に夫とお寿司などを食べ、夕食もエデンの食事を残さずいただいたら、少し食べ過ぎてしまった。夜はよく眠れず、今朝も食欲が戻らない。

お昼は何も食べたくなかったが、こんにゃく畑だけは一袋食べることができた。

そこでふと、「こんにゃくって何からできているんだろう」と思った。

こんにゃく粉、寒天、ゼリー、わらび餅……。

普段は何も考えずに食べてきたものばかりなのに、改めて調べてみると、それぞれ原料も栄養も全く違うことを知った。

そして、もっと不思議なことに気づいた。

私は昔から、寒天が好きだった。

わらび餅も好きだった。

こんにゃく畑も好きだ。

どれも「つるん」とした食感が共通している。

一方で、わらび餅にきな粉や黒蜜をかけるのは、あまり好きではない。

夫は半分残したわらび餅にきな粉と黒蜜をたっぷりかけて食べるが、私は何もかけないまま食べる方が好きなのだ。

栄養だけを考えれば、きな粉も黒蜜もかけた方がいいのだろう。

それは分かっている。

でも、私は何もまとっていない、あのつるんとした食感が好きなのだ。

そう考えているうちに、「私は何が好きなんだろう」と考え始めた。

骨折してから牛乳も飲むようになった。

カルシウムも意識している。

出された食事もできるだけ残さずいただく。

それでも、最後は「好きだから食べる」という気持ちがある。

もし世の中の人が、栄養だけで食べるものを決めるようになったら、食事はずいぶん味気ないものになるだろう。

健康のために食べることはもちろん大切だ。

でも、「これが好き」という気持ちも、同じくらい大切なのではないかと思った。

骨折したからこそ、私は自分の体だけでなく、自分の「好き」にも目を向けるようになった。

そんなことを、こんにゃく畑を食べながら考えた昼だった。


以前から読みたいと思っていた『少年たちの贖罪』を読み始めた。夫が図書館で借りてきてくれたが、仕事に戻ることになったため、Kindle版をiPadとiPhoneに入れていってくれた。

昨夜はよく眠れず、骨折した腕の痛みも残っているので、無理をせず、一章ずつ自分の感じたことを書き残していこうと思う。

第一章を読んで一番心に残ったのは、「贖罪(しょくざい)とは何か」という問いだった。

著者は精神科医として、多くの罪を犯した少年たちと向き合ってきた。少年たちは時間が経つにつれ、「どうしてこんなことをしてしまったのだろう」「これから自分はどう生きていけばいいのだろう」と、自分の罪と向き合い始めるという。

しかし著者は、「謝れば終わる」「反省すれば償える」とは決して書かない。

被害者の前で土下座をして謝罪すれば、それで本当に罪は償われるのだろうか。被害者や遺族の苦しみは、それで癒えるのだろうか。

その問いに対し、著者自身も答えを持っていない。そしてさらに、自分は加害者と呼ばれる少年たちの心のケアをしている存在である以上、被害者や被害者家族から見れば、自分も加害者側の一人ではないかと考えるようになったという。

だから著者にとって「贖罪」とは、少年たちだけの問題ではない。自分自身もその問いの中に立ち、人は本当に罪を償うことができるのかを、読者と共に考え続けているように感じた。

また、精神科医と少年との間にも相性があり、心を開く子もいれば、最後まで本心を語れない子もいるという話も印象に残った。著者は四十代を過ぎてから少年院などで働き始めたため、少年たちには母親のような存在として受け入れられやすかったことや、女性たちからもライバル視されることが少なく、人間関係を築きやすかったと率直に書いている。その飾らない文章に思わず微笑んだ。

事件を起こした少年たちは、家庭に戻れたとしても、自分の事件がテレビで報道されるたびに耐えられない思いを抱えるという。被害者やその家族が深い苦しみを背負うことはもちろんだが、加害者側の家族もまた、社会の中で重い現実を抱えて生きていく。その複雑さに、簡単な答えは見つからなかった。

そして著者は、「人は誰でも病気をし、怪我をし、人生に追い詰められることがある。事件を起こさなかったのは、自分が強かったからでも倫理観が優れていたからでもなく、ほんの少し運が良かっただけなのかもしれない」と書いている。

この言葉は、私自身の心にも深く響いた。私もかつて、人生に絶望し、「もう生きていたくない」と思い詰めた時期があった。だから、この本に書かれていることは決して他人事ではない。

第一章を読み終えて感じたのは、人は誰でも加害者にも被害者にもなり得る可能性を持っているということ。そして、「贖罪とは何か」という問いに、簡単な答えは存在しないということだった。

この本は、その答えのない問いを、静かに私たち読者へ手渡しているように思えた。

## 著者略歴

青島多津子(あおしま・た ずこ)

埼玉大学理工学部数学科卒業。青年海外協力隊としてマラウイ、トンガで活動した後、筑波大学医学部を卒業。筑波大学大学院医学研究科博士課程を修了し、精神科医となる。

医療少年院や少年鑑別所など、さまざまな更生・支援の現場で少年たちと向き合い、その豊富な経験をもとに、本書を執筆している。


ベランダのアロエが急に大きくなった。入院中のため詳しく見ていなかったが、ある日ふと見ると、鉢からあふれるように葉が伸びていて、まるで別の植物のようになっていた。

このアロエは、もともと12月に静岡から持ってきたもので、当初は黒くなり、ほとんど枯れているように見えた。しかし夫は「まだ生きている」と言い、私は半ば諦めていた。

それが5月に戻ってきたとき、小さな茎とわずかな葉しかなかったものが、梅雨や気温の変化の中で少しずつ回復し、気づけば大きく成長していた。

その変化と重なって見えたのが、ニュージーランドにいる孫の成長だった。

5月末にはまだ3〜5歩で転んでいたのに、6月中旬にはよろけながらも立ち上がり、昨日のビデオでは、もう普通に歩いていた。来月には1歳になるが、その短い間に確実に“歩く人間”へと変わっていた。

アロエも孫も、目に見える変化はある日突然のように見える。しかしその裏では、静かに積み重なった時間がある。

一方で自分は、骨折と手術で痛みの中にいて、思うように動けない日々を過ごしている。同じ時間の中で、それぞれが別のスピードで変化していることに気づいた。

1か月という時間は短いようでいて、確かに大きな変化を生む単位でもある。そのことが強く印象に残った。


私は久しぶりに本を買おうと思った。
「少年たちの贖罪、罪を背負って生きる」

この本は以前から知っていたが、手に取る機会がなかった。
しかし今回、夫が図書館で借りてきてくれたことで、あらためて出会い直すことになった。

本を少しずつ読みながら、私は著者である青島多津子先生のことを思い出していた。
少年院や医療少年院などの現場で、罪を犯した少年たちと長く向き合ってきた精神科医である。

先生がこの領域に関わるようになったのは、1977年、東京医療少年院でのボランティア活動に始まるという。

ある年の暮れ、脱走した少年が線路沿いを歩き続け、水道橋駅までたどり着いた。
空腹のあまり売店であんパンを盗み、そこで捕まった。

その少年は、途中で手に入れた5万円の財布を大切に持っていた。
それは自分のためではなく、家族のために持ち帰ろうとしていたお金だったという。

「なんでラーメンを食べなかったのか」という職員の言葉に象徴されるように、
この出来事は「加害者」という見え方が一つではないことを強く残した。

私は先生と出会ったとき、心身の不調でとても苦しい時期にいた。
不眠や生活の行き詰まりの中で受診し、そこから長い時間をかけて関わっていただいた。

診察はいつも1時間近いカウンセリングだった。
病院の中では例外的な形だったと思うが、先生は最後までそのやり方を変えなかった。

私はその時間に支えられていた。

最後の診察は静かに訪れた。
「今日は最後ね」とさりげなく告げられ、次の予約は入らなかった。

私は「長い間ありがとうございました」と伝えた。
先生はいつものように微笑み、「あなたは大丈夫よ」と言ってくれた。

その言葉は長い時間をかけて繰り返し私に向けられていたものだった。
「もう大丈夫よ」という言葉が支えとして積み重なっていた。

私は先生に出会えたことを今でも奇跡のように感じている。
人生が一番苦しかった時期に、その存在が確かに支えになっていた。

そして今、先生の著書を手に取りゆっくり読み始めようとしている。
出会いと別れのあとに続く一冊の本である。

これは私にとって最初の一歩としての記録である。
すべてを語るのではなく、まず静かに残しておきたいと思った。


昨日退院し、今日は久しぶりに施設の一階で新聞を手に取った。

一週間前、肩を骨折するまでは毎日のように経済欄を読んでいた。しかし、入院中はそんな余裕はなかった。

久しぶりに開いた経済欄には、日経平均株価が7万円を超えた話や、企業の決算、株価の上下、配当金、再投資などが並んでいた。

パソナ、セレス、平和堂……。

知らない会社の名前も多く、「私は世の中のことをまだまだ知らないな」と思った。

それでも一つひとつ読んでいくと、会社にはそれぞれ役割があり、利益が増えれば株価が上がり、期待が外れれば下がる。経済とは、人や会社の活動そのものなのだと少しずつ見えてきた。

部屋へ戻る途中、昨日の夕食がおいしかったことを思い出した。

エデンの園では、朝食432円、昼食669円、夕食979円。

病院では三食とも550円だった。

病院食は治療のための食事であり、エデンの食事は生活を楽しむための食事でもある。

値段だけでは測れない違いがあることに気づいた。

そう考えているうちに、

「お金って何なんだろう。」

という疑問が浮かんできた。

新聞には何億円、何兆円という数字が並ぶ。

世界には莫大な財産を持つ人もいる。

けれど、今回の入院で本当にありがたかったのは、手術が無事に終わったこと、職員さんが迎えに来てくれたこと、そして「帰る場所」があったことだった。

私がこの施設を選んだ理由も、お金を残すためではない。

子どもたちにできるだけ迷惑をかけず、自分で選んだ場所で最後まで暮らしたいと思ったからだ。

献体を希望しているのも、散骨を望んでいるのも、同じ気持ちからである。

最後まで自分で準備できることは、自分で決めておきたい。

今日の経済欄を読んで思った。

お金は人生の目的ではない。

安心して暮らし、学び、人と支え合い、自分らしく人生を終えるための道具なのかもしれない。

骨折して一週間。

世の中は株価も為替も動き続けていた。

そして私自身も、この一週間で、お金の見方が少し変わったような気がしている。


昨日、肩の骨折の手術を終え、松山エデンの園へ戻った。

施設に着くと、ビートルズの曲がオルゴールで静かに流れていた。その中で「Penny Lane」が妙に耳に残った。

私はこの曲を何度も聴いたことはあったが、どんな歌だったかはよく知らなかった。そこで歌詞や曲が生まれた背景を調べてみると、ポール・マッカートニーが幼い頃を過ごしたリバプールの街を歌った曲だということを知った。

その瞬間、不思議なことに、私も自分が生まれ育った大阪市阿倍野区の風景や、小学校、中学校、高校時代のことを次々と思い出した。

長くなるので、今回はその中でも、神戸大学を目指していた頃のことを書いてみたい。

天王寺高校では、授業は教科書中心ではなく、東大・京大などの入試問題や独自プリントで進み、日本史は「科学」、物理は初回から京大問題という独特の授業体系だった。最初は意味が分からず圧倒された。

理系では物理や図形問題でつまずき、自分には空間認識が弱いと感じて理系進路を早い段階で断念した。ただし、学力の問題というより「学問の前提構造の違い」に戸惑っていた感覚が強い。

その後、塾にも家庭教師にも頼ることなく、赤本を手に取り、独学で神戸大学を目指すようになった。問題を見てレベルを把握し、自分なりに戦略を組み立てていった。

この時代はまだ共通一次の2年前で、大学入試は記述中心だった。日本史は漢字、世界史はカタカナで書かなければならず、暗記と記述力の比重が非常に高い時代だった。

一方で国体候補選手としてスポーツも続けており、夏まで練習し、その後に受験へ切り替えた。生活は朝型に変わり、極端な集中状態で受験勉強を続けていた。

受験本番では、過去問と似た問題が出るなど手応えもあり、合格につながった。発表は友人と見に行き、自分だけが合格し、帰りは一人になった。その孤独感は今でも強く記憶に残っている。

滑り止めとして受けた大学は、もともと自分の意思では受けるつもりはなかった。母が「浪人したら大変だから」と強く勧め、願書まで用意してくれたので受験することになった。試験は非常に易しく感じ、そのまま合格したが、意識は最後まで神戸大学に向いたままだった。

その後、同級生や友人たちはそれぞれ違う人生を歩んでいった。時には「あちらの人生もあったのかもしれない」と思うこともある。

一曲のビートルズが、忘れていたわけではないが、長い間心の奥にしまっていた若い頃の私を、そっと連れてきてくれたような一日だった。さりげなく流れていたBGMには、過去を呼び覚ます力があるのかもしれない。


今日、退院してエデンの園へ戻った。

ありがたいことに、職員さんが車で迎えに来て下さった。

久しぶりの自分の部屋は、やっぱり落ち着く。

病院では多くの方に支えられ、安心して過ごすことができた。本当に感謝している。

戻って最初に挑戦したのは洗髪だった。

骨折してから工夫していたように、ビニール袋に小さな穴を開けて頭と腕を通し、服や三角巾が濡れないようにしながら台所で髪を洗った。この方法は今日も役に立った。

その後は、お風呂で下半身だけシャワーを浴びた。本当は全身さっぱりしたいが、まだ左肩には水をかけられない。三角巾は少し濡れてしまったので、新しいものに替えた。

夫が、自分一人でも着脱しやすいアームスリングを注文してくれた。先生にも確認していただき、「これで大丈夫」と言われたものなので、届くのが楽しみだ。

洗濯もしようと思った。本当は夫が来てからにしようと思っていたが、夜は生活音を控えたいので、今のうちに済ませることにした。

洗濯物を干していると、思わず左手を使ってしまうことがある。そのたびに「あ、まだ無理はだめだ」と気づく。でも、骨折した直後とは違う。

あの頃は、三角巾を外して腕を少し下げるだけで立っていられないほど痛かった。シャワーを浴びるのも、服を着るのも、最後に介護士さんに三角巾を結んでもらうまでが本当に大変だった。

今日は、術後の痛みはあるものの、あの頃とは明らかに違う。

「もう骨折そのものの痛みではないんだ。」

そう感じられたことが、今日一番うれしかった。

そして何より、久しぶりのエデンの夕食。

病院食も栄養を考えて工夫されていたが、エデンの食事はやはり格別だった。季節感や行事を大切にした献立は、食べることそのものが楽しみになる。

ここで毎日食事をしながら暮らしていけることを、心からありがたいと思った。

夫は東京で仕事を終えてから飛行機で松山へ向かっている。

私は「待たずに寝るね。ドアは開けておくから、自分で入ってきて」とLINEを送った。

今日はもう十分頑張った。

退院初日。

またここから、自分の暮らしを少しずつ取り戻していこうと思う。


退院してエデンの園へ戻り、いろいろなことを考えた。

教員として二年大阪で働いた後、三十一年間働いた静岡。

もちろん、生徒との思い出や子どもたちとの生活など、良い思い出が全くないわけではない。

でも、自分の人生を振り返ると、「静岡で最後まで暮らしたい」と思えたことはなかった。
だから私は松山へ来た。

特別な縁があった土地ではない。

介護行き有料老人ホームを探す中で、価格も含めて現実的に選んだ場所だった。 自立でしか入れず、看取りまでお願いできる施設である。

それでも今は、この部屋に帰ってきて、「ここが自分の家だ」と思える。

夫は今も静岡を拠点にしている。

もし将来、夫が病気になったとしても、私は静岡へ戻って生活するつもりはない。

冷たいと言われるかもしれない。

でも、それは長い年月を過ごしてきた末に、自分で決めた人生だからだ。

もちろん、二人名義の家を処分するときなど、自分が責任を果たさなければならない場面では静岡へ行く。

しかし、それ以外で戻るつもりはない。

私は「静岡を離れた」のではなく、「自分が最後まで暮らす場所を選んだ」のだと思う。

退院した今日、その思いを改めて強く感じた。


今日、無事に退院し、自分の部屋へ戻ってきた。

まず最初に目に入ったのは、湿気防止のため立てておいたマットレスだった。

元に戻そうと思ったが、その前に掃除機をかけたくなった。

片手しか使えないのに、退院して真っ先に掃除を始めるとは、やっぱり私は主婦なのだと思った。

掃除が終わると、寝られるようにマットレスを整え、荷物を全部出して、洗濯物を分けた。

最後に、ニュージーランドで買ったお気に入りのバッグを拭いて干した。

リュックにも手提げにもなる便利なバッグで、昨年買ったのに、今年また同じものを二つ買ってしまったくらい気に入っている。

一通り片付けが終わって、久しぶりにマッサージチェアへ座った。

左肩が動かないようにタオルと手で支えながら目を閉じる。

「ああ、十日ぶりだ。」

6月18日に骨折して以来、初めて自宅でくつろぐ時間だった。

その瞬間、思った。

「体、しんどかったんだな。」

病院では気を張っていたのだろう。

家へ帰って、ようやく体が「休んでいい」と感じたような気がした。

退院初日は、掃除と片付けだけで終わった。

それでも、自分の暮らしがまた始まったことを実感できた一日だった。


最後に、主治医の先生のことを書いておきたい。

28歳の、防衛医科大学校を卒業された若い先生だ。

診察では必要なことだけを話し、病室でも滞在時間は30秒ほど。

とても口数が少ない。

でも、その短いやり取りの中で、「この先生、面白い人だな」と思うことが何度もあった。

一番印象に残っているのは手術室だった。

私は自分で歩いて手術台へ上がった。

他のスタッフの皆さんは優しく声を掛けてくださった。

ところが先生は、耳に音楽を流しながら、黙々と手術の準備。

まるで「これから戦いに向かう」というような気迫で、自分の世界に入っていた。

昨日は退院が決まり、「あとで写真見せるよ。」と言って病室を出て行かれた。

私は楽しみに待っていた。

ところが先生は別の仕事へ。

看護師さんは「ああ、また呼ばれて飛んで行っちゃいましたね」と笑っていた。

「先生らしいな。」

私も思わず笑ってしまった。

今は退院の朝。

時計を見ながら、「先生、来るかな。写真を見せてくれるかな。」と思っている。

期待しているような、していないような、不思議な気持ちだ。

そういえば、次回の診察日は、私に何も聞かず7月2日に入っていた。

こちらは予定の調整が必要なのだけれど、「まず診察日を押さえる」という先生らしい仕事ぶりなのかもしれない。

患者になって初めて知ったことはたくさんある。

その中でも、この若い先生との出会いは、きっと長く忘れないと思う。


今日は退院の日。

荷物をまとめ、病室を出る前に横開きのドアを閉めた。

その瞬間、自分でも驚いた。

私は無意識に、手術した左手を使っていたのだ。

「えっ、今、左手で閉めた?」

そのとき初めて、

「ああ、骨を治してもらったんだ。」

そう実感した。

まだ痛みはある。

腕も思うようには動かない。

それでも、何気ない動作が自然にできたことが、とてもうれしかった。

今は病院のラウンジでこの文章を書いている。

Wi-Fiが使えるのはここだけなので、もうすぐ病室へ戻る。

着替えもほとんど終わり、あとは退院を待つだけ。

数日間だった入院生活は、本当にあっという間だった。

今日からまた、新しい日常が始まる。


手術が終わった直後は、思っていたほど痛くなかった。

「意外と大丈夫かもしれない。」

そんなふうに思っていた。

ところが、本当の痛みは麻酔が切れてからだった。

夜中になると肩の痛みはどんどん強くなり、最初にもらった痛み止めでは足りず、坐薬を使ってもらった。

翌日も肩は熱を持ち、腫れ、重く響くような鈍痛が続いた。

夕方には再び坐薬のお世話になった。

骨には神経がないと聞く。

それでもこれだけ痛いのは、筋肉や血管、周囲の組織が手術に反応しているからなのだろう。

「骨折って、こんなに痛いものなんだ。」

患者になって初めて知った。

それでも不思議なことに、食事だけは毎回完食だった。

昔から私は、体調が悪くても食べられる。

たくさん食べても太れない体質だけれど、「食べる力」が回復する力を支えてくれているのかもしれない。

そして昨日、胸まで固定していたバストバンドが外れた。

三角巾だけになると、それだけでも体がずいぶん楽になった。

小さな変化ではあるけれど、一歩ずつ回復していることを実感した。


今日は、膵臓と大腸について学んだ。どちらも試験では「ひっかけ」が多い分野なので、役割を整理して覚えることが大切だと感じた。

### ① 膵臓は「消化腺」と「内分泌腺」の二つの働きを持つ

膵臓は食べ物が通る「消化管」ではない。

- 消化液(膵液)を作って十二指腸へ分泌する「消化腺」
- インスリンやグルカゴンを血液中へ分泌する「内分泌腺」

という二つの役割を持っている。

膵液は弱アルカリ性で、胃酸を中和する働きがある。また、アミラーゼ・リパーゼ・タンパク質分解酵素などを含み、炭水化物・脂質・タンパク質の消化を助ける。

### ② 大腸の役割

大腸は、小腸のように栄養をたくさん吸収する器官ではない。

主な役割は、

- 水分を吸収する
- 腸内細菌がビタミンKを産生する
- 糞便を作り、排便へつなげる

ことである。

小腸には栄養を吸収するための「絨毛」があるが、大腸には絨毛がない。この違いは試験でよく問われる。

### ③ 糞便はどこにたまる?

普段、糞便がたまっているのはS状結腸である。

直腸は通常空になっており、S状結腸から糞便が送られてくると、便意が起こる。

「通常、糞便は直腸にたまっている」という問題は誤りである。

### ④ 糞便の成分

糞便は食べ物の残りだけでできているわけではない。

主な成分は、

- 水分(約70〜80%)
- 腸内細菌
- はがれ落ちた腸の細胞
- 食物の残りかす

であり、食べ物の残りは意外に少ないことを知った。

### ⑤ 歯状線(しじょうせん)

肛門のすぐ内側には、直腸の粘膜と皮膚の境目になる歯状線というギザギザした線がある。

この言葉は痔の分野でもよく出題されるので、「粘膜と皮膚の境目」と覚えておきたい。

## 今日覚えたいポイント

- 膵液は十二指腸へ分泌される。
- 膵液は弱アルカリ性で胃酸を中和する。
- 膵臓は「消化腺」と「内分泌腺」の両方の働きを持つ。
- 大腸には絨毛がない。
- 腸内細菌はビタミンKを産生する。
- 糞便は通常S状結腸にたまり、直腸へ送られると便意が起こる。
- 歯状線は直腸粘膜と皮膚の境目にある。


友人は今、膵臓癌と闘っている。
私の膵臓にも3センチ位の嚢胞(ふくろ)があるそうで、癌化しやすいと、毎年腹部MRIで経過観察である。
膵臓は、どうしても発見が遅れるというイメージが大きい。

入院生活の中で、自分の体のことを少しだけ旅するように考えてみた。

ふだんは意識もしないのに、体の中ではとても忙しい働きが続いている。

---

ある日、胃を出た食べ物は次の目的地へ向かう。

そこに待っているのが「膵臓」だった。

膵臓は、食べ物の通り道ではない。けれどとても重要な案内役のような存在だ。

膵臓は膵液という特別な液体を作り、それを十二指腸へ送り出す。

その膵液は弱アルカリ性で、胃で強くなった酸をやさしく中和してくれる。

さらに中には、食べ物を分解する力もある。

- 炭水化物を分けるアミラーゼ
- 脂肪を分けるリパーゼ
- タンパク質を分ける酵素たち

まるで「なんでも分解できる作業チーム」のようだ。

そして膵臓はもう一つの顔を持っている。

インスリンやグルカゴンというホルモンを血液に送り出し、血糖値を静かに調整している。

消化の世界と、血液の世界をつなぐ、少し不思議な臓器だった。

---

食べ物の旅はさらに進み、大腸へたどり着く。

そこには、小腸のような“栄養を吸収するためのひだ(絨毛)”はもうない。

代わりにあるのは、静かな整理の場所だった。

大腸の役割は、栄養を吸うことではない。

主な仕事は、

- 水分を吸収して便の形を整えること
- 腸内細菌と一緒にビタミンKを作ること
- 便を作り、外へ送り出す準備をすること

そこにはたくさんの腸内細菌が住みつき、静かに働いていた。

---

便はずっと直腸にいるわけではない。

普段は少し手前の「S状結腸」にたまっている。

そしてある程度たまると、直腸へと送られる。

その瞬間、体は「そろそろ出るよ」というサインを出す。

それが便意だった。

---

体の出口には、小さな境界線がある。

それが「歯状線」。

直腸のやわらかい粘膜と、外側の皮膚とが切り替わる場所だ。

見えないけれど、体の内側と外側を分ける静かな境目だった。

---

こうして体の中を少し旅してみると、ただの暗記だった知識が、少し違って見えてくる。

膵臓も、大腸も、ただの器官ではなく、それぞれに役割を持った小さな働き手たちだった。

そして今も、何も言わずに働き続けている。


今回の入院で、患者にならなければ気づかなかったことがたくさんあった。

手術前、先生は病室へ来て左腕に丸印を書かれた。

何の説明もなかったので不思議に思い、看護師さんに尋ねると、「手術する側を間違えないための確認です」と教えていただいた。

なるほど、そんな確認があるのか。

手術室では独特の音楽が流れていた。

私は「これから戦いに行くような音楽ですね」と看護師さんに話しかけた。

先生は静かに聞いておられたが、手術前はほとんど言葉を発しない。

夜、一瞬の巡回時に「先生、手術前は一言もしゃべりませんでしたね」と言うと、

「僕、今から手術ですから。」

そう言って足早に手術室へ向かわれた。

夜でも事故などの緊急手術入るらしい。
患者だけでなく、執刀する先生にとっても大きな集中と緊張の時間なのだろう。

病院は24時間止まらない。

そして、患者は手術中、麻酔で眠っている間に衣服を外し、尿道カテーテルなど必要な処置が行われる。

目が覚めたときには、すべて終わっていた。

最初は驚いたが、安全に手術を行うために必要なことなのだと理解した。

今回の骨折は、自分の判断の甘さから始まった。

電動三輪車に乗り、信号で降りずに押しボタンを押そうとして転倒し、肩を骨折した。

振り返れば浅はかだったと思う。

そのことで多くの方に心配と迷惑をかけてしまった。

特に、松山エデンの園の皆さんには、車を出していただき、病院にも付き添っていただいた。

本当に感謝しかない。

もちろん、「あの時こうしていれば」と思うことはある。

でも、何度考えても過去は変えられない。

だから、もう起きてしまったことは受け入れようと思う。

これからは同じ失敗を繰り返さないよう慎重に行動しながら、それでも前を向いて歩いていきたい。

今回の出来事で、私は多くの人に支えられて生きていることを改めて知った。

この感謝の気持ちを忘れず、一日一日を大切に過ごしていこうと思う。


昨日は午後1時からの予定だった手術が、3時開始に変更になり、終わったのは午後6時半だった。

麻酔がしっかり効いていたので、痛みはほとんどなく、「意外と楽かもしれない」と思いながら眠りについた。

ところが、夜中の12時。

激しい痛みで目が覚めた。

痛み止めを飲んでもほとんど効かず、結局、座薬を入れていただいてようやく少し落ち着き、うとうと眠ることができた。

朝方になるとまた痛みが戻ってきたが、その座薬は12時間空けなければ使えないという。

結局、痛みを抱えたまま朝を迎えた。

丸一日ぶりの朝食は、パンにジャム、煮物、フルーツ、そして牛乳。

私は牛乳が苦手だが、骨粗鬆症のこともあり、「これは修行だ」と思って普段から飲むようにしている。

今日は牛乳しか飲み物がないので、一気に飲んでしまうわけにもいかず、少しずつ大切に飲み、最後にフルーツを食べた。

食後は歯磨きまで看護師さんが指導してくださる。

術後は口の中を清潔に保つことも大切なのだそうだ。

病院では、本当に細かなところまで回復のために考えられている。

今回、一番不思議だったのは痛みだった。

私は「骨には神経があまりないのだから、そんなに痛くないのでは」と勝手に思っていた。

しかし、それは大きな勘違いだった。

骨を包む骨膜や、周囲の筋肉、血管、腱などが傷つき、さらに手術でも治療が行われるため、そこに強い炎症が起こる。

看護師さんも「骨折の患者さんは皆さん本当に痛いと言われます」と教えてくださった。

患者になって初めて知ることばかりである。

今日は午後から歩く練習が始まるそうだ。

先生からは、まず手首を動かすこと、そして腕をぶらぶらさせるリハビリから始めると説明を受けた。

昨日手術を受けたばかりなのに、もうリハビリ。

治療とは、安静にしているだけではなく、少しずつ体を動かしながら回復していくものなのだと実感している。


今日は肩の手術の日だった。

朝から絶食、11時から絶飲となったが、思っていたほど空腹はつらくなかった。

午前中はラウンジで過ごした。

登録販売者の勉強を進めるというより、自分の体の中で起きていることを考えていた。

肝臓や膵臓、消化の仕組み。

食べ物が入らなくなった今、体はどのようにエネルギーを使っているのだろう。

そんなことを考えながら、自分なりに気持ちを整理し、noteの記事も書いた。

それらは11時までには一段落した。

11時からは飲み物も飲めなくなり、病室へ戻った。

そこからが長かった。

勉強をする気にもなれず、ただベッドの上で過ごした。

手術は午後1時開始の予定だったが、予定より遅れていた。

トイレのことも気になる。

いつ呼ばれるだろう。

今だろうか。

まだだろうか。

時計を見るたびにそんなことを考えていた。

やがて手術に向けた準備が始まった。

手術着に着替える。

血栓予防のための弾性ストッキングを履く。

髪をまとめてもらう。

もういつでも手術室へ行ける状態になった。

それでも、まだ待つ。

準備が終わってからの時間は、不思議なくらい長く感じた。

ようやく呼ばれ、看護師さんと一緒に手術室へ向かった。

手術台には自分で上がり、自分で横になった。

機械が取り付けられ、点滴がつながれる。

その時、手術室には独特の音楽が流れていた。

クラシックではない。

ロックとも少し違う。

どこか闘いへ向かうような、不思議な音楽だった。

先生はその音楽に集中しているようだった。

私は以前から、できることなら手術を見てみたいと思っていた。

もちろん現実には無理だと分かっている。

それでも、自分の肩の中で何が行われるのか見てみたかった。

手術が怖いというより、純粋に知りたかったのである。

骨はどんな状態だったのか。

どのように戻したのか。

プレートはどう付けたのか。

私はこれまでいろいろ調べてきた。

だからこそ、自分の場合は実際どうだったのか知りたかった。

しかし、それを見ることはできない。

麻酔科の先生から声をかけられた。

「麻酔を入れますよ」

その後の記憶はない。

次に気が付いた時、私は自分の病室にいた。

手術室を出た記憶もない。

病室へ戻った記憶もない。

右手には点滴。

肩には手術の跡。

足には血栓予防の機械。

それらを見て、

「ああ、終わったんだ」

と思った。

そして片手でLINEやメールを打った。

心配してくれている人たちに、無事終わったことを伝えたかった。

今こうして振り返ると、不思議なことに、私の中には恐怖の記憶があまりない。

長い待ち時間。

独特な音楽。

気が付いたら病室だったこと。

そして、

「見たかったな」

という気持ち。

もしもう一人の自分がいて、手術を見学できたらどんなに面白かっただろう。

そんなことを考えている。

きっと私は、怖がるより先に知りたくなる人間なのだろう。

今日はそんな一日だった。


今日は手術の日だった。

11時から絶飲食になるため、それまでの時間を使って登録販売者の勉強をしていた。

問題は肝臓の働きと栄養分の代謝についてだったが、解いているうちに、私は言葉だけ覚えていて、本当の意味はあまり分かっていなかったことに気づいた。

まず、アンモニアとは何か。

アンモニアは、体がたんぱく質を利用した後にできる老廃物のようなものだそうだ。

それを肝臓が処理して無害な形に変える。

一方、ビリルビンは古くなった赤血球が壊れたときにできる黄色い物質で、これが増えると黄疸になる。

私は今まで「アンモニア」と「ビリルビン」の違いもよく分かっていなかった。

今回勉強して、アンモニアは脳に悪影響を与えるもので、ビリルビンは黄疸の原因になるものだと知った。

父は肝臓がんで亡くなった。

だから肝炎や肝硬変という言葉は聞いたことがあったが、肝臓の働きが悪くなると、こうした物質の処理もうまくできなくなるのだと改めて理解した。

さらに、肝臓は解毒をするだけではなく、体の中の大きな倉庫でもあり工場でもあることを知った。

ビタミンAやDだけでなく、ビタミンB6やB12も蓄えている。

私は昔、エビオスやチョコラBBのようなビタミン剤を飲んでいたことを思い出した。

あの中に入っていたビタミンB6も、肝臓に蓄えられることがあるらしい。

また、コレステロールという言葉も改めて考えた。

健康診断では悪者のように言われることが多いが、本来は体に必要な材料であり、胆汁酸やホルモンの原料になる。

肝臓はそれらを作り出す工場でもある。

次の問題では、ブドウ糖とグリコーゲンについて学んだ。

食べ物から得たブドウ糖は肝臓に運ばれ、グリコーゲンとして蓄えられる。

そして血糖値が下がると、今度はグリコーゲンがブドウ糖に戻されて使われる。

まるで銀行に預けて、必要なときに引き出すお金のようだと思った。

さらに、グリコーゲンとして蓄えきれない余分なエネルギーは脂質として保存される。

だから食べ過ぎると脂肪になるという話につながるのだろう。

今日の勉強で私が一番印象に残ったのは、

「肝臓は体の中の大工場であり、大倉庫でもある」

ということだった。

解毒をし、栄養を加工し、ビタミンを保管し、必要な物質を作り出す。

普段は意識しないが、とても働き者の臓器である。

そんなことを考えながら、私は11時までに大好きなMATCHの振ってシュワシュワのゼリー飲料を飲んだ。

手術前の小さなご褒美だった。

もうすぐ手術室へ向かう。

今日勉強したことも、この日の記憶と一緒に残ってくれたらと思う。


朝、ラウンジで過ごしながら、いよいよ手術の日が来たのだと実感している。

昨日まではどこか現実感がなかったが、今朝、看護師さんから術後の説明を聞いて急に現実味が増した。

左肩を手術するので、点滴は右手に入る。さらに尿の管も入る予定で、術後しばらくは着替えも身の回りのことも看護師さんに手伝ってもらうことになるという。

食事のことよりも、自分で何もできなくなることの方が少しショックだった。

また、手術前なので絶食だが、11時以降は飲み物も制限される。紅茶、コーヒー好きとしては少し残念だが、これも手術のためと思えば仕方がない。

ここ数日、三角巾とバストバンドで固定して過ごしているが、ずれてくると本当に痛い。

うまく固定されている時の痛みは4か5くらい。

しかし、腕がだらんと下がったり、ある角度に入ったりすると10以上と答えたくなるほどの激痛になる。

看護師さんに巻き直してもらうたびに少し楽になるが、そのたびに骨折の痛みの強さを実感する。

だから今回の手術に期待しているのは、痛みがゼロになることではない。

術後の傷の痛みや違和感は当然あるだろう。

プレートやボルトも入る。

三角巾での固定も続く。

それでも、今のように骨折した部分が動いて「グクッ」とくる痛みからは解放されたい。

それが今の一番の願いだ。

先生からは、人によっては肩の可動域が少し狭くなることもあるし、リハビリ次第だとも聞いている。

その覚悟はしている。

もし左右が完全に同じように動かなくなったとしても、教えられたリハビリはきちんと頑張りたい。

そして3か月後には、またプールに戻りたい。

クロールも背泳ぎも平泳ぎも泳ぎたい。

バタフライは最後かもしれない。

以前とまったく同じでなくてもいい。

また水の中を気持ちよく泳げるようになれたら、それで十分だと思う。

今は朝7時台。

もうすぐ病室へ戻ろうと思う。

今日は自分が頑張る日というより、先生方に肩を預ける日なのかもしれない。

まずは無事に手術が終わることを願っている。


入院初日の午後、同室の方と少しお話をする機会があった。

その方は人工股関節の手術を受けられていて、明日退院されるという。

話を聞くと、18年前にも反対側の股関節の手術を受けたそうだ。その時は歩けるようになるまでかなり時間がかかったらしい。

ところが今回は術後すぐにリハビリが始まり、数日で退院予定とのことだった。

その話を聞いて、以前通っていたジムで一緒だった女性を思い出した。

その方も人工股関節の手術を受けたが、思い切って両側を手術された。

久しぶりに再会した時には元気にプールへ通っておられ、私が驚いたことに平泳ぎまでされていた。

当時の私は、人工股関節になったらそこまで動けないのではないかと勝手に思っていた。

けれど実際には、手術を受けた方たちは再び歩き、泳ぎ、それぞれの日常へ戻っていく。

もちろん病気も手術も人それぞれで、私の肩の手術とはまったく違う。

それでも今日、二人の話が重なって思った。

医療は、自分が思っている以上に進歩しているのかもしれない。

入院前は手術そのものへの不安が大きかった。

ところが今日は看護師さんから、「順調なら2泊3日で退院される方もいますよ」と聞いた。

もちろん最終的には手術や術後の経過次第である。

それでも、その言葉に驚いた。

私の中では、手術といえば長く入院するものというイメージがあったからだ。

今の医療は、できるだけ早く回復し、できるだけ早く日常へ戻ることを目指しているのだろう。

明日は私の手術の日。

不安がなくなったわけではない。

それでも今日は、人が回復していく姿や医療の進歩について考える一日になった。


今日から入院生活が始まった。

朝、施設で最後の朝食を食べて病院へ向かった。

苦手な牛乳とレバーが並んでいたが、どちらも体には良いものだ。まるで「頑張ってこい」と送り出されているような気がして、しっかりいただいた。

エデンの園の職員の方が車を出してくださり、入院手続きも助けて下さった。 本当にありがたかった。
病室に着いてからは、薬の確認や歯科の検診、麻酔科の説明などが続いた。

入院というと特別な出来事のようにも思えるが、自分では意外なほど落ち着いていた。

持ち物もほとんど迷うことなく準備できたし、薬の管理もスムーズだった。

それだけ病院や検査に縁のある人生を歩いてきたということかもしれない。

あまり自慢できることではないが、慣れているから助かることもある。

新しく建てられた病院はとてもきれいだ。

ただ、どこか無機質で、四角い形が並ぶ空間は少し冷たくも感じる。

けれど、そこで働く先生方や看護師さんたちは皆さん丁寧で、その温かさに救われる。

夕方になり、一通りの説明も終わった。

明日は手術の日。

不安がないと言えば嘘になる。

それでも、ここまで来たら先生方を信頼してお任せするしかない。

今夜はしっかり歯を磨いて、静かに明日を待とうと思う。


今日は入院の日だ。

夜中に一度目が覚め、また眠り、朝5時頃に目が覚めた。

もう少し横になろうと思いながら、ふと近くにあった娘の古いノートを手に取った。

なぜそのノートだけ残っていたのか分からない。

引っ越しの時にたくさんの物を整理したはずなのに、その一冊だけは捨てられずに残っていた。

開いてみると、そこには日本語が一言もなかった。

小学校6年生の頃の英語のノートだった。

英語の日記や作文がぎっしり書かれ、先生の赤ペンによる添削も残っている。

私は当時、娘が英語を勉強していることは知っていた。

けれど、そのノートの中身を読むことはほとんどなかった。

今になって初めて、30年近く前の娘の言葉を読んだのである。

ノートの間には、一枚の目標を書いた紙が挟まっていた。

毎日30分英語の本を読むこと。

毎日5つの英単語を覚えること。

英検2級に合格したいこと。

そして、小さい子たちにもっと優しく接したいこと。

そんな目標が英語で書かれていた。

実は娘は、その後小学6年生で英検2級に合格している。

兄はその前年、5年生で合格していた。

当時私は英語教育の仕事に関わっていたこともあり、英検そのものに特別な思い入れがあったわけではなかった。

むしろ、試験に合格することと、本当に英語で話したり考えたりできることは別だということも分かっていた。

ただ、当時のイマージョン教育では、子どもたちの英語力がどれだけ伸びているかを保護者に示す方法があまりなかった。

そのため、多くの家庭にとって英検は分かりやすい目安だったのだと思う。

私はどちらかというと、娘が合格するかどうかよりも、先に合格した兄と比べて劣等感を持たなければいいなと気にしていた。

だから今、この紙を読むと、英検2級に合格したことよりも、その前に娘自身が「毎日5つ単語を覚えたい」と目標を書き、自分なりに努力していたことの方が心に残る。

親が心配していたこととは別に、娘は娘なりの目標を持ち、娘なりの歩幅で前に進んでいたのだと、今になって知った気がした。

さらに当時のスケジュールも残っていた。

静岡から沼津まで通学し、帰宅して宿題をし、習い事へ行き、勉強をして寝る。

気がつけば夜10時半や11時になっている。

英語、ピアノ、エレクトーン、水泳、塾。

今見ると、本当に忙しい毎日だった。

私は仕事を終えて急いで迎えに行き、夕食の支度をし、子どもたちの習い事を回していた。

当時はそれが当たり前だった。

できることをしてやりたい、その一心だったと思う。

水泳のことも思い出した。

娘は0歳の頃からベビースイミングに通っていた。

私も一緒にプールに入り、浮き輪をつけた娘が水の中から私に向かってくる。

私はそれを抱き上げる。

あの時の娘の顔を、今でもはっきり思い出せる。

普段は忘れているのに、不思議なものだ。

娘は今35歳になった。

人生は親の思い通りにはならない。

娘もまた、私たちが想像していたのとは違う人生を歩いている。

でも、それでいいのだと思う。

今日の朝、私は娘の現在を見たのではない。

英語だけで書かれた古いノートの中で、小学6年生だった頃の娘に会ったのである。

親というのは、子どものことを知っているようで、実は知らない。

毎日一緒に暮らしていても、その子が何を考え、何を目標にし、どんな気持ちで頑張っていたのかまでは分からないことがある。

入院の日の静かな朝。

私は、捨てられなかった一冊の英語のノートから、忘れていた大切な時間を少しだけ取り戻した気がした。


朝6時30分。

今日もラジオ体操の音楽が聞こえてきた。

93歳のヨシノさんが流している小さなラジオの音だ。

部屋にいても聞こえてくる。

今は骨折で参加できないので、その音を聞きながら過ごしている。

不思議なものだ。

私はもともとラジオ体操が好きではなかった。

子どもの頃もほとんど参加した記憶がない。

学校の運動会前にやる程度で、どちらかと言えば古臭くて地味なものという印象だった。

教員時代は朝が苦痛だった。

急いで朝食をかき込み、車に乗り、遅刻しないように職場へ向かう。

そんな毎日から解放された時、もう二度と朝早く起きたくないと思った。

退職後は自分のペースで暮らしていた。

英語を教えたり、知人限定で鍼灸の施術をしたり。

患者さんや生徒さんの予定がない日は、自転車でジムへ通った。

泳いだり、ズンバをしたり、ヨガやベリーダンスをしたり。

自由な時間だった。

だからエデンへ来て、夫がラジオ体操へ参加し始めた時も、正直あまり乗り気ではなかった。

それでも何となくついて行った。

夫が帰った後、一人で生活を始めることになる。

朝食は7時30分から。

昼食は取らずに病院や手続きやジム探しに動こうと思っていた。

そんな生活の中で、一番心配だったのは、朝のリズムが崩れることだった。

ラジオ体操は好きではなかったけれど、生活の始まりを作るきっかけになるかもしれない。

そんな気持ちがどこかにあったのだと思う。

気が付けば続いていた。

ヨシノさん。

「来てくださって嬉しいですよ」としか言わない穏やかなリーダー。

麻雀仲間でもある中川さん。

「来なさい、来なさい」と声をかけてくれる。

娘さんの近くへ来られた男性。

そしてご夫婦ー白髪の長い髪の女性。

その方は私が骨折して参加できなくなった後、ポストに絵葉書を入れてくださった。

「今は庭園でこんな花が咲いていますよ」

そんな優しい便りだった。

名前も知らなかった。

それでも私のことを気にかけてくださっていた。

ラジオ体操が好きだったわけではない。

でも、あの場所に集まる人たちには会いたかったのかもしれない。

気が付けば私は、骨折した朝まで通い続けていた。

今後しばらくは手術とリハビリが続く。

食事も部屋へ運んでもらう生活になる。

しばらくはヨシノさんのラジオも、皆さんの顔も遠くなる。

それでも時は過ぎる。

いつかまた、6時30分の音楽を聞きながらあの場所へ歩いて行ける日が来るといいなと思う。


骨折から6日目の朝。
朝4時半に目が覚めた。

昨日は二度寝をしてしまい、一日のリズムが崩れてしまったので、今日はそのまま起きることにした。

トイレを済ませてから、ルイボスティーを飲む。

夫が置いていったルイボスティーのティーバッグも残りわずかになった。

ルイボスティーは体に良いし、ノンカフェインなので脱水予防にも向いているらしい。だから飲んでいたのだけれど、正直なところ私はそれほど好きな味ではない。

そこで、夫が来た時に無印良品で買ってくれた「水出し国産六条大麦の麦茶」を開けることにした。

袋をハサミで切った瞬間だった。

ふわっと立ち上がった香りに思わず手が止まった。

懐かしい。

何とも言えない香ばしい香りだった。

その瞬間、飲みたいと思った。

ルイボスティーでは感じなかった感覚だった。

ティーバッグを一つ入れ、水を注ぎ、冷蔵庫へ入れる。明日の入院に持って行こうと思っている。

病院でお茶を買うこともできるだろう。

それでも肩を固定した状態で売店を探すより、自分で用意した麦茶がある方が安心できる気がした。

不思議なのは香りの力だ。

麦茶の香りを嗅いだだけなのに、私の頭の中には子どもの頃の風景が次々と浮かんできた。

店先でおばちゃんが焼いていたたこ焼きの匂い。

お好み焼きの香り。

出前で届いたきつねうどんの湯気。

父が好きだったすき焼きの甘い香り。

今でもたこ焼きは売られているし、お好み焼きも食べられる。

でも、あの頃の香りとは少し違う。

味だけではない。

その時代の街並みや家族との時間が一緒になって記憶に残っているのだと思う。

人は生まれ育った土地で食べたものの記憶を、思っている以上に体のどこかにしまい込んでいるのかもしれない。

関西で育った私にとって、麦茶の香りは単なる飲み物の香りではなかった。

家族のいる食卓や、夏の夕方や、子どもだった頃の私そのものだった。

入院を前にした朝。

私は麦茶を作りながら、ほんの少しだけ昔の自分に会っていた。


明日から入院する。

その準備をしながら、主治医になりそうな整形外科の先生のことを少し調べていた。

防衛医科大学校出身の先生だった。

防衛医大という名前は昔から知っていた。学費がかからず、国のために働く医師を育てる学校というイメージだった。

でも実際に防衛医大出身の先生に診てもらうのは初めてだった。

だからだろうか。

先生の経歴を見ていたら、昔、高校教員だった頃の生徒たちのことを思い出した。

家庭の事情が厳しい中で、自衛隊への道を選んだ男子生徒がいた。

私は担任として、本当にそれでいいのかと何度も考えた。

もちろん反対したわけではない。

ただ、人生の大きな決断だからこそ、自分で納得して選んでほしかった。

結局、彼は自分の意思でその道を選んだ。

その後どうなったのかは知らない。

もう一人、自衛隊を志望した女子生徒もいた。

当時、学校には自衛隊に強い反対意見を持つ先生がいて、その先生と彼女はよく口論になっていた。

私は両方の言い分を聞いていた。

先生の考えもわかる。

彼女の考えもわかる。

だから余計に難しかった。

結局、彼女も自分の意思を貫いた。

あれから長い年月が経った。

世界では今も戦争が続いている。

自衛隊の意味とは何か。

国を守るとは何か。

平和とは何か。

あの頃より答えがはっきりしているわけではない。

むしろ、もっとわからなくなっている気さえする。

だからこそ、防衛医大出身の先生に少し興味を持ったのかもしれない。

18歳のとき、その先生は何を考えてその道を選んだのだろう。

もちろん今さら聞くことはないだろう。

それでも、人が人生の分かれ道で何を選び、どんな時間を生きてきたのかには興味がある。

明日から入院する。

手術は怖い。

でも少しだけ楽しみな気持ちもある。

どんな先生なのだろう。

どんな会話が生まれるのだろう。

そして私は、どんな経過をたどるのだろう。

骨折をしていなければ出会わなかった人たちとの時間が、これから始まろうとしている。


今、自分が肩を骨折して入院と手術を前にしている中で、ふと考えたことがある。

人間は昔から骨を折ってきたはずだ。

高いところから落ちたり、仕事や戦いの中で骨を折ることは、きっと珍しいことではなかっただろう。

では、そのとき人はどうしていたのだろうか。



■昔の骨折は「動かさない」ことがすべてだった

おそらく昔は、

* 添え木を当てる
* 布や皮で縛る
* とにかく動かさない

という方法しかなかったのだと思う。

骨は自然にくっつく性質があるため、多少ずれていても「動かさなければ治る」という考え方だったのだろう。

しかしそれは同時に、

痛みを抱えたまま生活し続けることでもあった

のだと思う。



■「整える」という発想の登場

やがて人は気づく。

そのままでは骨が歪んで治ってしまう。

そこで、

* 引っ張る
* 戻す
* 形を整える

という「整復」の考え方が生まれた。

柔道整復のような技術は、この流れの中にあるのだと思う。

父が柔道家で、そこに柔道整復師が関わっていたという話も思い出す。

手で整えるという発想は、長い時間の中で積み重なってきたものなのだろう。



■現代医療:骨をチタンで支えるという発想

そして今、自分が受けようとしているのは手術だ。

チタンプレートとスクリューで骨を固定する。

つまり、

* 外から固定する時代
* 手で整える時代

を経て、

骨の内側から支える時代

に来ている。

折れた骨を金属で支え、正しい位置に保つことで、早く動けるようにしていく。



■ヨガと骨折を考えて気づいたこと

ヨガの案内を見ながら思った。

なぜ骨折するとヨガができないのか。

それは単純に、

まだ回復途中の骨に「伸ばす・支える動き」が負担になるから

だと思う。

体は思っている以上に繊細で、骨折はその瞬間から治癒のプロセスに入るのだと感じる。



■実際の体で起きている変化

今回の骨折で、実際に起きていることがある。

■内出血が下へ降りてくる

肩でできた内出血が、時間とともに

* 肘の裏
* 前腕
* 手首

へと降りてきている。

これは悪化ではなく、

重力によって血が移動し、吸収されていく回復過程

だと聞いている。

色も青から紫、そして黄色へと変わりながら消えていくという。



■シャワーのときの痛み

シャワーで腕を下にぶらんとさせると、強い痛みが出ることがある。

しかし三角巾で腕を直角に保っていると、痛みはかなり少ない。

つまり、

* 安定している角度 → 痛みが少ない
* 腕が下にぶら下がる角度 → 強い痛み

という違いがはっきりある。

これは骨そのものというより、

筋肉や周囲の組織が重力で引っ張られることで起きる痛み

なのだと思う。



■骨折の痛みの正体

痛みは一点ではなく、

* 骨折部そのもの
* 周囲の筋肉
* 神経
* 炎症を起こしている組織

が一緒に反応しているように感じる。

そのため、痛みは「角度」によって変わる。



■今の自分の状態

今の自分は、

* 手術前
* 固定と安静の段階
* これから回復へ向かう入口

にいる。



■結び

骨折というのは単なるケガではなく、

人間が長い時間をかけて向き合ってきた現象の一つなのだと思う。

昔は動かさずに耐えるしかなかったものが、今は手術やリハビリによって回復していく。

そして今、自分自身がその長い歴史の途中にいる。


【①理論編】消化の正しい流れ(登録販売者レベル)

●全体の流れ

口 → 食道 → 胃 → 十二指腸 → 空腸 → 回腸 → 大腸



●各臓器の役割

■胃

* 強酸(pH1〜2)
* ペプシンでタンパク質を分解開始
* 粘液で胃を保護

👉「消毒+下準備」



■十二指腸(超重要)

* 胆汁(脂肪を乳化)
* 膵液(3大栄養素すべて分解)

👉「本格消化のスタート」



■小腸

* 空腸:栄養吸収メイン
* 回腸:仕上げ吸収




■脂肪だけ特殊ルート

* 胆汁で乳化
* 膵液で分解
* キロミクロン化
* リンパ → 血液



【②ストーリー編】今日の朝ごはんの体内ドラマ🥣




■朝食が体に入った瞬間
ご飯・さつまいも味噌汁・鶏肉・野菜炒め・切り干し大根・牛乳(517kcal)

👉体はまずこう判断する:

「糖が多い、タンパク質あり、脂肪少し、食物繊維あり」



■第1場面:口〜食道(搬送)

* 噛む=物理的に小さくする
* 唾液アミラーゼ開始(デンプン分解スタート)

👉ここでは“味と初期分解”




■第2場面:胃(解体工場)

* ご飯・芋:まだ途中
* 鶏肉:ここで本格的に分解開始
* 牛乳タンパク質:変性して処理しやすくなる

👉胃は“材料をバラす場所”



■第3場面:十二指腸(合流ステーション)

ここで一気に流れが変わる:

* ご飯・さつまいも → 糖に分解へ
* 鶏肉 → アミノ酸へ
* 牛乳 → 脂肪+タンパク質分解
* 野菜・切り干し大根 → 繊維は残る

さらに:

* 胆汁 → 脂肪を細かくする
* 膵液 → 全部を最終分解

👉「完全分解スタート地点」



■第4場面:空腸(吸収の主戦場)

* ブドウ糖 → 即血液へ(エネルギー)
* アミノ酸 → 筋肉・修復へ
* 脂肪 → キロミクロン化してリンパへ

👉ここで“体の材料化”



■第5場面:回腸(仕上げ)

* 吸収しきれなかった栄養を回収
* ビタミン・水分の最終吸収



■残るもの(大腸へ)

* 食物繊維(切り干し大根など)
* 水分の残り

👉便として排出準備



【③この朝食のポイント(理論的解釈)】

●糖(ご飯・さつまいも)

→ エネルギーの主力

●タンパク質(鶏肉・牛乳)

→ 修復材料

●脂肪(少量)

→ キロミクロン経由で輸送

●食物繊維

→ 消化されず腸の掃除役



【④一番大事な理解】
👉食べ物はそのまま使われない
👉一度“バラされてから再利用される”


まとめ: この1食は体の中でこうなる:

* 胃:解体
* 十二指腸:調整
* 小腸:吸収
* リンパ・血液:運搬
* 細胞:利用


今日は改めて、片手で生活することがどれほど大変なのかを実感した一日だった。

昨夜は暑さもあってなかなか眠れず、ようやく明け方に少し眠ったところで朝食の呼び鈴に起こされた。職員の方は仕事として届けてくださっているのだが、自分としては無理やり起こされたような感覚で、頭がぼんやりしたまま朝食を食べることになった。

その影響もあったのか、午前中はほとんど何もする気になれず、寝たり起きたりを繰り返して過ごした。

一方で、暑さは日に日に増している。気温は27〜28度ほどあり、三角巾とバストバンドを着けている首まわりには汗がたまりやすい。普段は意識したこともなかったが、三角巾は首に食い込み、思った以上に窮屈なものだった。

今日はシャワーを浴びることにした。

ところが、三角巾とバストバンドを外した瞬間から緊張が始まる。固定されている時は比較的楽なのに、腕が少しでも下を向いたり、ある角度に入ったりすると激痛が走る。どの角度が危険なのか自分でも分からず、突然「ズキン」と痛みが来る。

そのたびに、「ああ、本当に骨が折れているんだな」と思い知らされる。

Tシャツを脱ぐのも一苦労だった。右手から脱ぐのか、頭を先に抜くのか、痛い左肩をどう守るのか。理屈ではなく、体の感覚だけを頼りに動いていた。

シャンプーも右手だけで行う。ポンプを押すだけでも思うようにいかない。体を洗うのも、髪を乾かすのも簡単ではない。

両手が使えることがどれほどありがたいことなのかを改めて感じた。

シャワーの時には内出血の変化にも気がついた。一昨日は肘の内側に集まっていた内出血が、今日はさらに下へ移動し、前腕から手の方へ広がっていた。肩の骨折の際に起きた出血が重力で下へ降りてきているのだろうと思う。

また、転倒した時の擦り傷も見つかった。骨折の痛みに気を取られて気づいていなかったが、消毒をするとしっかり痛んだ。

夕方には職員の方が新しい三角巾を探して持ってきてくださった。巻き直してもらうと首まわりがすっきりし、とても楽になった。自分では結べないので、人の助けが必要なことも改めて実感した。

骨折したのは先週の木曜日で、手術は今週の木曜日である。

病院には病院の事情があることは分かっている。手術室や麻酔科の予定、他の患者さんの状況など、さまざまな調整があるのだろう。

それでも患者としては、「もう少し早くならないのだろうか」と思ってしまう。

固定している間は何とか暮らせる。しかしシャワーを浴びるたびに、骨折がまだそのまま残っていることを体が教えてくる。

今日はそんな現実を改めて感じた一日だった。

明日は入院前日の最終確認をする予定である。できる準備はして、あとは先生方に任せようと思う。


骨折してから久しぶりに、登録販売者のテキストを開いた。

今日は口腔、食道、胃の働きについて勉強した。

最初は試験対策のつもりだったのだが、読み進めるうちに、自分の体験と重なることばかりで、思わぬ復習の時間になった。

まず驚いたのは、唾液である。

唾液にはアミラーゼ(プチアリン)が含まれ、デンプンの消化が口の中から始まるという。

では、なぜデンプンだけなのだろう。

タンパク質や脂肪はなぜ口の中では消化されないのだろう。

そんな疑問から調べていくと、タンパク質は胃酸やペプシン、脂肪は胆汁や膵液の助けが必要で、人の体は思った以上に分業制で動いていることがわかった。

食道についても面白かった。

私はこれまで「食道はただの通り道」くらいに考えていた。

ところが、食道には括約筋という門番があり、胃の内容物が逆流しないように働いているという。

そういえば私は毎年の胃カメラで、

「少し逆流性食道炎の所見がありますね」

と言われ続けてきた。

症状は強くないが、教科書を読んで初めて、その意味が具体的に理解できた気がした。

そして一番考えさせられたのは胃だった。

胃酸は pH1〜2 の強酸性で、タンパク質を分解し、細菌も死滅させる。

そんな強い酸があるのに、なぜ胃そのものは溶けないのか。

答えは胃粘膜と粘液による防御だった。

攻撃する力と守る力。

そのバランスで胃は成り立っている。

この部分を勉強していると、自分の胃のことを思い出した。

私は長年、胃潰瘍を繰り返してきた。

ピロリ菌の除菌も何度か失敗し、一度は医師と一緒に諦めかけたこともある。

その後、別の医院で再び除菌に挑戦し、ようやく成功した。

「ああ、やっといなくなったね」

と先生が言ってくださったことを、今日改めて思い出した。

ところが、その翌年だったと思う。

胃底部に何かあると言われ、詳しく調べた結果、早期胃がんだった。

内視鏡手術を受けることになり、術前には

「もし最後の検査でがん細胞が残っていたら、胃の一部を切除する可能性があります」

という同意書にも署名した。

当時は正直、不安だった。

しかし実際に内視鏡手術を行った際には、がんと思われる病変は残っていなかった。

手術後、先生は生検で採取した組織を改めて詳しく調べてくださり、その中にがん細胞が含まれていたことを確認した。

そのため早期胃がんであったことは間違いなかったが、結果的には胃を切除する必要もなく、そのまま経過観察となった。

今振り返ると、本当に早い段階で見つかったのだと思う。

今日の勉強で知ったのは、ピロリ菌は胃酸の中でも生き延びる特別な細菌だということ。

そして、除菌に成功しても、長年受けた胃粘膜のダメージがすぐに消えるわけではないということだった。

教科書には数行しか書かれていない。

けれど、その数行の中に、私自身の何十年もの胃との付き合いが詰まっていた。

登録販売者の勉強をしていたはずなのに、今日は人体の仕組みより、自分の体の歴史を学び直したような気がする。


朝は暑さと眠気と体のだるさで始まった。夜中にしっかり眠れなかったこともあり、朝方に寝てしまい、7時過ぎの朝食の呼びかけで慌てて起きた。

まだ頭がぼんやりしたまま朝食を受け取り、「取りに来られたときに迷惑をかけてはいけない」と思いながら無理に食べた。その負担もあってか、その後は調子が上がらず、午前中は寝たり起きたりを繰り返し、ほとんど動けないまま過ごした。

少し眠れたことで体が少し楽になり、そこから気持ちが変わった。何もしたくない状態から、少し動いてみようという気持ちになり、思い切って1階へ降りてゴミを捨てた。

1階で新聞を見ていると、以前お世話になった方々や職員の方と自然に会話になった。入所時の方や館長と思われる方とも話し、ラジオ体操で一緒になる方から届いていた葉書のこともあり、温かいやりとりが生まれた。

その方は「入って間もないのに大変ですね」とお花の話を添えてくれており、とても嬉しかった。自分もお礼の絵手紙を返したことで、つながりが続いていく感じがした。

また、自分が書いているノートを日本語と英語の両方で残していることについても話題になった。英語の教員をしていたことや、義理の娘が英語しか読めないこと、そして記念として両方で残しておきたいという思いを伝えると、納得してもらえた。

2階に戻ってからも職員の方と話をし、人と関わることで気持ちが軽くなるのを感じた。

介護保険料の通知も届いており、今後の生活費についても少し考えた。年金からの天引き後の金額で生活を考えることはできそうだが、手術後しばらくはジム活動や水泳を含めた運動習慣ができないため、その間の支出や生活リズムの見直しも必要かもしれないと思った。

部屋に戻ると、気温は27〜28度が続いており、暑さで過ごしにくい状態だったため、13時36分ごろに扇風機をつけた。このノートを書いているのもその頃である。

明日は入院前日になるが、すでに手術を受けることは決まっている。保存療法か手術療法かは先日(18日)の診察で選択を求められ、自分は手術療法を選んだ。

入院期間については、2泊3日や3泊4日で退院する人もいれば、10日程度入院する場合もあると説明されており、場合によっては手術翌日に退院する可能性もゼロではない。

術後は約1か月、三角巾での厳重な固定が必要になると説明されている。その中でも固定をしながらリハビリを進めていく必要があり、そこが一番大事な期間になるようだ。

薬の管理や持ち物の準備も含めて、細かい確認はまだ必要だが、最終的にはすべて先生に委ねるしかない。不確定な中でも、無事に手術が終わればそれでよいと思っている。


今朝は7時5分頃、職員の方の訪室(配膳のピンポーン音)で目が覚めた。予定より早い時間での訪室だったため少し驚きがあり、睡眠も細切れだったこともあって眠気が強い状態で一日が始まった。

その後、芋がゆの朝食を受け取る。今日は全員芋がゆの日であり、キャベツの味噌汁、スクランブルエッグ、いんげんのマヨネーズ和え、漬物、牛乳200ccという献立だった。

芋がゆは白米よりも腹持ちがあり、横になっていることもあってお腹にしっかりとした満腹感を感じた。

## 体調と状態
昨日は風邪のような症状があったが、今朝はそれが改善している。睡眠は夜間に中途覚醒が複数回あり、浅い睡眠だったため全体としては疲労感が残っている。

ただし、会話をしているうちに眠気は少し軽減してきている。

## 入院と今後の予定の整理
入院は24日、手術は25日の予定。

前日(23日)は施設で最後の一日となり、その日にシャワーを浴びる予定を検討している。24日の朝は精神科受診と入院準備が重なるため、シャワーは前日に済ませる方が現実的と考えている。

シャワー時には三角巾の調整が必要であり、その時間を職員へ事前に確認する必要がある。

また、洗濯もシャワー後にまとめて行い、室内干しで対応する予定。

## 薬の管理について
入院に備え、薬は数日分を小分けにして準備することを検討している。お薬手帳で内容は病院側も把握しているため、必要分のみ持参し、残りは施設で保管する形が現実的と考えている。

5日分程度(少し多め)をすぐ提出できる形にしておき、必要に応じて対応できるようにする方針。

## 全体の気持ち
手術まで待つ期間がつらく、痛みや不便さから早く治療を進めたい気持ちが強い。保存療法で様子を見るよりも、手術によって回復の方向に進むことへの期待が大きい。

入院前の準備はほぼ整いつつあり、あとは明日のシャワーと最終確認を残す段階にある。

## まとめ
- 朝の予期しない早い訪室で始まった一日
- 芋がゆでの満腹感と体調の回復傾向
- 入院・手術に向けた現実的な準備の整理
- 薬・シャワー・洗濯の段取りが具体化
- 精神的には「早く治療を進めたい」という気持ちが強い状態


子どもの頃、夏の飲み物といえば麦茶だった。

冷蔵庫にはいつも麦茶が入っていて、それが当たり前だと思っていた。

大人になってからも、お茶について特別考えることはなかった。

教員時代は忙しくて、それどころではなかった。

喉を痛めたり、声帯結節の手術をしたりしたことはあったが、お茶をゆっくり味わう余裕はなかったように思う。

結婚してからは、夫がいろいろなお茶やコーヒーを淹れるようになった。

気がつくと、家には麦茶よりもルイボスティーが置かれていることが多かった。

私は紅茶の方が好きだが、夫がコーヒーを淹れると、「飲むか」と聞かれて、おこぼれのように二杯目をもらうこともあった。

それが我が家の日常だった。

ニュージーランドからは、眠りやすくなるというハーブティーのティーバッグも持ち帰った。

その時々で飲むものは変わっていった。

そして今、骨折して一人で過ごしている。

時間だけはたくさんある。

何気なく手に取ったルイボスティーの袋を見ると、南アフリカの茶葉と書いてある。

麦茶の袋を見ると、六条大麦と書いてある。

そういえば、ルイボスティーって何だろう。

麦茶と緑茶は何が違うのだろう。

今さらそんなことを考えている。

昔から飲んでいたのに、よく知らないままだった。

骨折して不自由なことは多い。

でも、そのおかげで立ち止まり、今まで当たり前だったことを見直している気もする。

お茶を飲みながら過ごしてきた時間を振り返ると、その時々の暮らしや家族の姿まで思い出される。

お茶の種類は変わっても、一杯のお茶がそばにあることだけは、ずっと変わらなかったようだ。


顔面神経麻痺、声帯ポリープ、声帯結節の手術、胃がん。

振り返ると、いろいろな病気や手術を経験してきた。

だから今回の肩の骨折も、「手術そのもの」はそれほど特別には感じていない。

同意書もたくさん書いてきたし、手術の説明も何度も受けてきた。

もちろん不安はある。

それでも、「またか」という気持ちの方が近い。

ただ、今回だけは今までと違うことがある。

それは、動けないことだ。

顔や喉や胃の手術では、体は動いた。

仕事もあった。

休みたくても休めなかった。

声帯結節の手術では、1か月声を出してはいけないと言われた。

日本にいたら仕事の声が聞こえてきて、結局しゃべってしまうだろうと思い、カナダへ行った。

無理をしたかったわけではない。

そういう状況の中で働いていたのだ。

ところが今回は違う。

退職後で時間がある。

左腕は使えない。

水泳も3か月禁止と言われた。

今まで当たり前にできていたことができない。

だから私は、こうして毎日のようにノートを書いているのかもしれない。

記録を残したいという気持ちもある。

でも、それ以上に、自分の気持ちを整理したいのだと思う。

私はもともと悪い方へ考える性格だ。

だから書いて、まとめてもらって、別の見方を教えてもらう。

そして公開すると、

「私もそうだった」

「励まされました」

という反応が返ってくる。

そのやり取りが、少しずつ気持ちを前へ向かせてくれる。

骨折して初めて知ったのは、腕の不自由さだけではない。

立ち止まる時間の過ごし方だったのかもしれない。


骨折後、久しぶりに登録販売者の第2章「人体の構造と働き」の勉強をした。

今日は消化管、消化腺、代謝、歯の構造について学んだ。

まず、消化管は口腔から肛門まで続く一本の管であることを確認した。

口腔 → 咽頭 → 食道 → 胃 → 小腸 → 大腸 → 肛門

という流れで、食べ物はこの道を通っていく。

一方で、消化液を作るのは消化腺である。

唾液腺 → 唾液
肝臓 → 胆汁
胆嚢 → 胆汁を貯める
膵臓 → 膵液

肝臓や膵臓は消化管の中にはないが、消化液を作る重要な臓器だということを改めて理解した。

特に印象に残ったのは、肝臓が胆汁を作り、胆嚢はそれを貯めるだけだということだった。

また、消化と代謝の違いも少し理解できた。

消化とは、食べ物を体が吸収できる大きさまで分解すること。

代謝とは、吸収した栄養を体が利用すること。

ブドウ糖はエネルギーになり、
アミノ酸は筋肉や組織の修復に使われ、
脂肪はエネルギーになり、余れば体脂肪として蓄えられる。

骨もカルシウムだけでできているわけではなく、リンやタンパク質も必要だということを知った。

骨折した今の自分にとって、栄養がどのように骨や筋肉の修復に使われるのかを考える良い機会になった。

さらに、プールで他の人より寒がっていた理由も少し理解できた。

私はかなり痩せ型で、脂肪も少ない。

脂肪にはエネルギーを蓄えるだけでなく、体温を保つ役割もあるため、水中で熱が逃げやすかったのだろう。

歯の勉強も面白かった。

歯は、

歯冠(口の中に見えている部分)
歯頸(歯ぐきとの境目)
歯根(骨の中に埋まっている部分)

に分かれている。

そして歯の構造は、

エナメル質

象牙質

歯髄(神経・血管)

となっている。

意外だったのは、人体で最も硬い組織がエナメル質だということだった。

私は「エナメル」という言葉から、どちらかというとマニキュアのようなものを連想していたので、人体で最も硬いと聞いて少し驚いた。

しかし、エナメル質は硬くても酸には弱い。

虫歯菌が糖を利用して酸を作り、その酸によってエナメル質が溶かされる。

さらに進行すると象牙質を通り、神経や血管のある歯髄まで達して強い痛みが起こる。

だから歯磨きが大切なのだと改めて納得した。

今日は問題を解きながら、単なる暗記ではなく、自分の体や生活と結びつけて考えることができた。

骨折中ではあるが、久しぶりに勉強が面白いと思えた一日だった。


最近、「内助の功」という言葉を聞くと少し考えてしまう。

昔は褒め言葉だったのだろう。

夫を支え、家庭を守り、陰で尽くす妻を称える言葉だった。

でも私は、この言葉にあまり魅力を感じない。

なぜなら、その言葉の裏には、

「夫のことは妻がやるもの」

という前提が隠れているように思えるからだ。

もちろん夫婦は助け合う。

病気や怪我をした時はなおさらだ。

今の私は肩を骨折していて、多くの人に助けてもらっている。

そのありがたさは身にしみている。

けれども、助け合うことと、最初から誰かの仕事になることは少し違う。

私は男女平等とは、

女性も自分のことは自分でやる。

男性も自分のことは自分でやる。

その上で必要な時に助け合うことだと思っている。

書類の整理もそうだ。

制度の理解もそうだ。

自分に関係することなら、まず自分で知ろうとする。

分からなければ助けてもらう。

その順番が自然ではないだろうか。

「妻の鏡」という言葉もよく聞く。

でも私は、

誰かの世話を黙って引き受ける人より、

お互いが自分の責任を持ちながら支え合える夫婦の方が素敵だと思う。

時代はずいぶん変わった。

それなのに、言葉だけは昔のまま残っている。

そんなことを考えた午後だった。


骨折の手術説明を受けた時、先生から「ボーダーです」と言われた。

保存療法でも治る可能性はある。

手術をして固定する方法もある。

どちらも選択肢になる状態だという。

私は手術を選んだ。

早く治りたいと思った。

水泳にも戻りたかった。

何より、できるだけしっかり治したかった。

けれど最近になって考える。

あの時、私は正しい選択をしたのだろうか。

保存療法でも良かったのだろうか。

先生が言った「ボーダー」とは、一体どこにあったのだろう。

そんなことを思いながら、今日は庭の木の剪定を眺めていた。

今まで音だけ聞こえていた作業を、初めてじっくり見た。

枝を切る。

葉を落とす。

一見すると、木は小さくなったように見える。

でも剪定は木を弱らせるためではない。

その先にもっと伸びるために行うものだ。

そう考えると、今の自分と少し重なった。

骨折で、水泳はしばらくできない。

思うように動けない。

できていたことができなくなった。

まるで枝を切られたような気持ちになる。

でも、この時間が無意味とは思いたくない。

今まで見えていなかったものを見たり、考えたりする時間になっている。

もしかしたら人生にも、保存療法と手術のような「ボーダー」があるのかもしれない。

そして、その時に選んだ道が正しかったかどうかは、その瞬間には分からない。

後になって、自分がどう生きるかで答えが決まるのだろう。

今日の剪定を見ながら、そんなことを考えた。

もしかすると、私も今は伸びるための準備をしている途中なのかもしれない。


今日は麻雀の日だった。

午後1時半からの予定だったが、昨日のうちに部長さんへ電話をして欠席を伝えておいた。

肩を骨折したまま麻雀に行っても、皆さんに気を遣わせるだけだと思ったからだ。

「気にしないで休んでね」

と言っていただき、ほっとした。

今日の午後、菊池さんがお部屋を訪ねてくださった。

85歳の元家庭科の先生で、麻雀仲間でもある。

以前、大腿骨を骨折して4か月入院された経験があるそうだ。

その時の話を聞かせてくださった。

送り迎えや様々な支援を受けて、

「ここに入っていて良かったと思ったよ」

と話された。

そして、昨日私が無理をして洗濯したことを聞くと、

「そんなのやってもらえばいいのよ」

と言われた。

私はどこかで、人に頼ることを遠慮していたのかもしれない。

でも、経験した人だからこそ分かることがあるのだろう。

菊池さんは、

「一週間待つのは辛いね」

とも言ってくださった。

痛いでしょう、と聞かれて、

「痛いけど仕方ないですよね。泣いて暴れて辛いと言うわけにもいかないし」

と答えた。

すると、

「気持ちだけだけど」

と言って、お菓子やみかん、それに片手でも食べやすいアイスを持ってきてくださった。

その気持ちがとてもうれしかった。

麻雀に来ている方たちは、本当に皆さんいい方ばかりだ。

話はやがて家庭科教育の話になった。

菊池さんは、男女共修が当たり前ではなかった時代に、家庭科を男子にも学ばせるために頑張ってきた世代だという。

職員会議で熱心に訴えても、なかなか理解されなかった時代だったそうだ。

私は教師になってから、男の子たちが三角巾とエプロンを着けて調理実習をする姿を見た。

その時、

「家庭科の先生たちの勝利だな」

と思ったことを覚えている。

骨折してから痛みや不自由さばかりに目が向いていた。

でも今日は、人の優しさに助けられた午後だった。

そして、

「そんなのやってもらえばいいのよ」

という言葉を、少し素直に受け取ってみようと思った。


肩を骨折して数日が過ぎた。

痛みは相変わらずある。

折れたままの状態で手術まで一週間待つというのは、思っていた以上に長い。

先生からは、手術をするか自然治癒を待つかの境界線にある骨折だと言われた。

だから緊急手術ではないのだろう。

それでも患者としては、一日でも早く何とかしてほしいと思ってしまう。

今日は菊池さんがお見舞いに来てくださった。

大腿骨骨折で四か月入院した経験がある方だ。

だからだろうか。

「一週間待つのは辛いね」

と言われた時、ただ慰められているのではなく、本当に分かってもらえている気がした。

お菓子やアイス、むいてそのまま食べられるようにしてくださった果物まで持ってきてくださった。

その心遣いがありがたかった。

少し横になって眠った後、そのアイスを食べた。

小豆のアイスだった。

おいしいと思った。

その後で温かいトーストも食べたくなった。

ここ数日は食欲もあまりなかったので、自分でも少し驚いた。

体のどこかが壊れている今、体は休もうとしているのかもしれない。

そして同時に、治ろうとしているのかもしれない。

今日は勉強する気にはならなかった。

サッカーも熱心に見る方ではない。

それでも隣の部屋から聞こえる歓声につられて、ときどきテレビを見る。

そんな過ごし方で十分な気がした。

骨折してから、人の優しさが身にしみる。

そして怪我をしたことのある人や入院したことのある人は、同じ立場の人の気持ちを本当によく分かってくださる。

今日はそんなことを感じた午後だった。


昨夜は比較的よく眠れたと思う。

それでも何度か目が覚めた。

部屋は暑く、朝には27度になっていた。

網戸にして寝たせいか、アイマスクがずれたせいか、朝から左目の涙が止まらない。

くしゃみも出た。

こんな時に風邪をひいたら困ると思い、風邪薬を飲み、目薬をさして横になった。

手術まであと数日。

入院の準備も進めている。

書類を書きながら、前開きの肌着や洗浄剤のことを確認した。

肩の手術を受ける人向けの説明書を読んでいると、自分が本当に患者になったのだと改めて感じる。

何泊するのだろう。

パジャマは何組必要なのだろう。

退院はいつになるのだろう。

考えても分からないことばかりだ。

そんな中、最近はなるべく人と会わないようにしている。

皆さんが心配してくださっているのは分かっている。

でも、「どうしたの?」「大丈夫?」と聞かれるたびに、骨折の説明をするのが少ししんどい。

だから人の少ない時間を選んで動いている。

今朝もラジオ体操が終わった頃に郵便受けを見に行った。

そこで93歳の吉野さんとばったり会った。

私は、

「おはようございます。ご迷惑をおかけしています」

と挨拶した。

すると吉野さんは、

「いや、いいんですよ」

とだけ答えてくださった。

骨折のことも聞かない。

手術のことも聞かない。

ただ、その一言だけだった。

でも、その一言がとても温かかった。

長い人生を歩んできた人の言葉だと思った。

説明を求めない優しさ。

ただ受け止める優しさ。

今日の午前中は、肩の痛みもあったけれど、それ以上に吉野さんの言葉が心に残った朝だった。


私は鍼灸師として働いていた頃、患者さんによく、

「今の痛みを0から10で表すとどれくらいですか?」

と聞いていた。

施術前は7だったのが5になったとか、10だったのが6になったとか。

そんなふうに痛みを数字で表してもらい、変化を見てきた。

ところが今回、自分が骨折して初めて気がついた。

痛みはそんなに単純なものではない。

6月18日、転倒して左肩を骨折した瞬間。

全体重が左腕にかかり、その場から動けなかった。

あれが私の10だったのだと思う。

その後も腕はぶら下がったまま。

三角巾で固定されるまでは、10がずっと続いているような感覚だった。

日赤で先生に腕を曲げてもらい、三角巾をつけた時には、飛び上がるほどの激痛が走った。

あの瞬間は10を超えていたかもしれない。

しかし固定されると少し安定し、8くらいになった。

ところが、それから劇的には変わらない。

寝方によって痛い。

腕の角度によって痛い。

少し動かしただけで痛い。

お風呂ではまた10近くまで戻る。

楽な姿勢を見つければ少し下がる。

でも完全には消えない。

数字で表そうとすると8なのか7なのか。

そんなことより、「ずっとそこにいる痛み」という感じの方が近い。

患者さんが「痛い」と訴える時、その言葉の中には不安や疲れや不自由さも含まれていたのだろう。

今回、自分が患者になって初めてそれが少し分かった気がする。

今は手術まであと数日。

三角巾生活もまだ続く。

けれども今、一番願っているのは腕が使えることではない。

この痛みから解放されることだ。

骨折して初めて、痛みそのものについて考えている。


今日は登録販売者の勉強を一問もやらなかった。

脳トレのアプリは少しやったが、参考書を開いて覚えようとか、問題を解こうという気持ちにはならなかった。

朝は母とLINEで面談をした。

その後、気持ちも少し重くなり、お昼には1〜2時間ほど眠った。

午後になって、介護士さんの手が空くと聞き、思い切ってシャワーを浴びることにした。

骨折してから初めて、自分一人でのシャワーだった。

三角巾を外すと、腕の重みがそのまま肩にかかり、骨折した時を思い出すような痛みが走った。

ふと見ると、肘の内側には大きな青あざができていた。

肩で起きた内出血が下へ降りてきたのだろう。

左手は使えないので、右手だけでシャンプーを出し、髪を洗い、体を洗った。

顔を洗い、流し残しがないように気を付けながらシャワーを終えた。

その後の着替えも一苦労だった。

痛い左腕を先にそっとTシャツへ通し、位置を動かさないように首を入れ、最後に右腕を通す。

普段は無意識にやっている動作が、今日は一つひとつ作業になった。

夕方には夕食が運ばれてきた。

白米ではなく、もち麦か五穀米を希望していたが、まだ伝わっていなかったようで今日も白米だった。

今度は紙に書いてお願いしておいた。

通ればありがたいし、通らなくても仕方がない。

その後は洗濯をした。

怪我をした18日から着替えていなかったので、身につけていたものを全部洗った。

洗剤は片手では加減が難しく、たぶん予定よりずっと多く入ったと思う。

それでも「まあ死ぬことはない」と思いながら洗濯機を回した。

洗い終わった後は洗濯物を干した。

低い物干し竿には布団類を掛けない決まりなので、内側の横ポールへ毛布を掛けた。

靴下を干そうとして、最初は歯で支えながらやってみたがうまくいかない。

ふと近くにあった刷毛ブラシの長い柄を使ってみると、洗濯物を少しずつ持ち上げたり位置をずらしたりできた。

何度も落としながら、それでも最後は全部干し終えた。

朝から入院の準備も進めた。

書類、持ち物、病院で借りるもの、持参するもの。

細かい確認を続け、だいたい7〜9割ほどは終わったと思う。

振り返ると、今日は勉強は何も進まなかった。

でも、シャワーを浴び、着替えをし、洗濯をし、洗濯物を干し、入院の準備をした。

生活するだけで一日が終わった。

骨折してから時々思う。

病院の事情があるのは分かるが、患者から見れば「折れたまま一週間待ちなさい」と言われているのと同じだ。

痛みも不便さも、その間ずっと続いている。

腹が立つ時もある。

それでも、今日できたことを数えてみると、自分なりによくやった一日だったのかもしれない。

勉強はゼロだった。

でも、生きることと暮らすことには、思った以上に力が必要だった。


今日、奈良の施設にいる母とLINEで面談をした。
母は私のことはわかるものの、話した内容を覚えていることは難しくなっている。

母の財産については補佐人による管理が行われているが、その経緯や現在の状況を説明しても、母にはなかなか伝わらない。

それは母を責めたいということではない。

ただ、もし元気なうちにもう少し整理ができていたら、私と妹がここまでこじれることはなかったのではないかと思うことがある。

面談の後、ふと夫のことも考えた。

家のこと、お金のこと、将来のこと。

私は見通しを立てるためにも、今できることは少しずつ進めたいと思う。

しかし夫は「仕事が忙しいから」と後回しにすることが多く、その考え方に苛立ちを感じることがある。

もちろん人にはそれぞれの考え方がある。

ただ私は、年齢を重ねるにつれて、「いつかやる」より「今できることを今やる」の大切さを感じるようになった。

だからこそ、物事がなかなか進まないことに焦りや苛立ちを感じるのかもしれない。

そんなことを考えながらベランダを見ると、冬には枯れたように見えたアロエが元気に葉を伸ばしていた。

真っ黒になって、もうだめかもしれないと思った株も、少しずつ回復してきた。

日当たりや水やりの加減が良かったのかもしれない。

理由はよくわからないが、確かに成長している。

人生の大きな問題はすぐには解決しない。

それでも目の前で育っているものを見ると、不思議と気持ちが少し軽くなる。

今日はそんな一日だった。


本日11時頃、施設にて家族(奈良の母)とオンラインで面会を行った。母は要介護2の状態であり、会話の内容の一部に記憶の混乱や理解のずれが見られたが、本人の認識としては自分のことは理解している様子であった。

家族関係や過去の財産管理、相続に関する問題については長期的に検討してきた経緯があり、母の財産については補佐人による管理が行われている。

また、夫との生活や財産に関する問題についても過去に検討・相談を行い、現時点では感情的な判断というより実務上の課題として残っている。

一方で、日常生活の中では、施設での生活や体調管理が中心となっている。三角巾固定およびバストバンドの管理が継続しており、今後のケアとして職員の介助を受けながらシャワーなどの対応を行う予定である。

また、ベランダで育てているアロエが環境条件(水やりの頻度、日照など)の影響を受けながら回復し、成長している様子が確認されている。


今日の私は、入院のための書類を書こうとしていた。
しかし途中で、気持ちはフィッタ松山のことへ戻っていった。

7月から入会して、水泳を習い、スタジオで踊り、太極拳も少しやってみる。
そんな生活を始めるつもりで準備をしていた。

ところが6月18日、左上腕骨の骨折が起きた。
転倒はほんの小さなきっかけだった。
電動三輪車から降りる時に、少し手を伸ばしただけだったのに、体重が一気に左肩へかかった。

その瞬間から、予定は全部変わった。

入院、手術、そしてリハビリ。
今はそれを受け入れる準備をしている。

頭では理解している。
入院書類の内容も、手術の流れも、回復までの期間も分かってきた。
それでも気持ちは、まだフィッタ松山に戻っていく。

泳ぎたい気持ち、水に入りたい気持ち。
体を動かしたい気持ちは、そのまま残っている。

でも今はそれができない期間だということも分かっている。

だから今日は「切り替えよう」とするのではなく、
ただ揺れながら整理している。

できることは増えている。
食事の配慮をお願いすることも決めた。
リハビリの見通しも少し理解できた。

それでもまだ、全部が完全に納得しているわけではない。

今の私は、前に進んでいるというより、
止まったまま考え続けている途中にいる。

それでもいいのかもしれないと思い始めている。


左上腕骨近位端骨折とは、肩に近い上腕骨の骨折であり、骨頭とその下の部分に加えて、大結節・小結節など筋肉の付着部を含む複雑な構造で起こる骨折である。

この部位は複数方向の筋肉が付着しているため、骨折すると引っ張る力が分散し、骨片がバラバラになりやすい特徴がある。

レントゲンやCTでは、骨の裏側が特に粉砕状に見えたり、骨片が重なって見えることがある。また、骨片が筋肉に引っ張られることで、本来の位置からずれて「垂れ下がっているように見える」ことがあるが、これは構造的なズレによるものである。

手術では、これらの骨片を本来の解剖学的位置に戻し、チタン製プレートとスクリューで固定することで、骨が治癒するまでの安定性を確保する。チタンは体内で反応が少なく、長期的に安定して使用される材料である。

骨は手術後、血流と再生反応によって徐々に再構築され、数か月かけて強度を回復していく。

全体として、現時点では完全な理解ではない部分もあるが、骨の構造と手術の全体像については徐々に整理できてきている。


昨日、肩を骨折した。

今日は髪を洗っただけで、シャワーも浴びず、部屋で過ごしている。

朝5時半に起きて、4階から7階まで歩いてみた。iPhoneの歩数計を見ると1700歩ほどだった。

介護士さんには「今日は安静です」と言われ、夫からも「歩くのは手術が終わってリハビリになってから」と言われた。

転んだらどうするの、と言われて初めて、自分が思っていた以上に怪我人なのだと気づいた。

朝食をしっかり食べたあと、急に眠くなり、11時頃から1時半頃まで眠った。

起きてもあまり食欲はなく、ドリンクを一本飲んだだけだった。

そんな一日だった。

本当は、食堂へ行こうと思えば行ける。

お風呂へ行こうと思えば行ける。

足は元気だし、歩くこともできる。

けれど今は、人に会うのが少ししんどい。

誰かに会えば、たいてい「どうしたの?」と聞かれる。

昨日転びました。

肩を骨折しました。

来週手術です。

その説明を何度も繰り返すのが面倒で、少し疲れる。

もちろん皆さん親切で、心配してくださっているのはわかっている。

「お大事にしてください」と言っていただくのもありがたい。

でも何度も続くと、だんだん気楽にしていたくなる。

だから今日は部屋にいた。

数日前から気になっていた鳥の声がある。

ホーホケキョ。

私は自然にも鳥にもあまり興味がなく、正直なところウグイスなのかホトトギスなのかもよく知らなかった。

でも、この数日、その声だけは耳に残っていた。

昨日は暑くて、上に掛けていた毛布を足で蹴ってどけた。

冬には電気毛布とあんかが欠かせなかった私が、モンゴルで買った布団一枚で寝た。

そして今日もまた、どこかからホーホケキョが聞こえてきた。

熱帯魚を見に行くこともできたかもしれない。

しだれ梅の木の近くまで歩くこともできたかもしれない。

けれど今日は、ベランダから眺めるだけにした。

それでも鳥の声は聞こえてくる。

骨を折ろうが、手術を待っていようが、季節は進んでいく。

毛布を蹴る夜が来て、ウグイスが鳴く。

来週になれば入院し、手術の日が来る。

私の時間は少し立ち止まっているようでも、季節の時間は止まらない。

そのことを、今日のホーホケキョが教えてくれた気がした。


毛布蹴る ホーホケキョ聞く 吊り腕かな


骨折してから、痛みについて考えることが増えた。

私は鍼灸師として仕事をしていた頃、患者さんによく尋ねていた。

「今の痛みを10点満点で表すと、どれくらいですか」

施術の後には、

「少し下がりましたか」
「変わりませんか」

と聞いていた。

しかし今回、自分が患者の立場になってみると、痛みというものの不思議さを改めて感じる。

体温なら37度や38度と数字で測れる。

血圧も測定できる。

ところが痛みには体温計のようなものがない。

昨日より楽になった気はする。

しかし、それが痛み止めのおかげなのか、三角巾で固定したからなのか、バストバンドをきつめに巻いたからなのか、よく眠れたからなのか、自分でもはっきりわからない。

同じ骨折でも、人によって痛みの感じ方は違うだろう。

同じ人でも、その日の体調や気分によって違うかもしれない。

痛みは体だけでなく、心とも深く関係しているように思う。

だからこそ、痛みはとても個人的なものなのだろう。

鍼灸師だった頃は、患者さんの言葉を聞く側だった。

今は自分が答える側になった。

その立場の変化によって、痛みとは単なる症状ではなく、人それぞれが抱える体験なのだと感じている。

骨折は大変だったが、患者として痛みを考える機会を与えられたことは、思いがけない学びだった。


今日、夕食に白米が出てきた。骨折で職員の方が部屋まで持ってきてくださる。

普段は雑穀米か五穀米を選んでいるので、少し残念に感じた。

この施設では夕食の主食を白米・雑穀米・柔らかいご飯などから選べるようになっている。カロリー表示は1600kcalが基本になっている。

ふと気になったのは、以前の検査入院のときの食事だった。

そのときは約2000kcal近い食事で、ご飯の量も多く、しっかり食べることが前提になっていた。お腹がいっぱいになり、少し体重も増えた記憶がある。

同じ「入院食」でも、今の施設食とかなり違う。

さらに思い出したのは、59歳のときの胃がんの手術前後のことだった。

早期胃がんで、検査から手術までが短期間で進み、胃の手術のため前日から絶食になった。

その前にどうしてもゼリーが食べたくなり、許可をもらってコンビニで買って食べたのを覚えている。

その後の絶食期間は長く感じられ、口から食べたいという気持ちだけが強く残った。

点滴だけの時間は、栄養は足りているはずなのに、「食べる」という感覚がなく、とても印象に残っている。

白米・雑穀米の小さな違和感から始まったことが、入院食のカロリーの違い、そして過去の手術の記憶へとつながっていった。

食べることは、同じようでいて、状況によって意味がまったく変わるものだと感じた。

施設の生活も、食事が管理されているという点では、入院の記録と記憶と重なる部分がある。


骨折して左肩を固定され、左手がほとんど使えなくなった。

思いがけず困ったのが髪だった。

肩くらいまで伸ばしているので、顔にかかるし、食事の時も邪魔になる。でも片手ではゴムで結べない。切ろうかとも思ったが、どうしても決心がつかなかった。

そこでジム用品を入れていた袋を探し始めた。

ヘアバンドがどこかにあったはずだと思ったからだ。

探しているうちに、水着やゴーグル、フィン、太極拳の扇やシューズが次々と出てきた。

そして見つかったヘアバンドよりも、なぜかベリーダンスのことばかり思い出していた。

静岡で習っていたベリーダンスの先生は、教え子のお母さんだった。

「あら、先生」と声をかけられたのが始まりだった。

ベリーダンスだけでなく、リンパケアヨガや健康のことも教えてくださり、とても魅力的な先生だった。

私は松山へ来る前から、こちらにベリーダンスの教室がほとんどないことを知っていた。

それでも衣装やシューズ、動画は捨てなかった。

今思うと、踊れる見込みがあったからではなく、「もしかしたら、また踊る日が来るかもしれない」という気持ちを捨てられなかったのだと思う。

以前、整形外科の先生に、

「ベリーダンスをもう一度踊りたいので、骨粗しょう症が悪くならないようにしたいんです」

と言ったことがある。

すると先生は、

「そんな理由で頑張ろうという患者さんは初めて聞きました」

と笑いながら驚いていた。

私もその時は少し照れた。

でも今日、ヘアバンドを探しながら昔の道具を見ていて、自分でも納得した。

ベリーダンスは私の人生の中では短い期間の出来事だった。

それでも、今までの私にはなかった世界を見せてくれた。

だから衣装も動画も捨てられなかったのだろう。

結局、ヘアバンドは見つかった。

でも本当に見つかったのは、髪を切りたくなかった理由と、今でも大切にしている思い出だったのかもしれない。


骨折して整形外科を受診した時、私は先生に「すごく痛いので、よく効く痛み止めを出してください」とお願いした。

処方されたのはセレコキシブ錠100mgとレバミピド錠100mgだった。

私は登録販売者の勉強をしているので、帰宅後に薬の説明書を読んでみた。そして手元にある市販の鎮痛薬とも比べてみた。

市販薬の主成分はイブプロフェン。今回処方されたセレコキシブも、炎症や痛みを抑える「非ステロイド性消炎鎮痛薬(NSAIDs)」という仲間の薬だった。NSAIDsとは Non-Steroidal Anti-Inflammatory Drugs の略で、「ステロイドではない炎症や痛みを抑える薬」という意味である。

私は以前、顔面神経麻痺の時に、ステロイドという薬がよく効くことを初めて知った。しかし今回処方された薬は、それとは別の種類の薬だった。

私はてっきり、骨折の痛みには特別な強い薬が出るのかと思っていた。しかし実際には、普段頭痛や発熱に使われる薬と同じ系統の薬が処方されていたので少し意外だった。

もちろん成分や特徴は違う。セレコキシブは胃への負担を少なくする工夫がされた薬だという。

ところが、一緒に処方されたのは胃を守るレバミピドだった。

胃に優しい薬なのに、なぜ胃薬も出るのだろうと不思議に思った。

調べてみると、胃への負担が少ないとはいっても全く影響がないわけではなく、痛み止めを続けて飲む場合には、念のため胃薬を併用することも多いらしい。

今回の骨折で初めて、自分が勉強していた解熱鎮痛薬の知識と実際の医療がつながった気がした。

教科書の中の薬だったものが、自分自身の痛みを和らげるために処方される薬になったのである。

登録販売者の勉強は暗記ばかりに感じることもあるが、自分の体験と結びつくと急に理解が深まるのだと感じた。


左肩を骨折して、手術まであと数日。

三角巾とバストバンドで固定されながら過ごしている。

今日は特に眠くて、勉強する気にはなれなかった。

江戸時代の話のYouTubeを聞きながらうとうとしていたら、介護福祉士さんが三角巾を巻き直しに来てくださった。

その時に少し慌てた。

履いていたハーフパンツが前で紐を結ぶタイプだったからだ。

片手ではうまく結べず、ずり落ちてきてしまう。

介護福祉士さんだから別にパンツ姿でも構わないのだろうけれど、一応慌てて履き直した。

そんなことも、骨折するまで考えたこともなかった。

今日は、左手が使えないと何ができなくなるのかを改めて考えていた。

髪を結ぶこと。

タオルを絞ること。

薬をシートから押し出すこと。

そして三角巾を巻くこと。

どれも普段は無意識にやっていたことばかりだ。

一方で、意外と困らないこともある。

私はもともと料理をほとんどしないし、缶詰も食べない。

買い物も今は行かない。

ブラジャーも普段はしない。

だから一般的な片手生活の困りごとの中には、私には当てはまらないものも多かった。

それよりも大きな発見は、

「左手を動かさなければ痛くないわけではない」

ということだった。

体をひねったり、立ち上がったり、重心を変えたりするだけでも痛みが出る。

肩だけの問題ではなく、体全体がつながっていることを実感する。

朝は少し歩いた。

それを看護師さんや介護福祉士さんに話したら、

「絶対安静ですよ」

と言われてしまった。

私は少し嬉しそうに報告したつもりだったのだけれど。

手術までまだ数日ある。

今日手術だったら良かったのに、と思う気持ちもある。

でも、この待ち時間の中でしか気づけないこともあるのだろう。

今日は勉強の日ではなく、休む日。

片手生活の観察を少しだけ進めて、あとは眠ることにする。


今朝は5時半過ぎに目が覚めた。

昨夜はなかなか寝付けず、睡眠導入剤のお世話になったが、それでも朝になると目が覚める。

横になったまま考えた。

昨日、夫が言った言葉だ。

「寝てばかりいると足が弱るぞ。歩けるなら歩け。」

確かにそうだと思った。

肩は折れているが、足は動く。

ラジオ体操までまだ時間がある。

今なら人も少ない。

私は携帯を持って部屋を出た。

4階から5階、6階、7階へ。

エデンの中を静かに歩いた。

歩数は1765歩。

たいした数字ではない。

それでも、歩かないよりはずっといい。

途中で一人の方に会い、

「どうしたの?」

と聞かれた。

「骨折したんです。」

そう答えると、

「お大事に。」

と言ってくださった。

ありがたい。

でも、しばらくはこの説明を何度もすることになるのだろうとも思った。

だから、人の少ない時間に歩くのも悪くない。

7階まで上がった時、地域の方々がお守りしている祠が見えた。

今までそんな余裕はなかった。

景色が良いからと高層階を選ぶ人の気持ちも少しわかった。

左手が使えないので苦労したが、記念に一枚だけ写真を撮った。

骨折した翌朝に見た景色として残しておこうと思う。

部屋へ戻り、また横になった。

これからしばらくの目標も考えた。

登録販売者の勉強。

脳トレ。

右手だけでできる書道。

そして、欲張らないこと。

どうやってシャワーを浴びるか。

三角巾をどうするか。

そんなことも少しずつ考えていけばいい。

昨日までは予定していたことがたくさんあった。

ジムも、水泳も、仕事のことも。

でも今は違う。

まずは骨を治すこと。

そして、今できることを見つけること。

骨折翌朝の1765歩は、その最初の一歩だった気がする。


日赤での長い検査と診察を終え、エデンへ戻ってきた。

肩の骨折。

来週の手術。

しばらく続く不自由な生活。

いろいろなことが一度に押し寄せてきた一日だった。

そんな中で、夫とも電話で話をした。

夫は静岡にいる。

私が骨折したと聞いて、

「行こうか?」

と言ってくれた。

その気持ちはとても嬉しかった。

けれど私は考えた。

飛行機で来るのだろうし、車もない。

病院への送り迎えはエデンの方がしてくださる。

手術の日も付き添ってくださる。

退院の日も迎えに来てくださる。

夫が来てくれても、実際にはできることはあまりない。

「来ても、あなたはすることがないと思うよ」

そう言うと、

「そうだなあ」

と夫も笑った。

それから私は、少し現実的な話をした。

今日だけで検査代が一万円以上かかったこと。

年金の振込口座を変更したのに、まだ入金されていないこと。

手術費用がどれくらいになるかわからないこと。

すると夫は、

「わかった」

と言った。

そして、

「飛行機で行くより、その分送るわ」

と言ってくれた。

さらに、

「PayPayにも入れとく」

と言ってくれた。

私は思わず笑ってしまった。

そして、

「それ、来てくれるより嬉しい誕生日プレゼントやわ」

と言った。

夫も笑っていた。

若い頃なら違ったかもしれない。

とにかく会いたい。

そばにいてほしい。

そんな気持ちだったかもしれない。

けれど67歳になった今は少し違う。

相手を思う気持ちは変わらない。

ただ、その表し方が変わった。

飛んできてくれることだけが愛情ではない。

今、本当に必要なものを考えてくれること。

そして、黙って支えてくれること。

それもまた愛情なのだと思う。

振り返れば、私たちはいろいろなことを乗り越えてきた。

顔面神経麻痺。

うつ病。

鍼灸学校。

胃がん。

別々に暮らす生活。

思い通りにならないことはたくさんあった。

それでも今こうして、

「行こうか」

「いや、お金送って」

そんな会話を笑いながらできる。

それも悪くない。

むしろ、長い年月を一緒に歩いてきた夫婦だからこその会話なのかもしれない。

骨折したのは残念だった。

痛いし、不便だし、予定もたくさん変わった。

それでも今日一日の終わりに残ったのは、不安ばかりではなかった。

支えてくれる人がいる。

心配してくれる人がいる。

そして、遠く離れた静岡にも味方がいる。

それは、とてもありがたいことだと思った。


日赤で検査が終わり、ようやく診察室へ呼ばれた。

レントゲンとCTを見ながら、先生が骨折の状態を説明してくださった。

肩関節の骨頭の下、いわゆる頸部の部分が折れていた。

さらに骨粗鬆症の影響で、骨頭の内部には空洞のような部分も見えていた。

後ろ側は私の目にもわかるほど、いくつかに割れていた。

先生は保存療法と手術療法の両方を説明してくださった。

三角巾で長期間固定して自然治癒を待つ方法。

そしてチタンを用いて固定する手術。

「患者さんの希望はありますか?」

そう聞かれて、

「早く治して運動したいです」

と答えた。

すると先生は、

「それなら手術ですね」

と言われた。

手術は全身麻酔。

肩の部分を切開し、チタンを用いて固定する。

私はその説明を聞きながら、怖いというより興味が湧いてきた。

「先生、その手術を見たいんです」

思わずそう言ってしまった。

もちろん、

「それは無理です」

と即座に却下された。

それはそうだろう。

自分でも無理だとわかっている。

それでも見たかった。

患者としてではなく、もう一人の自分が医療に興味を持っているのである。

手術の説明は続いた。

血栓が飛ぶ可能性。

出血の可能性。

輸血が必要になる可能性。

そして、ごくまれな感染症のリスク。

先生は丁寧に説明してくださった。

私は途中で、

「セカンドオピニオンは必要ありません」

と言った。

先生は少し苦笑いされた。

私には先生を疑う気持ちはなかった。

もし失敗しても恨むつもりはない。

私は十分に生きてきた。

顔面神経麻痺も経験した。

うつ病も経験した。

鍼灸学校にも通った。

胃がんも経験した。

人生には思い通りにならないことがたくさんあった。

だからこそ、

今ここで先生に任せようと思った。

もちろん、できることなら元気になりたい。

また歩きたい。

また運動したい。

だから手術を選んだ。

それでも診察室で一番強く思ったことは、

「自分の手術を見てみたい」

だった。

我ながら変わった患者だと思う。

でも、そんな自分も嫌いではない。


前回の記事で、坂の上の雲ミュージアムへ向かう途中に転倒し、肩の頸部骨折をしたことを書いた。

その後どうなったのか。

ベテル病院でレントゲンを撮った結果、骨折ははっきりしていた。

整形外科の先生がおられなかったため、内科の先生が診てくださった。

「僕でもわかるよ。これは骨折」

そう言われたあと、どこの救急に回そうかという話になった。

私は日赤にかかっている。

胃がんの手術後の経過観察や、膵臓の定期検査も受けている。

そのことをお伝えすると、その場で日赤へ連絡を取ってくださり、午後2時の整形外科受診が決まった。

それまでエデンへ戻ることになった。

私は歩けると思っていた。

腕が痛いだけなのだから。

ところが職員さんは、

「だんだんしんどくなるから車椅子に座って」

と言われた。

人生で初めての車椅子だった。

座り方まで教えていただいた。

昼食は作る気にもなれず、片手でも飲める高カロリーゼリーを口に入れた。

午後になると、エデンの介護福祉士さんが迎えに来てくださった。

私はタクシーで行くものだと思っていた。

ところがエデンの車で送ってくださるという。

「料金はいりません。サービスの中に入っていますから」

と言われた。

日赤では、車椅子を準備してくださり、受付から検査まで付き添ってくださった。

私が自分でしなければならないこと以外は、ほとんど手伝ってくださった。

レントゲン、CT、採血など、たくさんの検査を受けた。

診察では、肩の頸部骨折に加えて骨粗鬆症の影響もあること、後ろ側は粉砕気味になっていることを説明された。

保存療法と手術療法の両方があると言われたが、

「早く治して運動したいです」

と答えると、

「それなら手術ですね」

という話になった。

手術は来週。

それまで三角巾で固定しながら過ごすことになった。

帰る頃には痛みがかなり強くなっていた。

整形外科の先生が三角巾をつけてくださった時は飛び上がるほど痛かったが、不思議なことに固定された途端、ずいぶん楽になった。

さらに帰宅後には、処方された痛み止めが出ていないことがわかった。

ところがここでも連携だった。

薬局が閉まる時間だったにもかかわらず、エデンの職員さんが薬を取りに行ってくださったのである。

夕食も部屋まで届けてくださることになった。

手術の日も付き添ってくださる。

退院の日も迎えに来てくださる。

私は今日まで、エデンに入る時に支払った3770万円は高いと思っていた。

もちろん今でも大金であることに変わりはない。

けれど今日一日を振り返ると、考え方が少し変わった。

転倒した場所はエデンのすぐ近くだった。

夜勤明けの看護師さんが見つけてくださった。

ベテル病院につないでくださった。

日赤へ送ってくださった。

薬を受け取ってくださった。

食事まで運んでくださった。

私は部屋を買ったのではなかった。

安心を買ったのだ。

そう思った一日だった。


今日は坂の上の雲ミュージアムへ行くつもりだった。

時間を調整し、電動三輪車でエデンの坂を下った。

信号でボタンを押そうとして、降りればよかったのに、少し慣れてきたせいだろうか。左手を伸ばした瞬間にバランスを崩し、そのまま転倒した。

全体重が左手にかかった。

「あ、これはまずい」

そう思うほどの衝撃だった。

しばらくその場に座り込んでいたら、夜勤明けの看護師さんが通りかかってくださった。電動三輪車を上まで運び、置き場へ戻し、キーまで抜いてくださった。

そのままベテル病院へ。

車椅子に乗り、職員の方々が次々に対応してくださった。

今日は整形外科の先生がおられず、内科の先生に診ていただいた。レントゲンの結果は肩の頸部骨折だった。

午後はいきいきサロンの日だった。

昨日の夜、先生には「明日出てくださいね」と言われ、「はい、出ます」と答えていた。

ところが今日は、

「先生、今日は出られません」

と言うことになった。

先生は、

「そうですね、出られませんね」

とおっしゃり、二人で笑った。

人生とは面白いものだと思う。

朝の時点では、今日はミュージアムへ行き、午後はサロンへ行く一日だった。

それが数時間後には骨折し、日赤を受診することになっている。

予定表には書いていなかった一日である。

今は肩がかなり痛い。

それでも不思議と、痛いだけではない。

看護師さんや職員の方々の連携、付き添い、支援を受けながら、「こういう時、人はこうして助けられるのか」と眺めている自分がいる。

そして午後2時には、職員の方が付き添ってくださり、エデンの園の車で日赤へ連れて行ってくださることになっている。

朝には想像もしなかった展開だが、こうして多くの人に支えられていることをありがたく思う。

67歳になっても、人生は予定通りにはいかない。

むしろ予定通りにいかないからこそ、思いがけない出来事や人の温かさに出会うのかもしれない。

さて、この先どうなるのだろう。

手術になるのか、固定だけで済むのか。

それはまだわからない。

予定表には書いていなかった午後が、これから始まる。


6月22日までに誕生日のお祝い(エデンの園から)の参加方法を選ばなければならないが、まだ決めきれていない。

一つはロープウェイ街のレストランでの釜飯のような昼食会に参加すること(自己負担1,000円あり)。もう一つは施設内の売店で使える1,000円分の商品券である。

どちらも一応「お祝い」という扱いだが、その意味合いはかなり違う。

食事会の方は、人間関係を広げる機会になる可能性がある。知らない人と同じテーブルで食事をすることになるが、それをどう受け止めるかが一つの問題である。ただし水曜日は水泳のレッスンがあり、それを休みたくない気持ちもある。

一方で売店の金券は、日用品や食品に使えるとはいえ、特別に魅力的なものがあるわけではない。結局は1,000円という枠の中で、どれだけ合理的に使うかという話になる。

そもそもこの「誕生日のお祝い」が、選択制であること自体に少し違和感がある。本来は祝われる側のはずなのに、参加か不参加か、あるいはどちらを選ぶかを自分で決める仕組みになっている。

ここで迷っているのは、単に食事か金券かという話ではないのかもしれない。

人間関係の中に一歩入っていくかどうかという問題と、1,000円という金券の価値をどう捉えるかという問題が重なっている。

そのどちらを優先するのか、自分の中でまだ整理がついていない。

6月22日までに決める必要があるが、いまはその間で揺れている状態である。


免許更新を終えた帰り道、送迎車の運転手さんと話をした。

その方は家を建てた時、本当は薪ストーブを入れたかったそうだ。

しかし住宅メーカーの方針もあり、希望はかなわなかった。

それでも諦めきれず、自分で工夫して薪ストーブを使っているという。

さらに、伐採された木をもらうために何度も往復して薪を集めたという話も聞いた。

私はその話を聞きながら、ニュージーランドに住む長男の家を思い出していた。

長男の家にも薪ストーブがある。

冬になると薪が運ばれてきて、家族で積み上げる。

朝火を入れると、その温もりが長く続く。

エアコンとは違う暖かさだ。

私は若い頃、アメリカで初めて薪ストーブを見た。

火のつけ方を教えてもらったこともある。

だから運転手さんの話がよく分かった。

同時に、その方が話していた「海側は寒い」という言葉も印象に残った。

元奥様は山側の育ちで、海側に建てた家を寒く感じていたそうだ。

同じ愛媛県でも、人によって寒さの感じ方は違う。

生まれ育った環境によっても違うのかもしれない。

薪ストーブへの憧れは、単なる暖房器具への憧れではないのだろう。

火を囲み、薪を運び、季節を感じながら暮らす。

そんな時間への憧れなのかもしれない。


長いこと生きてきたけれど、生果卸売相場や鮮魚卸売相場をちゃんと見たのは、たぶん今日が初めてだと思う。

もちろん新聞に載っていることは知っていた。

けれど、今まではほとんど目に入らなかった。

経済というと、私にとっては難しいものだった。

日経平均株価や為替相場が並んでいても、数字ばかりでよくわからない。だから自然と経済欄を飛ばして読んでいた。

ところが松山へ来てから読むようになった愛媛新聞は、経済欄が比較的簡潔で読みやすい。

全部理解できるわけではないけれど、「今日は円安なのか」「株価は上がったのか下がったのか」くらいなら考えながら読めるようになってきた。

そして今日、ふとその横の欄に目が止まった。

そこには生果卸売相場や鮮魚卸売相場が載っていた。

大阪市場、東京市場、松山中央卸売市場、新居浜市場、今治市場などの名前が並び、野菜や果物、魚の値段が細かく書かれている。

正直なところ、今でも数字の意味はよくわからない。

けれど、「野菜や魚にも毎日の相場があるのか」と思った。

考えてみれば当たり前のことなのに、今まで意識したことがなかった。

円や株だけが経済ではない。

私たちが毎日食べている野菜や魚にも値段があり、その値段は市場で決まっている。

そんな当たり前のことを、今さらながら知った気がした。

若い頃なら見向きもしなかったページを、今は毎日少しずつ読んでいる。

理解できることはまだ少ない。

それでも、「わからないから見ない」ではなく、「少しでもわかりたいから読んでみる」に変わったことは、自分の中では小さくない変化だと思う。


松山へ来てから、家具を買う時に以前よりずっと慎重になった。

今日もニトリを見ながら、夫が座れる椅子や座椅子がないか探していた。

夫は来るたびに「座る場所がない」と言う。

確かに、私はテレビ台も買わなかったし、ソファもない。

座布団も持ってこなかった。

その代わり、カウチにもソファーにもなるマットを使い、枕を立てたり毛布を折ったりして、自分なりに工夫して暮らしている。

若い頃は違った。

結婚してからも、子どもが生まれてからも、ずっとベッド生活だった。

静岡のアパートも、その後の家も、3階建ての自宅も、家族それぞれにベッドがあった。

けれど、日本の家でベッドを置くと、どうしても部屋が狭くなる。

ベッドの下は掃除しにくい。

一度、引っ越しの時にベッドの下を見て驚いたことがある。

長い間たまった埃を見て、「私はこんな場所を掃除できずに暮らしていたのか」と思った。

ニュージーランドの息子の家へ行った時、その考えはさらに強くなった。

広い土地に建つ家。

広い寝室。

ベッドの周りにも十分な空間がある。

お嫁さんは寝室にリラックスチェアを置き、赤ちゃんを抱いていた。

あの広さならベッドは似合う。

ベッドのために作られた空間だと思った。

でも日本の家は違う。

昔の日本人は、布団を敷いて寝て、朝になれば畳む暮らしをしていた。

居間が寝室になり、寝室が勉強部屋にもなる。

限られた空間を上手に使う知恵だったのだろう。

私は今、その知恵が少し分かる気がする。

家具は便利だ。

でも、一度買うと簡単には捨てられない。

置き場所が必要になる。

掃除の手間も増える。

部屋も狭くなる。

だから今の私は、家具を買う時にまず考える。

「これは本当に必要だろうか」

「自分で動かせるだろうか」

「掃除できるだろうか」

そして、

「なくても暮らせるのではないか」

とも考える。

歳を取ったから物を減らしたいのではない。

たくさんの物に囲まれて暮らしてきたからこそ、身軽さのありがたさが分かるようになったのだと思う。

死ぬまで使う場所なら、自分で動かせて、自分で掃除できる場所がいい。

最近はそんなことを考えるようになった。

だから私は、ベッドを選ばなかった。

本当に欲しかったのは家具ではなく、身軽に暮らせる空間だったのかもしれない。


今日、愛媛県の運転免許センターで免許更新をした。

手続きそのものはスムーズだったが、一つ気になったのはマイナ免許証のことだった。

従来の運転免許証だけを持つのか。

マイナンバーカードと運転免許証を一体化するのか。

あるいは両方を持つのか。

その選択によって手数料が違う。

料金を見ると、行政としてはマイナ免許証を普及させたいのだろうな、と感じた。

確かに便利な面はある。

引っ越しの際の住所変更などは簡単になるらしい。

今回も私は松山へ来た時に市役所と警察の両方へ行ったが、将来的にはそうした手間が減るのかもしれない。

しかし講習では、不便な点についても説明があった。

もしカードを紛失した場合、再発行に時間がかかることがあるという。

便利さと安心感。

どちらを優先するのか。

私は結局、従来の運転免許証を選んだ。

そもそも運転をする機会は少ない。

それでも、自分を証明するためのカードを別に持っていたいという気持ちがある。

何年か後には、マイナ免許証が当たり前になっているのだろうか。

それとも、従来の免許証を残したいと思う人もいるのだろうか。

今日の免許更新は、単なる手続きの日ではなく、便利さとは何かを考える日でもあった。


今日は運転免許の更新のため、朝から免許センターへ向かった。

松山市駅のバス停で待っている間、目の前には観覧車が見えていた。もうすぐ誕生日なので、無料乗車の案内のことなどを思い出しながら、バスを待った。

免許センターでは思ったより順調に手続きが進み、新しい免許証を受け取ることができた。写真は流れ作業で撮られたので、自分では少し不満もあるが、それも今日の記録なのだろう。

講習は30分。プロジェクターを使った説明で、先生はかなり厳しい印象だった。朝からの緊張もあったのか、とにかく眠かった。何度も意識が遠のきそうになりながら、何とか最後まで受講した。

更新後の免許証を見ると、有効期限は令和13年8月9日となっていた。

5年後。

数字にすると短いようだが、実際には長い時間でもある。

その頃の私は何をしているのだろう。

今と同じように松山で暮らしているだろうか。フィッタ(ジム)へ通っているだろうか。それとも別の楽しみを見つけているだろうか。免許を持ち続けているのか、それとも返納しているのか。

もちろん今は分からない。

5年前の自分が今の生活を正確に想像できなかったように、5年後の自分もきっと予想とは違う毎日を送っているのだろう。

帰りのバスでは、一番後ろの席に座って外を眺めた。大きな用事が一つ終わった安心感があった。

7月には人間ドックや歯科検診も控えている。フィッタへ通うことも考えている。

松山へ来てから少しずつ整えてきた暮らしが、ようやく形になり始めているような気がする。

今日は免許更新の日だった。

けれど振り返ってみると、それ以上に、新しい免許証を手にしながら5年後の自分について考えた日だった。


エデンの園では総会が開かれている。

決算報告や事業報告がテレビの11チャンネルで流れているが、私は隣で別のことを考えていた。

目の前にあるのは、レディ薬局で買った2リットル730円の梅酒である。

国産梅使用と書いてあるが、あまりに安いので、最初は本当に梅酒なのだろうかと思った。

アルコール分は8%。

お酒に弱い私でも、少量ならほとんど水のように感じる。

それでも気がつけば2本目を買っていた。

考えてみれば、私にとって梅酒は単なるお酒ではない。

子どもの頃、母は毎年梅の季節になると梅酒や梅干しを作っていた。

最初に青梅が出回り、しばらくすると黄色く熟した梅が並び、最後に小梅が出てくる。

スーパーの売り場で梅を見るたびに、季節の移り変わりを感じたものだった。

私自身も結婚してから何年かは梅酒や梅干しを漬けていた。

しかし子どもたちが独立し、夫婦二人の生活になると事情が変わった。

梅も高くなった。

ホワイトリカーも氷砂糖も安くない。

市販品を買った方が安いことが多くなった。

失敗してカビが出そうになった年もあった。

そうして、いつの間にか漬けなくなった。

先日、フジグランで青梅を見かけた。

「ああ、梅の季節だな」

と思った。

でも、もう漬けようとは思わなかった。

実家の台所には、母が仕込んだ年号入りの大きな瓶が今も残っている。

母は今、介護施設で暮らしている。

新しいことを覚えることは難しくなった。

それでも、あの瓶には母が元気だった頃の一年一年が残っているような気がする。

730円の梅酒は、たぶん昔飲んでいた梅酒とはずいぶん違う。

それでも梅の香りを感じると、梅雨の空気や実家の台所を思い出す。

私にとって梅酒は、お酒というより季節の記憶なのかもしれない。


今日は6月17日、月に一度のボンビバ服用の日である。 ボンビバは骨粗しょう症の治療薬で、骨を壊す働きを抑えることで骨折を防ぐ薬である。きっかけは、ジムの水泳レッスン(平泳ぎ)の後に胸の痛みが出たことだった。検査を受けたところ骨密度の低下が見つかり、治療を開始することになった。

あわせてエルデカルシトール(活性型ビタミンD3製剤)も服用している。カルシウムの吸収を助け、骨を作る働きを支える薬である。

朝5時に起床し、ラジオ体操の前にボンビバを服用した。

この日は運転免許の更新に行く予定があり、7時25分のバスで町へ出て、直通バスを利用して免許センターへ向かう。

ボンビバとエルデカルシトールによる治療を続けながら、日常生活や社会的な予定を通常通りこなしている。

カルシウム摂取(牛乳など)にも気をつけながら生活習慣を整えている。

薬の服用と日常生活が一体となった一日である。


私がエデンについて調べ始めた頃から、ずっと不思議に思っていたことがある。

エデンは老人ホームなのに、自立していなければ入れないのである。

私は最初、それがよく理解できなかった。

老人ホームというのは、介護が必要になった人が入る場所だと思っていたからだ。

だから、

「自立でしか入れない老人ホーム」

という言葉は、どこか矛盾しているように聞こえた。

老人ホームなのに、自立が条件。

まるで言葉遊びのようにも思えた。

私がエデンに興味を持ったきっかけは、NHKの「ドキュメント72時間」で油壺エデンの園を見たことだった。

そこに映っていたのは、介護を受けている人たちではなかった。

社交ダンスを楽しむ人たちがいて、とても格好良かった。

配偶者を亡くした人同士が新しい関係を築いている姿もあった。

買い物に出かけたり、それぞれの趣味を楽しんだりしていた。

何より、みんなが明るかった。

私は驚いた。

「こういう暮らし方もあるのか」

と思った。

老人ホームという言葉から私が想像していた世界とはまったく違っていた。

それからエデンについて調べ始めた。

浜名湖エデンの園にも体験宿泊に行った。

聖隷浜松病院が隣にあり安心感はあったが、高台にあって、結局私は静岡から離れられないような気がした。

費用も高かった。

いくつかのエデンを比べる中で、松山エデンの園が現実的な選択肢として見えてきた。

今でも制度のことは完全には理解できていない。

介護保険法との関係も、自立型と介護型の違いも、わからないことはたくさんある。

それでも少しずつ思うようになった。

エデンが考えているのは、

「介護が必要になった人を受け入れる場所」

というより、

「元気なうちから暮らし始め、そのまま年を重ねていく場所」

なのかもしれない、と。

だから入居時には自立が条件になる。

そして暮らしているうちに介護が必要になれば支援を受ける。

最後は見取りまでお願いできる。

その考え方は、私がそれまで持っていた老人ホームのイメージとはかなり違っていた。

今でも完全に理解できたとは言えない。

それでも、

「自立でしか入れない老人ホーム」

という一見矛盾しているような仕組みこそが、エデンという場所の特徴なのだろうと思う。

私はまだ、その意味を考え続けている。


今日はエデンに来て初めてのお出かけ行事に参加した。

エデンの車で映画館へ向かい、松山や内子町が舞台となった『旅人検視官 道場修作』を鑑賞した。100歳の男性、85歳の女性と同じ車に乗り、あっという間に映画館へ到着した。

せっかくの外出なので、普段のTシャツやハーフパンツではなく、ベテル病院のバザーで夫に買ってもらった100円の黒いワンピースを着た。初めてアーチフィッターのサンダルも履き、少しだけ特別な気分で出かけた。「今日はいつもと違うね」と声をかけてもらえたのもうれしかった。

映画では松山城や内子町の白壁の町並み、和ろうそくなどが登場し、実際に訪れてみたい場所が増えた。特に三津浜や内子町にはいつか足を運んでみたいと思う。

また、検視官の守秘義務をめぐる物語を見ながら、夫の仕事や昔聞いた出来事も思い出した。映画の内容だけでなく、自分自身の記憶にもつながる時間だった。

帰ってくると少し疲れたが、エデンでの生活の一区切りとなる、印象深い一日になった。


今日もエデンの園の「いきいきサロン」に参加した。

30分ほどの短い時間だが、今日は3回目ということもあり、少し慣れてきた。

最初は「今日は何の日」から始まり、誕生花や花言葉の紹介があった。

白いカーネーションの花言葉は「純粋な愛」だそうだ。

ところがホワイトボードに貼られていたのは赤いカーネーションの写真だった。

私は思わず、

「それなら赤いカーネーションの花言葉は何だろう」

と考えてしまった。

職業病なのかもしれない。

説明と見本が一致しているか、つい気になってしまう。

その後は指体操。

薬指、小指、親指をつけたり離したりする。

スタッフの方は「中指は仲良しだからついてきますね」と説明していた。

みなさん分かりやすそうに聞いていたが、私は心の中で、

「神経や腱の構造じゃないかな」

などと考えていた。

脳トレ問題も面白かった。

「存在しない都道府県はいくつ」という問題では、私は本当に存在しない都道府県を探していた。

ところが答えは、漢字が少しずつ違っていた県名だった。

完全に出題者の思うつぼである。

「職権を悪用するのは汚職、職券を買うのはお食事」という問題もあった。

「背徳感を感じることもあるのはお食事」という答えには少し首をかしげたが、ダイエット中のケーキのようなことなのだろう。

川柳の問題もあった。

私は正直、川柳そのものはあまり得意ではない。

人情や風景を味わう俳句や随筆のほうが好きだ。

それでも、

「スポーツジムを車で行って自転車を漕ぐ」

には思わず笑った。

私も夫も長年そうしてきた。

「七五三 張り切ってるのは 祖父と祖母」

では、ニュージーランドの孫たちを思い出した。

好きな作品ではなくても、自分の人生に重なるものはある。

最後は1分間計算だった。

名前を書いてから始めるよう言われたので名前を書いた。

すると、その下に51番の問題があった。

私はまた51番から解き始めてしまった。

前回も同じことをした気がする。

学校のテストなら、名前の下には第1問がある。

長年の習慣はなかなか抜けない。

それでも今日は67問か68問くらいまで進んだ。

正解数よりも、自分の思考の癖が見えたことのほうが面白かった。

実は、エデンの園へ来る前の私は、

こういう教室をどこかで

「高齢者向けのもの」

と思っていた。

ところが参加してみると違った。

手と足と計算を同時にやるだけで混乱する。

簡単そうに見えた問題で思い込みに引っかかる。

できるつもりだったことが、意外とできない。

そして、そのことが面白い。

若い頃は、できるようになることを急いでいた。

今は、

「なぜ私はそう考えたのだろう」

と自分を観察するほうが面白い。

エデンの園へ来てから、

できないことが増えた気がする。

でも同時に、

面白いことも増えた気がしている。


今日は夫を見送った後、松山市駅周辺で用事を済ませた。

愛媛大学医学部の検体登録の同意書をニュージーランドの息子へ送るため、郵便局へ行った。以前から余っていて気になっていた110円切手と1円切手を使い、残り29円だけをPayPayで支払った。長い間使い道がなかった切手を活用できて、少しすっきりした気分になった。

その後、ドラッグストアで6枚切りの食パンが99円で売られているのを見つけた。私の感覚では128円くらいが底値だと思っていたので、「これは安い」と思わず購入した。

考えてみると不思議なもので、スターバックスでは好きな飲み物にお金を使うこともあるのに、毎日食べる食パンの値段には敏感に反応する。

節約できるところは節約したい。でも楽しみにはお金を使いたい。その感覚は昔からあまり変わっていないようだ。

そういえば、松山市駅の観覧車「くるりん」は誕生月に無料で乗れるらしい。私は昔から観覧車が好きで、旅行先で見つけると乗りたくなることがよくあった。

観覧車の中は、不思議と落ち着く空間だ。景色を眺めたり、考え事をしたり、一人の時間を楽しんだりできる。

7月の誕生日には、松山の街を見下ろしながら久しぶりに乗ってみようかと思っている。

99円の食パンに喜び、観覧車の無料特典を楽しみにする。

そんなところに、今も昔も変わらない自分らしさがあるのかもしれない。


エデンの食堂で流れるBGMは、週ごとに変わっているように感じる。
ビートルズのジャズ風アレンジやジャズ風の演歌、そして今日はクラシックのピアノ曲が流れていた。
トルコ行進曲やメヌエット、亜麻色の髪の乙女など、聞いたことはあるが曲名がすぐに出てこない曲も多い。

音楽を聞くと、子どもたちがピアノを習っていた頃のことを思い出す。
送り迎えやレッスンの待ち時間、車の中でうとうとしながら音を聞いていた時間など、生活の一部としての記憶が強く残っている。

一方で習字の記憶もある。
習っていたのは小学生の頃だったと思うが、道順などはもう覚えていない。
ただ、先生の家でお手本を書いてもらい、その場で書き直し、赤い筆で直してもらって持ち帰った記憶は残っている。
家で宿題のようにやることはなく、その場で完結していた印象がある。

現在は昭和61年の習字入門テキストと筆ペンを使い、自分のペースで練習している。
百円ショップで買った筆ペンを使い、不要な紙に基本の点・線・はね・はらいなどを順に書いている。

特にはねの動きが面白く、力を入れてから抜く流れや、方向の切り替えによって勢いが変わる感覚がある。
字によっては余韻が残る書き方の方が好きであり、特に気持ちが伸びるような感覚の残る線が心地よい。

習字は真似をしているようで完全な再現ではなく、自分の感覚で自由に書いていることが多い。
今は誰かに直されることはなく、自分の中で納得できる形を探しながら書いている。

音楽と習字の記憶は別々のもののようでありながら、静かな時間の中で自然に思い出され、現在の体験と重なっている。


今日は、お世話になった精神科医の先生のことを思い出していた。

先生が少年院勤務時代に書かれた『少年たちの贖罪』という本を久しぶりに読んでみたくなり、図書館を調べてみた。しかし今日は月曜日で休館日だった。

その先生には長い間お世話になった。

診察では、一人ひとりにじっくり時間をかけて話を聞く先生だった。今の医療現場では効率が求められることも多いが、先生はいつも目の前の患者と向き合うことを大切にしていたように思う。

転院の際、次の病院の先生が紹介状を読んで驚かれたことがあった。

「こんな紹介状は初めて見ました」

そう言われた。

病名や薬だけではなく、その人の背景や歩んできた道のりまで丁寧に書かれていたらしい。

私自身は紹介状の内容を読んでいないが、その言葉を聞いて、長年の診療の積み重ねがそこに込められていたのだろうと思った。

印象的だったのは最後の診察だった。

私はもう少し感慨深い別れになるのかと思っていたが、先生はごく自然に、

「今日で終わりですよ」

と言われた。

少し寂しく感じたが、振り返ってみると、その頃には先生の中で引き継ぎも準備もすべて終わっていたのだろう。

先生から学んだことはたくさんある。

その中でも大きかったのは、自分自身を客観的に見ることの大切さだった。

感情だけで判断するのではなく、自分の状態を少し離れたところから見つめる。

今振り返ると、その視点は診察の中で少しずつ身についていったような気がする。

人生には忘れられない先生との出会いがある。

私にとって、その先生はまさにそんな存在だった。


今日もラジオ体操が終わり、朝6時43分。マッサージチェアに座っている。

今日は夫が静岡へ戻る日だ。朝食後、8時30分発のエデン2番バスに乗り、私は免許センター行きのバスの下見に出かける予定である。

松山に来てから毎朝ラジオ体操に参加するようになり、もう1か月近くになる。始める前は、ラジオ体操というものに少し偏見があった。夏休みの子どもや高齢者がやるもの、というイメージがあったのである。

ところが毎日続けてみると、その良さを実感するようになった。

特に気に入っているのは首の運動である。私は首が長く、肩こりや前傾姿勢、猫背などに悩むことが多かった。ラジオ体操では首を前後左右に動かし、大きく伸ばす動作がある。朝の空気の中でしっかり行うと、「ああ、伸びているな」と感じる。

毎日続けていると首の調子が良くなり、以前のような肩こりや首のつらさが軽くなったように思う。もちろん、その後に本を読んだり書き物をしたりして姿勢が悪くなると少し戻ることもあるが、それでも効果を感じている。

もう一つの楽しみは、一緒に体操する仲間たちである。

普段は5人ほど、今日は夫も加わって6人だった。

名前を知っているのは数人だけで、年齢も正確には知らない方がいる。それでも顔を合わせるうちに、それぞれの人柄が少しずつ見えてくる。

私と同年代くらいのご夫婦がいる。ご主人は足に不調があるのか、跳ぶ動作になると控えめになることがある。一方、奥様はとても元気で、施設の運動マシンでも昭和歌謡を聴きながら熱心に運動されている。動きも美しく、体も柔らかい。

93歳のNさんはラジオ体操のリーダーである。さすがに若い頃のような動きではないかもしれないが、毎朝しっかり参加されていて、その姿には頭が下がる。

小柄な男性もいる。時々お休みされることがあり、以前、腰や胸、背中の不調について話してくださったことがあった。「これをやっているといいんだよ」とおっしゃっていたのが印象に残っている。

そして、麻雀でもご一緒する85歳のMさん。いつも帽子をかぶり、朝は新聞を読んでいることが多い。朝日新聞の天声人語がお好きだそうだ。以前は建設会社の経理を担当されていたと聞いた。ラジオ体操が終わると、そのまま散歩に出かけられる。

みなそれぞれ個性的で、それぞれの人生を歩んできた人たちである。

私はまだ新参者で、その方々の人生の詳細を知っているわけではない。それでも毎朝同じ場所でラジオ体操をし、同じ音楽に合わせて体を動かしている。

それだけのつながりかもしれない。

しかし、その「それだけ」が意外に心地よい。

快く受け入れていただいていることに感謝しながら、今日も一日が始まった。


私はなぜ運転をやめたのかを考えると、ひとつの出来事だけではなく、いくつかの積み重ねがあったと思う。

もともと運転が得意というわけではなかったが、生活のために車を使っていた。ところが箱根の雪道での事故を経験し、ガードレールに積もった雪に接触して車が大きく損傷した。そのとき、自分も他人も誰も傷つかずに済んだことは、今思えば奇跡のように感じている。

あの時もし誰かを傷つけていたら、私は精神的に耐えられなかったと思う。それが大きな転機になった。

その後も車に乗ることへの不安は残り、さらに定年を迎えたことで、保険料や維持費、使い道を考え直すようになった。結果として、車を手放すという選択は自然な流れだった。

その後は自転車や電動アシスト自転車、そして電動三輪へと移りながら、生活に必要な移動手段を自分なりに組み立ててきた。

そして今、運転免許の更新の通知を受けて、今回の更新は受けることにした。そのうえで、この免許をこれからどうするかは、今後の生活の中で考えていく。

これからの五年をどう生きるか、その中でこの証明を持ち続けるのかどうか、それも含めて今の私の選択だと思う。


昨日、食べ物を残す元ドクターに対して、「食べ物を粗末にするな」と強い口調で語っていた男性がいた。

私はその話は昨日で終わったのだと思っていた。

ところが今朝の朝食でも、その男性は元ドクターの話を続けていた。

本人がいない席で、食べ方が気に入らないこと、魚や肉をほとんど食べないこと、神社の家の息子なのに食べ物を大事にしないことなどを何度も繰り返していた。

最初は食べ物の話だったはずなのに、だんだんと元ドクター本人への批判になっていったように聞こえた。

私はその話を聞きながら、元ドクターよりもむしろ、その男性のことが気になってしまった。

背が高く、食事はいつも大盛り。

車が好きでよく出かける。

食後には喫煙所へ向かう。

お遍路もしているらしい。

部屋ではお経を唱えているという。

けれど、その人がどんな人生を歩いてきたのかは何も知らない。

結婚したことがあるのか。

家族がいるのか。

どんな仕事をしてきたのか。

なぜ今ここで暮らしているのか。

私は何も知らない。

ただ、目の前で見えるのは、自分の考えをはっきり言い、人の行動に強い怒りを示す姿だけだ。

だから余計に不思議に思う。

あれほど食べ物を大切にしろと言う人が、なぜあれほど強く人を責めるのだろう。

お経を唱えるということと、人への怒りはどう結びついているのだろう。

それとも私には見えていない背景があるのだろうか。

結局のところ、私はその人のことがよくわからない。

そして人は、わからないからこそ気になるのかもしれない。

しばらくして元ドクター本人が食堂に現れた。

「寝坊したから遅くなったよ」

そう言って、いつも通り静かに席についた。

私は少しほっとした。

今日の朝は、食べ物の話というより、人の複雑さについて考えた時間だった。


今朝はラジオ体操のあと、夫と一緒にエデンの園の周囲を散歩した。

施設の近くには地域の方々が守っている小さな祠がある。そこはエデンの園の敷地ではなく、昔からこの土地を見守ってきた場所だそうだ。

私の部屋のある棟の上階からも見える場所なので、以前から気になっていた。今日は夫と一緒にその祠まで足を延ばしてみた。

祠の周囲には木々が茂り、朝の空気はひんやりとしていた。松山も昼間はかなり暑くなるが、この高台は朝晩がまだ涼しい。長袖が欲しいと思う日もあるほどだ。

その祠の奥で、ひときわ目を引く木があった。

緑の葉の上に黄金色の新芽が並び、朝の光を受けて輝いている。

「きれいな新芽だね」

と夫と話しながら、その木の名前を調べてみたところ、「オウゴンマサキ」という木だと分かった。

私はこれまで、新芽というものは春に出るものだと思い込んでいた。しかし植物によっては初夏にかけて鮮やかな新葉を伸ばすものもあるらしい。

オウゴンマサキの黄金色の葉も、これから少しずつ落ち着いた緑色へ変わっていくという。

季節は春から夏へ向かっている。

昨日より少し曇り空だったが、木々は確実に季節の移り変わりを教えてくれていた。

松山へ来てから、花の名前や木の名前を気にすることが増えた。

以前は見過ごしていたような小さな変化が、今は少しずつ目に入るようになっている。

夫は明日、また静岡へ戻る。

私は再び一人の観察生活に戻ることになるだろう。

けれど今日見た黄金色の新芽も、数週間後には違う色になっているはずだ。

そんな変化を見つけながら過ごす日々も、なかなか悪くないと思っている。


今朝、ラジオ体操のあと夫と散歩をしていた。

木々を見ると新芽が出ていて、「きれいな新芽だね」と話になった。どんな木だろうと思い、夫が「ChatGPTに聞けばいいよ」と言った。

私は無料版を使っているので、「私はそこまでお金をかけていないよ」と答えた。夫は仕事で写真やAIを活用しているので、有料サービスも利用しているらしい。

そこから話はAIの話題へ広がった。

ChatGPTだけではなく、GeminiやClaudeなど、さまざまなAIがあること。中には高度すぎて、コンピューターの脆弱性やバグを発見する能力が高く、サイバーセキュリティとの関係が議論されているものもあるという。

さらに話は、宇宙開発を行う巨大企業や、その株式上場のニュースへと移った。

莫大な資金が動き、企業価値は何兆円、何百兆円とも言われる。しかし、私のような普通の生活者には、その数字はあまりにも大きすぎて実感が湧かない。

それでも、ニュースとして私たちの元へ届けられる以上、何らかの意味があるのだろう。

考えてみると、私たちは未来を直接見ることはできないが、その入口にある出来事をニュースとして見ているのかもしれない。

AIも宇宙開発も、今は遠い世界の話のように感じる。しかし、スマートフォンや通信、検索や翻訳など、かつては遠い技術だったものが、いつの間にか日常の一部になっている。

だから今のニュースも、「すごい話だな」で終わるのではなく、「これが数年後、私たちの暮らしとどうつながっていくのだろう」と考えてみることに意味があるのかもしれない。

新芽を見ながら始まった朝の会話は、AIや宇宙開発、そして未来の社会について考える時間へとつながっていった。


今日は夫の滞在最終日だ。

この数日間、松山城や坊っちゃん列車、道後温泉などを一緒に回ることができた。電車やバスにも乗りながら、普段とは違う時間を過ごし、それぞれに楽しい思い出ができている。

今日は午前中に、夫が私の電動三輪車に乗って練習してみたいと言っている。その後、午後はいつもの麻雀教室(13時半〜16時)に一緒に参加する予定だ。 前回参加したので、皆様にお声がけいただいている。 仙台の妹から送られてきたさくらんぼをお裾分けしたい。

全体としては、あまり予定を詰めず、最後の日らしくのんびりと過ごしたいと思っている。

一方で、夫は「体験を楽しむ」タイプで、私は「見て考えたり、比べたりする」タイプであるため、感じ方やペースの違いもあった。それでも一緒に同じ場所で過ごす時間そのものが、やはり貴重なものになっていると感じている。

今日は帰る日ではあるが、最後まで穏やかに過ごしたいと思う。


人の縁というものは本当に不思議である。誰と出会い、誰と触れ合うかによって、日々の暮らしは大きく変わっていく。

ここ松山エデンの園には約160名位の方が暮らしており、毎月どなたかのご逝去のお知らせがある。私がここに来てまだ日が浅いため実感は限られるが、4月、5月とそうしたお知らせがあり、昨日も葬儀が行われた。6月はお二人目である。私が入居してからここで初めてキリスト教式の通夜 葬儀 出棺 が行われた。

その方は心臓にペースメーカーを入れておられ、自立棟で長く暮らしていた方だったそうである。クリスチャンだったと聞いた。 お知り合いも多く、職員はじめ、多くの方がお見送りをされた。

ここでは、お風呂でだけ顔を合わせる人、自炊中心で生活している人、お風呂で少し会話を交わすだけの人など、さまざまな人が同じ場所で暮らしている。挨拶だけの関係もあれば、麻雀を一緒に楽しむ関係になることもある。

同じ施設で暮らしていても距離感は人それぞれであり、その中で皆が自分なりの居場所や楽しみを見つけながら生活しているように感じる。

人は誰しも少しずつ死へ向かって生きている。死がまったく怖くないという人がいるのかどうかは分からない。しかし、それを受け入れながら、その時々で自分に何ができるのかを考えて生きていくことは大切なことだと思う。その意味で、ここは老いと向き合いながら暮らしていくための良い環境であると感じている。

夫が滞在している間には、松山城や坊っちゃん列車、道後温泉などを一緒に楽しむことができた。電車やバスにも乗り、普段とは少し違う時間を過ごすことができた。

今日は夫の滞在最終日である。特別なことをするわけではないが、ゆっくりと穏やかに過ごしたいと思う。


今日の夕食の場で、食べ物について少し考えさせられるやり取りがあった。

ある男性が、「食べ物を残すな」という考えを強く持っていて、食事の場で同席していた元ドクターと思われる男性に対しても、その考えをはっきりとぶつけていた。

彼は、「世界には食べたくても食べられない人がいる。だから食べ物は大事にしなければいけない」と言い、さらに「残すのは良くない」「食べられないと言うのは良くない」と、相手に向かって強い口調で自分の考えを伝えていた。精神論としての“食べきるべきだ”という主張が、目の前の相手に向けられていた形だった。

それに対して元ドクターの男性は、「食べられないからなあ」とだけ静かに言い、感情的に反論することもなく、淡々と食事を続けていた。

この施設の食事は、ご飯は白米・雑穀米・柔らかいご飯などから選べ、量も大盛り・普通・小盛りと自分で決めることができる。そのため食べられる量に合わせて調整はできるようになっている。

ただし副食(おかず)は全員同じ量で提供される。同じ金額を払っているため、平等性の観点から統一されている。

それでも、年齢や体調によっては食べきれない人も出てくる。実際には、同じ量でも多いと感じる人や、その日の体調で残してしまう人もいる。

この施設は自立型で、65歳から入居できるため、入居者は65歳から100歳までと年齢幅がとても広い。100歳の方も1人おられ、介護棟にはさらに高齢の方もいるという。年齢差だけでも食べられる量には大きな違いが出てくる。

そう考えると、「食べ物を残すな」という言葉は正しいようでいて、すべての人にそのまま当てはめられるものではないのかもしれない。

食べ物を大切にするという考えと、身体の現実として食べられる量には差がある。その両方が同じ食事の場に存在していることが、今日の出来事として印象に残った。

これは食べ物の話というより、人の身体の変化と価値観の違いが同時に見える時間だった。


今日は坊っちゃん列車に乗って松山市駅から道後温泉駅へ向かった。記念写真を撮ってもらい、記念絵はがきも購入した。観光案内所に立ち寄るとボランティアガイドの方がおられたので、夫と一緒に案内をお願いした。

道後温泉の案内をお願いしたつもりだったが、最初に向かったのは湯築城だった。まず紹介ビデオを見て、その後、堀や土塁などを見ながら説明を受けた。現在は建物は残っていないが、かつてこの場所が城だったことを知り、歴史の重みを感じた。温泉地として有名な道後だが、その背景には長い歴史があることを改めて知った。

その後、商店街を歩きながら、坊っちゃん団子やタルトのお店についても教えていただいた。地元の方ならではの話を聞くことができ、観光ガイドブックだけではわからない発見がたくさんあった。

道後温泉では、海外からの観光客も多く見かけた。お風呂では小さなタトゥーのある方も見かけたが、日本では温泉とタトゥーについて様々な考え方やルールがある。昔ながらの入れ墨へのイメージと、海外でのファッションとしてのタトゥーとの違いもあり、観光地としてどのように対応していくのだろうと考えさせられた。

ガイドさんと別れた後は、一六タルトと六時屋タルト、そして坊っちゃん団子を購入した。せっかくなので食べ比べをしてみたかったのだが、暑さもあり、ゆっくり座って食べられる場所がなかなか見つからなかった。公園やベンチでのんびり味わうには少し暑すぎる日だった。

それでも実際に食べてみると、それぞれのお店の違いを感じることができた。旅先では「せっかくだから」と体験してみたくなることが多い。観光地ならではの価格設定に驚くこともあるが、それも含めて旅の思い出になるのだろう。

帰りには高島屋の無印良品に立ち寄り、麦茶用のボトルやお菓子などを購入した。今日はよく歩き、よく学び、よく考えた一日だった。歴史や文化、食べ物、そして今の時代ならではの価値観まで、さまざまなことに触れることができた道後散策だった。


今朝、食堂で三人の会話を聞いていて面白いことがあった。

一人の女性が、昔のことを話しながら、

「私は昔、逃げ足が速かった」

と言った。

私はその言葉を聞いて、何となく泥棒やいたずらっ子が見つかって、さっと逃げていくような場面を思い浮かべた。

すると、いつも持論をはっきり話される男性が、

「その使い方は違う。逃げ足が速いというのは、悪いことをした後に逃げるときに使う言葉だ」

と言われた。

ところが、その女性にはそんな意味は全くなかったようで、

単純に「昔は走るのが速かった」という意味で使われていたらしい。

しばらく話を聞きながら、同じ日本語を使っていても、人によって言葉から思い浮かべる場面が違うのだなと思った。

私は男性の説明に近いイメージを持っていたし、夫も同じように感じたそうだ。

しかし女性にとっては、そんな特別な意味はなく、「足が速かった」という感覚だったようである。

松山ならではの言い方なのかとも思ったが、どうもそういうわけでもないらしい。

結局どちらが正しいのか調べてみると、本来は「逃げるのが速い」という意味で使われることが多いようだが、日常会話では「走るのが速い」という意味で使う人もいるようだった。

朝のほんの短い会話だったが、人によって言葉の受け取り方や使い方が違うことを改めて感じた。

エデンの園に来てから、こうした何気ない会話の中に、自分にはない発想や考え方が隠れていて面白いと思うことが増えた。


今日は夫と一緒に坊っちゃん列車に乗った。

松山市駅から道後温泉駅まで、わずか20分ほどの短い旅だった。それでも私にとっては、とても印象に残る時間になった。

朝早く乗り場へ行ったので、一番前の席に座ることができた。出発まで少し時間があったため、運転士さんと話をする機会があった。

その方は松山生まれ、松山育ち。工業高校を卒業後、大学進学ではなく、子どもの頃から好きだった伊予鉄への就職を目指したという。必要な資格試験や運転士試験を経て、3年間車掌を務め、その後運転士になったそうだ。運転士歴は10年。話をしている間も、とても穏やかでにこやかだった。

オレンジ色の伊予鉄の世界の中で、自分の好きな仕事に就き、誇りを持って働いている姿がとても印象的だった。

勉強とは何だろう。

進路とは何だろう。

仕事とは何だろう。

そんなことを改めて考えさせられた。

一方で、坊っちゃん列車そのものについては、正直な感想として「乗るものというより、見るものかもしれない」と思った。

車内はほぼ満席で、外国からの観光客が大半だった。私たち以外に日本人はほとんど見当たらなかったように思う。途中の大街道から乗車した人の中には座れない方もいた。

道後温泉駅に到着すると、坊っちゃん列車ならではの方向転換作業を見ることができた。車両を切り離し、人の手で向きを変える作業は、今の時代には珍しく、観光客からも歓声が上がっていた。

そして最後に、坊っちゃん列車を背景に、運転士さんが私たち夫婦の写真を撮ってくださった。

ほんの20分の乗車だったが、観光列車に乗ったという思い出以上に、一人の運転士さんとの出会いが心に残った。

今日の松山の空は青く、道後温泉の街も多くの人で賑わっていた。

その風景とともに、この出会いを忘れずにいたいと思う。


今日は夫と一緒に坊っちゃん列車に乗る予定だ。

20分ほどの乗車時間に1,300円。移動手段として考えれば決して安くはない。それでも松山へ来た記念として、一度は乗ってみたいと思った。

道後温泉駅で降りて、商店街を歩き、坊っちゃん団子を食べる。時間があれば道後温泉にも入りたい。帰りは伊予鉄バスを利用して帰ろうと思っている。

こうして予定を書き出してみると、一日がかりの小さな旅になりそうだ。

夫と一緒に過ごしていると、改めて私たちは興味や関心がずいぶん違うのだと感じる。

昨日も松山城からスターバックスへ向かう途中、私はGoogleマップの案内を頼りに歩いていたが、夫は頭の中に地図ができていたようだった。私は昔から地図や方向感覚が苦手で、夫から何度も注意されてきた。しかし、それは努力で簡単に直るものでもない。

一方で夫は、坊っちゃん列車ミュージアムにはあまり関心を示さなかったが、私は展示を一つひとつ見て回るのが楽しかった。

同じ場所にいても、見ているものや興味を持つものが違う。

そんなことを改めて感じる数日になっている。

今日の坊っちゃん列車も、夫はどんな気持ちで乗るのだろう。もしかしたら私ほど楽しみにはしていないのかもしれない。

それでも、今はあまり深く考えないことにした。

同じ景色を見ても、同じ感想を持つ必要はない。

夫には夫の楽しみ方があり、私には私の楽しみ方がある。

せっかくのお天気の良い土曜日だ。

できる限り今日の時間を楽しみたいと思う。


夫が松山に来て数日を一緒に過ごしている。到着したと思ったら、もう帰る日が近づいている。

一緒に食事をしたり、話をしたり、松山城へ出かけたりする中で、改めて感じたことがある。それは、私たち夫婦はもともとあまり似ていないということだ。

興味を持つことも違う。話したいことも違う。意見が合わないことも多い。

若い頃は、その違いを受け入れることができず、ずいぶん喧嘩もした。子どもたちを巻き込んでしまったこともあった。今振り返れば、最初から価値観や考え方はかなり違っていたのだと思う。

育った環境も違う。生まれ育った場所も違う。そんな二人が結婚し、仕事をしながら家庭を築き、子どもを育て、一緒に暮らしてきた。

今になって考えると、それはいったいどういう意味があったのだろうと思うこともある。

ただ一つ言えるのは、私たちはお互いを完全に理解し合える夫婦ではなかったけれど、それでも長い年月を共に過ごしてきたということだ。

最近は以前ほど喧嘩をしない。

それは急に分かり合えたからではなく、お互いに喧嘩をし疲れたからかもしれない。相手を変えることはできないし、自分も変わらない。長い時間の中で、それぞれがそう学んできたのだと思う。

だから今は、以前より淡々と暮らせるようになった。

無理に分かり合おうとするのではなく、違いがあることを前提にしながら、それぞれの時間や考えを持って生きている。

今回、夫が松山へ来てくれたことで、そんな長い結婚生活を改めて振り返ることができた。

楽しい思い出ばかりではない。大変だったこともたくさんある。それでも何とかここまでやってきた。

夫の滞在は短かったが、私たちが歩いてきた長い年月を思い出させてくれる時間になった。


昨日の松山城見学の余韻がまだ残っている。これまでにも各地のお城を訪れたことはあったが、今回ほどじっくりとガイドさんの説明を聞きながら歩いたことはなかった。

石垣の工夫や狭間、石落とし、隠門などの防御設備について学びながら、単に建物を見るのではなく、そこに生きた人々の暮らしや思いにまで考えが及んだ。敵の侵入に備えて知恵を絞り、多くの人が長い年月をかけて築き上げた城。実際には大きな戦に巻き込まれることは少なかったそうだが、それでも備え続けなければならなかった当時の人々の苦労を想像した。

また、ガイドさんに宇和島鯛飯と松山鯛飯について尋ねたところ、「食べたことがない」と言われたことも印象的だった。さらに、施設のスタッフさんに松山城へ行った話をすると、「小学生の頃に行ったかな」と言われた。観光客にとっては名所でも、地元の人にとっては日常の風景なのだと感じた。

松山城が以前よりもずっと身近な存在になった気がする。

そして今日は、以前から気になっていた坊っちゃん列車に乗る予定だ。松山市駅から道後温泉駅まで、約20分の短い旅ではあるが、せっかく松山に住んでいるのだから一度は体験してみたいと思う。

道後温泉周辺をゆっくり散策し、温泉にも入る予定だ。帰りはこれまで利用したことのない市電か伊予鉄バスに乗って帰ってみたい。新しい発見があるかもしれない。

昨日はかなり歩いて疲れたので、今日は無理をせず、のんびりと松山の町を楽しみたいと思う。雨も降っていないようなので、穏やかな一日になりそうだ。


今朝は比較的早く目が覚めた。夫も来ていたので、一緒にラジオ体操へ行った。いつものように木々や花を眺めながら歩き、植物に詳しい夫から「これはいつ頃花が咲くよ」などと教えてもらった。

その後、私はマッサージ機を利用し、夫は部屋へ戻った。朝5時頃から起きていたので、登録販売者の問題を2問解き、難問クイズも何とか正解できた。

その後、勉強で書き出したカタカナ用語を覚えようかと思ったものの、なかなか気が乗らない。そこで、ハローワークでいただいた「60歳以上対象求人情報」の冊子を開いてみた。

求人票を見ながら気づいたのは、私が仕事内容よりも通勤や勤務時間を重視していることだった。

まず、エデンのバスで通えるかどうか。できれば雨の日も困らない場所がいい。そして朝早すぎず、夜遅くならず、昼間の時間帯に3〜5時間程度働ける仕事が理想だと思った。

冊子には事務補助やレジ業務、パソコン入力の補助、クリーニング店の受付、スーパーやドラッグストアの品出しや惣菜関係の仕事などが載っていた。仕事内容としてはできそうなものもあるが、週5日勤務や遅い時間までの仕事も多い。

一方で、介護職の求人が非常に多いことにも驚いた。高齢化社会の現実を反映しているのだろう。私は主治医から介護の仕事は避けるよう言われているため選択肢には入らないが、世の中がどのような人材を求めているのかがよく分かった。

求人票を眺めながら考えたのは、「私は何のために働きたいのだろう」ということだった。

生活のために必死に働かなければならないわけではない。それでも社会とのつながりを持ちたいし、少しでも自由に使えるお金があればうれしい。そして、まだ67歳の今なら何かできることがあるのではないかと思っている。

しかし現実の求人票と自分の希望を照らし合わせてみると、なかなか条件に合う仕事は少ない。

それでも今日の朝は、自分に合う働き方とは何かを考える良い時間になった。仕事探しというよりも、自分自身の希望と現実を見つめ直す時間だったように思う。


今日は転入時にもらったフリーチケットをきっかけに、夫と松山城へ行くことになった。

軽い気持ちでロープウェイ街から大街道を通り、ロープウェイで山頂へ向かったが、実際には思った以上に歩く距離と階段が多く、かなり体力を使う行程になった。

長者ヶ原でボランティアガイドの方に声をかけ、案内をお願いしたところ、南口の仕掛け(狭間・石落とし・突揚戸など)から筒井門、隠門、本丸まで、非常に丁寧に説明していただいた。

実物を見ながらの説明だったため、パンフレットや事前の知識だけでは分からなかった部分がつながり、「城は建物ではなく防御の仕組みそのもの」だと実感することができた。

天守では急な階段を上り、鎧や家紋の展示を見た後、最上階から松山市全体を四方に眺めることができた。景色は圧巻で、地図を見ながら方角を確認する時間も印象的だった。

帰りは食事処で「坊っちゃん定食」を食べ、その後スターバックスで休憩している。

自分たちだけではここまで深く理解することはできなかったと思う。ガイドの方のおかげで、松山城の見え方が大きく変わった一日だった。

体力的にはかなり疲れたが、その分、記憶に残る体験になった。


松山城へ向かうバスを待つ間、男性の育休取得についての記事を読んだ。

記事には、何年も待ってようやく授かった子どものために育休を取りたいと考えた男性が、当時は「とんでもない」と叱責されたという体験が書かれていた。

それを読んで、自分の若い頃のことを思い出した。

私は1988年と1991年に出産し、それぞれ産休と育休を取得した。当時はそういうものだと思っていて、制度について深く考えることはなかった。

しかし年金を受け取る年齢になり、夫との年金額の違いが気になって年金事務所に問い合わせたことがある。その時、私が出産した頃は現在のような育休期間への年金上の配慮がまだなく、休業期間が年金額に影響していると説明を受けた。

子どもを産み育てることは社会にとって必要なことのはずなのに、そのために休んだことが将来の年金に反映される。今は制度が改善されているそうだが、少し考えさせられた。

さらに思い出したことがある。

親戚の不幸の席で、私が働いていることを話した時、「なんや、あんた子供捨てて」と言われたことだ。

何十年も前のことなのに、その言葉は今でも忘れられない。

当時は働く母親への見方が今とは大きく違っていた。子どもを産み、育てながら働くことは、今以上に理解されにくかったように思う。

もちろん私は子どもたちを育てられたことを幸せに思っている。

ただ、振り返ってみると、出産や育児による負担や不利益が女性に偏っていた時代だったのではないかとも感じる。

少子化の原因は一つではないだろう。しかし、子どもを産み育てることによる負担の大きさや、働く親への厳しい視線が積み重なった結果が、今の社会につながっているのかもしれない。

バスを待つほんの短い時間の記事だったが、思いがけず昔の記憶を呼び起こしてくれた。


夫が東京から松山へやって来た。

前回会ったのは、私の転居を手伝ってくれた4月30日から5月6日までの期間なので、約1か月ぶりになる。

今回は東京での仕事の帰りだったが、以前から羽田空港から松山空港まで飛行機に乗ってみたいと思っていたそうだ。ちょうど数日休みが取れたこともあり、松山の様子を見てみたいという気持ちもあって来ることになった。

それなのに、不思議と「久しぶりに会った」という感じがしなかった。

考えてみれば、毎日LINEで少しずつ連絡を取り合っていたし、私が書いているノートも夫は読んでいる。

そのため、私がどんな生活をしているのか、どんなことを考えているのか、夫はかなり分かっていたようだ。

私自身も夫の近況を聞いていたので、お互いの生活が完全に離れていたわけではない。

離れて暮らしていても、今はLINEやインターネットがあり、昔とはずいぶん違うのだなと思う。

昨夜は羽田から松山へ無事到着し、施設の大浴場の利用時間に間に合うように急いでお風呂へ向かった。その後は、そうめんと魚肉ソーセージで簡単な夕食をとり、いつものようにCPAPをつけて休んだ。

今朝は夫と一緒にラジオ体操へ行く予定だ。

前回、松山へ来た時には夫だけがラジオ体操へ参加していて、私は朝早く起きることができなかった。

静岡では朝ドラの時間くらいまで寝ていることも多かったからだ。

それでも、松山での生活リズムを整えたいと思い、遅れながら参加してみた。

すると、夫が帰った後も続き、気がつけば一日も休まず参加している。

今ではすっかり朝の習慣になった。

夫がきっかけを作ってくれたラジオ体操だが、今では私自身の生活の一部になっている。

松山へ来てまだ一か月余り。

少しずつ新しい暮らしが形になってきていることを感じる朝だった。


今日は以前から気になっていた太極拳教室へ行ってきた。

静岡で長くお世話になった先生には愛媛の知り合いの先生がおらず、自分で太極拳連盟の事務局に問い合わせて教室を探した。その時に紹介していただいた先生の教室に、ようやく参加することができた。

教室は少人数で、今日は私を含めて二人。90分のレッスンだったが内容は濃く、久しぶりに太極拳の動きに触れることができた。

特に嬉しかったのは、扇(おうぎ)を使った太極拳を少し体験できたことだ。

扇は検定には関係ないそうだが、以前から私は扇が好きだった。開くときの「パッ」という音には不思議な爽快感がある。まだ綺麗には開けないが、その音を聞くだけでも気持ちが晴れる。

先生からは、「10月に1級を受けてみたらどうか」と勧めていただいた。また、検定を目指す人が集まる別の教室も紹介していただいた。

けれども、帰り道に考えた。

私は本当にそこまでして太極拳をしたいのだろうか。

検定のための教室は毎週あり、移動時間も含めるとほぼ一日仕事になる。今の私には、フィットネスや勉強、日々の暮らし、そして将来の仕事について考える時間も必要だ。

太極拳は好きだし、学ぶ価値も感じている。

でも、今の私にとって一番大切なのは、級や資格ではなく、無理なく続けられることなのかもしれない。

6月はまだ予定がいろいろ残っている。7月に生活のリズムを整え、8月からどうするか考えても遅くはないだろう。

焦らなくていい。

今日久しぶりに扇を持ち、「やっぱり楽しいな」と思えたこと。

それが、今日の一番の収穫だったように思う。


今朝は3階の大浴場の隣にあるマッサージチェアに座っていた。

朝早くから浴場の掃除が始まっていて、毎日こうしてきれいにしてくださる職員の方には本当に頭が下がる。

今日はいつもより少し賑やかだった。

声のする方を見ると、ついたてがあって人の姿は見えない。

けれど会話だけはよく聞こえてきた。

どうやら隣のコインランドリーで洗濯をしていた女性が、自分の洗濯物がなくなったと話しているようだった。

しかも一度ではなく、二日も三日も続けてなくなったという。

「どうして持っていくんだろう」

「女物だから男の人が持っていくんだろうか」

そんな言葉が聞こえてきた。

掃除をしていた男性職員は、

「いや、洗濯物を持っていく人はおらんと思うがね」

と穏やかに返していた。

しかし女性は納得しない。

しばらくやり取りが続いたあと、職員の方は

「一階のフロントへ行って話してみたらどうかね」

と勧めていた。

すると女性も

「そうするわ」

と言って話は終わった。

私はその会話を聞きながら、何とも言えない気持ちになった。

本当に洗濯物がなくなったのかもしれない。

勘違いだったのかもしれない。

そのことは私には分からない。

ただ、洗濯物がなくなったと思い込み、不安になり、誰かが持っていったと考えてしまうこと。

そしてそれを何度も訴えずにはいられないこと。

その姿が少し悲しく感じられた。

もちろん、私も人のことは言えない。

年齢とともに物忘れは増える。

さっきまで覚えていたことを忘れたり、探し物をしたりすることもある。

だからこそ、その女性の話を聞きながら、

「いつか私もこういうことがあるのだろうか」

と思った。

エデンの園で暮らしていると、いろいろな人に出会う。

大きな声で自説を語る人。

麻雀のことだけを話す人。

絵手紙を楽しむ人。

そして洗濯物を探している人。

それぞれに人生があり、それぞれに今がある。

ついたての向こうから聞こえてきた声は、そんなことを考えさせる朝の出来事だった。


息子が13歳でニュージーランドへ留学したのは、今から25年ほど前のことになる。

当時のニュージーランドドルは60~70円くらいだったように記憶している。息子は現地で生活しながら、日本円とニュージーランドドルをいつも気にしていた。ある夜には、「今49円だから、もし余裕があったらニュージーランドドルを買った方がいい」と電話がかかってきたこともあった。

それが今年、私がニュージーランドを訪れた時には100円を超えていた。

同じお金なのに、時代によってこんなに価値が変わるのかと改めて驚いた。

さらに思い出すのは、若い頃にアメリカへ行った時のことだ。当時は1ドル360円の固定相場だった。今のように毎日レートが変わる時代ではなかった。

それが今では160円前後。

昔の私なら新聞の経済欄など見向きもしなかったと思う。

ところが最近は、愛媛新聞の経済欄を毎日眺めている。円相場や株価、長期金利や日経平均。まだわからないことだらけだが、少しずつ意味が見えてくると面白い。

株については複雑な気持ちもある。

叔父は退職後、毎日株価の画面を見ながら生活し、退職金にはほとんど手を付けず、利益で海外旅行へ行っていたという。

一方で、株で大きな損をする人の話も耳にする。

だから私には、どこか恐ろしい世界にも見える。

最近はNISAが盛んに勧められている。預金だけでは増えないから投資を、と言われることも多い。

けれど、「みんなが安全だと言うものが本当に安全なのだろうか」という疑問も正直ある。

私はエデンの園への入居資金や、将来夫が入居する時のことを考えると、大きく投資をする気持ちは今のところない。

それでも、経済そのものを知りたいと思うようになった。

お金を増やすためというより、世の中がどう動いているのかを知りたいからだ。

円の価値が変わること。

株価が上がったり下がったりすること。

それが遠い世界の話ではなく、自分や家族の人生ともつながっていること。

そんなことを、今になって少しずつ学び始めている。


ベテル病院のバザーコーナーで、日本人形を見た。

白い顔に細い目、平たい顔立ちで、黒い長い髪をした昔ながらの人形だった。

その横には介護用のエプロンなどが並び、10円や20円という値段がついていた。

しかしこの人形には値段がなく、「ご自由にどうぞ」とだけ書かれていた。

その光景を見たとき、なぜか少し悲しい気持ちになった。

同じ場所にあるものなのに、値段がつくものと、つかないものがある。

そしてこの人形は、誰かに必要とされていないのだろうかと感じた。

自分の中では、どうしても置いておく場所がなく、持ち帰っても飾ることはできないと思った。

それでも、次にベテル病院へ行くときには返そうと思っている。

その人形を見ながら、ふと「美しさとは何だろう」と考えた。

日本人形のような、平たい顔で細い目、すっとした黒髪の姿を、今の時代に可愛いと思う人はどれくらいいるのだろうか。

一方で、リカちゃん人形やバービー人形のように、目が大きく、二重で、彫りが深く、はっきりした顔立ちを可愛いと感じて育つ子どももいる。

小さい頃からどんな人形に触れて育つかで、「可愛い」「美しい」の基準は変わっていくのかもしれないと思った。

さらに今は、二重まぶたのテープや整形手術もとても身近になっている。

昔は特別なものだった変化が、今は簡単に選べる時代になっている。

美しさは文化なのか、流行なのか、それとも個人の自由なのか。

そして、誰かに好かれたいと思ったとき、人は自分の顔さえ変えることができる時代になっている。

そこまで考えると、「美しいとは何か」という問いはますます分からなくなる。

ただ一つ感じるのは、自分の中にある「可愛い」「美しい」という感覚も、決して自分だけで作られたものではないということだった。

答えは出ないまま、そのまま心に残っている。


今朝は梅雨の晴れ間だった。

ラジオ体操を終えたあと、いつものように1階へ降りて新聞の経済欄を読むことも考えたが、今日はそのまま木々の間の階段を上ることにした。

新緑の季節は過ぎたとはいえ、モミジや桜の緑はまだ美しい。

階段の途中には「イロハモミジ」と「ヤマザクラ」の札が立っている。

以前から気になっていた木だ。

イロハモミジと普通のモミジはどう違うのだろう。

ヤマザクラと桜は何が違うのだろう。

そんなことを考えながら歩いた。

日光の「いろは坂」の名前も頭に浮かんだ。

関係があるのだろうかと思いながら、しばらく緑を眺めていた。

その後、3階のマッサージチェアに座った。

やはり体が楽になる。

ただ、この頃気づいたのは、実はマッサージチェア以上にラジオ体操が効いているのではないかということだ。

私は首が長く、長年肩こりに悩まされてきた。

ラジオ体操第二には首を横へ伸ばしたり、前後に動かしたり、ゆっくり回したりする動きがある。

毎朝続けているうちに、首や肩が以前よりずいぶん楽になってきた気がする。

教師時代は、授業、採点、会議に追われ、自分の体の変化に気づく余裕もなかった。

今はラジオ体操をしながら、「今日は首の調子がいいな」と感じることができる。

これも松山へ来てからの変化のひとつなのかもしれない。

今日は午後から太極拳の体験に行く予定だ。

24式太極拳を少しでも教えていただけたら嬉しい。

体を動かし、緑を眺め、自分の体の声を聞く。

そんな穏やかな朝を過ごしている。


フィッター松山の体験で、ズンバゴールドに参加した。

以前通っていたジムのズンバは、スペイン語の曲が多く、テンポも速くて、先生の動きについていくだけで精一杯だった。曲名や歌詞の意味を考える余裕などなかった。

ところが今回のズンバゴールドは違った。

テンポはゆっくりで、日本語の曲もあり、どこか懐かしい雰囲気だった。

特に印象に残ったのは、郷ひろみさんの「GOLDFINGER ’99」の元になった曲と、マイケル・ジャクソンの曲だった。

踊っている時はただ聞き流していたが、後で調べてみると、どちらも意外に濃い内容の歌だった。

郷ひろみさんの曲の原曲は、情熱的な恋を歌ったラテン音楽。

一方、マイケル・ジャクソンの「Billie Jean」は、「その子は僕の子ではない」と訴える男性の複雑な心情を描いた曲だった。

私は歌詞の意味など知らずに踊っていたが、考えてみればズンバは歌詞の内容よりもリズムやエネルギーを楽しむものなのだろう。

そういえば、マイケル・ジャクソンは私と同い年だった。

若い頃はよく曲を聴いていたし、「Beat It」も好きだった。

その後、彼は世界的なスターとなり、外見も大きく変わり、さまざまな話題や騒動の中で生きた。

亡くなった時には、やはり少しショックだったことを覚えている。

そして今朝、新聞をめくっていると、マイケルを題材にした映画が公開されるという記事が目に入った。

昨日ズンバでマイケルの曲を聞き、今日その映画の記事を見つける。

ただの偶然なのだろうが、妙にタイムリーで面白い。

新しいジムの体験から、思いがけず昔の音楽や若い頃の記憶へとつながっていった。

そんなことも、年を重ねた今だからこそ味わえる楽しみなのかもしれない。


フィッター松山のズンバゴールドで、マイケル・ジャクソンの曲が流れた。

その曲が何だったのかはっきり覚えていないが、それをきっかけにマイケルの音楽を久しぶりに思い出した。

私は特別なファンだったわけではない。それでも「Beat It」は今でも強く記憶に残っている。

なぜあの曲だけがこんなにも残っているのだろう。

後になって知ったことだが、「Beat It」は単なるダンス曲ではなかった。

タイトルの “Beat It” には、もともと口語で

「やめておけ」
「そこから離れろ」
「関わるな」
「逃げろ」

という意味があるという。

つまりこの曲は、戦えという歌ではなく、

危険な争いには近づくな
無理に強がるな
自分を守れ

というメッセージだった。

若い頃の私はその意味を知らず、ただ強いリズムとマイケルのエネルギーに惹かれていた。

しかし今振り返ると、あの頃の私はどこか社会に対して反発したい気持ちも持っていたように思う。

だからこそ、あの音楽に強く反応したのかもしれない。

そして今は少し違う形で、この曲が心に残っている。

戦うことだけが強さではない。
離れる勇気もまた強さなのだと、今になって思う。

昨日ズンバでマイケルの曲を聞き、今朝新聞でマイケルの映画の記事を見つけた。

ただの偶然かもしれないが、その流れの中で昔の自分にも少しだけ再会した気がした。

音楽は、時間を越えて記憶を呼び戻す力を持っている。


フィッター松山の体験の帰りに、グランフジに寄った。

その中にカルディがあり、コーヒーの試飲を配っていた。

ひと口いただいて飲むと、少し甘さが強かったが、それ以上に「試飲がある」ということ自体に懐かしさを感じた。

以前はカルディに行けば、必ずと言っていいほど試飲があった。

静岡駅のカルディでも、同じようにコーヒーをいただいた記憶がある。

しかしコロナ以降、試飲や試食は一切なくなった。

それが2019年頃だったと思う。

今は2026年で、久しぶりにその光景を見て、「あの時間は何だったのだろう」と思った。

マスク、外出制限、行動の制限。

ニュージーランドは日本よりさらに厳しい規制があった。

私は予防接種も何回か受け、7回目の後には体調を崩したこともあった。

それでも結果として、夫も私もコロナにはかからなかった。

しかしニュージーランドにいる家族は、あれほど厳しい管理の中でも感染していた。

あの時代は一体何だったのだろう。

守られていたのか、制限されていただけなのか、今でもよくわからない。

フィッター松山でのズンバ体験、マイケル・ジャクソンの曲、そしてカルディの試飲。

別々の出来事のようでいて、どこかでつながっている気がする。

音楽も、人の記憶も、時代の空気も、ふとしたきっかけで一気によみがえる。

そういう瞬間が、今の生活の中に増えてきている気がする。


施設の食事について、領収書を見て少し気になったことがあった。

朝食は8%、夕食は10%となっていて、「なぜ同じ食事なのに税率が違うのだろう」と疑問に思った。

昼食は今は食べていないが、以前確認したときには8%と聞いている。

職員の方に尋ねても、その場でははっきりした説明がなく、しばらく疑問のままだった。

その後、売店(または管理)担当の責任者の方から「軽減税率です」と教えていただいた。

ただ、そのとき正直なところ、「軽減税率って何だろう?」という状態だった。

調べてみると、日本の消費税には10%と8%の2種類があり、食品など生活に必要なものは8%、外食やサービス性の高いものは10%になる仕組みだということがわかった。

つまり同じ「食事」であっても、

・食品としての扱いか
・サービスとしての扱いか

によって税率が変わるということらしい。

ただ、施設の食事の場合は少し複雑で、どこまでが食材費で、どこからがサービス料なのかによって、区分が違ってくることもあるようだ。

軽減税率という言葉は聞いたものの、正直まだ十分には理解できていない部分もある。

日常の中の小さな疑問だったが、仕組みを知るきっかけになった。


今日、部屋の片付けをしていた。

ジムのパンフレットや免許更新のためのバスの時刻表、病院の紹介状などを整理しているうちに、一枚の古いプログラムが出てきた。

平成11年に加藤学園暁秀初等学校で行われた「オープンハウス音楽会」のプログラムだった。

当時、娘は小学2年生、息子は小学5年生。

加藤学園暁秀初等学校にはイマージョンコースとレギュラーコースがあり、この音楽会はコースを超えて子どもたちが発表する学校行事だった。

娘は「5月のそよ風」、息子はベートーヴェンのピアノソナチネ第2楽章を演奏していた。

YouTubeで「5月のそよ風」を聴いてみたが、これだったという確信はない。それでも、「きっとこんな曲を弾いていたのだろうな」と懐かしい気持ちになった。

発表会が近づくと、子どもたちはよく練習した。そして私もかなり練習を促していたと思う。人前で演奏するのだから、失敗してほしくないという気持ちが強かった。

息子は比較的コツコツ続けるタイプで、ピアノも長く続けた。娘はエレクトーンにも挑戦したが、どちらかというと興味の幅が広く、一つのことを長く続けるタイプではなかった。

私は仕事をしながら、子どもたちの習い事や学校行事に付き添っていた。当時は忙しくて大変だったが、それが当たり前の日常だった。

その後、子どもたちは成長して家を離れた。かつて子どもたちのために買った自動演奏ピアノも、役目を終えて手放した。

そして今日、何度もの引っ越しや片付けを経ても捨てられなかったプログラムが、松山の部屋で再び姿を現した。

曲は忘れていても、その頃の子どもたちの姿や、仕事と子育てに追われながら過ごした毎日は忘れていない。

片付けの途中で見つけた一枚のプログラムは、子どもたちがまだ小さかった頃の時間を閉じ込めた、小さなタイムカプセルだった。


絵は得意ではないし、これまで本格的に描いた経験もほとんどない。

それでも、せっかくの機会なので一度見学してみようと思い、絵手紙の会に参加してみることにした。

来月から本格的に何かを始めるとしても、すぐに自由にレッスンへ参加できるとは限らない。月に2回しかない貴重な機会でもあり、「とにかく一度見てみよう」という気持ちだった。

しかし、その一日は思っていた以上に内容の濃いものになった。

まず、絵を描く前に筆の基本練習から始まった。

横に線を引く、右から左へ、上から下へ、下から上へ、さらに渦巻きを内から外へ、外から内へと、すべてを1分ずつゆっくり行う。

ただ線を引くだけのことが、思っていた以上に難しい。

筆をまっすぐ立て、力を抜いてゆっくり動かすという基本が、できそうでできないことだと実感した。

その後、アジサイやビワなどの実物を見ながら、ハガキに絵を描くことになった。

私はビワを選び、実物より少し大きめに、枝や実、葉の形を描いた。

細かい部分は自分なりに工夫しながら描いたが、先生からは「枝は黒く塗りつぶすのではなく、線で描き、その間に色を入れる」と教えていただいた。

やってみて初めて、表現の方法にも決まりや工夫があることを知った。

色塗りでは絵手紙用の絵の具を使い、水で薄めながら色を重ねていった。

黄色を使うように指示されたが、どうしてもオレンジにしたい気持ちがあり、筆を洗いながら少しずつオレンジを重ねた。

「このくらいしかできません」と先生に見せると、「ああ、そう」と軽く受け止めてくださり、そのまま進んだ。

さらに、空いている場所に言葉を書くことになった。

何を書くか迷ったが、「梅雨晴に 初の 絵手紙」という言葉を選び、初めての絵手紙としてまとめることにした。

文字もまた筆で書くため難しく、バランスを考えながらなんとか仕上げた。

仕上げでは、本来は消しゴムで作る印を使うらしいが、今回は赤い筆記具で簡単な記号を入れて完成となった。

一通り終わったあと、ホワイトボードに貼られた絵手紙募集の案内を見つけ、QRコードを読み取ると、すでに同じ作品がインスタグラムに掲載されていた。

先生はそれを見て興味を持たれ、「どうやって見るのか」と質問された。

スマートフォンの操作を一緒に確認しながら、アルファベット順のアプリ一覧からInstagramを探し、Iの項目から開くことで無事に表示することができた。

先生がとても喜ばれていたのが印象的だった。

その後、ホワイトボードに書かれた文字が消えにくくなっていたため、手指消毒用のアルコールで拭き取り、なんとかきれいにすることもできた。

気がつけば、絵手紙を描きに行ったはずが、インスタの操作を手伝い、ホワイトボードを掃除する一日になっていた。

それでも振り返ると、とても面白い体験だったと思う。

「やってみよう」と思って行ったことで、思いがけない出来事にたくさん出会った一日だった。




今日は午前中ゆっくり過ごしている。昨日の疲れもあり、無理をせず休養にあてている。

最近気づいたこととして、軽減税率という制度があり、施設の食事では朝食・昼食が8%、夕食が10%になっている。ただ、実際のサービス内容に大きな違いがあるようには感じられず、不思議ではあるが、そういう仕組みなのだと思うことにした。

また、夫がアーモンドフィッシュをたくさん送ってくれて、とてもありがたく思っている。量が多いので、食べ過ぎないように気をつけながら少しずつ食べていくつもりである。

午後は絵手紙の会を見学してみる予定で、活動の内容を見てみたいと思っている。

明日は天気が良ければ、コープひえさだ方面へ行き、大極拳連盟の先生の見学を考えている。来週、夫が帰った後(木曜夜から月曜朝までの滞在後)には、運転免許センターで免許更新も早めに片付けたいと思っている。

全体として、午前中は休みながら、午後や今後の予定を少しずつ整理しているところである。


今日は思い切ってフィッタ松山の体験に行ってきた。

エデンから電動三輪車で約4キロ。雨が心配だったけれど、幸い本降りにはならず、無事に往復することができた。

朝10時からはシェイプアップウォーキング。続いて10時30分からは平泳ぎのレッスンに参加した。

平泳ぎは苦手意識がある泳法だが、45分しっかり教えてもらえるのはありがたい。久しぶりにドルフィンキックの動きも思い出した。

驚いたのは、その後に参加したバーチャルエアロだった。

スタジオに入ると先生はいない。画面の中のインストラクターに合わせて運動する仕組みで、生徒は数人だけ。最初は戸惑ったが、こういう形のレッスンもあるのかと新鮮だった。

昼にはマシンの説明を受け、ズンバゴールドにも参加した。

私が昔参加していたズンバは、スペイン語の曲が流れ、テンポも速く、ついていくのが大変だった。

ところが今日のズンバゴールドは少し違った。

懐かしい日本の曲や英語の曲も流れ、参加者も同年代が中心。まるで地域の体操教室のような温かい雰囲気だった。

さらに空きが出たおかげで太極拳にも参加できた。

連盟の先生ではないので検定には結びつかないが、基本動作や24式太極拳を丁寧に練習した。

気が付けば一日中運動していた。

それでも疲れ切らなかったのは、長年ジムに通う中で「頑張りすぎないコツ」を覚えていたからかもしれない。

フィッタにはプールだけでなく、マッサージチェアやお風呂、休憩スペースもあった。

特にマッサージチェアはエデンにあるものと同じ機種で、使い方がすぐに分かった。

帰りには向かいのフジグランで買い物をし、ダイソーにも立ち寄った。

ジムだけでなく、買い物まで一度に済ませられるのは大きな魅力だと思った。

ただ、今日は入会しなかった。

太極拳のこと、仕事のこと、運転免許更新のこと、病院のこと。

まだ考えたいことがいくつかある。

急いで決める必要はない。

今日は入会するための日ではなく、自分が松山でどんな生活を送りたいのかを試してみる日だったのだと思う。


今朝、ふと思い出した。

6月9日は義父の誕生日だ。生きていれば99歳になる。

そして同じ6月9日は、義母が亡くなった日でもある。もう2年になる。

遠く離れた松山で朝を迎えながら、そんなことを考えていた。

先日、ニュージーランドにいる息子から動画や写真が送られてきた。

もうすぐ1歳になる孫は、自分で立ち上がり、歩き、笑うようになった。

7歳の孫はゴルフに夢中で、賞状や小さなトロフィーを手に誇らしそうな笑顔を見せてくれた。

5歳の孫娘は体操が大好きで、家の中でも楽しそうに側転をしている。

三人とも、それぞれ違う個性を持ちながら元気に育っている。

そんな姿を見ながら、今日は不思議な気持ちになった。

義父や義母が生きた時間があり、その後に夫がいて、私がいて、息子や娘がいて、そして孫たちがいる。

亡くなった人たちはもうこの世にはいないけれど、その命や思い出はどこかで今につながっている。

血のつながりだけではない。

家族として共に過ごした時間や、受け継がれてきた価値観や習慣もまた、静かに次の世代へ渡されていくのだろう。

私はもうすぐ68歳になる。

孫たちはどんどん成長していく。

その姿を見ながら、自分もまた長い家族の流れの中にいる一人なのだと感じる。

亡くなった人を思い、今生きている人を思い、これから育っていく子どもたちを思う。

そんなことを静かに考えた6月9日の朝だった。


フィッター松山で体験をした時、インボディという体組成計で測定してもらった。

以前にも測ったことはあったが、今回初めて前回の結果と比べながらじっくり見てみた。

体重は少し減っていた。筋肉量もわずかに減っていた。

考えてみれば、この春はニュージーランドへの滞在、引っ越し、松山での新生活と続き、ジム通いも中断していた。運動量が減った影響はあったのかもしれない。

それでも意外だったのは脚の筋肉だった。

私はここ数年、電動三輪車(静岡では電動2輪車)で買い物や用事に出かける生活を続けてきた。そのおかげなのか、脚の筋肉量は高く評価されていた。

一方で、腕は細く、上半身とのバランスはあまり良くないらしい。

以前から感じていたことだが、数字で見ると改めて納得した。

基礎代謝も大きくは変わっておらず、体重も昨年の一番しんどかった頃よりは回復している。

骨粗しょう症のこともあるので、体重を減らさず、脚の筋肉を維持しながら、これからは腕や体幹も少し意識していきたいと思った。

数字そのものよりも、

「今の自分の体はこうなっているんだ」

と知ることができたのが収穫だった。

松山での新しい生活の中で、何を続けていくかを考える材料がまた一つ増えた気がする。


今日はフィッター松山で、平泳ぎ、エアロ、ズンバゴールド、太極拳を体験した。

プールでは久しぶりに平泳ぎの基本を習い、スタジオでは初めてバーチャルエアロを経験した。ズンバゴールドは、私が以前通っていたジムの華やかなズンバとはずいぶん違っていた。曲もゆっくりで、参加者も同世代かそれ以上の方が多かった。

太極拳では、長年続けている方々と一緒になった。先生だけでなく、生徒さんたちも24式を自然に覚えていて、太極拳が生活の一部になっていることが伝わってきた。

帰宅すると、静岡に届くはずだった太極拳用品のカタログが転送されて届いていた。

以前なら新しいウェアに目が行ったかもしれない。でも今日は違った。

ズンバの派手なウェアも、太極拳の新しい上下も、今の私にはそれほど必要に思えなかった。

もう持っているもので十分。

それよりも、

泳ぐこと。
体を動かすこと。
続けること。

その方が大切に思えた。

松山に来てまだ一か月あまり。

何を始めるかよりも、何を続けていくか。

そんなことを考えた一日だった。


松山エデンの園の食堂では、ときどき思いがけない話題が聞こえてくる。

先日も、食後にタバコを吸うのがお好きで、大きな声で持論を展開している男性がいた。

「だから言わんこっちゃない。愛子さまを天皇にすりゃいいんだよ。」

どうやら新聞で報じられている皇室の話題について語っているらしい。

「もう10年前に決めておかなきゃいけなかったんだ。女帝だって歴史にはいたんだから。」

勢いはますます増していく。

そして最後には、

「俺の言うことは絶対正しいんだ。」

と締めくくられた。

私は思わず吹き出してしまった。

もちろん、その方の熱弁がおかしかったわけではない。

ただ、その話の中で、

「愛子さまが天皇になって、結婚されて、男子を産めばいいんだよ。」

という言葉が出てきたからだ。

私の頭の中には、

「えっ、愛子さまが天皇になっても、結局は男子を産まなければならないの?」

という疑問が浮かんだ。

私は皇室制度について詳しいわけではない。

「男系男子」「女性天皇」「女系天皇」などと言われても、その違いを正確に説明できる自信はない。

ただ、男女平等が当たり前になった時代に、なぜ国民の象徴である天皇は男性でなければならないのか、という疑問は以前から持っていた。

一方で、長い歴史や伝統が関わる問題だから、単純な話ではないこともわかる。

だからこそ、この問題は難しい。

そして、食堂で熱心に語るその男性の言葉を聞きながら、ふと思った。

もしかすると、この議論を本当に理解している人は、それほど多くないのではないだろうか。

テレビや新聞ではさまざまな意見が紹介される。

けれど、私を含めて、多くの人は「なんとなくこう思う」という感覚で受け止めている部分もあるのかもしれない。

今日も夕食でその方と一緒になった。

仲の良い人たちは、「今日は車がなかったから、どこかへ出かけていたんじゃないか」と話していた。

私は、お遍路に行っていたのかもしれないなと思った。

以前、その方はお遍路が好きだと話していたし、部屋でお経を唱えることもあるという。

食堂で大きな声で持論を語る姿と、お遍路やお経という話が、私の中ではなかなか結びつかない。

不思議な人である。

もちろん、批判しているわけではない。

むしろ、「どんな人生を歩いてきたのだろう」と興味を持っている。

そう考えてみると、麻雀教室で知り合った人たちも同じだ。

元特別支援学校の先生、家庭科の先生、建築業を営むご主人を支えていた方。

それぞれに長い人生があり、それぞれの物語がある。

けれど、ここではあまり過去を語らない。

私自身も教員だったことを話したが、それ以上深く聞かれることはなかった。

少し意外だったが、考えてみれば心地よい距離感なのかもしれない。

エデンの園には、さまざまな人生を歩んできた人たちが集まっている。

入居費や月々の費用を考えると、ある程度の経済的な基盤を持った人たちなのだろう。

しかし、ここで目にするのは肩書ではなく、今のその人だ。

麻雀が好きな人。

お遍路が好きな人。

おしゃべりが好きな人。

静かに過ごす人。

そんな人たちと同じ場所で暮らしながら、少しずつ人となりを知っていく。

それもまた、新しい暮らしの楽しみなのかもしれない。


今日は義父の誕生日である。

生きていれば99歳になっていた。

そして義母が亡くなったのも、この日だった。

二人とも「子どもに迷惑をかけたくない」という思いの強い人だった。

けれど現実には、認知機能の低下や施設探し、さまざまな手続きなど、最後は子どもたちの助けが必要になった。

その姿を見てきたことが、私がエデンの園を選んだ理由の一つでもある。

昨日、眼科の待合室で考えさせられる出来事があった。

私の隣に座っていた高齢の女性が、

「こんなに待っていられない」

「診察はいいから薬だけ出してほしい」

と何度も受付の方に訴えていた。

受付の若い女性は丁寧に対応し続けた。

そして最終的には先生が事情を聞き、その方を先に診察室へ案内した。

周りには待っている人がたくさんいた。

公平という意味では、順番を守るべきなのかもしれない。

けれど、その場にいた多くの人は特に何も言わなかった。

私もそうだった。

エデンの園でも似たようなことがある。

自由に一つ取ってよいものを全部取ってしまう人がいて、苦情が出たことがあった。

けれど職員の方は、その人を責めるのではなく、分かりやすいルールに変更して対応していた。

そこで私は考えた。

人はどこまで受け入れられるのだろう。

どこまでなら「仕方がない」と思えるのだろう。

そして、どこから先は誰かが支えたり、介護が必要になったりするのだろう。

答えは簡単ではない。

病院でも施設でも、その場その場で折り合いをつけながら進んでいるように見える。

そして私はもう一つ思う。

もし自分がその境界線を越えた時、自分では気づけなくなるかもしれない。

それが認知機能の低下というものなのだろう。

だからこそ、今のうちから考えておきたい。

人に迷惑をかけない方法ではなく、

人の助けを受けながら生きていく方法を。

昨日の待合室で見た光景は、高齢化社会の話ではなく、未来の私自身の話でもあるように思えた。


眼科でたくさんの検査を受けた。

視力測定、目の状態の確認、白内障手術後の経過のチェック。

おかげで大きな異常はないことが分かった。

そして私は、眼鏡の処方箋について相談した。

今使っている眼鏡は古く、フレームの部品も手に入らないと言われている。

だから新しい眼鏡を作ろうと思っていた。

ところが検査技師さんは丁寧に今の眼鏡の度数まで測ってくださり、

「今の眼鏡で十分見えていますよ」

と言われた。

さらに、

「処方箋を作ると数千円かかりますし、この眼鏡を持って眼鏡店で相談した方が合理的かもしれませんね」

とも言われた。

私はそこで不思議な気持ちになった。

眼科では目の病気や視力を詳しく調べる。

けれど眼鏡を作るとなると、今度は別の眼鏡店へ行く。

フレームを選び、レンズを選び、また視力を測る。

なぜだろう。

せっかく眼科で調べたことが、そのまま眼鏡作りに繋がらないように見える。

もちろん眼鏡にはファッションの要素もある。

フレームのデザインもある。

価格もさまざまだ。

だから単純に医療だけでは決められないのかもしれない。

それでも私は思う。

目を診る場所と、見えるための道具を作る場所。

その二つの間には、少し不思議な距離があるような気がする。

今回の受診で異常がなかったことはうれしかった。

けれど同時に、長年感じていた素朴な疑問を改めて考える機会にもなった。

眼科と眼鏡店。

近いようで遠い。

そんなことを考えながら帰ってきた一日だった。


今日の食堂での食事は、音楽・お茶・そして窓の外の緑が重なり合う時間だった。

朝の流れにはYesterdayのような振り返りの感覚もあったが、食堂では日本の曲が中心となり、雰囲気が大きく変わっていた。

ただしその音楽は、原曲そのままではなく、ジャズ風のアレンジで流れていた。食堂の案内にも「ジャズ風」と書かれていたように、演歌やバラードが柔らかいピアノや軽いリズムに包まれ、別の表情になっていた。

食事中にしっかり耳に入ってきたのは、まず津軽海峡冬景色、そして続いて時の流れに身をまかせである。
どちらも本来は強い情感を持つ曲だが、ジャズ風アレンジによって少し距離ができ、落ち着いた空間の中に溶け込んでいた。

その中で飲んでいたのは、玄米茶と緑茶である。どちらも似ているようで違いはあるが、食後の時間では大きな差よりも「落ち着くかどうか」の感覚のほうが強く感じられた。

また、食堂の窓からは常に緑が見えていた。剪定された木や植木鉢の植物が視界に入り、食事の背景として静かに存在していた。木を見ることは景色というより、気持ちを整えるための要素のように感じられる。

エデンの園(松山エデンの園)の食堂は、単に食事をする場所ではなく、ジャズ風に再構成された音楽、飲み物のリズム、そして緑の視覚が同時に存在する空間だった。

食事という行為が、味だけではなく、音楽と環境によって形づくられていることに気づいた一日だった。


振り返ってみると、私は昔から少し不思議な選択をしてきたのかもしれない。

周りの人がまだあまり手を出していないものに、自分で手を伸ばしてきたところがある。

それはアメリカ留学もそうだった。

当時は、女性が一人で海外へ行くことに対して「危ないのではないか」「なぜわざわざ」という声が自然に出るような時代だった。

それでも私は、行こうと決めた。

お金を貯めて、自分で準備して、自分で選んだ道だった。

その後の教員としての経験も、少し似ているところがある。

授業はプロジェクターやiPadがなくても成り立っていた。

むしろ当時は、従来のやり方で授業をしている人の方が多かった。

けれど私は、デジタル教材や機器を使ってみたいと思い、必要だと感じたものは自分で買い、自分で試しながら授業に取り入れていった。

最初からうまく使えたわけではない。

それでも、やってみたいという気持ちの方が強かった。

その背景には、時代の変化をどこかで感じていたことや、家族からの影響もあったのだと思う。

そして、法人事業部の人たちとの関わりも忘れられない。

ヤマダ電機の法人事業部の方々は、デジタル機器の使い方を一つずつ丁寧に教えてくれた。

現場で手探りだった私にとって、とても大きな支えだった。

今振り返ると、あの時代は教育の大きな転換点だったのだと思う。

その後、法人事業部そのものがなくなったと知り、時代の変化の速さを感じた。

こうした経験を振り返ると、私はずっと同じ傾向を持っているのかもしれないと思う。

まだ一般的でない段階でも、「必要かもしれない」と感じたものには自分で手を伸ばしてきた。

失敗するかもしれない不安よりも、「やらずに終わること」の方が気になるタイプだったのだと思う。

それはアメリカ留学のときも、教員としてのデジタル化のときも、同じだった。

今も、生活の中でデジタルを使って文章をまとめたり、英語にしたりしながら過ごしている。

形は変わっても、その姿勢は続いているのかもしれない。

その一方で、最近は日々の中で、情報の受け取り方について考えることも多い。

結局のところ、私は「正解を知っているから選んだ」のではなく、「自分で必要だと思ったから選んできた」のだと思う。

その選択が正しかったかどうかは分からない。

けれど、その時々で自分なりに向き合ってきたことだけは確かだと思う。


目薬にはいつもお世話になっている。
目薬には、医師から処方されるものと、ドラッグストアなどで市販されているものがある。同じ「目薬」でも目的と役割が異なることを理解した。

処方される目薬は、目の状態そのものを治療・保護することを目的としている。例えば、角膜を保護するヒアルロン酸点眼液のように、涙の代わりとなって目の表面を守るものや、炎症や感染を治療する薬がある。これらは目の不快感を一時的に和らげるだけでなく、目の環境そのものを改善する役割を持っている。

一方、市販の目薬は、目の疲れ、乾き、かすみ、軽いかゆみなどの一時的な不快感を軽減することを目的としている。ビタミン成分や清涼成分などが配合されており、使用後にすっきり感が得られるように作られているが、根本的な治療ではなく症状の緩和が中心である。

つまり、処方薬は「目の状態そのものを守り改善する薬」、市販薬は「目の不快感を軽くする薬」と整理できる。

また、目の状態そのものを治す・守るとは、角膜の保護や涙の補助、炎症や感染の治療などを指し、目の表面環境を正常に保つことを意味する。

現在は、目の状態や疲れに応じて、市販の目薬と処方された目薬を使い分けている。日常的には市販の目薬で軽い不快感を和らげ、気になる時や就寝前などには処方された目薬を使用して目の保護を補っている。このように、症状の程度に応じて使い分けることで負担を減らしながらケアしている。


今日は午後3時30分に眼科の予約があった。

天気予報では雨が心配だったが、自転車で出かけることにした。途中で用事も済ませ、かなり早く到着してしまった。

眼科ではさまざまな検査を受けたが、特に異常はなかった。白内障の手術後の経過も問題なく、以前から気になっていた目の状態も落ち着いているとのことだった。

長年使っている眼鏡についても相談した。

ネジの部分が古くなり、修理は難しいと言われていたので気になっていたのだが、今の眼鏡で視力は十分出ているとのこと。処方箋を作るよりも、この眼鏡を持って眼鏡店で相談してみればよいと言われた。

なんとなく抱えていた不安が少し軽くなった気がした。

ところが帰りである。

行きは小雨程度だったのに、帰る頃にはかなりの雨になっていた。

レインコートは持っていたものの、結局はびしょ濡れ。Tシャツまでしっかり濡れてしまった。

それでも電動三輪車で坂を上り、無事に帰ってくることができた。

実は雨の日は乗らないでおこうと思っていた。けれど、バスも都合よくなく、タクシーも見当たらない場所だったので、自転車で帰るしかなかった。

結果として、初めての「雨の中の電動三輪車」になった。

前かごも後ろかごも防水カバーのおかげで荷物は無事だったし、坂道も思ったよりしっかり上がれた。

帰宅してすぐにレインコートを脱ぎ、お風呂に入り、洗濯をした。

そしてラーメンを食べながら、今日の結果を思い返した。

目も大丈夫。

自転車も大丈夫。

びしょ濡れにはなったけれど、なんだか少し自信がついた一日だった。


今日は、これまでの人生について静かに考える時間があった。

海外へ出られなかったこと、英語を十分に使えなかったこと、そして息子が海外で暮らしていることを思うと、自分の中には今でも羨ましさや、「あの時こうできていたら違ったのではないか」という思いが残っている。人生に対して「うまくいかなかったのではないか」という感覚も、長い間消えることはなかった。

それでも今は、この場所を次の住み家として受け入れ、生活やお金の使い方も含めて大きく整理しながら暮らしている。過去には戻れないということを、頭で理解するだけでなく、日々の生活の中で少しずつ受け入れ始めているように感じる。

それでも、「本当はこうだったらよかったのに」と思う自分がいなくなったわけではない。ただ、その思いに引き戻される力は少しずつ弱くなり、過去の出来事は今の自分を縛るものというより、背景のようになってきている。

昨日の麻雀の場で、内子町を舞台にしたサスペンス映画に誘われたとき、一人の方が「私は怖いから行かない」とはっきり断り、それを周りも特に否定せず、静かに受け入れて話が終わった場面を思い出す。誰かを説得したり、無理に合わせたりせず、そのままの選択がそのまま置かれていた空気だった。

その静けさは、どこか「過去に戻れないことを知っている人たち」の自然な関係のようにも感じられた。

Yesterday の歌詞は、単なる失恋の歌というより、「昨日に戻れたらいいのに」と思いながらも、実際には戻れない時間をそのまま抱えて生きていく感覚を描いているように思う。失った恋人そのものよりも、「もう同じ自分には戻れない」という喪失感が中心にある歌のように感じる。

昨日の麻雀の静かな受け入れの空気も、この歌の感覚も、どちらも共通しているのは「変えられないものを無理に変えようとしないこと」だったのかもしれない。

過去を消すのではなく、抱えたまま今の生活を選び直している。そんな日々の中にいる。


今日の健康麻雀教室は、いつも以上に楽しかった。

最初のうちに二度上がることができ、その後は先生に役の作り方を教えていただきながら打った。85歳、91歳の先輩方と同じ卓を囲み、あっという間に午後4時になった。

いつもなら午後3時頃になると、麻雀の先生はサッカー観戦のために帰られることがある。先生ご夫妻は清水エスパルスの大ファンで、時には松山空港から飛行機に乗り、国立競技場まで応援に行かれるほどだという。

ところが今日は試合がなかったらしく、最後まで一緒に打つことができた。

「今日は試合はないんですか?」

そんな何気ない会話から、サッカーの話になった。

私はふと思い出して、

「西澤健太選手、ご存じですか?」

と尋ねてみた。

すると先生はすぐに、

「知ってるわよ。鳥栖に移ったでしょう」

と答えられた。

その瞬間、私は少し嬉しくなった。

以前、静岡のスポーツジムでエスパルスファンの方に西澤選手の話をしたことがあった。しかし、その時はあまり良い反応ではなく、それ以来その話題を出すことはなかった。
だから今回、自然に名前が通じたことが嬉しかったのかもしれない。

実は私は高校教師時代、西澤選手に英語を教えていた。

彼はサッカーで忙しいはずなのに、授業中はいつも集中していた。人の話をよく聞き、理解も早く、テストでも高得点を取っていた。

そして何より、謙虚だった。

成績が良くても威張らず、落ち着いていて、周囲への気配りもできる生徒だったように記憶している。

ユースからそのままトップチームに上がれなかった時期もあったが、筑波大学へ進学し、その後プロとしてエスパルスへ入団した。

正式入団の際には母校で講演会も開かれ、後輩たちに向けて話をしてくれた。

そういえば、彼の実家も私の家の近くだった。

郵便局へ行く道の途中にあり、前を通るたびに「ここに住んでいたんだな」と思ったものだ。

地域の人たちも特別に騒ぐことなく、静かに応援していたように思う。

松山へ来てから、私は彼がサガン鳥栖へ移籍していたことを知った。SNSでゴールシーンを見た時には驚いた。

もう29歳になる。

高校生だった頃を知っている私には、時の流れの早さを感じる。

サッカー選手としていつまで現役を続けるのかは分からない。

しかし、あの頃の彼を思い出すと、もし将来指導者の道へ進んだとしても、きっと人の話をよく聞き、人を育てることのできる人になるのではないかと思う。

今日の麻雀教室では役の勉強もした。

けれど、それと同じくらい印象に残ったのは、一つの何気ない会話から、静岡で過ごした教師時代の記憶が鮮やかによみがえったことだった。

人生は不思議なもので、松山の麻雀卓の上から、静岡の教室へとつながることがある。


今日も午後1時半から4時まで健康麻雀教室だった。

最初のうちはルールも役もよく分からず、「まだ終わらないかな」と思うこともあったが、今日は違った。気がつけば時間があっという間に過ぎていた。

運が良かったのか、最初の方で偶然二回上がることができた。しかし、その後は先生に役の作り方を教えていただきながら打つことになり、今までのように思いつくまま牌を捨てるわけにはいかなくなった。

「その牌を残した方が役になるよ」

そう教えていただくと、今度はなかなか上がれない。

それでも、役を考えながら打つということは、ただ偶然上がるのとは違うのだと少し分かった気がした。

卓を囲むのは85歳のお二人、91歳のお一人、そして70歳の先生。

皆さん本当に麻雀が好きで、おしゃべりばかりするのではなく、休憩が終わるとすぐに卓へ戻る。

「ちょっと待って、考えるから」

「ああ、それを捨てんかったら良かった」

「えいっ!」

そんな声が飛び交う。

誰かが「もう一回戻りたい」と言うと、「それはダメよ」と先生の声が返る。

その様子を見ながら、私は思わず笑ってしまった。

一度捨てた牌は戻らない。

どちらを選ぶか決めなければならない。

どちらが正解かは最後まで分からない。

なんだか人生そのもののように思えた。

最後は皆で牌を箱に戻し、点棒を数えて片付ける。

私は白・發・中や東南西北などの字牌を集める係をさせていただいている。

少し数が少ないので、皆さんが気を使ってくださっているのかもしれない。

67歳の私でも十分高齢者だと思っていたが、85歳や91歳の先輩方と一緒にいると、まだまだ学ぶことがたくさんあると感じる。

今日改めて思った。

麻雀はゲームであり、脳トレであり、そして人生の先輩方から学ぶ時間でもあるのだと。


今日あらためて A Hard Day’s Night を聴いていて、「なぜ“ナイト”なのか」ということが気になった。

一日働き終えた“夜”というよりも、むしろ「一日を生き抜いたあとの時間」を象徴しているように感じた。昼の疲労と夜の安堵、その切り替わりの中にこの曲はあるのではないかと思った。

ビートルズという存在そのものも、今考えると同じ構造を持っているように思える。

The Beatles は、ただの音楽グループではなく、対照的なものの共存だった。

Paul McCartney の音楽は明るく、日常に寄り添い、生きていくための軽さを持っていた。
一方で John Lennon の音楽は、孤独や社会への違和感、答えの出ない問いを含んでいた。

その両方が同時に存在していたからこそ、世界に受け入れられたのだと思う。

音楽は単なる娯楽ではなく、「生きること」と「考えること」の両方を同時に映していたのかもしれない。

そして今になって思うのは、どちらが正しいということではなく、その両方を人は同時に抱えて生きているということだ。

安心したい気持ちと、孤独である現実。
誰かとつながりたい気持ちと、結局は一人であるという感覚。

それらは分かれているようで、実は同じ場所にあるのかもしれない。

ビートルズの曲は、その矛盾をそのまま音にしていたように思う。


エデンでの食事は、少しずつ自分なりの形に整ってきている。

朝と夜は施設で食事を取り、昼は申し込まず、自分の予定に合わせて外出する生活になっている。病院やハローワークなどへ出かける時間もあり、昼は自由な時間として使うようになった。

食事の量については、施設の中では少なめにする人が多い中で、私は「やや大盛り」をお願いしている。最初は自分で伝えていたが、今ではスタッフの方が覚えてくださり、特に言わなくても対応してもらえるようになった。このやり取りが日常の一部として定着している。

食べ物の好みについても、自分の傾向がはっきりしてきた。

牛乳はもともと強い苦手意識があり、小学校卒業以降ほとんど飲んでいなかったが、骨粗しょう症のこともあり、乳製品の中から牛乳を選んで飲むようになった。今では「修行」と思いながら一気に飲み干す形で続けている。

卵については、生卵や温泉卵のような“生っぽいもの”が苦手である一方、卵焼きや目玉焼きは食べることができる。白身が混ざる食感が特に苦手で、黄身だけなら食べたくなることもある。

お茶についても変化があり、静岡ではあまり日本茶を飲まなかったが、今は玄米茶や緑茶を朝と夜に分けて飲むようになった。カフェインを意識しながら量を調整する習慣ができている。

また、自由に選べる副食の中では、焼き海苔・佃煮・ふりかけの中から焼き海苔を選ぶことが多い。シンプルで余計な味がないことが、自分には合っていると感じている。

こうして振り返ると、食事は単なる「好き嫌い」ではなく、体調や生活環境に合わせて少しずつ組み直されてきているように思う。

完全に好き嫌いがなくなったわけではないが、「食べられる形に整える」という意識が日常の中に根づいてきている。


今回、自分の持っている総合かぜ薬の成分(アセトアミノフェン、抗ヒスタミン薬、咳止め、去痰薬など)を初めて詳しく見て、それぞれの役割を学んだ。

これまで風邪をひいたときに何となく飲んでいたが、その中で複数の成分が組み合わさって働いていることを知った。

薬は「1つの働き」ではなく、「症状ごとに分担して効く仕組み」でできていると分かった。



■ 主な成分と役割

* アセトアミノフェン
 → 発熱を下げる、頭痛・のどの痛みを和らげる
* クロルフェニラミン(抗ヒスタミン薬)
 → 鼻水・くしゃみを抑える(眠気の原因にもなる)
* デキストロメトルファン
 → 咳を抑える(咳中枢に作用)
* メチルエフェドリン
 → 気管支を広げて呼吸を楽にする
* グアヤコールスルホン酸カリウム
 → 痰を出しやすくする
* 無水カフェイン
 → 眠気やだるさを軽くする



■ 学んだこと

* 風邪薬は「風邪を治す薬」ではなく、症状を抑える薬である
* 複数の症状に対応するために成分が組み合わされている
* 同じ風邪薬でも中身は少しずつ違い、咳や鼻など得意分野がある
* 薬には効果だけでなく副作用(眠気など)もある



■ 感じたこと

今まで何気なく飲んでいた薬の中に、これだけ多くの役割分担があることを知り、薬の力と同時に注意して使う必要性も感じた。



■ まとめ

👉 風邪薬は、複数の症状に対応するために成分を組み合わせた「対症療法の薬」である。


松山エデンの園に入居して、1か月あまりが過ぎた。

最初の頃は、食堂はどこか、病院へのバスはどう乗るのか、お風呂は何時までか、そんなことを覚えるのに精一杯だった。

けれど最近は、少しずつ周りの人たちを見る余裕が出てきた。

エデン体操や麻雀教室に熱心に参加する91歳の方がいる。

棒体操では、「私は手のひらより二本指の方ができるわ」と笑いながら挑戦していた。

また、館内をひたすら歩き続ける男性もいる。

朝見ても歩いている。

昼見ても歩いている。

夕方見ても歩いている。

体操やサークルには参加されないようだが、それがその方の日課なのだろう。

卓球室では、一人で何度もサーブの練習を続けている男性がいる。

ボールがなくなるまで黙々と打ち続ける姿を見ると、その人なりの目標があるのだろうと思う。

先日は掲示板の前で、80代くらいの女性二人が「カスタマーハラスメントとは何だろう」と話しながら掲示物を読んでいた。

難しい言葉でも理解しようとする姿が印象に残った。

ここには本当にいろいろな人がいる。

麻雀をする人。

歩く人。

卓球をする人。

体操に出る人。

掲示板を熱心に読む人。

それぞれが自分なりの一日を過ごしている。

私自身も最近は、脳トレの本を開いたり、登録販売者の問題集を読んだり、そろばんを触ったりしている。

若い頃なら選ばなかったようなことを、今は少しずつ楽しんでいる。

もちろん、思うようにできないことも多い。

エデン体操では、「施設の体操だから簡単だろう」と思っていた自分の思い込みにも気づかされた。

でも、それもまた面白い。

人は年齢を重ねても、それぞれのやり方で前に進んでいるのだと思う。

歩く人は歩く。

卓球をする人は卓球をする。

私は私で、できないことに挑戦しながら暮らしている。

来年の今頃、私はどうしているだろう。

今見ている人たちを、どんな気持ちで見ているだろう。

そして、自分自身はどんな毎日を送っているだろう。

そんなことをふと思った一日だった。


ラジオ体操が終わると、私はいつも3階の大浴場の横にあるマッサージチェアに座る。6時半からの体操が終わると7時頃になり、7時半から朝食が始まるまでのわずかな時間が、静かなひとときになっている。

その時間帯には、男湯・女湯の清掃が始まる。男性スタッフの方が浴室に入り、時間をかけて丁寧に清掃している様子が見える。お湯を抜いているのかどうかは分からないが、見えないところで施設が整えられていることを実感する時間である。

また、夜勤の体制についても自然と考えるようになった。夕方に職員が退勤した後から朝の出勤までの時間を少人数で支え、仮眠なども含めながら施設が維持されているのだろうと思う。ゴミの回収や新聞の整理、ナースコール対応なども含め、表に見えないところで多くの人が関わっている。

こうした日常を見ていると、エデンという場所は多くの人の働きによって静かに支えられていることを強く感じる。

そして朝食の場では、厨房の方々の存在にも改めて気づかされることがあった。私の名前や大盛りの希望を覚えてくださり、こちらから言わなくても対応してくださる方もいる。そうした自然なやり取りの中に、日々の積み重ねと信頼のようなものを感じる。

厨房では数名のスタッフが調理や配膳、洗い場などを分担しながら、多くの食事を支えている。限られた人数の中で、毎日安定した食事が提供されていること自体が、改めて考えると大きな仕事である。

また最近は、管理費や食費などの請求が発生するようになり、6月10日頃に前月分の引き落としがあるそうだ。電気代はすでに引き落とされており、水道代はまだこれからになる。今はまだ全体像がはっきりしている段階ではないが、これから数ヶ月のうちに、生活に必要なお金の流れが少しずつ見えてくるように思う。

食費については朝食と夕食で消費税率が異なる点もあり、その理由については今後確認してみたいと思っている。

エデンでの朝は、単に時間が流れていくだけではなく、見えない場所で働く人たちの存在と、それに支えられている日常、そして生活の仕組みそのものを静かに意識させてくれる時間になっている。


今日はコープ久枝まで行ってみようと思い、電動三輪車で出発した。

太極拳の教室の場所を一度見ておきたかったからだ。Googleマップで経由地を入れ、山越えを避けるルートを設定して出かけた。

ところが途中で、自転車の充電が十分でないことに気がついた。

購入したのは5月だったが、そういえばまだ一度も充電していなかった。出発時には30%ほど残っていたので大丈夫だろうと思っていたが、JR松山駅付近まで来たところで20%を切り、19%、18%と減り始めた。

ふと考えた。

もし帰りにエデンの坂でバッテリーが切れたら、私はこの三輪車を押して上がれるだろうか。

答えは「無理かもしれない」だった。

一人で暮らすということは、無理をしないことでもある。余裕を残して帰れるうちに帰ろうと思い、今日はJR松山駅で引き返した。

帰宅したときの残量は13%だったので、判断は正しかったと思う。

少し残念な気持ちもあったが、道中で別の発見もあった。

松山大学や愛媛大学の前を通り、護国神社の大きな鳥居を眺めながら走っているうちに、教員時代に担当した一人の男子生徒のことを思い出したのだ。

理数コースの生徒だった。

成績は悪くなかったが、共通テストで高得点を狙うタイプではなく、新設の大学か学部を受験することになった。過去問がなく、英作文が課される入試だった。

担任の数学の先生から、「英語を見てやってほしい」と頼まれ、その生徒が私のところへ来た。

練習問題として「My Dream」というテーマで英作文を書かせてみたが、最初はほとんど書けなかった。

そこで、日本語で何を書きたいのかを整理し、構成を考え、それを英語に直していく練習を何度もした。

やがて入試が終わり、合格発表の日が来た。

後日、その生徒が報告に来た。

「受かりました」

「何が出たの?」

そう聞くと、彼は嬉しそうに答えた。

「My Dream が出ました」

「書けた?」

「書けました!」

私は「良かったね」と答えながら、心の中では少しだけ笑っていた。

それは、ほとんど私が作った作文だったからだ。

けれど、高校生というのは面白い。

教えてもらい、覚え、自分の力で書いたと思えたなら、それはもう自分の言葉なのだろう。

あれから20年近く経つ。

大学名はもう思い出せない。

けれど、「My Dream が出ました」と報告に来た彼の顔だけは、不思議と今も覚えている。

松山の大学通りを走りながら、そんな昔のことを思い出した一日だった。


最近、エデンの園の食堂横にある海水魚の水槽を見るのが少し楽しみになっている。

最初は「きれいな魚がいるな」くらいだったが、気になる魚を一匹ずつ写真に撮り、名前を調べるようになった。

以前見つけたのは、オレンジ色と白い模様の入ったかわいらしい魚。

これは カクレクマノミ と呼ばれる魚で、映画『ファインディング・ニモ』の主人公「ニモ」のモデルになった魚だそうだ。

そして今回気になったのは、鮮やかな青色の体に黄色い尾びれを持つ魚。

これは ナンヨウハギ と呼ばれる魚で、映画『ファインディング・ニモ』に登場する「ドリー」のモデルになった魚だった。

整理すると、

* カクレクマノミ → ニモ
* ナンヨウハギ → ドリー

という関係になる。

最初は、

「ナンヨウハギって和風の名前なのに、ドリーは外国の名前でややこしいな」

と思ったが、魚の名前と映画のキャラクターの名前は別のものだと考えると少し分かりやすい。

本当の魚の名前はカクレクマノミやナンヨウハギであり、ニモやドリーはそれをモデルにしたキャラクターの名前なのだ。

私は映画を見て魚を知ったのではなく、水槽の魚を見てから映画との関係を知った。

その順番が少し面白い。

多くの人は「ニモ」や「ドリー」から魚を知るのだろうが、私は魚からキャラクターへたどり着いた。

なぜ映画の主人公に選ばれたのかも考えてみた。

カクレクマノミはオレンジ色と白色の模様が目立ち、小さくて愛らしい。

ナンヨウハギは鮮やかな青色で、ひらひらとよく動き、水槽の中でも存在感がある。

私自身も、

「きれいな色だな」

「面白い泳ぎ方をするな」

と思ったので、映画を作る人たちも同じような魅力を感じたのかもしれない。

名前を全部覚えなくてもいい。

まずは、

「今日はどんな魚が見えたかな」

「どんな泳ぎ方をしているかな」

と眺めるだけでも十分楽しい。

魚を食べることは知っていても、魚を見る楽しさはあまり知らなかった。

67年生きてきて、食堂横の小さな水槽から新しい興味が生まれていることが、少し不思議で、少しうれしい。


女性用大浴場の忘れ物コーナーの近くに、100円玉2枚と10円玉2枚、合計220円がずっと置かれていた。

私が昨年12月にエアコン工事のためエデンを訪れたときには、すでにそこにあった気がする。ということは、実際にはもっと前から置かれていたのかもしれない。

タオルや靴下なら忘れ物だと分かる。しかし220円だけが半年近くそのまま置かれているのは、どこか不思議だった。

もちろん欲しいわけではないし、自分が取る気もない。

ただ、「なぜずっとそのままなのだろう」と気になっていた。

先日、受付の方と話す機会があったので、

「変な話なんですけど、お風呂場の220円、もう半年くらいそのままですよね。回収していただいた方がすっきりする気がするんですけど」

と伝えてみた。

翌日、お金はなくなっていた。

たった220円の話である。

でも不思議なことに、私の気持ちも少しすっきりした。

金額の問題ではなく、その場所に長い間残っていた小さな違和感が消えたからだと思う。

施設での暮らしは、多くの人が共有する生活である。

だからこそ、小さな気づきや一言が、思いがけず暮らしを整えることもあるのだと感じた。


今日、百円ショップで買った輪ゴムを数えてみた。

袋には「70g」と書いてあるだけで、本数は書いていない。

前から不思議だった。

いったい何本入っているのだろう。

10本ずつ束にして数えてみたら、437本だった。

もちろん数え間違いがあるかもしれない。

それでも、なんとなく気が済んだ。

そして袋の裏を見た。

「Made in Vietnam」

と書いてあった。

そこで、ずいぶん前に夫と訪れたベトナム旅行を思い出した。

観光地だけでなく、障害のある方々が働く工房のような場所へ案内してもらったことがある。

足に障害のある人。

手に障害のある人。

それぞれができる仕事を分担しながら、刺繍や縫製、小物づくりをしていた。

そこで私はベトナムの民族衣装を仕立ててもらった。

黒が欲しいと言ったら、

「黒はお葬式を連想するから」

と言われたことも覚えている。

それでも式典で着たいからとお願いすると、翌日には私のサイズに合わせて作って届けてくれた。

今でも静岡に残してある。

だから私は「Made in Vietnam」と見ると、ただの表示では終わらない。

この輪ゴムはどんな工場で作られたのだろう。

誰が機械を動かしているのだろう。

どんな暮らしをしている人たちなのだろう。

そんなことを考えてしまう。

437本の輪ゴムを数えながら、私が本当に気になっていたのは、本数ではなかったのかもしれない。

その向こうにいる誰かのことだったのかもしれない。




朝食の前に、ビートルズの「Something」について考えていた。

はっきりした結論があるわけではない。

ただ、この曲を聴いていると、説明できないのに強く惹かれる感覚がある。

「彼女の何か特別なものに引き寄せられる」という歌詞は、理屈ではなく感覚そのもののように思える。

それは強く押しつける愛ではなく、でも弱いわけでもない。

ただ「そばにいたい」と思ってしまう状態が静かに続いている。

作ったジョージ・ハリスンは、妻への愛情からこの曲を書いたと聞いた。

そこには確かに「この人しかいない」というような確信があるように見える。

けれど歌の途中で、「本当にそうなのか」「これからどうなるのか分からない」というような揺れも出てくる。

確信と迷いが同じ中に存在している。

それを聴いていると、人間の関係そのもののように思えてくる。

長く一緒にいることができる関係もあれば、途中で形が変わる関係もある。

若い頃に思うような「ずっと変わらない愛」というものだけではなく、時間の中で変わっていく関係の方が多いのかもしれない。

それでも人は誰かを好きになり、一緒にいたいと思う。

そして同時に、完全に理解し合えるわけではないことも分かっている。

だからこそ、安心できる関係や、邪魔にならない距離、ただそばにいられる状態に落ち着いていくこともある。

それを愛と呼ぶのか、生活と呼ぶのかは分からない。

ただ、「Something」を聴いていると、その境目がはっきりしなくなる。

愛は完成されたものではなく、説明しきれないまま続いていくものなのかもしれない。

今の私は、その途中にある感覚の中でこの曲を聴いている。


今朝は、少し早く目が覚めたことから始まった。時間に余裕があったので、日記を書き、予定が入っていないことを確認しながら一日を組み立てていった。

これまであまり意識してこなかった経済のことを、新聞を通して少しずつ見るようになった。為替や株価の数字はまだよく分からないが、「何が起きているのかを知ろうとする」こと自体が、自分にとっては新しい習慣になりつつある。

ラジオ体操についても同じように、ただ毎日やる運動ではなく、「これはいつ、誰が、どのように作ったのか」という歴史に関心が向いた。調べてみると、戦前からの流れや戦後の再構築、NHKを中心とした整備など、多くの人の関わりの中で今の形になっていることが分かった。

さらに、あの音楽についても疑問が生まれた。なぜ今のようなメロディなのか、もっと現代的であれば若い人もやるのではないかという思いも浮かんだ。しかしそれも、毎日続けるための時間設計や、誰にでも分かりやすくするための工夫の結果であると知り、納得する部分もあった。

白髪や抜け毛についても、ふと気になることが増えてきた。特に白髪が一本だけはっきりと抜けているのを見ると、年齢の変化を意識せざるを得ない。ただ、それも急激な変化ではなく、自然な流れの中での一部なのだろうと受け止めている。

経済、体操、身体の変化。どれも別々の話のようでいて、朝の時間の中で静かにつながっている。知らなかったことを知り、分からなかったことを少しずつ理解しようとする。その積み重ねが、今の自分の朝の形になっている。


今日は朝からハローワークへ行き、松山城の仕事の下見をし、坊っちゃん列車ミュージアムまで歩いた。

エデンへ帰るころには、さすがに疲れていた。

昼食はパンと紅茶で済ませたものの、しばらくすると温かいものが欲しくなり、イオンのベストプライスの袋ラーメンを作った。

私は昔から醤油ラーメンが好きだ。

付属の特製オイルは入れない。

脂っこいものがあまり得意ではないからだ。

代わりにブラックペッパーを振る。

その方が私にはおいしい。

ラーメンを食べながら、今日ちらりと読んだ天声人語を思い出した。

話の中心にあったのは「創」という漢字だった。

絆創膏の「創」である。

傷を意味するこの字には、「こりる」という意味もあるのだそうだ。

傷を負い、痛みを知り、その経験から学ぶ。

だから「創」は単なる傷ではなく、教訓にもつながる漢字なのかもしれない。

天声人語では、原爆資料館の展示の話が取り上げられていた。

強い衝撃を与える展示について、見せ方を工夫する動きがあるらしい。

それを読んで、私はベトナム旅行の時に訪れた戦争資料館を思い出した。

ツアーには入らない場所だったが、ガイドさんに勧められて見学した。

入口に展示されていた戦争被害の標本は、今でも忘れられない。

あまりにも強烈だったからだ。

もちろん子どもへの配慮は必要だと思う。

しかし、傷を見ないことと、傷から学ばないことは違うような気もする。

高校時代、社会科の先生が「歴史は繰り返す」と言っていた。

今振り返ると、それは特に戦争について語っていたのだろう。

人間は同じ過ちを繰り返してしまう。

だからこそ、傷の記憶が必要なのかもしれない。

創には「こりる」という意味があるという。

戦争という大きな創。

病気や災害という創。

人生の失敗という創。

それらを経験したあと、人は少しずつ学び、次に生かそうとする。

それが「こりる」ということなのだろう。

今日の私は、ラーメンを食べながらそんなことを考えていた。

10円安い商品を選び、坊っちゃん列車に乗ってみたいと思い、松山城の仕事に応募しようとしている。

そんな平和な日常の中にいる。

その一方で、世界では今も戦争が続いている。

その距離をどう考えればよいのか、私にはまだ分からない。

それでも、「創」という一文字が教えてくれることがある。

傷を忘れないこと。

そして、そこから少しでも学ぼうとすること。

それが、人ができることの一つなのかもしれない。




今日もビートルズの曲を聴く中で、「エリナー・リグビー」と「ミシェル」が心に残った。

どちらもまったく違う曲のようでいて、私にはどこか同じ問いを投げかけているように感じられた。

「エリナー・リグビー」は孤独そのものを描いている。

誰にも気づかれず、誰にも届かず、生きて死んでいく人の姿がある。

そこには救いというよりも、ただ現実としての孤独がある。

一方で「ミシェル」は、人を好きになること、その気持ちを伝えようとすることの歌だ。

言葉は足りず、完全には伝えきれない。それでも伝えようとし続ける。

その姿はとても静かで、美しく、そしてどこか切ない。

どれだけ好きになっても、すべてが伝わるわけではない。

どれだけ近くにいても、人は結局どこかで一人なのかもしれない。

そう思うと、「つながりたい気持ち」と「孤独であるという事実」は、正反対のものではないようにも感じる。

むしろ、人を好きになるということ自体が、孤独の中で起きていることなのかもしれない。

完全に分かり合えないからこそ、伝えようとする。

そして伝えようとするからこそ、孤独が浮かび上がる。

そのどちらが正しいということでもなく、どちらも同時に存在しているのだと思う。

結局、人は誰かとつながっているようでいて、最後の場所では一人でいる。

それでも、人を思う気持ちは消えない。

その矛盾の中で生きているのだと思う。


今日も食堂でビートルズが流れていた。

その中で「エリナー・リグビー」を聞きながら、あらためてこの曲が描いているものを考えた。

それは単なる「孤独な人の物語」ではなく、社会の中に静かに存在する、どうしようもない孤独だった。

祈る人がいても、見送る人がいても、届かないものは届かない。救いがあるかないかというより、人はそれぞれの場所で一人で立っている。

結局のところ、死は誰にも避けられない。

どれだけ祈っても、どれだけ願っても、その事実だけは変わらない。

だからこそ、自分の中には「ごまかしたくない現実」があるのだと思う。

一方で、その現実を前にしたとき、人は泣いたり、祈ったり、言葉を重ねたりする。

それを私はときどき冷静に見てしまう。軽い慰めができないのは、自分の中にある経験のせいでもある。

泣くことやわめくことが無意味だと思っているわけではない。

むしろそれは人間らしさなのかもしれない。

それでも私は、「死は死であり、現実は変わらない」という感覚から逃げられない。

その感覚は、どこか孤独だ。

病気を経験し、検診を重ね、何度も身体の限界に触れてきたことで、自分の中に強く残ったものなのだと思う。

そして今、自分はエデンの園という場所で生活している。

それは他人から見れば「選んだ生活」であり、ある意味では経済的な決断でもある。

しかしその中には、「誰かに見守られる場所で生きる」という選択も含まれている。

それでも、孤独がなくなるわけではない。

むしろ孤独をどう持ち続けるか、という問題になるだけなのかもしれない。

エリナー・リグビーの孤独も、自分の孤独も、誰かの孤独も、形は違っても同じ場所にあるように思える。

最後に残るのは、「孤独をどう消すか」ではなく、

孤独をどう引き受けて生きるか

という問いなのだと思う。




昨日は、ジムや太極拳、そして仕事のことをいろいろ考えていた。

松山での生活にも少し慣れてきて、7月から何か新しいことを始めるなら、そろそろ動いた方がいいのではないかと思った。

そんな中、以前ハローワークでもらった求職者用サイトの設定期限が近いことに気づいた。夜に設定しようとしたものの、パスワードで行き詰まり、その日は諦めて寝ることにした。

朝になって考え直し、予定より早いバスに乗ってハローワークへ向かった。雨の中を急いだため、傘や飲み物を忘れてしまったが、それでも出かけることを優先した。

ハローワークでは、気になっていた松山城関係の求人について詳しく話を聞くことができた。勤務日数や勤務時間については面接時に相談できる可能性があり、年齢についても応募可能であることを確認してもらえた。

紹介状を受け取ったことで、「応募してみようかな」という段階から、「応募してみる」という段階へ少し進んだ気がした。

その後、勤務地周辺まで歩いてみた。

住所を調べてみると、以前自転車で通ったロープウェイ乗り場だった。実際に建物を見て、周辺の様子も確認した。観光客が多く訪れる場所で、たいめしのお店なども並んでいた。

求人票の文字だけだった職場が、実際の風景として目の前に現れた気がした。

まだ少し時間があったので、以前から気になっていた坊っちゃん列車ミュージアムへ向かった。

私はてっきり別の場所にあると思い込んでいたのだが、実際にはスターバックスの店内を通った奥に展示スペースがあった。

初めて訪れた私は少し驚いた。案内表示もあまり目立たず、知らなければ気づかずに通り過ぎてしまいそうな場所だった。

展示を見ながら松山の鉄道の歴史に触れ、「いつか坊っちゃん列車にも乗ってみたい」と思った。

途中で抹茶クリームフラペチーノを飲みたい気持ちもあったが、今日は落ち着いて座る時間がなかったので見送った。私は歩きながら飲むより、座ってゆっくり味わいたい方なので、また別の日の楽しみに取っておこうと思う。

銀天街では職務経歴書がないか探したが見つからなかった。履歴書はあるので、職務経歴書は工夫しながら作ろうと思う。

今日動いてみて感じたのは、一つ決まれば次のことも決まっていくということだった。

仕事が決まれば、ジムや太極拳との兼ね合いも見えてくる。もしご縁がなければ、また別の道を考えればよい。

松山へ来てまだ日が浅いが、今日はハローワーク、職場候補、商店街、そして坊っちゃん列車ミュージアムまで歩きながら、この街を少しずつ自分の街として覚えていく一日になったように思う。

動いてみたからこそ見えてきたことが、たくさんあった一日だった。


今朝は、朝食の前に少しだけ自分の気持ちを整理している。

仕事というものを、これまでとは少し違う形で考えるようになった。

松山という街を知りながら、その中で自分にできることを少しずつ見つけていくような働き方に、心が惹かれている。

ただし、フルタイムのような働き方は今の自分には考えていない。

週に数日、短い時間の中で無理なく続けられることが大切だと感じている。

年齢のことを考えれば難しいのではないかと思いながらも、「年齢不問」という言葉に少しだけ背中を押される気持ちもあった。

ハローワークで紹介状をもらい、応募してみようかと考えるところまで気持ちが動いたことは、自分でも少し意外だった。

何か一つ行動してみないと、次のことも見えてこない。

うまくいくかどうかではなく、まず一度やってみて、その結果から次を考えればいいのではないかと思っている。

マイページの作成もうまくいかず、手続きの難しさを実感した。

履歴書を西暦から年号に直す作業や、職務経歴書というものの存在も、今回初めてしっかりと向き合った。

思っていた以上に、世の中にはこうした準備を必要とする仕事があるのだと知った。

同じように、若い人も含めて、働くことに向き合う人は皆それぞれに大変さを抱えているのだろうと感じる。

年金だけでは暮らしにくい中で働く人も多く、形は違っても、みんなそれぞれの生活の中で工夫しながら生きているのだと思う。

今日は雨の一日になりそうだが、バスも使えるので、必要な手続きを少し進めてみようと思っている。


松山に来てから、自転車で街を走っていると「鯛めし」の看板をよく見かけるようになった。観光地らしい少し高級な料理という印象があり、夫が来た時も「次の機会にしようか」とそのまま食べずに通り過ぎていた。

今回、エデンでの話や人との会話の中で、鯛めしには「松山鯛めし」と「宇和島鯛めし」の2種類があることを知った。

松山鯛めしは炊き込みご飯のように鯛と一緒に炊いたもの、宇和島鯛めしは鯛の刺身に卵とタレをかけて食べるスタイルだという。まだ実際には食べていないため違いを断言することはできないが、次に食べるときは夫とそれぞれ違う方を選び、比べてみるのも面白いと思っている。

私は生卵が少し苦手なので松山鯛めしの方が合いそうだが、卵かけご飯のように食べる宇和島鯛めしも、実際に味わうと印象が変わるかもしれないという期待もある。

また、同じ会話の中で「じゃこ天」という食べ物も知った。最初はかまぼこのようなものだと思っていたが、実際は小魚をすりつぶして揚げた愛媛の郷土料理だと知った。見た目は似ているが、かまぼこは蒸して作るのに対し、じゃこ天は揚げている点が違うという。

どちらもエデンの食事や松山の日常の中に自然に出てくる料理であり、観光地の名物というより「暮らしの中の食文化」だと感じるようになってきた。

まだ食べていないものも多いが、実際に味わう前に知識として少しずつ理解していく過程そのものが、今の私にとっては松山を知る時間になっている。


今朝は、ある人から届いたメッセージをきっかけに、病気や健康について考えていた。

年齢を重ねると、自分や周りの人の病気の話を聞くことが増える。

若い頃は遠い話だったことが、少しずつ身近になってくる。

私は59歳の時に胃がんが見つかった。

幸い早期だったため内視鏡で治療できたが、それ以来、毎年のように胃カメラを受けている。

初めて胃カメラを受けた時のことは今でも覚えている。

画面に映った自分の胃を見て、「こんなに傷んでいたのか」と驚いた。

それまで文句も言わず働いてくれていた胃が、急に身近な存在になった気がした。

それ以来、自分の体を以前より気にかけるようになった。

病気を完全に防ぐことはできない。

骨折だって、気をつけていても起きるかもしれない。

それでも、

運動をすること。

栄養を摂ること。

検査を受けること。

無理をしすぎないこと。

そういう積み重ねには意味があると思っている。

今日は昨日買ったドリップコーヒーを淹れた。

自分でコーヒーを買うのは久しぶりだった。

窓の外は曇り空で少し肌寒い。

午後にはエデン体操があり、その後は部屋で設備の作業を待つ予定だ。

特別なことは何もない。

でも、こういう普通の一日を重ねていけることが、今はありがたいと思う。

遠くの未来を心配するよりも、まず今日を整える。

そんなことをコーヒーを飲みながら考えていた。


今日は午後、施設の方が来て、部屋のテレビで礼拝や館内放送が見られるようにする設定をしてくださることになっていた。

そのため、朝から少しずつ部屋の片付けを始めた。

整理をしているうちに、自転車のヘルメットが出てきた。

買ったまま、貴重品や保証書を入れている箱の中にしまわれていたものだ。

せっかく持っているのだから使えるようにしようと思い、あごひもの長さを調節し、自転車置き場へ持って行った。

後ろかごの中に入れておけば、必要な時にすぐ使える。

そんな小さな片付けをしながら、一階へ降りたついでに新聞を読んだ。

そこには、「熊が出ないことを売りにしているゴルフ場」の記事が載っていた。

熊が出ないことが安心として価値になる時代なのだと思った。

その記事を見ているうちに、静岡で暮らす夫が散歩中に鹿を見た話や、昔の同僚の国語の先生から聞いた猟友会の話を思い出した。

さらに帰り道には、花壇に咲いていたサンパチェンスやミムラスの立て札が目に入った。

今日はそんなふうに、ひとつのことから次々と別のことを思い出す日だった。

朝には新聞で、AIの電力消費についての記事も読んだ。

便利なものには電力が必要で、その裏側には大きな設備や仕組みがあるという内容だった。

私は毎日のようにAIを使って文章をまとめたり、英語にしたりしている。

便利さの裏側を考えることも大切なのだろう。

そういえば、この施設には共有スペースのテレビが一台もない。

ロビーにも、食堂にも、マッサージチェアの前にもない。

あるのは新聞や本、人との会話だ。

テレビがないことを不便だと思ったことはなかったが、今日改めて気が付いた。

夫はよく言う。

「私たちは情報を受け取る側であって、その情報が本当に正しいかどうかを見抜くのは簡単ではない」と。

確かにそうだと思う。

新聞も、テレビも、インターネットも、AIも、すべて誰かが発信している情報だ。

私たちはそれを受け取りながら暮らしている。

だからこそ、一つだけを信じるのではなく、いろいろな情報に触れながら、自分で考える力を少しずつ持ちたいと思う。

部屋を片付けていただけの日なのに、気が付けばテレビのこと、AIのこと、熊のこと、花のことまで考えていた。

片付いたのは部屋だけではなく、頭の中も少し整理された一日だったのかもしれない。




6月4日、エデンでの夕食は少し不思議な献立だった。炊き込みご飯、小田巻蒸し、和風サラダ、人参とイカの炒め物、そして漬物。全体としてはしっかりとした食事だったが、味の感じ方には少し戸惑いもあった。

炊き込みご飯は鶏肉、人参、ごぼうなどの一般的な具材だったが、関西で食べていたものと比べると、だしの存在が弱く感じられた。また「和風サラダ」と書かれていたものにはマヨネーズ系の味付けがあり、自分のイメージしていた和風とは少し違っていた。

一方で、人参とイカの炒め物は素朴で食べやすく、全体の中では一番違和感なく食べることができた。

食事の後には厨房の方と少し話をする機会があった。私のことを覚えてくださっていて、大盛りで注文することも理解してくださっていることが分かり、初めて自然に会話ができたことがうれしかった。

さらに炊飯器が複数並んでいる理由や、余ったご飯の扱いについて尋ねると、無駄にせず再利用し、場合によってはパンなどに活用する工夫があることを知った。すべてが廃棄されるわけではないと聞き、少し驚きながらも安心した。

また最近は、食事の申し込みがタブレットで行われるようになっていることも知った。基本の食事パターンを登録し、必要なときだけ欠食や変更を入力する仕組みで、紙でも対応できるが、徐々にデジタル化が進んでいる。便利さの一方で、使えない人はどうなるのかという不安も少し感じたが、実際には職員のサポートもあり、完全に機械任せというわけではないようだ。

夕食後、2階のトレーニングルームで静かな時間を過ごした。卓球場では一人でサーブ練習を続ける方がいて、その横でマッサージチェアに座りながら休む時間は、どこか穏やかな日常の一部になってきている。

その後、熱帯魚水槽の中でクダゴンベが石にしがみつくようにじっとしている姿を見た。以前よりもよく見かけるようになった気がする。あまり動かず、ただ静かにそこにいる姿を見ていると、不思議と心が落ち着く。

クダゴンベは普段は動きのある魚だが、こうしてじっとしている時間もある。その姿を見ていると、生き物にも「静けさの時間」があるのだと感じる。

人間も同じように、動く時間と静かに留まる時間を行き来しながら生きているのかもしれない。最後は静かにそこにいる時間を迎えるとしても、それは決して不自然なことではなく、ひとつの形なのだと思った。

エデンでの食事、仕組み、人との会話、そしてクダゴンベの静かな姿まで、今日一日はさまざまな小さな気づきが重なった一日だった。


今日の午後はエデン体操だった。

50分と聞くと長そうに思うのだが、終わってみるとあっという間だった。

最初は椅子に座ったままのストレッチから始まる。

腕を伸ばしたり、肩甲骨を動かしたり、足首やかかとを使ったりする。

その後は軽い棒を使った体操があった。

肩を動かしたり体を伸ばしたりした後、手のひらや指の上で棒を立てる運動をしたのだが、私はこれが苦手だった。

なかなか真っ直ぐ立たない。

ところが、他の運動ではそれほど目立たない方が上手にできたりする。

91歳で麻雀教室にも参加されている方は、「私は手のひらより二本指の方ができるわ」と話しておられた。

人によって得意なことは本当に違うのだと思った。

その後は、グーパー運動やリズム運動が続いた。

グーパーをしながら手を叩く。

今度は膝を叩く。

さらに数字を数えながら、3の倍数で手を叩き、5の倍数で万歳をする。

15と30は両方に当たるので、手を上げたまま叩く。

頭では分かっていても、5で万歳をした直後の6で手を叩くところなどは、思わず「あれ?」となる。

けれど不思議なことに、前回よりは少しできるようになっていた。

正直なところ、最初は「施設の体操だから、それほど難しくないだろう」とどこかで思っていた。

私は今でもズンバやヨガ、太極拳が好きだし、体を動かすことには慣れているつもりだった。

ところが実際に参加してみると、手と足を別々に動かし、数字を数え、リズムを取りながら行う体操は思った以上に難しかった。

「これは簡単だろう」と思っていた自分の思い込みに気づかされた。

そして2回目の今日、少しできるようになったところもあったが、まだまだできないことも多い。

最近は脳トレの本や登録販売者の問題集、そろばんにも少しずつ触れている。

どれも思うようにはできない。

でも、「なぜできないのだろう」と考えることが面白い。

若い頃は、できるようになることを急いでいた気がする。

けれど今は、できるようになることを急ぐ気持ちはあまりない。

むしろ、思ったよりできない自分を発見することや、少しずつ変化していくことのほうが面白い。

今日のエデン体操は、そんなことを改めて感じさせてくれた。


今朝、食堂でビートルズの「エリナー・リグビー」が流れていた。

あらためて歌詞を思い返すと、この曲に描かれているのは特別な出来事ではなく、静かに社会の中に存在している孤独だった。

誰にも届かない説教を語る神父と、誰にも看取られずに葬られるエリナー・リグビー。その静かな対比が、孤独の形をより強く浮かび上がらせている。

そして、葬儀のあとに手を払う神父の姿は、何かを終えたというよりも、ただ日常へ戻っていく無力さのようにも見える。

「孤独な人たちはどこから来て、どこへ行くのか」

この問いは今も答えのないまま残っている。

結局のところ、人は誰でも最後は一人で自分の人生を受け止めていく。

病気になったときも、誰かがそばにいてくれても、その経験そのものは自分一人のものとして終わっていく。

そう考えると、孤独は特別な人だけのものではない。

社会の中に静かに、当たり前のように散らばっているものなのかもしれない。

ただ、その孤独にどれだけ気づくかは人によって違う。

感受性が鋭い人は、その静かな気配に早く気づくのかもしれないし、気づかないまま過ぎていく人もいるのかもしれない。

どちらが良い悪いではなく、その違いがその人の見ている世界を変えているのだと思う。

ビートルズの一曲から、そんなことを考える朝だった。


今朝、新聞で著作物使用料ランキングを見て、少し驚いた。1位の曲は知らない曲だったので、YouTubeで聴いてみた。

Mrs. GREEN APPLEの「ライラック」という曲だった。

歌っている人たちは、いわゆる派手なアイドルという感じではなく、どこか普通の学生や社会人のような雰囲気で、親しみやすい印象だった。

曲も明るいだけではなく、少し自信のなさや揺れを感じるような歌詞で進んでいく。そして最後に「僕は僕を愛してる」と結ばれる。その流れがとても印象に残った。

その一方で、ランキングにはテンションが高くノリの強い曲も並んでいる。Bling-Bang-Bang-Bornのような、勢いのある曲も多く使われている。

ここで気づいたのは、今の音楽は一つの方向ではなく、まったく違う二つの方向が同時に流行しているということだった。

ひとつは、ライラックのように、自分の内側の不安や迷いを含みながら、それでも自分を受け入れていくような静かな共感の音楽。

もうひとつは、強いリズムと勢いで一気に気持ちを外へ解放するような、ノリと爆発力のある音楽。

さらに気づいたのは、その音楽の使われ方の変化である。

今はTikTokやYouTubeショートなどで、曲全体ではなく、一番印象的な部分、特にサビの部分が切り取られて使われることが多い。そのため、音楽は「最初から最後まで聴くもの」というより、「一瞬で心に刺さる部分を持つもの」へと変わってきているように感じた。

私はTikTokをほとんど使わず、YouTubeで曲を丸ごと聴くことが多い。そのため、この変化に気づいたとき、「今の時代はこういうふうに音楽を受け取っているのか」と少し驚いた。

音楽そのものが変わったというより、人が音楽に触れる時間や方法が変わったのだと思う。

今日の新聞は、ただのランキングではなく、時代の音の変化を教えてくれるものだった。


今朝の朝食時、食堂ではビートルズが流れていた。

どうやら6月はビートルズ特集らしい。

先日は「Let It Be」を聴いて英語教師時代の授業を思い出したが、今日は「Ob-La-Di, Ob-La-Da」が流れてきた。

私は若い頃、ビートルズが好きで赤盤や青盤のLPも持っていた。それなのに、この曲の題名が何を意味するのか、これまであまり考えたことがなかった。

曲としてはよく知っている。何度も聴いてきた。

けれど、「Ob-La-Di, Ob-La-Da」が英語ではないことも、その背景も、今回初めて調べてみた。

好きなものでも、知っているつもりで実は知らないことがあるのだと思った。

そのことは、今の暮らしにも少し似ている気がした。

今日はフィッタ松山の見学や、映画やヨガの申し込みについて確認しようと思っている。

ところが、そうした情報は各部屋のポストに配られるわけではなく、ほとんどが掲示板に一枚貼られているだけだ。

見た人だけが知る。

見なければ気づかない。

自立型の施設だから当然なのかもしれないが、情報を取りに行くことも生活の一部なのだと感じる。

夜間は玄関が閉まるが、入居者は専用の出入口から自由に出入りできる。ただし鍵を持っていなければ中に入れない。

施設の仕組みも、実際に暮らしてみて初めて分かることばかりだ。

そういえば、ポストにも名前を出している人と出していない人がいる。

昔、教員になった頃はクラス名簿や連絡網が普通に配られていた。生徒の住所や電話番号、保護者の名前も載っていた。

そのおかげで卒業後に年賀状が届いたり、結婚式に招かれたりしたこともあった。

今では個人情報保護が当たり前になり、そうした名簿はほとんど見かけなくなった。

それは大切なことだと思う。

けれど一方で、人と人との距離の取り方も変わったように感じる。

ビートルズの歌の意味も、掲示板の情報も、施設の仕組みも、人とのつながり方も。

知っているつもりでいて、実は知らないことがたくさんある。

そんなことを考えながら、晴れた松山の朝を過ごした。


夜中に目が覚めたとき、松山大学と愛媛大学へ続く学生通りのことを思い出していた。私は毎日のようにその道を通って、町へ出ている。ジムへ行ったり、スーパーへ行ったりと、生活の中の通り道になっている場所だ。

その入口のように立っている大きな鳥居と護国神社は、通るたびに強い印象を残す。最初は特に意識していなかったのに、何度も通るうちに、その存在が少しずつ重みを持ってきた。

一度訪れた靖国神社の記憶が重なり、「同じような場所なのだろうか」と考えることがある。戦争で亡くなった人々を祀る神社であるという理解はあるが、その意味や感じ方については、まだ自分の中で整理しきれていない部分もある。

大阪、神戸、静岡、奈良と住んできたが、これほど大きな鳥居が日常の通り道にある経験はなかったように思う。

松山の護国神社は、愛媛県の戦没者を祀るために、県ごとに設けられた護国神社の一つであり、その性格から比較的大きな規模になっていると知った。県の中心的な慰霊の場所として整えられてきたものだという。

それでも、なぜ大学へ向かう日常の道のすぐ前にこれほど大きな神社があるのか、その感覚は今も通るたびに残っている。

靖国神社や護国神社は、戦争で亡くなった人々を祀る神社であるという理解がある。ただ、その意味や受け止め方は立場や経験によって異なるものでもあると感じる。


エデンに入って間もない私は、毎月のように外出行事があることを掲示板で知った。先月は広島方面への日帰り旅行があり、バスでお寺を訪ねる本格的なツアーだったという。費用もそれなりにかかるため、私はその時は参加しなかった。

今回は、エデンのバスで行く映画会に申し込んだ。作品は『旅人検視官 道場修作』で、主演は内藤剛志さん。松山や道後温泉などが舞台になると知り、急に身近なものとして感じられた。

映画そのものへの興味に加えて、松山という土地を知っていくきっかけになることも楽しみの一つである。道後温泉や内子町など、日々の生活の中で少しずつ触れ始めた場所が、どのように映るのか興味がある。

また、まだ名前をよく知らない方々と一緒にバスに乗り、映画を見て過ごすことで、少しずつ顔と名前が結びついていくのではないかと思う。特にラジオ体操や麻雀で顔を合わせる方々との関係が、日常の中で少しずつ広がってきている。

松山に来てまだ日が浅いが、「住む場所」から「知っていく場所」へと少しずつ変わってきているように感じる。

映画や外出行事は、その入口になっている。


今日はフィッタ松山の見学(ジム)に行ってきた。

私は、水中ウォーキングくらいしかないと思い込んでいたのだが、施設のお風呂でよく会う方から「そこでスイムレッスンを受けていたよ」と聞き、気になって電話をしてみた。そして実際に見学へ行くことにした。

行ってみると、バタフライ、平泳ぎ、背泳ぎ、クロールのレッスンがあり、太極拳や気功まであることがわかった。

思っていたよりずっと選択肢が多い。

7月から始めるとしたら、どの曜日に通おうか。

そんなことを考えるだけでも楽しかった。

見学を終えたあと、せっかくだから松山城の入口を確認しておこうと思った。

ところがスマホの案内で着いた先は、どう見ても城の入口らしくない場所だった。

階段があり、下へ降りる道がある。

「ここが松山城?」

と首をかしげてしまった。

結局、松山城にはたどり着かなかった。

その代わり、お堀の近くで大きな白鳥を見つけた。

思わず自転車を止めて写真を撮った。

さらに、坂の上の雲ミュージアムの入口まで行くことができた。

愛媛県美術館の前も通った。

松山へ来てから名前だけは知っていた場所が、少しずつ実際の風景と結びついていく。

それが何だかうれしかった。

そして帰ろうとして地図を聞きながら(見ながら)走っていたら、今度は松山城ロープウェイ乗り場の前に出た。

「ああ、ここだったのか」

思わず自転車を降りて写真を撮った。

何度も近くを通っていたのに、今まで気づかなかった場所だった。

ロープウェイ乗り場の近くには、着物や袴の貸衣装案内をしている人もいた。

もし松山城の仕事に応募したら、こんな服を着るのだろうか。

そんなことまで考えた。

今日は松山城へ行こうとして、結局松山城へは行かなかった。

でも、そのおかげで松山の街を少し覚えることができた。

目的地には着かなかったけれど、その周りにあるものをたくさん見つけた一日だった。

67歳になっても、知らない街にはまだ探検する場所がある。


そう思うと、何だか少しうれしくなった。


今朝、ラジオ体操を終えて部屋に戻る前に、たまっていたパンフレットを一気に捨てた。昨日の説明会でもらったものも含めて、かなりの量だった。

説明を聞きに行ったときは、いろいろな案内を次々と勧められたが、今の自分の生活には必要ないと感じた。静岡でも以前利用していたことはあるが、今の住まいでは物を増やさないことが前提になっている。迷ったときは捨てる、という基準が今の自分にははっきりしてきている。

気がつけば、「いつか使うかもしれない」と取っておく生活から、「今必要かどうかで決める」生活に変わっていた。

その後、階段の途中でシモクレンやハナモモの木を見た。まだ花はない。ただ枝と葉だけの姿だったが、それぞれ春に一度だけ花を咲かせる準備をしている木だと思うと、今の自分の暮らしと少し重なった。

ずっと持ち続けるのではなく、その時に必要なものだけを使い、終われば静かに手放す。木もまた、花の時期だけ輝き、それ以外の時間は次の準備をしている。

そんなことを考えながら、少しだけ気持ちが軽くなった朝だった。


今日は午前中、健康相談があった。

9時50分から20分ほどの予定だったが、前の方の相談が長引き、私の番になってからも看護師さんがゆっくり話を聞いてくださった。

健康相談というより、どちらかというとカウンセリングに近かったかもしれない。

松山へ来てからどこの病院につながったか、この1か月で何をしてきたか、麻雀や体操、病院通いのことなどを話しているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。

そして最後に、

「ここへ来て楽になったことは何ですか」

というような話になった。

その時、真っ先に出てきたのが「食事」だった。

若い頃は料理が好きだった。

梅を漬けたり、ケーキを焼いたり、クッキーを焼いたりした。

子どもたちの誕生日には手作りのケーキを焼くのも楽しみだった。

けれど、年齢を重ねるにつれ、食事は楽しみだけではなくなった。

買い物へ行き、食材を整理し、献立を考え、料理を作り、食べて、片付ける。

長年当たり前にやってきたことだったが、退職後の数年は、

「もう作りたくない」

「買い物へ行きたくない」

と口にすることも増えた。

特に夫婦二人になってからは、量も減り、作るものも限られ、だんだん負担の方が大きくなっていった。

今日は本当なら健康相談のあと、バスで銀天街まで出てみようと思っていた。

けれど雨も降っていたし、相談が長くなったこともあって、そのまま部屋で過ごすことにした。

昼食をどうしようかと思った時、棚にあったそうめんが目に入った。

うどんも好きだが、そうめんなら茹で時間はたった2分。

今日はそれで十分だと思った。

そうめんに加えて、夫が送ってくれたフィッシュアンドナッツやゴマきなこ寒天、レーズンやプルーンも少し食べた。

そして、そのそうめんが驚くほど美味しかった。

なぜだろうと思ったら、自分の好みの硬さに茹でたからだった。

食堂の麺類は食べやすいように少し柔らかめだが、私は少し歯ごたえが残るくらいが好きらしい。

たったそれだけのことなのに、とても満足した。

健康相談で自分のこの1か月を振り返り、そのあと一人でそうめんを食べながら、私はずいぶん肩の荷を下ろしたのだなと思った。

食事を作る楽しさがなくなったわけではない。

ただ、毎日の食事を支える責任からは解放された。

だからこそ、たまに自分のためだけに茹でる2分のそうめんが、こんなに美味しく感じられたのかもしれない。


今朝、食堂で朝食をとっていると、ビートルズの「Let It Be」が流れてきた。

その瞬間、ずいぶん昔の授業の記憶がふっとよみがえった。

私は高校で英語を教えていた頃、ときどき授業の合間や気分転換に洋楽を使っていた。

その中でも「Let It Be」は、生徒たちにも比較的歌いやすい曲だった。

今の曲のようにテンポが速すぎず、言葉も聞き取りやすい。英語が得意な生徒もそうでない生徒も、一緒に歌うことができた。

この曲を使うとき、私は使役動詞の let を説明していたような気がする。

学校英語では、使役動詞として make、let、have を教える。

make は無理にさせる。

have はしてもらう、させる。

let は自由にさせる、そのままにしておく。

そして別に get があり、こちらは to 不定詞を使って「うまく働きかけて〜してもらう」という形になる。

生徒たちにとってはなかなか難しい単元だったが、「Let It Be」はその中でも印象に残る表現だった。

「それをそのままにしておきなさい。」

直訳するとそうなるが、授業ではもっと違う言い方をしていた気がする。

「大変なことがあっても、慌てて何かをしなくていい。」

「しばらくそのままにしておくことも大切なんだよ。」

そんなふうに話していたのかもしれない。

当時の私は、文法を教えているつもりだった。

けれど今振り返ると、それは英語の説明というより、生き方の話だったようにも思う。

若い頃、私はビートルズが好きで、赤盤や青盤のLPを持っていた。

けれどその頃は、歌詞の意味よりも曲そのものを楽しんでいた気がする。

年月が過ぎ、教師として何度も授業で扱い、そして今こうして松山で暮らしていると、同じ曲が違って聞こえる。

「Let It Be」は単なる懐かしい歌ではなくなっていた。

困難な時にこそ、焦らず、無理に答えを出そうとせず、あるがままを受け入れる。

そんな静かな知恵を語る歌に聞こえる。

食堂で流れた数分の曲だったが、昔の教室や生徒たちの顔、そして今の自分の暮らしまで思い出させてくれた朝だった。


松山に来てから、私は施設の2階と3階にある無料のマッサージチェアに、朝2回、夜1〜2回、1日3〜4回座るようになった。これまでの自分の人生では、あまりなかった習慣である。

もともとマッサージチェアには少し縁があった。

父がマッサージチェアを好んでいたこともあり、奈良の実家にもかなり良いものがあった。ただ当時は忙しく、実家に長くいる生活でもなかったので、そこでゆっくり座る時間はほとんどなかった。

その影響もあってか、静岡に家を建てたときには、自分でもニトリでマッサージチェアを購入した。実家ほど立派なものではなかったが、「自分の生活にも取り入れたい」という気持ちはあった。ただ、その頃も忙しく、結局あまり座る時間はなかった。

それが今、松山での生活では、食後やラジオ体操の後など、自然な流れの中でマッサージチェアに座る時間ができている。15分ほどのプログラムが終わると、体がゆるみ、食後の重さが少し軽くなるような感覚がある。胃が弱い自分にとっては、この時間の使い方は合っているようにも感じている。

また、座っている間は本を読むことも書くこともできないが、その分、ぼんやりと考えごとをする時間になっている。静かに記憶が浮かび上がるような、そんな時間でもある。

ふとした瞬間に、以前学んだ東洋医学のことを思い出した。
背中側を中心に刺激するこの感覚は、膀胱経や督脈といった体の流れの考え方と重なるように感じられた。また、腎脈という「体の根本の力」に関わる考え方があったことも思い出した。

鍼のことをしばらく意識していなかったので、この連想は自分の中では少し新鮮だった。ただ、それは理屈として断定するものというより、「そういえばそんな見方もあった」という程度の静かな気づきである。

マッサージチェアは単なる機械ではなく、体をゆるめるだけでなく、自分の中の記憶や時間の流れをそっとつなぎ直してくれる場所になりつつある。

実家での父の姿、静岡での自分の生活、そして今の松山での時間。それらが、背中を通じて少しずつつながっているようにも感じられた。




昨夜は3時頃に目が覚めた。

ふと思い立って履歴書のテンプレートを開き、経歴書を書こうとしてみたが、なかなか進まなかった。

それでも、自分の歩いてきた道を整理しておきたい気持ちはどこかにあったのだと思う。

その後もう一度眠り、6時20分の目覚ましで慌てて起きてラジオ体操へ向かった。

今日は雨だった。

いつもは外で行うが、駐車場の屋根の下で体操をした。

93歳になられたリーダーの男性は腰痛でお休みとのこと。早く良くなられるといいなと思う。

体操のあと、筋トレルーム横のマットで前屈運動をした。

最近少し体が硬くなってきたように感じている。

特に股関節まわりが開きにくく、前に倒れにくい。

以前やっていた前屈を50回ずつ2セット、合計100回行った。

続けているうちに少しずつ角度が良くなってくるのが分かる。

血圧は96/64、脈拍74。

低血圧の私らしい数字だった。
体操後には新聞を眺めた。

天声人語には「あなたの町は何色ですか」という話題が載っていた。

横浜はブルーだという。 ブルーライト横浜からだそうだ。

私は松山の色は濃いオレンジだと思う。

観光ならみかん色かもしれないが、実際に暮らしてみると、路面電車もバスも駅も、伊予鉄のオレンジが町の景色になっている。

睡眠時無呼吸症候群の記事では、夫のことを思い出した。

以前はいびきがひどく、本当に枕を投げていた。

検査の結果、CPAPを使うようになり、今ではずいぶん静かになった。

関西の私鉄各社が、有料で確実に座れるサービスを増やしているという記事もあった。

奈良に実家がある私は、若い頃から近鉄によく乗った。

当時は特急料金がもったいなくて、急行や快速急行ばかり利用していた。

けれど、いつ頃からだろう。

お金を節約することよりも、確実に座って楽に移動できることのほうが大切になった。

多少お金がかかっても特急を選ぶようになった自分を思い出した。

記事によれば、同じように「時間よりも快適さ」「料金よりも座れること」を重視する人が増えているそうだ。

年齢を重ねると、価値を感じるものも少しずつ変わっていくのだろう。

お遍路の記事では神仏習合について考えた。

松山ではお遍路さんの姿を時々見かける。

静岡ではほとんど見なかった光景だ。

若い人の投稿にあった「お寺へ行ったと思ったら、神社も一緒だった」という表現が印象に残った。

神様と仏様を対立させず、共に受け入れてきた日本らしい感覚がそこにはあるように思う。

そして平和教育の記事。(同志社国際高校)

教員時代、広島や長崎、沖縄について学び、佐々木禎子さんの話を読み、生徒たちと千羽鶴を折ったことを思い出した。

1945年は遠くなっていく。

それでも、忘れないための努力は続いてほしいと思う。

今日は施設内の健康診断も受ける。

尿検査、血液検査、健康相談の20分ほどのものだ。

元気だから必要ないと言えば必要ないのかもしれない。

それでも、この1か月の生活や気持ちを誰かに聞いてもらいたい気持ちもあった。

さらに7月には、入居者向けの人間ドックも申し込んだ。

施設と隣接する病院が連携して行うサービスで、入居した人への配慮の一つでもある。

最初は胃カメラはいらないと思っていた。

けれど、日赤に記録があるだけでなく、これからお世話になるベテル病院にも今の胃の状態を残しておく意味があるように思えてきた。

ここへ来て1か月。

この施設では、健康診断や人間ドックだけでなく、ラジオ体操や脳トレ、麻雀、指の運動、体操教室などが自然に組み込まれている。

今度は座ったままのヨガもあるらしい。

健康を強制されるのではなく、健康を思い出させてもらう。

そんな暮らしが少しずつ日常になってきている。

履歴書も、健康診断も、胃カメラも、新聞の記事も。

形は違っても、みな記録なのかもしれない。

忘れないために。

そして、これから先の自分のために。


今日は、土日祝日に運行している坊っちゃん列車に、夫と乗る日のための下見に出かけた。

松山市駅の乗り場や周辺の様子を確認しておこうと思ったのだ。

ところが、松山市駅周辺はまだ工事中で、自転車を置く場所もなかなか見つからない。伊予鉄の案内所も見当たらず、坊っちゃん列車の乗り場もよく分からなかった。

自転車を押しながら歩いたが、今日はここで諦めて、以前から気になっていたハローワークへ行くことにした。

運よく来場者用の駐輪場が空いていて、話を聞いてもらうことができた。

33年間の教員生活のこと、訪問鍼灸の資格は持っているが積極的にやりたいとは思っていないこと、登録販売者の勉強をしていること、そして年金だけでは少し心細いので、週に数日でも気分転換を兼ねて働けたらと思っていることなどを話した。

訪問鍼灸の求人も見せてもらったが、土地勘のない場所への移動時間を考えると、今の自分には少し負担が大きそうだった。

その代わりに紹介されたのが、松山城のチケット関係の仕事だった。

思わず「それはいいですね」と言ってしまった。

まだ応募すると決めたわけではない。

けれど、自転車で通える範囲で、松山のことを知りながら働けるなら面白いかもしれない。

英語教師をしていた頃の経験も、いつか役に立つ場面があるかもしれないと思った。

帰りは思ったより順調で、以前より坂道も楽に走れた。

2時からのいきいき教室には間に合わなかったが、2時半からの回には参加することができた。

夕方になってから伊予鉄に電話をすると、坊っちゃん列車のこともよく分かった。

松山市駅から乗る場合は予約不要で、ICカードも使えること。道後温泉駅から乗る場合は、土日祝日は整理券が必要なこと。そして銀天街の奥にある坊っちゃん列車ミュージアムは無料で見学できることも教えてもらった。

考えてみれば、電話一本で分かったことも多い。

それでも今日出かけたからこそ、何を聞けばいいのかが分かったのだと思う。

坊っちゃん列車の下見に出かけた一日だったが、気がつけば松山でのこれからの暮らし方まで考える日になっていた。


今朝、朝食を食べに食堂へ行くと、いつもと少し様子が違っていた。

流れていたのはクラシックではなく、ビートルズだった。

「レット・イット・ビー」が流れ、そのあとも「イエスタデイ」や聞き覚えのある曲が続いた。

5月の間はずっとクラシックが流れていたので、正直少し驚いた。

「ああ、この施設ではビートルズも流れるんだ」

そんなことを思いながら食事をした。

若い頃、私はビートルズの赤盤と青盤を持っていた。

もう手元にはないが、思いがけず昔の記憶がよみがえった朝だった。

そのあと、以前見かけた保冷バッグを買おうと思って出かけた。

200円だったので、次に来た時でいいかなと思っていたのだが、もう売れていた。

少し残念だったが、「いいと思うものは、他の人もいいと思うんだな」と妙に納得した。

最近は、何か気になる場所があると、まず下見に行くことが多い。

今日も天気が良いので、坊っちゃん列車や道後温泉周辺の下見に出かけようと思っている。

夫が来た時に、どんなふうに回ろうか。

どこで休めるだろうか。

実際に歩いてみないと分からないことは意外と多い。

松山へ来てまだ一か月ほどだが、気がつけば私は今日も下見に出かけようとしている。

知らない街を歩いているつもりだったのに、少しずつ「自分の街」を歩いているような気持ちになってきた。


今朝もラジオ体操のあと、3号館から2号館へ向かう渡り廊下を歩いた。

そこにはいつも見ている絵が飾られている。

毎日のように目にしていたはずなのに、今朝はなぜか立ち止まって見入ってしまった。

絵を眺めているうちに、ふと昔見たモネの睡蓮を思い出した。

私は美術に詳しいわけではない。

若い頃、美術館へ行っても、印象派の絵の良さがよく分からなかった。

写真のように正確に描かれているわけでもないし、輪郭もはっきりしない。

「なぜこんな絵が評価されるのだろう」

そんなふうに思ったこともあった。

ところが今朝、渡り廊下の絵を見ながら、不思議な感覚になった。

目の前の景色をそのまま描くのではなく、その場の光や空気や、見る人の心の動きまで映し出そうとしている。

そんな世界が少しだけ分かったような気がした。

そして、松村豊さんの絵とモネの睡蓮が、自分の中で静かにつながった。

もちろん、画風も時代も違う。

けれど、どちらにも強さと優しさがあるように感じた。

強く主張するのではなく、静かにそこにある。

見る人の心にそっと寄り添うような強さ。

そんなものを感じた。

松山へ来て一か月。

新しい生活に慣れることに精一杯だった毎日の中で、今朝は少しだけ立ち止まる時間があった。

そして、今まで別々だったものが、ひとつにつながる瞬間があった。

年齢を重ねるということは、たくさんの知識を覚えることではなく、

若い頃には見えなかったものが見えるようになることなのかもしれない。

渡り廊下の絵を見ながら、そんなことを思った朝だった。


今朝もラジオ体操から一日が始まった。

朝の空気はまだ少しひんやりしている。日中は半袖でも暑いほどなのに、朝は上着がほしくなることもある。その温度差に、季節が少しずつ移り変わっていることを感じる。

今日は6月1日。

昨日まで何気なく迎えていた「6月」だが、今朝は少し違った気持ちで迎えた。

施設の食事予定表には「水無月御膳」などの文字が書かれていることがある。以前から見かけていたのだが、正直なところ意味はよく分かっていなかった。

調べてみると、水無月(みなづき)は6月の和風月名だという。

さらに、1月は睦月、2月は如月、3月は弥生、4月は卯月、5月は皐月、7月は文月、8月は葉月、9月は長月、10月は神無月、11月は霜月、12月は師走と、それぞれに季節や暮らしに結びついた意味があることを知った。


若い頃、私は自分のくせ毛が好きではなかった。

テレビや雑誌で見るようなストレートヘアに憧れたこともある。しかし、生まれつきの髪質は簡単には変わらない。いつしか髪の悩みよりも、仕事や暮らしの方が忙しくなっていった。

教師として働いていた頃は、長い間とても短い髪だった。毎日忙しく、髪に時間をかける余裕もなかったし、その方が自分にも合っていると思っていた。

やがて子どもたちの教育費がかかるようになると、美容院代も気になるようになった。千円カットが流行り始めた頃には何度か利用したが、家に帰って鏡を見るとどうもしっくりこない。結局、自分で切り直していた。

ある時、ブローネの髪をすくための道具を見つけた。お風呂の前やシャンプーの前に、自分で少しずつ髪をすく。髪の量が多く、くせ毛でもあったので、その方法は私に合っていた。

それ以来、自分で自分の髪を管理する生活が長く続いた。

夫が「散髪に行ってくる」と言うたびに、そういえば私は長いこと髪にお金をかけていないなと思ったものだ。

そんな私が初めて髪を伸ばしてみようと思ったのは、ベリーダンスを始めてからだった。

振り付けの中には、髪をかき上げたり、横に流したり、髪の動きそのものを表現に使うものもあった。ダンスを通して、長い髪の持つ雰囲気や楽しさを初めて知った気がする。

気がつけば髪は肩より下まで伸びていた。

普段は結び、踊る時だけほどく。

そんな年月が続いた。

今は松山で新しい暮らしを始めている。周りを見ると、短い髪の人が多い。「その方が楽よ」「すぐ乾くしね」と言われる。その通りだと思う。私自身も長い間そうしていた。

それでも今のところ、ショートヘアに戻す気にはなれない。

髪の量は自分ですいて軽くしているし、長さも肩くらいまでにしている。決しておしゃれな髪型ではないし、美容師さんのように上手には整えられない。

それでも、この髪の長さには、くせ毛に悩んだ若い頃も、教師として働いた日々も、家計をやりくりしていた時代も、ベリーダンスに夢中だった時間も重なっている。

髪の毛は、思っていた以上に、私の人生を覚えているのかもしれない。


松山へ来て驚いたことの一つが、交通機関だった。

静岡ではJRが街の中心だった。

駅へ行けば店があり、人が集まり、TOICAで改札を通るのが当たり前だった。

ところが松山では少し違った。

まず、松山市駅とJR松山駅が別の場所にある。

地図で見ればそれほど遠くないのかもしれないが、私には思った以上に距離があるように感じた。

そして街の賑わいも違う。

松山市駅の周辺にはデパートや商店街があり、人の流れがある。

一方、JR松山駅へ行ったときは、どこか静かな印象を受けた。

さらに驚いたのはICカードだった。

静岡で使っていたTOICAを見せると、JRでは使えないと言われた。

ところが後で調べると、路面電車やバスを運行する伊予鉄では使えるという。

私の中ではJRの方が大きな鉄道会社という感覚があったので、少し不思議だった。

松山ではJRよりも伊予鉄が暮らしの中心に近いのかもしれない。

路面電車が街をゆっくり走り、バスが生活を支えている。

そして、その象徴のように坊っちゃん列車が今も走っている。

まだ乗ったことはないが、一度は乗ってみたいと思っている。

松山に来て一か月。

交通機関を眺めているだけでも、その土地の歴史や暮らし方が少しずつ見えてくる気がする。

慣れ親しんだ土地では当たり前だったことが、別の土地では当たり前ではない。

そんな小さな発見を重ねながら、私は少しずつ松山という街を知っていくのだと思う。


昨日、街へ出たついでに、いよてつ高島屋の横にあるキャンドゥへ立ち寄った。

レーズンが残り少なくなっていたので買い足そうと思ったのだが、棚を見ると、私が買おうと思った90g入りのレーズンだけが空になっていた。

店員さんに聞くと、「倉庫を見てきます」と言って持ってきてくださったので、無事に購入することができた。

そのとき、ふと上の棚を見ると、少し内容量の少ないレーズンはたくさん並んでいた。

同じ110円なのに、なぜ90gだけがなくなっているのだろう。

帰宅して冷蔵庫に残っていたレーズンを見たら、こちらはダイソーで買ったもので65gだった。どちらもアメリカ産のカリフォルニアレーズンなのに、内容量にはかなり差がある。

90g、65g、そしてその中間くらいのもの。

同じ値段なら、やはり多く入っているものを選びたくなる。

棚が空になっていたのを見て、「みんなちゃんと見ているんだな」と思った。

百均の商品というと、どれも同じように見えてしまうが、実際には内容量や加工会社が違い、消費者もそれを見比べて選んでいる。

小さなことだが、そんな発見が面白かった。

そしてレーズンを見ながら、自分の食生活のことも考えた。

以前は玄米を炊き、肉や魚、野菜を考えながら食事を作っていた。

けれど、献立を考え、買い物をし、調理し、後片付けをする。その繰り返しに、いつの間にか疲れていたのだと思う。

今は食堂で栄養バランスを考えた食事が出る。

レーズンは、昼にパンを焼いてマーガリンを塗り、その上にのせて食べるために買ったものだ。温かい紅茶と一緒に食べれば、それだけでちょっとした楽しみになる。

百均の棚の前で、「どちらがお得か」と考えていたはずなのに、気がつけば、自分の暮らし方や食事との付き合い方まで振り返っていた。

松山へ来て1か月。

最近は、こんな小さな発見が意外と面白い。


今日は嵐のコンサートがある日なのか、インスタでは彼らの曲やダンスがたくさん流れてきている。チケットを求めて会場へ向かう人たちの熱気も、どこか画面越しに伝わってくる。

以前、私は羽生結弦さんのアイスショーを高額のリセールでチケットを手に入れて見に行ったことがある。一番前の席だったのに角度の関係でよく見えず、ライブは必ずしも「現地が一番良いとは限らない」と感じた経験がある。それ以来、映像の方がよく見えることもあると思うようになり、無理に会場へ行きたいとは思わなくなっている。

それでも、彼らのダンスや歌を見ていると、そして今40代になった姿を見ていると、「花より男子」を見ていた頃や、その時代に流れていた音楽を思い出す。自分自身も若かった時代の感覚が一緒によみがえる。

ここ2〜3ヶ月は引っ越しやニュージーランドへの訪問などがあり、ズンバやエアロビクスにちゃんと通えていない。若い頃はエアロビクスが好きで、今のように難しくは感じていなかった気がする。今はズンバの方が自分には合っていて、エアロビクスはついていくのが少し難しく感じる。

昔と同じ名前の運動でも、内容が変わっているのか、自分の身体の感じ方が変わったのか、その両方なのかもしれない。音楽と身体の記憶は、時間と一緒に静かに変わっていくのだと思う。


麻雀教室から帰ってきたら、ニュージーランド(オーストラリア)から動画が届いていた。
もうすぐ11ヶ月になる孫が、よたよたと歩いている。

つい最近まで、抱っこされて寝ている姿しか見ていなかった。
数ヶ月前に会ったときは、つかまり立ちをしていた。
それが今日は、もう歩いている。

あまりの速さに、人間の成長というものはこういうものだったのかと改めて思う。

その一方で、今日の麻雀教室では、85歳や91歳の方々と一緒に過ごした。
脳梗塞のあとで麻雀に通っている70歳の方、
転倒して大腿骨を骨折し、退院して間もない方、
長年の仕事や家族の経験を経て今も元気に通っている方たち。

皆、元気そうに見えるが、それぞれに身体の歴史を抱えている。
食べるものに気をつけながら、日常を続けている姿があった。

そこへニュージーランドのお土産のナッツバーを持っていったら、
皆その場でバリバリと食べてしまった。
歯のことを気にしながらも、今を生きる身体の強さを感じた。

そして思った。
今日は、まったく逆の方向の時間を同時に見ていたのだと。

生まれてから一気に形をつくっていく時間と、
長い年月をかけて整えながら続いていく時間。

その両方が、同じ一日の中にあった。

人の一生は、遠い話ではなく、
こういう日常の中にそのまま重なっているのかもしれない。


三人目も
初めての歩み
よたよたと


十ヶ月と二十三日
砂の国で
初めての歩行


今朝もラジオ体操に参加したあと、建物の横にある花壇を見に行った。

立て札の立った花がいくつか咲いていて、名前を見ながら眺めていた。高く伸びている花もあれば、まだ少ししか咲いていない花もある。

ぼんやり見ているうちに、その奥に喫煙所があることに気がついた。

そういえば、時々そこへ向かう人を見かける。この施設は部屋でも喫煙できるが、換気や火の始末についての注意書きがある。今は吸う人も少ないようだが、長年の習慣を続けている人もいるのだろう。

それを見ていて、ふと自分がたばこを吸っていた頃のことを思い出した。

公立高校の英語教師として働いていた頃だった。

受験対策に追われ、マークシートの採点や提出物の確認に追われ、職員会議や教科会議にも神経を使った。

家庭では子どもたちのこと、夫とのすれ違い、自分の病気、将来への不安も重なっていた。

あの頃の私は、たばこがおいしかったわけではない。

むしろ吸っても何も楽しくなかった。

ただ、やるせない気持ちの逃げ場として、その行為に頼っていたのだと思う。

その後、うつ状態になり精神科へ通うようになった。

幸い良い先生に巡り会うことができ、長い時間をかけて少しずつ回復していった。

今振り返ると、よくあの時代を生き抜いたと思う。

そして今の私は、花壇の花を見たり、熱帯魚を眺めたりしている。

今日は熱帯魚の水槽で、新しい魚を四匹ほど見つけて写真に撮った。

昨日は百円ショップで買った筆で文字の練習をした。

そろばんも少しずつ続けている。

どれも大きなことではない。

けれど、そういう生きているものや自然の変化に目を向ける時間が、昔の私にはなかったように思う。

忙しさや苦しさの中では、花も魚もそこにいたのに見えていなかったのだろう。

松山へ来て一か月。

まだ新しい生活は始まったばかりだが、見えなかったものが少しずつ見えるようになってきた気がしている。


引っ越してから、まだ1か月しか経っていない。

生活そのものは少しずつ形になってきているけれど、気持ちのほうはまだ完全には追いついていない。今はちょうど、その途中にいるのだと思う。

これから先の暮らしは、「ここでの生活」が軸になる。その中で、自分にできることとできないことが、少しずつはっきりしていくのだろう。

不安がまったくないわけではない。ただ、この場所には話せる人もいるし、静かに過ごすこともできる。そうした距離感は、思っていた以上に心を楽にしてくれている。

職員の方々も必要なときにはきちんと関わってくれるが、基本的には自立した生活が尊重されている。そのバランスが、今の自分には合っているように感じている。

一方で、家族のこと、お金のこと、これからの生活設計については、まだ整理の途中にある。すぐに答えを出すというより、少しずつ現実と気持ちをすり合わせていく段階なのだと思う。

長い時間をかけて準備してきたはずのことでも、実際に暮らし始めてみると、見えてくるものは違う。安心と不安が同時に存在している状態の中で、今はただ、その変化に慣れていこうとしている。

結論を急ぐ時期ではなく、「ここでの暮らしに馴染んでいく時期」なのだと思う。


今日は、本来の目的としていくつかの場所の位置関係を確かめるつもりで外出した。

第一の目的は、キスケのアトウィール(ジム)へ、エデンのバスや徒歩で行けるかどうかを確かめることだった。雨の日の移動方法や距離感も含めて、実際の生活動線として成り立つかを見たかった。

また、JR松山駅と伊予鉄松山市駅の位置関係、そして千舟町四丁目周辺とのつながりも、自分の中で整理したいと思っていた。

ただ、伊予鉄の時刻表をもらえる場所が分からず、そこは一度保留になった。

それでも、ベテル病院の無料バスの乗り場と千舟町四丁目周辺の位置関係は、今日の移動の中でだいたい理解できたと思う。

地図として“知っている”というよりも、「実際にそこに立ってみて分かる」という感覚に近い。

松山市駅、銀天街、大街道、JR松山駅、それぞれがまだ完全に整理されているわけではないが、少しずつ線でつながり始めている。

今日は結論を出す日ではなく、「距離とお金と移動手段を見て、選択肢を増やす日」だったように思う。

ジムに行くかどうかも含めて、もう少し時間を置いて考えたい。

地図が少しずつ頭の中で立体になっていく途中の一日だった。


今朝もラジオ体操から一日が始まった。

少し前に見つけたテラスのことをnoteに書き、朝の時間を過ごした。

そのあと、登録販売者の問題集を3問ほど解いた。

アレルゲンに関する問題が続き、「タートラジン」「カゼイン」「亜硫酸塩」など、これまで聞いたことのない言葉が出てきた。難しいが、新しい知識を知るのは嫌いではない。

一方で、脳を刺激するという謎解きの本は相変わらず苦戦している。

箱を動かしたり、位置をずらしたりして答えを見つける問題だったのだが、答えを見てもなぜそうなるのか考え込んでしまった。

iPhoneの脳トレも今日はまだやっていない。

そろばんも2日ほど休んでいる。

だからといって、特に焦ってはいない。

できる範囲でやればいいと思っている。

iPadの写真整理も途中だ。

かなり減ったとはいえ、まだ整理しなければならない写真が残っている。

考えてみれば、やることはいくらでもある。

勉強もある。

脳トレもある。

写真整理もある。

家計の確認もある。

それでも今日は天気が良い。

これからベテルバスに乗って松山市駅方面へ行ってみようと思う。

ジムへ入会するかどうかを決めるためではない。

まだ松山の街の地図が、自分の中で十分につながっていないからだ。

道後方面は少しずつ分かるようになってきた。

しかし市駅方面は、まだよく知らない。

歩いてみれば、新しい発見があるかもしれない。

バス停の位置や、スーパーの場所、雨の日に歩けそうな道も分かるかもしれない。

何時に帰るかも決めていない。

11時台に帰るかもしれないし、もう少し街を歩いてから帰るかもしれない。

そんなふうに考えている時間も、なかなか面白い。

全部はできていない。

でも、できたこともある。

そして今日は、また少しだけ自分の暮らしの地図を広げに行こうと思う。


ゴールドコーストにいるという息子から、今日LINEが来た。

ビーチの動画や、子どもたちの様子が送られてきた。
上の子たちはプールで遊び、一番下の子は昼寝をしている。
日常の延長のような風景だった。

このやりとりをきっかけに、彼との関係のことを少し思い出した。

息子は13歳でニュージーランドへ行った。
その頃から、彼の人生は日本の枠の外で進んでいった。

私は英語の教員として働きながら、生徒を海外へ引率し、自分の子どももイマージョン教育に入れた。
海外は特別な夢というより、職業的な現実でもあり、同時に個人的な関心でもあった。

ただ、現実は単純ではなかった。

仕事は受験英語や採点に追われる日々で、
家庭では別の選択や負担が重なっていた。
私は病気も繰り返し経験し、声が出ない時期もあったし、胃がんも経験した。

その中で、息子の海外生活をずっと“安心して見守る”という状態には、正直なところなれなかった。

安心というより、「コントロールできないものを受け入れるしかない」という感覚に近かったと思う。

息子は成長の過程で、進路も生活も何度も変わった。
医学を目指すのかと思えば、ヘルスサイエンスへ進み、
さらに最終的には歯学を選んだ。

医師の世界の厳しさや生活の現実を知り、「人間らしい生活を送りたい」と言って進路を変えた。

その選択に対して、私はもう何も言うことはできなかった。
というより、もともと口出ししてきたわけでもない。

ただ、その都度「この子の人生はこの子のものだ」と思い直すことの繰り返しだった。

お金のことも含めて、親として支えた部分はある。
それは戻ってくるものではないという前提でやってきた。

それでも、彼の中には「返したい」という気持ちがあり、
夫との間で少しずつ金銭的なやりとりが生まれている。

そこに私が直接関わることはほとんどない。
それもまた自然な形だと思っている。

今振り返ると、親子というより「別個の人格が長い時間の中で関係を続けている」という感覚に近い。

子どもは他人であり、親もまた他人である。
ただ、完全に切れているわけでもない。

形は変わったけれど、関係は続いている。

その距離感の中で、それぞれが自分の人生を成立させていくしかないのだと思う。

私は今、自分の最終的な生き方として、
子どもに負担を残さないことを一つの軸にしている。

それは彼の人生を縛らないためでもあり、
同時に自分自身が納得して終わるためでもある。

関係は続いている。
ただ、その形はもう以前とは違う。


松山へ来て、ちょうど1ヶ月になる。

この1ヶ月で、自分でも少し不思議なくらい、「今までやると思っていなかったこと」を始めている。

エデン体操、生き生き体操、指体操、脳トレ、そろばん、登録販売者の問題集。

以前の自分なら、どれも「今さらやらないだろう」と思っていたものばかりだ。

エデンの園で行われる体操は、最初はストレッチから始まる。

ところが途中から、

手と足を別々に動かしたり、指を開いたり閉じたりしながら数字を引いたり、左右を逆に動かしたりと、

だんだん頭がこんがらがってくる。

最近は「50から6を引いていく」というものもあった。

引き算だけならできる。手足の運動だけならできる。

でも、それを同時にやると急に混乱する。

頭と指、頭と腕、頭と足、算数と動作。

いろんなものを同時に使うと、こんなにも難しいのかと思った。

私はズンバやヨガ、太極拳のように、音楽や流れに乗って体を動かすことは割と好きだった。

だから最初は、「座ってやる体操なら簡単だろう」とどこかで思っていた。

ところが実際は、座っているのに脳のほうが疲れる。

そして最近、ずっと積んだままになっていた脳トレの本を、1日1問でも見てみようと思うようになった。

「あなたを試す50の難問」というような本なのだが、正直ほとんど解けない。

でも、不思議と面白い。

登録販売者の古い問題集も、また少し開き始めた。

試験を受けるかどうかはわからない。

けれど、薬には興味がある。

1日2〜3問だけ読んで、マークして、答えを見て、「ああ、そうなのか」と思う。

知らない言葉が1つ増えるだけでも面白い。

そして最近は、そろばんまで始めている。

YouTubeを見ながら、繰り上がりでつまずき、「なぜここで玉を動かすのか」という初歩のところからやっている。

昨日は時間がなくてできなかった。

でも、そろばんは傍らに置いている。

時間があったら少し触る。

大正琴やピアノとはまた別に、暮らしの中に「少し頭を使うもの」が増えている。

全部を完璧にやろうとは思っていない。

少しだけ触る。少しだけ考える。少しだけ混乱する。

そして、「自分がいかにできないか」を知る。

それが、なぜか面白い。

若い頃は、「できるようになること」のほうを急いでいた気がする。

でも今は、

「いつかできるようになるのかな」

と思いながら続ける時間そのものが、面白くなっている。


今日はジムの下見に行くために、自転車で普段行かない場所まで移動した。出発前は正直かなり面倒でしんどい気持ちが強かったが、それでも一度行ってみようと思い、実際に行くことができた。

現地ではスタッフの話を聞き、キャンペーンや料金について説明を受けた。「今はお得」と言われる内容もあったが、通帳を持っていなかったこともあり、その場で即決はしなかった。一度持ち帰って考えることにした。

帰宅後は予定通りお風呂や夕食の時間にも間に合い、マッサージチェアに座りながら一日を振り返ることができた。自分で決めた時間の中で、一日を整えて終えることができている。

この施設での生活の中で、今は夫が不在であり、自分一人で生活や運動、ジム選びなどを調整している。その中で、7月からジムに通いたいという思いも含めて、無理をせず一度整理しながら動いている一日だった。


本文今日は少しだけラジオ体操に遅れた。

ほんの少しなのだが、朝になってから本やカードを探していたので、前日の夜にまとめておけばよかったなと反省した。

ラジオ体操の後は、3階のお風呂の横にあるマッサージチェアへ行くことが多い。その後はそのまま食堂へ行くので、本や部屋のカードなどを、小さな袋に入れておけば慌てずに済みそうだ。

階段を上がる途中では、いつも見ている木を見上げた。

ツバキなのか、寒椿なのか、花桃なのか。「これはいつ咲くのかな」と思った。

毎日同じ階段を通っているのに、少しずつ見えるものが変わっている気がする。

1棟3階へ入ると、1305号室の名札が白紙になっているのが、今日は妙に目に入った。

前から気づいていたはずなのに、今日はその“白さ”が印象に残った。

掲示板には、ご逝去のお知らせや工事予定が出ることがある。6月から内装工事が入る部屋もあるようだった。

介護棟へ移られたのか、退去されたのか、ご逝去されたのかはわからない。けれど、この施設の中でも、人の入れ替わりが静かに続いているのだと思った。

そのあと、前から気になっていた「テラス」の表示を見て、ドアを開けてみた。

普通に開いた。

出てみると、思ったよりかなり広かった。景色は食堂から見えている風景とほとんど同じで、「ああ、この下が食堂なんだ」と初めて位置関係がつながった。

右側には細い通路もあり、そこから見る景色はまた少し違っていた。

以前から気になっていた、建物の外にある金属製の無機質な階段もよく見えた。避難階段だと思うが、ちゃんと各階へつながっていることがわかった。

テラスに立っていると、昔、教員時代のことを思い出した。

不登校気味だった生徒が、高い階の窓から飛び降りようとしたことがあった。職員が気づいて止めた。

だから、このテラスの低いフェンスを見た時、「その気になれば越えられる高さだな」と思った。

でも同時に、この場所には閉塞感がなかった。

むしろ風が通って、開放感があって、クモの巣まで張っていた。

ここで飛び降りようと思う人はいない、そんな空気を感じた。

こ晴れた日には、ここでぼーっとするのもいいなと思った。

影はないので、夏になれば帽子や日焼け止めが必要かもしれない。でも、人もほとんど来ないし、何も考えたくない時にはちょうどいい場所かもしれない。

今これを書いている横を、毎日歩いている男性が通っていった。

何階まで行っているのかはわからない。運動なのか、習慣なのか、それとも気分転換なのか。

でも、そういう人の姿も、この建物の暮らしの一部なのだろう。

松山へ来てまだ1ヶ月ほどだが、この建物は、まだまだ探検するといろいろ見つかりそうだ。

大げさに冒険するわけではない。気づいた時に、少しずつ見つけていけたらいいなと思う。

今、朝の6時59分。もうすぐ7時になる。


松山へ来て、施設で暮らし始めてから、食事について考えることが増えた。

この施設では、1日1600kcalが目安だと聞いた。

最初は、1600kcalと言われても、正直よくわからなかった。

けれど、毎日の献立表を見ると、1食が500〜600kcal前後で組まれていて、合計すると確かにそのくらいになる。

朝食では、ご飯の量を小盛り、普通盛り、大盛りなどから選べる。

さらに、焼海苔、海苔佃煮、ふりかけのような小さな選択肢もあり、乳製品も牛乳、ヨーグルト、チーズ、ヤクルトなどから選べる。

私は牛乳があまり好きではないのだが、骨粗鬆症のこともあり、「修行」みたいな気持ちで毎朝飲んでいる。

最近、体重が少し増え、43kg近くまで戻ってきた。

以前は41〜42kgくらいだったので、自分としては少し安心している。

昼食は、最近は食堂で食べず、自室で食パンを焼き、チーズやアーモンド、レーズンなどを軽く食べる形にしている。

病院へ行く日も多く、時間的にも精神的にも、その方が今の自分には合っている。

朝と夕は、少し大盛りのご飯をほとんど残さず食べているが、周囲を見ると、小盛りの人も多い。

返却口には、きれいに食べ終えた食器もあれば、かなり残っている食器もある。

「今日は食べられなかったのかな」

そんなことを、つい考えてしまう。

高齢者の食事は、「減らすこと」が大事なのだと思っていた。

でも実際には、

  • 食べられること
  • 体重を落とさないこと
  • 筋肉や骨を維持すること
  • 無理なく続けられること
の方が、ずっと大切なのかもしれない。

最近は、食堂で出てくる料理を見るのも面白い。

今日は「ピーマンの塩昆布漬け」が出ていた。

和風なのだが、不思議な味だった。

でも、こういう組み合わせを考える人がいるのかと思うと、少し面白かった。

高齢者施設の食堂は、ただ食事をする場所ではなく、人それぞれの老い方や暮らし方が見える場所なのかもしれない。


長い間、私はサプリメントを健康維持の中心だと思っていた。

インターネットで購入し、これを飲んでいれば安心だと、特に疑うこともなく続けてきた。松山へ来る時も、それらを当然のように持ってきた。

最初のうちは、施設でも飲み続けていた。

しかし、ここで出される食事を続けていくうちに、少しずつ考えが変わっていった。栄養のバランスが整っている食事を毎日きちんと食べていると、「これだけで十分なのではないか」と感じるようになった。

その時、食堂で聞いた言葉が強く残っている。

「ここの食事を食べていたら、サプリは一切いらないですよ」

その一言が、頭の中にずっと残った。

そして思い切って、サプリをやめてみた。エビオスやビタミン剤を含めて、長く続けてきた習慣だったが、不思議と不安はそれほど大きくなかった。

それからしばらく経つが、今のところ体に特別な支障はない。

むしろ、自分の体は「食べたものでできている」という当たり前のことを、改めて感じている。

そんな中で、昨日、防災用品の話を聞いた。

備蓄食や水の話の延長で、「サプリは防災時に役に立つのか」という疑問が浮かんだ。

日常では手放しても問題がなかったサプリが、もし非常時にはどういう意味を持つのか。

食べるもの、命を支えるもの、そして備えるということ。

それらの境目は思っているほどはっきりしていないのかもしれない。

今の自分にとっての備えとは、「特別なものを持つこと」ではなく、「日常の食事を少し余分に備えながら続けていくこと」に近いのではないかと思う。

非常食を別に用意するというよりも、普段食べている食事や水、缶詰などを少し多めに持ち、それを食べながら補い、また買い足していく。

いわゆるローリングストックという考え方に近い形が、今の暮らしには一番合っているのかもしれない。

防災も健康も、「特別な備え」ではなく、「日常の少しの余裕」の積み重ねなのかもしれない。


ジムではズンバのように、音楽に合わせて体を大きく動かす運動や、ヨガのように呼吸とストレッチを中心にした運動を好んでいた。
どちらかというと「気持ちよく動くこと」が中心だったと思う。

しかし、エデンの体操は少し違っていた。

椅子に座ったままのストレッチから始まり、ボールを使った運動、左右で違う動きをするグーパー運動、さらに手拍子が加わるものまで、動きそのものよりも「頭と体を同時に使うこと」が中心になっている。

そして最も難しかったのは、右手と左手で異なるリズムやルールを同時に行う運動だった。
途中で混乱し、何をしているのかわからなくなる感覚があった。

また、足の開閉運動に引き算を組み合わせる運動では、体の動きと計算がずれていき、途中で崩れてしまった。先生自身も間違える場面があり、それほど難しい内容だったのだと思う。

これまでの運動では、「できるかできないか」はあまり意識してこなかった。
しかしここでは、「できると思ったことができない」という経験がはっきりと現れた。

それは少し驚きでもあり、自分の変化を実感する新鮮な体験でもあった。

同時に、80代・90代の方々が自然に参加している姿を見ることで、「できる・できない」は単純な年齢や能力ではなく、慣れや経験の積み重ねでもあることを感じた。

運動そのもの以上に、「自分の現在地を知る時間」になっているように思う。


今朝、新聞では中東情勢や原油価格のニュースが大きく載っていた。

イラン、原油高、円安、物流不安。

そんな言葉を読みながら、私は朝のラジオ体操へ向かった。

その帰り、夫からLINEが入った。

静岡では、指定ゴミ袋が品薄になっているらしい。

けれど、流通は止まっているわけではないという。

「なくなると困るから」と、多めに買う人が増えているらしいのだ。

私は、少し前のトイレットペーパー騒動を思い出した。

本当は不足していない。

けれど、「なくなるかもしれない」という不安が広がると、人は少し多めに買う。

その結果、本当に棚から消えていく。

不足しているのは、袋なのか。

それとも、不安なのか。

静岡では長い間、指定ゴミ袋以外ではゴミを出せなかった。

違う袋で出すと、シールを貼られて置いていかれる。

ゴミ袋は、ただの袋ではなく、「ルール」でもあり、「生活」でもあり、「税金」でもあった。

だからこそ、人は不安になるのだと思う。

もし袋がなくなったら。

もし出せなかったら。

そんな小さな不安が、暮らしの底の方に触れてくる。

昔、町内会の組長をしていた頃、ゴミ置き場を見回ることがあった。

まだ半分も入っていない袋。

反対に、ぎゅうぎゅうに詰め込み、テープで補強された袋。

同じ地域に住んでいても、人によってゴミ袋の使い方はまるで違っていた。

「もったいない」

「家に置いておきたくない」

「次の回収日まで待ちたくない」

そんな生活感覚が、袋ひとつに現れていた気がする。

ニュースは遠い世界の話に見える。

けれど実際には、原油価格のニュースを読み、不安になり、人が少し多めに袋を買う。

そして、ゴミ袋が消える。

私たちはニュースを読んで、そして生活している。

最近、そのことをよく思う。


新聞の天声人語を読んでいて、久しぶりに、過去の記憶が静かに浮かび上がってきた。

その文章の中では、中国と日本の関係をつないだ人物のエピソードが紹介されていた。戦後の混乱の中で、日の丸の旗にすがりながら「これを下ろしてほしい」と訴えた人の言葉や、その旗のもとで多くの人が命を落としたという歴史の重みが語られていた。

その流れの中で、国旗をめぐる現在の議論にも触れられており、過去の記憶と現在の問題が、ひとつの文章の中で自然につながっていた。

その構成のまま読み進めているうちに、私はふと、教員として働いていた頃の職員会議や学校現場の空気を思い出していた。国旗や卒業式、体育祭をめぐって、それぞれの立場から意見が交わされていた場面である。

保護者対応や部活動など、それぞれの生活や役割を抱えながら会議に参加していた先生たちの姿も思い出す。意見の違いだけでなく、日常の時間制約の中で議論が進んでいたことも含めて、当時の空気がよみがえってきた。

そのときの私は、教育そのものに対しては簡単に割り切れない思いを抱えながら、日々の授業や現場の中にいた。偏差値や進学実績といった枠組みの中で、自分にできることは何なのか、明確な答えを持てないまま過ごしていたように思う。

ただ、今あらためて振り返ると、当時の現場には、それぞれ異なる立場や歴史認識、生活事情が重なり合っていた。その重なりの中で、すぐには整理できない時間が流れていたのだと感じている。

天声人語をきっかけに思い出したことは、結論を出すための記録というよりも、「そういう時間が確かにあった」という静かな確認に近いものだった。


今朝、ラジオ体操のあと、園の右側にある小さな花壇の前で立ち止まった。

大きな花壇ではない。
けれど、季節の花がいくつも植えられていて、思わず目が向く場所だ。

アリッサム、チューリップ、アジュガ・オーキッド。
ほかにも、「ダイヤモンドスター」や、名前を覚えきれない花たちの札が立っていた。

私は、その名前を忘れないように写真を撮った。

以前の私なら、たぶん花壇の横をそのまま通り過ぎていたと思う。

朝起きてもカーテンを開けたくなかった。
空を見上げたり、月を見たりする気持ちもなかった。

意識して拒んでいたわけではない。
ただ、そういうものを見る余裕がなかった。

木も見なかった。
花も見なかった。
熱帯魚やメダカを見ることも、長い間ほとんどなかった。

けれど松山へ来てから、少しずつ変わってきた。

ラジオ体操の帰りに樹木を見るようになり、
「今度は花を見てみよう」と自然に思った。

いきいき教室で見た誕生花の写真も、どこか心に残っていたのかもしれない。

花を見て、大げさに感動しているわけではない。
でも、「きれいだな」と自然に思える。

そして、

「チューリップは次、いつ咲くのだろう」
「あの白い花は、いつ咲くのだろう」

そんなことを考えている自分がいる。

それが、今の私には少し不思議だった。

食事は用意され、鍼や英語の仕事も今はない。
“しなければならないこと”が減ったことで、ようやく周囲を見る余白ができたのかもしれない。

松山へ来て、まだ一か月も経っていない。

役所へ行き、病院へ行き、生活を整えるだけで精一杯だった気もする。

それでも振り返ると、私はこの一か月で、思っていた以上に変わってきたのだと思う。

世の中は、こんなふうに静かに回っていたのだと、今になって少しずつ感じ始めている。


昨日、この施設で防災用品の紹介と試食会があった。

企業の方が来られていて、保存食や備蓄用の水、簡易トイレなどが並んでいた。
私は以前から防災には関心があるので、見に行ってみた。

実際に試食した保存食は、思っていたより美味しかった。
昔、地域の防災訓練で配られた「水を入れるわかめご飯」を思い出した。
あの時も、「意外と食べられるんだな」と思った記憶がある。

けれど、昨日改めて考えたのは、「備えること」より、「続けること」の難しさだった。

保存食も水も、多くは5年保存。
でも5年経ったらどうするのだろう。

期限前に食べるのか。
食べた分をまた買い直すのか。
それを誰が覚えておくのか。

静岡の家には、夫が用意した防災用の水がたくさんある。
「これはいつまでに飲もう」と言いながら出していた時期もあったが、今はどうなっているのか分からない。

私は普段、レトルト食品をほとんど食べない。
お粥も食べない。
水も常備して飲む習慣がない。

だから、防災食品が「普段の延長」ではなく、「特別なもの」になってしまう。

もちろん、備えは大事だと思う。
南海トラフ地震も言われているし、日本は地震も津波も多い国だ。

でも実際には、
  • 住宅は広くない
  • 高齢になる
  • 一人暮らしも増える
  • 持病や食事制限もある
  • 収納にも限界がある
そんな中で、何年も備蓄を循環させ続けるのは、思っている以上に難しい。

「備えたい気持ちはある」
でも、
「本当に続けられるのだろうか」

昨日、防災用品を見ながら、そんなことをずっと考えていた。


最近、インスタを見ていると、Arashi の曲がよく流れてくる。

どうやら最後のライブが近いらしく、昔の映像や「One Love」がたくさん流れてきて、懐かしくなった。

私は特別嵐のファンだったわけではない。
けれど、なぜか「One Love」はとても好きだった。

そこから不思議と、昔自分が好きだった映画やドラマや作家のことを思い出した。

そういえば私は、どんな作品が好きだったのだろう。

たくさん見たはずなのに、意外と忘れている。
けれど、心に残っているものだけを並べると、不思議と共通点があった。

まず思い出すのは、Winter Sonata だった。

韓国へ行った頃、まだ日本で大ヒットする前だったと思う。
お店で冬ソナグッズを見て、「これは何だろう」と思った記憶がある。

その後、日本で大ブームになった。

あの作品の、何とも言えない“すれ違い”が好きだった。

気持ちを全部言葉にしない。
もどかしく、静かで、でも感情が深い。

チェ・ジウの、派手すぎない清楚な雰囲気も好きだったのだと思う。

それから、Boys Over Flowers 。

自分でも不思議なのだが、私はかなり夢中になった。

DVDまで買ったくらいだから、相当好きだったのだろう。
たぶんもうメルカリで売れてしまったけれど。

私は嵐の熱烈なファンというわけではなかったのに、松本潤さんの道明寺と、井上真央さんのつくしに惹かれていた。

俺様で乱暴なのに、妙に不器用で一途な道明寺。
普通の女の子に見えるのに、決して折れないつくし。

今振り返ると、私は“強く見せる人”ではなく、“芯が折れない人”が好きだったのかもしれない。

そして映画では、The Devil Wears Prada が好きだった。

Meryl Streep が演じるミランダは、冷たくて怖くて、嫌な上司でもある。

でも、仕事への誇りがあり、自分を絶対に崩さない。

あの強さが好きだった。

ただ怒鳴るのではなく、知性と経験で空気を支配している感じ。
そして、どこか孤独。

ああいう人物に私は昔から惹かれていた気がする。

同じくメリル・ストリープの作品では、Sophie’s Choice も忘れられない。

戦争の中で、究極の選択を迫られる母親。

見終わったあと、簡単には言葉にできなかった。

最近では、The Apothecary Diaries にも驚くほど惹かれた。

私は普段あまり課金をしないのに、最後まで見た。

なぜ好きだったのだろうと考えると、猫猫の“距離感”なのかもしれない。

媚びない。
でも冷たいわけでもない。

薬や毒への知識を持ち、静かに観察している。

東洋医学っぽい空気も、どこか好きだった。

そして、作家で言えば、
  • Aiko Sato
  • Seiko Tanabe
  • Keiko Ochiai
この三人が、私は好きだった。

佐藤愛子さんは、怒っている。
でも、その怒りが妙におかしくて、笑えてしまう。

田辺聖子さんは、柔らかくてユーモラスなのに、人生の寂しさや現実がちゃんとにじんでいる。

落合恵子さんには、若い頃かなり影響を受けた。

自分の生い立ちを隠さず、自立して生き、「結婚だけが女性の幸せではない」と自然に示していた。

私たちの世代には、ああいう女性はまだ珍しかった。

今こうして並べてみると、私は昔から、

「自分を失わずに生きる女性」

に惹かれていたのだと思う。

大声で強さを見せる人ではなく、

静かに、
少し不器用に、
でも芯を曲げない人。

私は、そういう人物を見ると、なぜか安心したのかもしれない。

若い頃は、「なんとなく好き」だっただけだった。

けれど年齢を重ねて振り返ると、好きだった作品の中に、自分自身の価値観や人生観が、ちゃんと表れていた気がする。

人は、好きな作品を通して、自分でも気づいていない「憧れ」や「願い」を見ているのかもしれない。


私は、病気と長く付き合ってきた。

胃がん、骨密度、膵臓、認知機能、過活動膀胱、歯科、眼科。

「悪くなったから病院へ行く」というより、「悪くならないように検査を続ける」ことが生活の一部になっていた。

だから松山へ来て一番大変だったのは、医療を全部引っ越すことだったのかもしれない。

どの病院へ行くのか。

どの先生に繋ぐのか。

胃カメラはどうするのか。

人間ドックと市の受診券をどう組み合わせるのか。

静岡では当たり前だった流れを、全部作り直さなければならなかった。

そんな中で、精神科の先生が、認知機能も含めて診てくださることになった。

去年、「アルツハイマーでは全くないが心理検査の経過観察を」と言われた検査も、10月にここでできる範囲で続けてくださるという。

ありがたかった。

そして、静岡の溝口病院の青嶋先生が、信じられないほど詳しい紹介状を書いてくださっていたことも知った。

「それは書いてありました」

と今の先生が言ってくださるたび、私は、「ああ、ちゃんと繋がっているんだ」と思えた。

老後とは、病気と戦うことではなく、予防線を張りながら、「病気と共にどう暮らすか」を作っていくことなのかもしれない。


最近、新聞で、OpenAI のChatGPT、Google のGemini、Microsoft のCopilotをどう使い分けるか、という記事を読んだ。

もう、そういう時代なのだと思った。

AIが文章を書き、情報を探し、比較し、整理してくれる。

一方で私は最近、そろばんを触っている。

いきいき講座で、「指を動かすことが脳に大切」と聞き、昔使っていたそろばんを思い出した。

子供の頃、二級ぐらいまではやっていたはずなのに、久しぶりに触ると、一桁の足し算でも、「ああ、そうだった」と思い出す部分と、「繰り上がりってどうやったっけ」と止まる部分がある。

でも面白い。

指が、少し覚えている。

折り紙もそうだ。

パクパクや紙飛行機、ぴょんぴょんガエルのように、昔何度も折ったものは、指が自然に動く。

最近の動画で「簡単」と書かれている折り紙は、最後に小さな三角を折るところで止まってしまうことも多いが、それでも、頭と指を同時に使う感覚がある。

AIが広がる時代だからこそ、人間の手を使うことが、逆に大切になっていくのかもしれない。

麻雀もそうだ。

今はゲームでもできるのに、人は卓を囲む。

そろばんを弾き、折り紙を折り、牌を触り、人と向き合う。

便利になるほど、人間は「手」を取り戻したくなるのかもしれない。


今朝の松山は雨だった。

夜中の3時半に一度目が覚め、薬を飲み、なんとかもう一度眠った。
そして目覚ましで起きて、少し慌てながら雨の中をラジオ体操へ向かった。

戻ってきてから、昨日のロビーコンサートのことを思い出していた。

なぜ自分は太極拳をやろうと思ったのか。
なぜ大正琴を続けてきたのか。

そんなことを、少しずつ考えている。

私は鍼灸師として仕事をしていた頃、「気」という言葉がずっとわからなかった。

東洋医学では当たり前のように、

「気が流れる」
「気が来た」
「気を感じる」

という言葉が使われる。

けれど、自分にはその感覚が実感としてわからなかった。

だから、「気とは何なのか」を知りたくて、ジムで行われていた太極拳に興味を持った。

しかし、初心者からベテランまで混ざる教室では、私にはまだよく理解できなかった。

それで、五段の80歳の先生に個人指導をお願いし、24式太極拳を少しずつ学んだ。

数年かけて2級まで進み、1級の手前まで行った。

片脚で立つ動きでは、自分がどれほどバランスを取れていないかを思い知った。

「気」というのは、どこかに固定して存在するものではなく、呼吸や重心移動や流れの中で感じ取るものだったのかもしれない。

そしてもう一つ、自分の中に残っているのが大正琴である。

私は教員時代、箏曲部の顧問をしていた。
生徒たちが専門の先生から習う横で、自分も少し琴に触れたことがあった。

けれど、鍼灸師の世界では、「指先の感覚を鈍らせる弦楽器は避けたほうがいい」と言われていた。

ギターや琴のように、強く弦を押さえる楽器は、指先が硬くなる。

鍼灸では、指先の微妙な感覚がとても大切だった。

その点、大正琴は番号を押さえてピックで弾くので、指先を極端に硬くしない。

それが、自分には大きな魅力だった。

最初は、静岡のセノバに入っていた教室で中古の大正琴を購入して教室に入った。
ニュージーランドへ2台目を持って行ったこともあったが、結局また日本へ戻り、今は松山と静岡に一台ずつ置いてある。

不思議な縁もあった。

ジムの水泳仲間だった三味線の先生から声をかけていただき、視覚障害のある方々が地域で集い活動する「光の家」で、月に2回、皆と一緒に大正琴を弾くようになった。

それぞれ自宅で暮らしている方々が、バスで集まり、散歩をしたり、草取りをしたり、音楽を楽しんだりする場所だった。

そこで皆と一緒に演奏した時間が、今の自分につながっている。

昨日のロビーコンサートを聴きながら、自分はずっと、

「気」や「音」や「人と合わせる時間」

を求めてきたのかもしれないと思った。

松山へ来てから、生活を整えることで精一杯だった。

けれど、少し落ち着いたら、また太極拳や大正琴に触れてみたい。

そんなことを、雨の朝に考えている。


今日は、思っていた以上に“動いた一日”だった。

午前中は少し気持ちが重く、ジムに行く予定も前向きになれず、横になって休んでいた。けれど目覚ましで起きて、ロビーコンサートには間に合い、マンドリンの演奏を聴くことができた。

「カノン」「コスモス」「川の流れのように」「北の国から」「ヘッドライト・テールライト」、そして最後は「愛の讃歌」、全員で「ふるさと」。静かで懐かしく、気持ちが落ち着いていく時間だった。

帰宅して自分の部屋に戻ると、その余韻のまま、大正琴と折りたたみの小さなピアノを取り出した。楽譜を探すと「今日の日はさようなら」があり、久しぶりに弾いてみた。上手とは言えないが、最後までなんとか音をつなぐことができた。

さらに、大正琴では「上を向いて歩こう」「琵琶湖周航の歌」などの楽譜を整理し、すぐ弾ける状態にしておいた。

小さなピアノでは「静かな夜(ドイツの簡単な曲)」を弾いた。指が自然に動くところもあり、好きな曲だと改めて感じた。

その流れで部屋の片づけも進み、掃除までしてしまい、気づけば時間が過ぎていた。

また、太極拳の道具も思い出した。ウェアやシューズはすでに揃っており、いつか行こうと思いながらそのままになっている。夏か秋には見学に行けたらいいと思っている。

その後、音楽の記憶はさらに広がった。

「コスモス」から山口百恵の歌を思い出し、特に“突っ張り系”と呼ばれていた時期の歌や「ロックンロール・ウィドウ」など、宇崎竜童・阿木燿子の世界観が浮かんできた。歌詞と自分の記憶が重なっていたことを思い出した。

さらに、インスタで見かけた嵐のラストコンサートの映像から「One Love」を思い出し、ドラマ「花より男子」と結びついた記憶も一緒に浮かんできた。音楽そのものというより、ドラマの場面や登場人物の印象ごと再生されるような感覚だった。

時代は違っても、音楽で気持ちが動く感覚は変わらない一日だった。


最近、自分でも少し不思議なのだが、今までほとんど興味のなかったものが、日々の暮らしの中に入ってきている。

庭の木の名前。誕生花。ベランダのアロエ。そして、食堂横の熱帯魚の水槽。

以前の私は、たぶんほとんど立ち止まって見ていなかった。

エデンの園の「いきいき教室」で、誕生花としてラナンキュラス、パンジー、柚子、ヒソップ、藤などを習った。

けれど、正直なところ、花言葉まではほとんど覚えていない。写真だけは撮ってある。

でも、それで十分な気もしている。

全部覚えようとは思わず、「今日は一つか二つ」くらいで、無理しないで眺めている。

パンジーや藤はなんとなく知っていた。藤棚は藤枝のイメージがある。

でも、柚子に花が咲くことは、あまり意識したことがなかった。

そういえば、スーパーで小梅を見た時、昔、梅を漬けていたことを思い出した。

小梅。大梅。梅干し。梅酒。

夫と二人になってからはやめてしまい、今は買う方が楽になった。

でも、「梅の実」というのも、春の花のあとにできるものなのだと、今さらのようにつながった。

食堂横の水槽でも、最近は魚を眺めている。

たくさん見てもわからないので、一日に一匹か二匹だけ。

黄色い魚を追いかけて写真を撮っていたら、「ヘラルドコガネヤッコ」や「クロシテンヤッコ」という名前だった。

しかも「ヤッコ」は海水魚のエンゼルフィッシュの仲間だと知った。

父が昔飼っていたエンゼルフィッシュを思い出したが、あちらは淡水魚だったらしい。

こんなふうに、今まで名前も知らなかったものが、少しずつ生活の中につながっていくのは、なんだか面白い。

昔の私は、こんなことに興味を持つとは思っていなかった。

でも今は、知らないものを少しずつ眺める時間が、案外嫌いではない。


松山へ来てから、少しずつ服の整理をしている。

けれど、棚の上に積んだままになっているものを見ると、やはり冬物が多い。

ヒートテック。厚手の靴下。重ね着用の服。

私は昔から寒がりで、冬は何枚も重ねて着る生活をしていた。

だから今回の引っ越しでも、「寒さ対策」はかなり意識していたのだと思う。

しかも、松山へ実際に移動してきたのは3月末。まだ寒さが残っている時期だった。

限られた荷物の中で、季節ごとに3枚ずつくらいと決めて持ってきたつもりだったが、振り返ると、どうしても冬寄りの選択になっていた。

一方で、夏服は驚くほど記憶が曖昧だった。

私は静岡で、夏でも電動自転車でジムへ通っていた。水泳にもスタジオにも通い、ズンバウェアも着ていた。

Tシャツに短パン。派手な柄のウェア。時にはロングパンツ。

でも今、「私はあの時、何を履いていたのだろう」と思う。

こちらへ来てからは、施設の食堂へ行くこと、病院へ行くこと、自転車で移動することが、一つの生活の流れになった。

すると服も、「おしゃれ」だけでは決められなくなる。

転倒対策。日焼け対策。冷房対策。洗濯のしやすさ。少ない枚数で回せること。

そして、「あまり目立ちたくない」という気持ち。

今日、整理していたら、以前使っていたパンツが出てきた。

「ああ、こういうものを使っていたんだ」

少しだけ思い出した。

もしかすると今必要なのは、新しい服を買うことではなく、「今の暮らしで使える組み合わせ」を見つけることなのかもしれない。

もちろん、また静岡へ戻った時には、夏物を少し見直すと思う。

本当に必要なものだけを持ってくるのか。それとも、どうしても必要ならこちらで買うのか。

できれば、もう増やしたくはない。

どうせ最後には、持ち物は減らしていくことになるのだから。

それでも今は、「自分の生活には何が必要で、何が必要ではないのか」を、服を通して考えている。

服を整理しているつもりなのに、本当は、これからの暮らし方を整理しているのかもしれない。


昨日、エデンの「いきいき運動」に2回目の参加をした。

先週初めて参加した時、思っていた以上にできないことが多く、少し驚いた。それで昨日も続けて出てみたのだが、やはり簡単にはいかなかった。

指を小指から順番に回していく動き。親指から順番に回す動き。右手をパー、左手をグーにして前へ出し、途中で入れ替える動き。

頭ではわかっているのに、途中でこんがらがる。薬指は特に思うように動かなかった。

間違い探しも10個中4個しか見つけられず、一桁の計算でも焦ってしまった。

私は、自分では「年齢の割にはまだ動けるほうだ」と思っていた。

実際、静岡では電動自転車でジムへ通い、水泳やスタジオにも通っていた。だから、どこかで「まだ大丈夫」という感覚が残っていたのだと思う。

でも松山へ来て、エデンで暮らし始めてから、小さな衰えを少しずつ目にするようになった。

柔らかいと思っていたのに変化した身体の硬さ。反応の遅れ。左右違う動きをする難しさ。

そして何より、「わかっているのにできない」という感覚。

少しショックでもあった。

けれど同時に、ここへ来たからこそ気づけたのだとも思う。

もし一人暮らしを続けていたら、できることだけを繰り返し、「できなくなったこと」を見ないまま過ごしていたかもしれない。

ここでは、ラジオ体操や麻雀、いきいき運動のような小さな刺激が毎週ある。

昨日は、運動のファイルもいただいた。

「続けてみましょうね」という空気が、そこにはある。

だからこそ、自分の変化にも気づく。

昨日は、「こんなこともできないのか」と思った。でも今日は、「だから毎週出てみよう」と思っている。

衰えを知ることは、少し怖い。でも、気づける場所があることは、悪いことばかりではないのかもしれない。


昨夜は、久しぶりにnoteを書く気力がなくなっていた。

病院をいくつも回り、紹介状を持って新しい先生方とつながり、頭の中も少し疲れていたのだと思う。

精神科、脳神経、整形、消化器、眼科、泌尿器、歯科。静岡で長年続いていた医療を、松山で一つずつつなぎ直している。

まだ全部が落ち着いたわけではない。

ジムへ行きたい気持ちもあるが、今はまだ我慢している。三輪自転車にも、もう少し慣れたい。病院の予定も残っている。

それでも、少しずつ生活が形になり始めている気がする。

施設のラジオ体操には、最近ずっと間に合っている。6時20分に目覚ましをかけ、なんとか起きて、急いで上着を羽織って下へ降りていく。

以前の私は、朝日を浴びるのが嫌だった。

夫がカーテンを開けようとすると、「開けないで」と言っていた。朝が来ること自体が重たかった時期が長かった。

それが今は、朝日がそこまで嫌ではなくなっている。

施設の脳トレや麻雀教室にも参加し始めた。思うようにできないことも多く、「衰えているんだな」と実感することもある。

でも、それも含めて、今の自分なのだと思う。

夜中に目が覚め、薬を一錠飲み、また横になってみる。眠れるかどうかは分からない。

YouTubeで江戸時代の話や、どうでもいい雑談のようなものを流しながら、松山での生活を少し整理していた。

病院通いばかりのようでいて、その合間に、少しずつ「暮らし」が出来てきているのかもしれない。


今、日赤病院にいる。受付までのわずかな待ち時間に、昨日の食後、エデンの園の食堂の隣にある水槽で魚たちを見ていたことを思い出した。

そこにいたのは、オレンジと白の「隠れクマノミ(ニモ)」と、ほとんど動かず岩にちょこんと乗っているクダゴンベだった。

説明を読むまで、それがニモだとははっきり分からなかった。ただ可愛いという感覚から始まり、あとから名前や特徴がつながっていく。その過程が少し楽しかった。

ニモはディズニー映画のキャラクターとして知っているようでいて、実は海にいる本物の魚が元になっていることを思い出した。子どもや孫の世代は、もう当たり前のように知っているのだろうかと思いながら、自分は表面だけを見て楽しんでいることにも気づく。

クダゴンベはほとんど動かず、岩の上に静かにいる。その静けさが逆に印象に残る。動くものと動かないもの、その対比も面白かった。

作品や魚の背景は、あとから少しずつ見えてくる。その入り口はいつも「なんとなく好き」という感覚なのかもしれない。


今日は日曜日。

午後はエデンの園の麻雀教室があるので、その前に、明日の受診予定がある松山赤十字病院まで下見に行ってきた。

初めて行く大病院なので、道がわからなかったからだ。

Googleマップに従って走ったのだが、思った以上に細い道へ案内される。「本当にここ?」と思うような道も多かった。

でも最近は、迷ったら無理に進まず、一度止まって確認することを覚えた。

三輪電動自転車は、サドルを立てなくても安定して止まれるので、周囲を見ながら地図を確認できる。

途中で、自転車を買ったインフィニティの前へ出た時は、「あ、ここ知ってる」と少し安心した。

最後は、ちゃんと祝谷へ戻る坂道へつながっていた。Googleマップは、どうやら近道を教えてくれていたらしい。

病院では、受付の流れも確認した。

そこで初めて、予約票に「朝食は食べないで来てください」と書いてあることに気づいた。

8時半と9時半の予約だから、施設の朝食時間と重なると思い、「どうせ食べられない」と考えて絶食にしていたのだが、実際には検査のためだった。

少量の水は可。それも今日読み直して気づいた。

やはり、大きな病院へ行く前は、前日に予約票をきちんと読むものだと思った。

帰宅してから、昨日買った食パンを焼いてみた。

実は、ポップアップトースターを初めて使った。

子どもの頃以来かもしれない。

焼けたパンにマーガリンをたっぷり塗って、百均で買ったレーズンを乗せ、冷やしておいた無糖紅茶と一緒に食べた。

とても美味しかった。

そういえば、私はいつの間にかパンを食べなくなっていた。

最後に食べていたのは、健康に良さそうだと思っていたライ麦パンだった気がする。

その後は、玄米ご飯と納豆の生活になっていた。

だから今日のトーストは、ただの食事ではなく、「久しぶりの感覚」が戻ってきた時間だった。

さらに今日は、使っていなかった電気毛布を干して片付けた。

思い切って、ニトリで買った「ソファーにもカウチにもなるマット」をカウチ型にしてみた。

今までは面倒で、ずっとベッド状態のまま使っていた。

でも、やってみたら簡単だった。

カウチにすると、メモを書いたり、ゆったり座ったりしやすい。

今日は、いらないメモもかなり捨てた。

病院、共済、ハローワーク、人間ドック、麻雀……。

頭の中に色々なことがあるので、紙が増えすぎていた。

「これはもういい」と思って捨てられたのは、大きかった。

今日は、派手な出来事はない。

でも、
  • 病院の道を覚える
  • 予約票を読み直す
  • 久しぶりにトーストを食べる
  • 電気毛布を片付ける
  • カウチに変える
  • メモを減らす
そんな小さなことを通して、少しずつ「松山での暮らし」が動き始めた気がした。


今朝、ラジオ体操を終えたあと、いつもの階段を上って3階へ向かった。
その途中にある樹木が、今日は少し違って見えた。

これまで私は、朝起きてもカーテンを開けず、暗いままの方が落ち着くことが多かった。
でも今日は自然にカーテンを開けていた。

理由は特になく、ただそうしてみようと思えた。

階段の周りには樹木が植えられていて、名前の札がついている。
今まで何となく見てはいたけれど、今日はその名前を意識して見た。
そして、iPhoneで写真を撮ってみようと思った。

下から順番に見ていくと、サツキやウメ、ロウバイ、アオキなど、季節の違う木が並んでいることに気づいた。
一番上には桜があり、「来年ここで桜が見られるのかもしれない」と思った。

私は自然に詳しいわけでもなく、知識もあまりない。
むしろ今まであまり興味を持ってこなかったと思う。

それでも今日、樹木がきれいだと感じたことと、名前を知りたいと思ったことは、自分の中では少し新しい感覚だった。

ラジオ体操のあと、マッサージチェアに座りながら、この出来事をノートに残している。

小さなことだけれど、何かが少しだけ変わり始めている気がする。


今日の夕食は、「千秋楽弁当」だった。

そら豆ご飯、じゃこ天、カレイの唐揚げ、インゲンの胡麻和え、フルーツ。そして「筑前煮」。

私は相撲中継をリアルタイムで見る習慣があまりなく、あとでYouTubeなどで取り組みだけを見ることが多い。

そのため今日は、自室へ持ち帰ることもできたのだが、いつも通り食堂で食べた。

どれも丁寧に作られていたと思う。

鶏肉は小さめで食べやすく、里芋もやわらかい。でも煮崩れるほどではなく、人参もしっかり味が染みていた。高齢者施設の食事として、よく考えられていると感じた。

だから、これは「おいしくなかった」という話ではない。

ただ私は、食べながら、妙なことを考えていた。

「そういえば今日、筑前煮だったはずだけど、どこにあるんだろう」

最初は、そんなことも意識せずに食べていた。

けれど途中で、貼り出されていたメニューを思い出した。

確か「筑前煮」と書いてあった。

でも、自分の知っている筑前煮が見当たらない。

ごぼうも、こんにゃくも、あの“筑前煮らしい感じ”もない。

そして最後に残った里芋を見て、私はようやく思った。

「もしかして、これが筑前煮だったのか」

私は、筑前煮の定義を知らなかった。

大阪で育ち、母が作る筑前煮を食べてきた。

ごぼう、こんにゃく、人参、鶏肉。時々しいたけ。

こんにゃくは手でちぎったり、忙しい時は包丁で切れ目を入れて味を染みやすくしたりしていた。

少し甘さを控えた味付け。

それが、いつの間にか「自分の筑前煮」になっていたのだと思う。

だから今日の私は、「違う筑前煮だ」と思ったのではなかった。

最初、自分が筑前煮を食べていることに気づかなかったのである。

土地が変わると、「普通」がほどけていく。

卵焼きに驚いた日もあった。

今日の筑前煮も、その続きなのだと思う。

まだ松山で暮らし始めて一か月も経っていない。

これからも、こういう小さな驚きが、食卓の中にたくさんあるのだろう。

でも、それはきっと、「違う土地で暮らしている」ということなのだと思う。


今日の夕食は「千秋楽弁当」として提供された。

通常、施設の夕食は17時から18時半の時間帯だが、今回は16時半から弁当として持ち帰ることができ、自室で相撲を見ながら食べるという形になっていた。通常の持ち帰り弁当の仕組みは以前からあるが、今回は時間を前倒しして提供されていた点が少し違っていた。

追加で100円を支払うことで、この早い時間帯の弁当形式を選べるようになっているようだった。

食事の内容自体は、そら豆ご飯、じゃこ天、魚、筑前煮、いんげんのごま和え、フルーツなど、いつもの延長にある栄養バランスのとれた構成で、特別に豪華というわけではない。ただ、「千秋楽」という名前と、お相撲を見ながら食べるという体験が組み合わさることで、少しだけ日常とは違う意味が付けられているように感じた。

周囲では相撲の話題も多く、勝敗や優勝争いの話が自然に出ていた。同じ出来事でも、関心のある人たちにとっては大きな楽しみになっている様子が印象的だった。

自分にとっては、特別な出来事というよりも、「少しだけ日常がずれる仕組み」を観察しているような感覚だった。


iPadの写真整理を進めていくうちに、気づけば2013年から2019年までの家族の時間を見返していた。

母の写真は、旅行やお正月の食卓など、強く生きていた頃の記憶から始まる。
しかし時間が進むにつれて、少しずつ変化が見えてくる。
冷蔵庫の中の混乱、生活の変化、そしてデイサービス、施設へと続いていく流れ。

その変化は一気に起きたものではなく、どこから始まったのかもはっきりしないまま、静かに進んでいたように見える。

一方で、2019年に生まれた初孫の写真はまったく逆だった。
同じ場面が何十枚もあり、日ごとにできることが増えていく。
増えていく命と、少しずつ失われていく記憶が、同じ時間の中に存在していた。

その両方を見ながら、私は「人はどう生きて、どう老いていくのか」を考えるようになった。

そしてもう一つ、避けられない不安もある。
骨密度のこと、認知症のこと。
それらは自分にとって無関係ではなく、家族歴としても現実としても、確かに自分の中にある。

何もしなければ悪くなる可能性がある、と医師にも言われている。
それを知ったとき、私は「気をつければいい」ということと同時に、「なりうる」という現実も受け取ることになった。

その延長にあるのが、「あんたはんどなたはん?」ー(あなたはどなたですか?)ーと言われるような状態なのかもしれない。
それは他人事ではなく、自分自身にも起こりうる変化として想像される。

同時に、エデンでの人間関係や、これから出会う人との関係も、記憶の状態によって形が変わることがあるのかもしれないとも思う。

そう考えると少し怖さはある。
しかしその一方で、今こうして「わかり合えている時間」が確かにあることの重さも感じる。

写真整理は単なるデータの削除ではなく、
人の一生と、自分のこれからを静かに見つめ直す時間になっている。

今日は2019年までで区切り、無理をせず、また明日へつなげていく。


今日は、三輪電動自転車で道後方面へ買い物に行った。

経由地に六時屋を入れたら、道後温泉商店街の六時屋へ案内されて、また少し道を間違えた。
「ああ、ここだったのか」と、ようやくつながった感じがした。

そのあと、フジとダイソーへ向かおうとして、また坂を上がりかけ、
「あ、これは道後温泉病院方向だ」と途中で気づいて戻った。

前なら、間違えていること自体が分からなかったと思う。
今日は、「違う」と気づいて修正できた。

帰り道は迷わなかった。

県民文化センターを経由地に入れて、
吉田眼科を通る道で戻ったら、ちゃんと帰れた。

町が少しずつ、自分の中に入ってきている気がした。

ダイソーで買ったのは、
  • 寒天を混ぜるための大きな泡立て器
  • 味塩
  • レーズン
  • 激落ちくんのメラミンスポンジ
どれも、小さな一人暮らしの道具だった。

フジでは、6枚切りの食パンを買った。
8枚切りは、最近どこへ行っても少ない。

「6日食べるのか」
「冷凍するのか」
「一人暮らしって大変だな」

そんなことを考えながら選んだ。

バターは高くて、
「思いっきり塗れない」と思い、
結局、増量中のマーガリンソフトタイプを買った。

魚肉ソーセージは、賞味期限を見て決めた。

買い物をしながら、
「ああ、私は長いこと主婦だったんだな」
と思った。

オレンジジュースは買えなかった。

昔、アメリカで風邪をひいた時、
看護師の友人に
「とにかく飲みなさい」
と言われた記憶があり、
私にとっては少しお守りみたいな飲み物だ。

でも、一人暮らしで1リットルを飲み切るのは、意外と大変だ。

コンビニは高い。
でも、「必要な時に必要な分だけ」という合理性もあるのだろうと思った。

そして今日は、三輪車のことが少し分かった。

踏み込みの時、
後ろの車輪が軸足にぶつかって、靴が脱げそうになる理由。

後ろが二輪だからだった。

「ああ、早めに片足を上げないと進まないんだ」

今日、初めて身体で分かった。

水で歪んだ道では、やはりハンドルを取られる。
そこは無理せず押した。

インフィニティの店長さんが、
「よほど悪意のある運転をしない限り、三輪車に切符を切るお巡りさんはいないと思いますよ」
と言っていたのを思い出した。

今日は、できるだけ交通ルールを守ろうと思いながら走った。

4時のお風呂に間に合うように帰ってきた。

行きは迷ったのに、
帰りは迷わなかった日だった。


今日、ポストに「居室害虫対策消毒」の案内が入っていた。

ゴキブリ対策、ダニ・ノミ対策、ムカデ対策。希望者は申し込んでください、という内容だった。

私は今年は申し込まないつもりでいる。

まだ入居したばかりで、部屋には大した食べ物もない。玄米を炊いたり、寒天を作ったりする程度で、生ごみらしいものもほとんど出ない。

それでも、この案内を見ながら、「集合住宅に住むとはどういうことなのだろう」と考えた。

一戸建てなら、基本的には自分の家のことは自分で管理する。

でも、今の暮らしは少し違う。

ゴミは各自で抱え込まず、施設全体で回収される。電気も、自分では使っていないつもりでも、建物全体の仕組みの中で動いている。

そして害虫もまた、「自分の部屋だけきれいなら終わり」という話ではないらしい。

虫は、部屋の境界線を理解してくれない。

誰かの暮らし方、建物の構造、施設全体の管理、季節や湿気、そういうもの全部の間を動いている。

だからこれは、単なる「虫の話」ではなく、集合住宅で暮らすということそのものなのかもしれない。

自立しているつもりでも、実際には、たくさんの共有された管理の中で暮らしている。

最近、電気代のことでも似たようなことを考えた。

私は今、「自分一人で暮らす」というより、「大きな建物の仕組みの中で暮らしている」ということを、一つずつ学び直しているのだと思う。


エデンの園は、11月に契約してから4月30日に実際に入居するまで、およそ5か月間ほとんど住んでいない状態が続いていた。

その間にも電気代が毎月4,000〜5,000円ほど発生していたことが、ずっと疑問だった。

職員の方にも聞いたが、その場でははっきりした理解にはならなかった。

今日、四国電力のフリーコールに電話して明細の見方を教えてもらい、少しずつ構造が見えてきた。

電気代は「使った分だけ」ではなく、いくつかの要素が重なってできていることが分かった。

  • 基本料金
  • 夜間電力の使用(エコキュートの可能性)
  • 燃料費調整額(国際的な燃料価格や補助の影響)
  • 再生可能エネルギーの負担金
  • 送電にかかる託送料金
  • 書面発行などの事務費
特に住んでいない期間でも、設備(エコキュートなど)が夜間に動いていた可能性があり、それが金額の中心になっていたと考えられる。

また、電気料金には国の制度や社会的な仕組みが多く含まれていて、単純な「使用量の料金」ではないことが分かった。

完全に理解できたわけではないが、「ただ高い」「ただおかしい」という見方から、「いくつかの仕組みが重なっている」という見方に変わったことが大きい。

電気代は生活費であると同時に、社会の仕組みの一部でもあると感じた。長い間、知らずに生きてきたことにも情けないというより、驚きがあった。


今日、改めて「フッ素」について考えていた。

きっかけは、ニュージーランドに住む孫たちだった。

小さい頃から、歯磨きのあとにほとんどうがいをしない。最初に見た時は、とても驚いた。

「えっ、そのまま寝るの?」「気持ち悪くないの?」

そう思った。

私は、歯磨きをしたら、口の中の歯磨き粉を全部流し切らないと終わった気がしない世代である。

ところが、夫が言った。

「そんなに何回もうがいしたら、フッ素が残らないよ」

夫の友人で、長年私の歯を診てくださっている歯科医の先生も、歯磨きの後は少量の水で一回くらいでいいと言っていたらしい。

最近使っているフッ素入り歯磨き粉を改めて見てみると、「少量の水ですすぐ」と書いてある。

でも、「すすぎすぎると効果が落ちます」とは、あまり強くは書かれていない。

私は長い間、フッ素が何なのか、実はよくわからないまま使っていた。

虫歯予防にいいらしい。歯科医が勧めるから使う。その程度だった。

でも、調べてみると、フッ素は歯に残っていた方が効果があるらしい。

そう聞くと、「じゃあ、大人だって、たくさんうがいしたら意味が薄れるのでは?」と思うようになった。

ところが、頭で理解しても、身体の習慣はなかなか変わらない。

私は歯磨き粉に、「すすぎは一回だけ」と大きく書いている。

コップにも、水を半分しか入れないようにしている。

それなのに、気がつくと、いっぱい水を入れている。

しかも、うがいをした時に小さな食べかすが出てくると、「もう一回ゆすぎたい」という気持ちが強くなる。

口の中を全部きれいに流して、空っぽにしないと落ち着かないのである。

たぶん、これが長年染みついた習慣なのだと思う。

最近、こういうことが増えた。

「昔からそうしていたこと」を、今さら改めて考え直すこと。

フッ素も、その一つだった。

知識は変わっていく。でも、身体はすぐには変わらない。

その間で、人は少しずつ暮らしを変えていくのかもしれない。


今朝の朝食で、また小さな驚きがあった。

エデンの食事には時々梅干しがつくのだが、種が抜いてある。実は前から気になっていた。

今日はさらに、もやしの和え物が、小さく切って出されていた。

すると、食堂でよく響く大きな声の男性が言った。

「ええなあ、エデンは。梅干しも種抜いといてくれるし、もやしもちゃんと切っといてくれる。喉へ入っていくからな」

周りの人が笑いながら、「ありがたいですね」と答えていた。

私は昨日、骨密度検査の結果を聞いたばかりだった。

腰椎はそれほど悪くないが、大腿骨は骨粗しょう症。静岡で言われたことと同じだった。

私はどこかで、「まだ若い側」「まだ元気な側」と思っていた。

67歳だし、運動は好きだし、電動三輪にも乗っているし、毎日ラジオ体操にも行く。

でも、数字は静かに、身体の中で起きていることを教えてきた。

そう思って朝食を見ると、梅干しの種も、切られたもやしも、「誰かのため」ではなく、自分にも関係のある工夫に見えてきた。

食堂には、91歳の女性がいつも一人で座っている。

麻雀では深く考えて打つ人で、いきいき教室では、一桁の足し算引き算が始まると、タイマーを待たずにどんどん解き始める。昨日は職員さんにLINEの使い方を熱心に聞いていた。

その人が淡々と食事をしている姿を見ながら、「ああ、この人はこうやって暮らしてきたんだな」と思った。

時々、とくし丸(移動スーパー)で煮物を買って冷蔵庫に入れ、「たまには食堂を休んで、自分の部屋で食べる」とも話していた。

施設にいる人たちは、ただ「年を取った人」ではなく、それぞれのやり方で、自分の暮らしを続けている。

そして私は今日、「私はここにいていいんだ」と、少し思った。

梅干しの種を抜いてもらう側として、もやしを切ってもらう側として、骨を折らないように気をつけながら、ここで暮らしていく人間として。


今朝、ラジオ体操のあと、一階のメダカの水槽を見に行った。

そのあと、三階のマッサージチェアへ向かおうとして、うっかり二階へ上がったら、そこにも水槽があった。

熱帯魚だった。

大きな青いナンヨウハギと、赤いスカンクシュリンプが目に入った。

スカンクシュリンプは、岩に張りついて、長い触角を揺らしていた。魚の掃除をする「クリーナー」だと説明が書いてあった。

面白いなと思った。

ナンヨウハギはとてもきれいな青で、写真を撮ろうとすると、こちらを警戒するみたいに岩陰へ隠れてしまう。

しばらく動きを追いかけていた。

すると、不意に父のことを思い出した。

実家には水槽がいくつもあった。他にも魚はいたはずなのに、覚えているのはピラニアだけだ。

父は、ピラニアの餌になる魚を買いに、私を連れて行ったことがあった気がする。

共食いを見せられた記憶も、うっすらある。

周囲には「残酷だ」と言う人もいた。

でも、戦争を生き抜き、柔道をしていた父は、あれを単なる残酷さとして見せていたのではないのかもしれない。

生きるということ。強さということ。食べること、食べられること。

そういうものを、見せたかったのだろうか。

父が何を考えていたのか、今でもわからない。

でも今日、水槽の前で魚を眺めながら、ずいぶん長い時間が流れたのだなと思った。

昨日が父の誕生日だった。

昭和2年生まれ。生きていれば99歳だった。


今日の夕食に、分厚い卵焼きが出てきた。

それだけなら普通かもしれない。
でも、私にとっては少し驚く卵焼きだった。

まず、とても厚い。
しかも弾力があって、甘い。
大根おろしまで添えてある。

私の知っている卵焼きは、
もっと薄くて、何回も巻いて作る、
朝ごはんやお弁当のイメージだった。

だから、夕食の一品として、
魚や肉と並ぶように出てきたことに、
少し文化の違いを感じた。

関西と愛媛の違いなのか、
家庭料理と施設の料理の違いなのか、
それとも私が知らなかっただけなのか。

でも、
「卵焼きって、こんな食べ物だったんだ」
と、初めて思った。

静岡で子育てをしていた頃は、
忙しくて、
何回も巻く卵焼きを丁寧に作る余裕はなかった気がする。

だから私は、
地域ごとの卵焼きの違いを、
実はあまり知らないまま歳を重ねてきたのかもしれない。

松山へ来てから、
タルトだったり、
今日の卵焼きだったり、
「食べ物の中に土地の文化がある」
ということを、
少しずつ感じ始めている。


今朝は、7時25分のベテルバスに乗って、道後温泉病院へ向かった。

本当はJA愛媛中央道後支所に止まる便が良かったのだが、朝一番の便はそこへは行かず、六時屋前で降りることになった。

六時屋といえばタルトである。

以前、ベテルバスの運転手さんが、
「一六タルトは庶民的、六時屋は少し高級感があるかな」
と笑いながら話していたことを思い出した。

そういえば、一六タルトは柚子の香りが強かった気がする。
六時屋は餡が上品だっただろうか。

そんなことを考えながら、病院まで長い坂道を歩いた。

雨は降ったり止んだりで、
カッパを着たり脱いだりしながら進んだ。

途中で帽子を落としたことにも気づかなかった。

すると、細い道を通りかかった車の中から、
「帽子落としましたよ」
と女性が声をかけてくださった。

私は慌てて帽子を拾った。

松山は、不思議な町だと思う。

道後温泉や坊っちゃんやタルトや、
「ハイカラ」なものを大切にしているのに、
歩いていると、坂道や歪んだ道や、昔からの土地の感覚がそのまま残っている。

おしゃれに整え切らない感じ。
でも、その土地感が残っているところが、私は面白いと思う。

昨日は、外国人観光客らしいカップルが、ハイカラ通りで坊っちゃん団子を一本ずつ食べながら歩いていた。

坊っちゃん団子も、タルトも、
ただのお菓子というより、
この町の歴史や時間そのものなのかもしれない。

ポルトガルから伝わったお菓子が、
柚子と餡の和風タルトになり、
夏目漱石の小説の中の団子が、
松山名物として今も売られている。

そういう変化の仕方が、とても日本らしい気がする。

そして私は今日、
そんな町の坂道を、
骨密度検査へ向かいながら歩いていた。

先生からは、
「食べて、運動して、日光を浴びて」
と言われた。

結局、暮らしそのものが大事なのだと思う。

六時屋で降りて歩いた今日の道は、
これから松山で暮らしていく自分の道を、
少し試していた時間だったのかもしれない。


今日、道後温泉病院で、腰椎と大腿骨の骨密度検査を受けた。

去年の3月、夜中に少し滑って胸を打った。その日は土曜日。午前中、平泳ぎを長距離泳いだ後胸が痛くなり、救急の整形外科を受診した。そこで、「第3胸椎がくの字になっている。圧迫骨折です」と言われた。

治療はコルセット。痛みが治った頃、骨密度検査を受けた。大腿骨と腰椎。大腿骨が悪いと言われた。そして、その後、家の近くの整形外科を紹介され、ボンビバとカルシウムの薬を飲み始めた。

私はその頃から、「骨密度」というものが気になっていた。

最初の病院では、腰椎と大腿骨で骨密度を測ってくださり、「大腿骨が悪い。腰椎はそこまで悪くない」と説明された。

ところが、その後の病院で再検査を受けた時は、腕で測る簡易検査だった。

そして、「大丈夫ですよ」と言われた。

でも私は、素人ながら、ずっとモヤモヤしていた。

「大腿骨が悪かったのに、腕が良ければ本当に安心なの?」「測る場所が違っても、同じ意味なの?」「私は良くなっているの? 進んでいるの?」
その疑問が、ずっと残っていた。

松山へ来ることが決まっていたので、「松山へ行ったら、腰椎と大腿骨をちゃんと測ってくれる病院を探そう」と思っていた。

そして、エデンの園の隣のベテル病院の整形外科で相談した時、先生がはっきり言われた。

「足や手の簡易検査は参考にはなる。でも、今の医療では、腰椎と大腿骨をDXAで測るのが一番大事です」「それなら道後温泉病院の先生のところへ行きなさい」

今日、そこで検査を受けた。

結果は、やはり大腿骨は弱い。腰椎の方が少しまし。

でも、薬は効いていると思う。今の治療方針は間違っていない。運動と治療を続ければ、10年後20年後は違ってくる可能性がある。

そう説明された。

祖母は大腿骨頸部骨折をした。母も圧迫骨折を繰り返した。

だから家族歴として、私もリスクは高い。

でも今日、「悪いけれど、今からできることはある」と、初めて納得できた気がした。

腕で「大丈夫」と言われた日から続いていたモヤモヤが、今日やっと整理された。

骨粗しょう症は、すぐ治る病気ではない。

でも、「今の状態を知る」「正しく測る」「続ける」ことで、未来は変わるのかもしれない。

今日は、そんなふうに思えた日だった。


朝から大雨の予報だった。
昨日のうちから、道後温泉病院へどう行くかを考えていた。

三輪電動自転車で行くか。
それとも、ベテルバスと徒歩にするか。

昨日はかなり練習できて、「行けるかもしれない」という感覚があった。
だから本当は、自転車で行ってみたい気持ちが少しあった。

夜のうちから準備をした。

ChatGPTに言われて思い出したタオル。
着替え。
靴下の替え。
汗をかいた時のための上着。

そして、大きなニュージーランドで買ったリュックに、

  • お茶
  • 飲み物
  • 玄米おにぎり
  • ゼリー
を入れた。

病院へ行くだけなのに、少し遠征のようだった。

レインコートはかなり古い。
いつ買ったのかも分からない。

でも大きめなので、リュックを背負ったまま上から着られる。
フードも絞れる。

さらに、雨が強くなった時用に、大きめの男性用レインパンツも用意した。

ここまで準備していたので、たぶん昔の私なら、自転車を強行したと思う。

「せっかく練習したんだから」
「カッパを着れば何とかなるだろう」

そんなふうに考えていた気がする。

でも今朝、6時25分頃、ラジオ体操へ降りて行った時、空からパラパラと雨が落ちてきた。

その瞬間、自然に思った。

「あ、今日はバスにしよう」

自分でも少し意外だった。

もっと無理をすると思っていた。
突っ走ると思っていた。

でも67歳の私は、静かにバスを選んだ。

少し残念だった。
昨日の練習を試したかったから。

でも同時に、どこかで分かっていた気もする。

今日は、

  • 坂道
  • 病院
  • 長い移動
全部が重なる日だった。

だから、「行けるか」ではなく、
「今日は何を選ぶのがいいか」で考えたのだと思う。

そして不思議なことに、少し楽しみでもある。

一便のバスは、近くのJA愛媛には停まらない。
六時屋の近くで降りて、そこから20〜30分歩くことになる。

六時屋 ー タルトで有名なお店

でも、雨の中の松山を歩くのも、悪くない気がしている。

松山に来てまだ数週間なのに、
観光地だった町が、少しずつ「自分が歩く町」になり始めている。


明日、整形外科の受診がある。
道後温泉病院という、名前だけ聞くと少し不思議な病院だ。

バスでも行けるけれど、坂がきつく、歩く距離も長いらしい。
三輪電動自転車で行けるかどうか、不安が残った。

だから今日、下見に行くことにした。

Googleマップの音声をポケットに入れて走る。
けれど「左です」と言われても、どの左か分からない。
一本曲がるところを間違えた。

すると、道後温泉の商店街に入ってしまった。

お店の人に尋ねると
「押したらいいよ」と言ってくれた。

自転車を押して歩いていると、
からくり時計が現れた。

家族で旅行したときに写真を撮った場所。
息子が、亡くなった父と人力車に乗った場所。

思わず立ち止まって、しばらく見ていた。
写真は撮らなかった。ただ、見ていた。

そこで地図を確認すると、やはり一本間違っていた。
正しい道が分かったので、そこからはひたすら坂を上った。

最後の目印は、道後プリンスホテル。
そこを左折すると、いちばんきつい坂があり、
その上に病院があった。

なんとか、たどり着けた。

帰りに守衛さんに声をかけられ、
「明日の予約の下見です」と話し、トイレを借りた。

そして一緒に考えてもらった。
「現在地から目的地」ではなく、
「大きな目印をつないで帰る」ほうが分かりやすいのではないか、と。

愛媛県県民文化会館を目印にしたら、
帰り道はまったく迷わなかった。

今日わかったことは、道順だけではない。

ナビに従うより、
町の目印を覚えるほうが、ずっと安心だということ。

そして、

松山を初めて、
自分の自転車で、迷いながら走った日だったということ。


今日、洗濯機の交換で人が来ることになり、急に掃除を始めた。

普段は気にならないのに、
「人が来る」と思った瞬間、体が動く。

掃除とは、自分のためにしているようで、
どこか「人の目」のためにしているところがあるのかもしれないと思った。

静岡の家でもそうだった。
患者さんや生徒さんが来る日は、掃除機をかけ、トイレを整えた。
三階建ての家は部屋数も多く、すべてに手は回らない。
だから「ここだけは」という場所だけを整えていた。

掃除とは、最初から妥協の産物なのかもしれない。

全部はできない。
時間も体力も足りない。
すぐにまた汚れる。
忘れることもある。

だから、

今日はここまででいい。
できないところは、また今度。
道具や方法を見つけたら、その時やってみる。

そうやって区切ることが、掃除を続けるコツなのだと、今になって思う。

今日、百均で買ったサッシブラシを初めて使った。
今までティッシュで工夫して取っていた汚れが、驚くほど簡単に取れた。
洗ってまた使える。

道具を知ることで、できることが増える。
でも、それでも100点の掃除はない。

知らないうちに、すごく汚れている場所がある。

静岡のドラム式洗濯機の下は、手もブラシも入らず、
気づいたときには真っ黒で、もう拭いても取れなかった。

二階の排水管には土ぼこりが溜まり、
一度、水が溢れかけたこともあった。
それ以来、2〜3ヶ月に一度、パイプスルーを流すようになった。

掃除は、「見えている汚れ」を取ることよりも、
見えないところをどう管理するものかもしれない。

今回、縦型洗濯機に変わり、下にブラシが入ることに気づいた。
冷蔵庫の下は、保護シートの厚みでブラシが入らないと知った。

条件やお金や部屋の大きさ。
すべて自分で決められるわけではない。

その中で、どこを掃除できて、どこはできないかを知る。

それもまた、暮らしの現実だと思った。

そして、ふと思った。

67歳で洗濯機と冷蔵庫を買った。
もう一度、買い替える日は来るのだろうか。

その時、私は掃除をする気力や体力があるだろうか。
判断する力が残っているだろうか。

掃除のことを考えながら、
私はこれからの自分の暮らし方を考えていたのだと思う。

掃除とは、

きれいにすることではなく、

自分の時間と体力を、どこまで使うかを決めること
どこを管理し、どこを妥協するかを決めること

なのかもしれない。


今朝、ラジオ体操をしながら、ふと「希望の朝」という言葉が耳に残った。

これまで何度も聞いてきたはずの歌詞なのに、
今日はなぜか、その言葉だけが心に引っかかった。

大阪の都会で育ち、子どものころラジオ体操の習慣はなかった。
御神輿は担ぐものではなく、トラックに乗って通り過ぎるものだった。

勉強と運動。
教員になってからは、忙しさと人間関係のストレス。
結婚、子育て。

朝ごはんは、立ったまま食べていた記憶がある。
味わうというより、こなすという感じだった。

退職してからも、英語と鍼灸で細々と仕事を続け、
ずっと走り続けてきた気がする。

これまでの朝は、

急ぐ朝、
間に合わせる朝、
役割を果たす朝だった。

嬉しいことがなかったわけではない。
子どものこと、ほっとした出来事、いくつもあったはずだ。

でも、それを味わう余裕がなかった。

今は少し違う。

不思議な満腹感で自然に眠くなることがある。
朝4時半に目が覚めて、急ぐ理由がない。
眠れなくても、「まあいいか」と思える。

ここに来てから3週間、ラジオ体操を続けている。
今日、晴れた空の下で体を動かしながら、

「希望の朝」という言葉が、やけに耳に残った。

今日は希望の朝なのか、と聞かれたら、まだわからない。

でも、

その言葉が自分に引っかかったこと。
それを不思議に思っていること。
空を見上げながら体を動かしていること。

もしかしたら、
希望というものは、はっきり形になる前に、
こんなふうに、言葉だけが先に心に触れるのかもしれない。

だから今日は、

希望の朝かどうかは、まだわからない。

けれど、
その言葉が耳に残った朝だった。


iPadの容量が足りなくなったことがきっかけで、写真と動画の整理を始めた。
最初は単なるデータの整理のつもりだった。

しかし、削除を進めるうちに、気づいたことがある。

写真は、すべてを残しておいても見返すものではないということだ。
どれを開けばいいのかわからなくなり、結局ほとんど見ないままになっていた。

私は、子どもたちの成長、海外旅行、国内旅行、そして孫の写真を撮り続けてきた。
特に孫が生まれてからは、写真の量は一気に増えた。
しかしそれは「記録」というより、「流れ続ける日常」をそのまま残している状態だった。

一方で、息子たちの世代は違う形で写真を残している。
デジタルで大量に撮りながらも、その中から数枚だけを選び、製本されたアルバムとして残している。
そのアルバムは、実際に手に取って見返される形になっている。

そこで初めて思った。
形になっていない記憶は、見返されないまま流れていくのだと。

結局、写真とは何なのだろうかと考えたとき、それは「すべてを残すこと」ではなく、「あとで見返したときに、自分の時間が戻るものを選ぶこと」なのではないかと思うようになった。

年齢を重ね、生活も変わる中で、私は今、自分の記憶の持ち方を選び直しているのかもしれない。


今日は、私にとって寒天記念日と呼びたくなる日である。

長い間、寒天を作ることができなかった。 私の好物なのに。
松山に来てからも、材料もIHの鍋も揃っていたが、なぜか作ろうという気持ちにならなかった。

それが今日、電動三輪車の練習で祝谷の急な坂を上り下りし、30分ほど繰り返したところ、少しずつできるようになってきた。とても暑い日で、エデンの園の売店でチョコモナカアイスを買って食べた。コンビニより少し安く、150円だった。

そのとき、不思議と「寒天を作ってみよう」とふと思った。

この寒天は砂糖を入れない。きな粉と黒ごま、そしてはちみつをかけて食べる。基本的に間食をしない私にとっての小さなおやつである。

夫が作っていた時期もあったが、私はしばらく作ることができなかった。その寒天を、再び自分で作れたことに少し意味を感じている。

百均で買っておいた容器に入れ、冷ましてから冷蔵庫にしまった。今、明日おいしく食べられるのではないかと、少し楽しみにしている。

そして不思議なことに、電動三輪車の練習とアイスクリームと寒天が、今日の中でひとつにつながったように感じている。

明後日は道後温泉病院の予約があるため、明日は下り坂と平地の練習をしておきたい。無理をせず、疲れたら休んで戻るつもりでいる。


私は長いあいだ、立ったまま早食いをして、すぐ仕事に出かける生活をしていた。
それが普通だと思っていたし、他の人もきっとそうだろうと思っていた。

いま、朝ごはんに30分かける生活になった。
ラジオ体操をして、ゆっくり座ってよく噛んで食べ、お茶を飲み、マッサージチェアに座る。

ある日、食後に強い眠気が来ることに気づいた。
最初は年のせいかと思った。けれど、どうも違う。

食べ物は、すぐ吸収されるわけではなかった。
30分以上、胃の中にとどまり、そのあとゆっくり小腸へ送られる。
栄養が吸収されるのは、そのあと1〜2時間かけて。

人間の体は、食後にじっとしている時間を前提に作られていた。

私はそれを、67年知らなかった。

忙しい毎日の中では、食べたらすぐ動く。
けれど体は、その使い方を想定していない。

いま私は、食後に動かない。
すると眠くなる。
それは怠けではなく、体が吸収している合図だった。

大嫌いだった牛乳を最初に飲み、座ってよく噛んで食べる。
それだけで、消化はまったく変わった。

「何を食べるか」よりも、
「食べたあとをどう過ごすか」のほうが、体には大きいのかもしれない。

67歳にして初めて知った、食べたあとの体の中の話。


昨日、いきいき教室(いわゆる脳トレ体操)に参加した。

正直に言うと、私はこういうものが少し苦手だった。
自分ももう十分に高齢者なのに、「いかにも高齢者向け」という感じがして、どこか抵抗があった。

けれど、やってみると――できない。

指の体操。
これは以前、プールで水泳の先生に教わったことがあったが、そのときもできなかった。
昨日も、やはり思うように動かない。

「今日は何の日」「花言葉」など、普段あまり考えないことを考え、
楽器の名前を当てる問題では、漢字の当て字を追い出すようにして答えを探し、
最後は、60秒で100問の、一桁+一桁、一桁−一桁の計算問題。

次から次へと頭を切り替える。

そのとき、ふっと思った。

ああ、これと同じことを、
株や経済の勉強でやってみたらどうだろう。

私は経済のことをほとんど知らない。
日経新聞を読んでも、円高円安の意味がすぐにわからなくなる。

けれど、この脳トレと同じように、

今日は日経平均が上がったのか下がったのか、
ドル円はいま円高なのか円安なのか、
トヨタや任天堂やソニーの株がどう動いているのか、

それを毎日少しずつ見ていけば、
頭の中で何かがつながっていくのではないかと思った。

脳トレは、指や計算だけではない。
世の中を見る目そのものも、鍛えられるのかもしれない。

そんなことを、今朝のラジオ体操のあと、7時の静かな時間に考えている。


昨日は、いきいき教室(脳トレ?)や病院のこと、そして電動三輪車の練習を通して、「続ける」ということについてよく考えた一日だった。

これまでの私は、脳トレやその運動について「やったほうがいい」と思いながらも、どこかで面倒だと思ったり、優先順位が低くなったりしていた。

でも、いきいき教室に参加してみると、計算や記憶、指の体操など、一つ一つは単純に見えることでも、実際には頭も体もかなり使っていることがわかった。そして、できないこともはっきり見えるようになった。

電動三輪車の練習でも同じで、坂を登れるようになったり、ブレーキで止まれるようになったり、少しずつできることが増えている。一方で、途中で止まったときの再スタートなど、まだ課題もある。

そして、ジムのことを考えたときに気づいたのは、「何をやるか」よりも「どうやったら無理なく続けられるか」が一番大事だということだった。

雨の日には自転車に乗らないので、そのときでも行けるように施設のバスが使えること、時間帯が自分の生活に合っていること、週3回の水泳が無理なく組み込めること。そういう条件で選ぶことが、続けることにつながるのだと思った。

これからは、「頑張る運動」ではなく、「続けられる形の運動」を選んでいきたい。


今朝、8時半から正午まで、
ベテル病院 の整形外科にいた。

本当は、近いという理由だけで、受診予定の泌尿器科の病院の整形外科で骨密度を測ってもらえれば十分だと思っていた。 大腿骨も腰椎も測れると聞いたからだ。
便利で、早くて、それで済めばよい、と考えていたのである。

しかし、今日出会った先生が、私の考え方を変えた。

平泳ぎをしていて胸が痛くなったこと。
ベリーダンスを長く続けていたこと。
ヨガよりもズンバのような、やや激しい運動の方が好きなこと。
そして、「これからも動きたい」という気持ち。

先生はそれらを、ゆっくりと聞いてくださった。

脊椎と大腿骨のレントゲンを前後・側面から撮り、さらにCTも撮った。
そのうえで、
「骨はしっかりしているが、内側が少し網目状に見える。年相応ではあるが、きちんと評価した方がよい」
と言われた。

そして、こう続けられた。

骨粗しょう症を本当に評価するなら、
腰椎と大腿骨を正確に測れるところでなければ意味がない、と。

そのために、親しい先生のいる

道後温泉病院

を紹介してくださることになった。
午後に紹介状を書き、エデンに連絡するから取りに行きなさい、とのことであった。

長い午前中の診察のなかで、私は気づいた。

何もしなくても、生きてはいけるかもしれない。
しかし私は、ただ生きるのではなく、

転ばずに、
骨を折らずに、
泳いだり、
ズンバをしたり、
できる身体でいたいのである。

診察室で、昔のベリーダンスの動画を先生と看護師さんが一緒に見てくださった。
先生は、ダンサーの友人の写真まで見せてくださり、
「ぜひベリーダンスを続けなさい」
と笑って言われた。

そのとき私は、心の底から思った。

踊っていてよかった。

今日の診察は、単なる病院巡りではなかった。
これからの生き方を選ぶ時間であったのだと思う。


エデンの園の隣のベテル病院、整形外科の待ち時間が長い。
そのあいだ、5月の献立表を見直していた。

全部は見られないので、
味噌汁、すまし汁、スープの「具」だけを見ていた。

わかめ、もずく、めかぶ、とろろ昆布、あおさ。
豆腐、ゆば、たまご豆腐、はんぺん、麩。
えのき、しめじ、なめこ、白菜、大根、冬瓜。
ほうれん草、小松菜、ブロッコリー、トマト。
そうめん、春雨、さつまいも。

見ているうちに、あることに気づいた。

どれも、やわらかくなるものばかりだ。
胃にやさしく、するりと入っていくものばかりだ。

そして、目が止まった。

味噌汁に、ブロッコリー。

正直、驚いた。

私の中に
「味噌汁の具は、こういうもの」
という形が、いつの間にかできていた。

大根、わかめ、豆腐、油揚げ、ねぎ、なめこ……。

長いあいだ台所に立ってきた記憶が、
ひとつの“型”を作っていたのだと思う。

けれど、実はもう一度、出会っていた。

ブロッコリーの味噌汁は、
すでに一度、ここで出されていて、私はそれを食べている。

びっくりしたけれど、
とてもおいしくいただいた。

その記憶が、献立表を見ていて、ふっと戻ってきた。

よく考えてみると

味噌汁は
出汁と味噌と、やわらかくなる野菜。

それだけの料理だ。

おいしければ、何を入れてもいい。

ほうれん草の味噌汁は、よく見る。
小松菜もある。
ならば、ブロッコリーだって、おかしくない。

やわらかくなり、栄養があり、色もきれいで、癖もない。

これは「変わった味噌汁」ではなく、
「よく考えられた味噌汁」なのかもしれない。

私は毎回、汁物をきれいに飲み干している。
昼は抜く日もあるけれど、
それでも、体重が1〜2キロ増えた。

今まで、食べていたつもりだった。
でも今は、
体に入っている感じがする。

味噌汁の具を眺めていただけなのに、
自分の体の変化に気づいた。

固定観念がほどけるとき、
体のほうが、先に教えてくれることがあるのだと。


今日は、友人の大切な人が手術を受ける日だ。
五時間の予定だという。

「ご主人」「旦那さん」「奥さん」
どの言葉もしっくりこなくて、名前で呼びながら、私はずっと違和感を抱えてきた。
誰が誰の主人なのか。奥に引っ込んでいる人なのか。
日本語の中に残っている、古い関係のかたちが、どうしても気になる。

けれど今日は、その呼び名よりも、
手術という出来事の中にいる三つの立場のことを考えている。

手術を受ける人。
待つ人。
そして執刀する医師。

私はこれまでに何度も手術を受けてきた。
麻酔が入って意識が遠のくとき、はっきり分かる。
ここから先は、自分では何もできない。
任せるしかない時間に入るのだと。

どんなに心配してくれる人がいても、
その時間を代わってもらうことはできない。
受けるのは、いつも一人だ。

そして待つ側も、同じように一人だ。
時計を見ながら、長い時間をやり過ごす。
祈っても、考えても、何かが変わるわけではない。

だから私は思う。
しんどくなる待ち方より、しんどくならない待ち方を考えたほうがいい、と。

音楽を聴く。
動画を見る。
ぼんやり過ごす。

それは冷たいことではなく、
その人がその時間を無事に越えるための、現実的な方法だと思う。

医師の性格がどうかよりも、
積み重ねてきた訓練と手順と経験に、任せるしかない時間がある。

今朝、私はラジオ体操を終えて、マッサージチェアに座っている。
このあと整形外科へ行く。
私もまた、待つ側の一人になる。

呼び名がうまく見つからない関係のなかで、
それでも誰かを思いながら、
それぞれが、それぞれの場所で、待っている日だ。


食べるということを、初めて自分のものとして感じている。

松山エデンの園に入って、まだ2週間と少ししか経っていない。
でも、その短い時間の中で、自分の中で大きな変化が起きている。

これまで私は、「食べる」ということをあまり大事に扱ってこなかったように思う。
仕事、勉強、人間関係、子育て。
そちらのほうがいつも優先で、食事はその合間にあるものだった。

子どもには、できるだけバランスの良い食事を、と考えて作ってきた。
でも自分自身についてはどうだっただろうか。

残りを食べる。
立ったまま食べる。
時間がなくて急いで口に入れる。
何を食べたか覚えていない日もあった。

「ちゃんと食べていた」と思っていたけれど、
本当に自分の体のために食べていたかと言われると、少し違っていた気がする。



松山に来てからの食事は、まったく違う。
決められた時間に座って食べる。
品数があり、よく噛んで食べる。
食べ終わったあと、自然と眠くなり、体を休める。

最初は戸惑いもあった。
こんなにゆっくり食べていいのか、とも思った。

でも今は、少し違う感覚がある。

「食べる」ということは、
ただ栄養を入れることではなくて、
体が落ち着いて、吸収して、休むための時間なのだと感じている。



まだここに来て2週間。
それでも、自分の中では「食べることの意味」が少しずつ変わってきている。

食べることを軽く扱ってきた人生から、
食べることを感じながら生きる時間へ。

それは大きな変化であり、
まだ途中にある気づきだと思う。


今朝は、起きてすぐに骨粗しょう症の薬、**ボンビバ錠**を飲んだ。 毎月17日朝に飲む。
  忘れないように、ラジオ体操へ行く動線の上に置いておいた薬。
水を量って飲み、横にならずにマッサージチェアに座る。
こういう小さな段取りを、自分で整えている。

明日は整形外科へ行く予定だけれど、
それは今日の中心ではない。

今、心に残っているのは、エデン通信に載っている数字のことだ。

入居条件は自立である。 でも以下が載っている。
自立の人が何人、要支援・要介護の人が何人。
新しく入られた方の名前と部屋番号。
そして、4月も5月も、3号棟(介護棟)で
お一人ずつご逝去されたという知らせ。

ラジオ体操に来られる元気な方。
しっかり食事をされる方。
91歳で麻雀をされる方。
100歳近くでも、よく食べられるという話。

食堂では、多くの人がひとりで静かに食べている。
必要な人は配膳カートにお盆を載せて、好きな席へ行く。
群れない。けれど、同じ場所で暮らしている。

昨日はコーラスの見学に行った。
金曜日の活動だと知り、
これから始めようと思っているジムの水泳と重なることに気づいた。
少し考えて、コーラスは参加せず、水泳を選ぶことにした。

やっぱり、私は水泳が好きなのだ。

自分の意思で選ぶこと。
食事のマナーを守ること。
毎朝ラジオ体操に行くこと。

そういうことを重ねながら、
私はこの場所で生活を立てている。

元気な人もいる。
弱っていく人もいる。
亡くなる人もいる。

その中に、私もいる。

不思議な感じがするけれど、
これが「生きている」ということなのかもしれない。


今日は少し進歩があった。

AIの説明を聞く前に、まず20分タイマーをかけて、練習時間を決めた。
平地でしばらく感覚を確かめてから、坂へ向かった。

坂の少し手前から、いつもより勢いをつけて、視線をぐっと上に置いて、思いきり漕いだ。
すると一回目、なんと一番上まで登ることができた。

「あ、行けた」

そう思った。

ところが、降りるときに新しい問題が見えた。
きつい坂では、ブレーキが完全には効かない。
必死で握り、踏み込み、なんとか止まったけれど、もし車が来ていたらと思うと、背筋が冷たくなった。

これが、今日わかった一つ目のこと。

成功したので、もう一度やってみようと思った。
同じように勢いをつけ、視線を上に置いて登り始めた。

しかし、三分の二ほど登ったところで、ハンドルがどちらかに切れてしまった。
ブレーキで止めたが、そのままずるずると下がる。

教わった通り、左手でブレーキをかけ、踏み込もうとする。
でも、落ちる。

何度やってもだめだった。

仕方なく、両足を地面につけたまま、またがった状態で、ずるずると引きずりながら、一番上まで登った。

あと何回かやってみて、成功は一回か二回。

結局わかったのは、
「どこからスタートするか」
「視線をどこに置くか」
それがとても大きいということだった。

降りるときの怖さは、まだ変わらない。
きっちり止まれる方法があるのか、知りたいと思った。

でも、昨日に比べたら、ものすごい進歩だ。

午後はゆっくりするけれど、また練習を続けたい。
コツコツ、続けたい。

67歳。
電動三輪車、克服の途中。

せっかく買ったのだから、やってみたいと思っている。


今日は快晴であたたかい朝だった。
ラジオ体操をして、朝ごはんを食べて、15分マッサージチェアに座る。

この1か月弱、静岡を出る前から、転出転入にまつわる書類に押しつぶされそうになりながら、住所変更、銀行、保険、印鑑、マイナンバーのコピー……ようやくここまで来た気がする。

昔は印鑑ひとつ覚えていればよかったのに、いまは暗証番号やアプリのコードがいくつもあって、頭の中がこんがらがる。
覚えていられないから、印鑑は一つにして金庫へ入れた。

食後のマッサージチェアは、筋トレよりも体が楽になる。
まだ疲れているのだと思う。

昨日は誘われてコーラスの見学に行き、一緒に歌った。
でも、やっぱり私は水泳をやりたいと思った。
週3回のレッスンが金曜日にある。
電動三輪車で坂が登れるようになったら、6月か7月に始めたい。

いろいろ誘ってもらえるのはありがたい。
でも、自分の気持ちをはっきり伝えて選ぶことも大事だと思った。

いま8時49分。
10時からAIのZoom講習がある。

こういう朝の自分を、残しておきたいと思った。


夫と暮らしていたころ、
電気代や水道代を、深く考えることはなかった。

私が怠けていたわけではない。
家のことも、仕事も、私の役割はきちんと果たしていた。

ただ――
支払いは夫の口座から落ち、通帳は夫が持っていた。
それだけのことだった。

退職するまでは、家計の管理は私がしていた。
数字も流れも、すべて見えていた。
けれど退職後、形は少しずつ変わり、
「見えなくても暮らせる生活」になっていたのだと思う。

いまは違う。
使えば、私が払う。

その当たり前が、暮らしの輪郭をはっきりさせた。

洗濯の回数を考える。
エアコンのつけ方を考える。
冷蔵庫の中身を考える。

節約しているのではない。
何が本当に必要かを、静かに見ている。

気がつけば、テレビも見なくなった。
理由はよくわからない。
でもたぶん、もう「流れてくるもの」を受け取らなくても、
自分の暮らしだけで、十分になったのだ。

頼っていたのではない。
見えにくい仕組みの中で、暮らしていただけ。

いまは、自分の暮らしを、自分の目で見ている。


電動三輪車は、安定していて、楽に乗れる乗り物だと思っていた。
背が高く、痩せていて、疲れが抜けにくい身体で、
電動二輪に乗るとふらつき、風にあおられ、転びそうになったこともあった私には、
ちょうどいい乗り物だと。

夫にも勧められ、まわりの人にも「その方が安心」と言われて、購入した。

けれど実際に乗ってみると、重くて、坂が登りにくい。
思っていたのと違う、と感じている今の私がいる。

では、本当にそういう乗り物なのだろうか。
それとも、まだ私が乗り方を知らないだけなのだろうか。

練習したら、いつか楽に感じる日が来るのだろうか。
それは、やってみないとわからない。

店主さんに聞き、ChatGPTに聞き、
そして最後に決めるのは自分。

練習するのも、やめるのも、自分で決める。
誰も代わりに乗ってはくれない。

一人で暮らすということは、
こういうことを一つずつ、自分で考えて、自分で判断して、
自分で動くことなのだと、いま学んでいる。


松山に来て二週間。
夜と朝、背中に冷えを感じる。

寝る前、どうしようかと迷いながら、
小さなカイロを背中に貼る。
その位置が、昔、鍼灸の学校で教わった言葉を思い出させた。

「病は膏肓(こうこう)より入る」

背骨の上のほう、背中の芯。
そこが温まると、不思議と眠りやすい。

昨日、電動三輪車を受け取りに、坂を下って町へ出た。
下は汗ばむほど暑かった。
けれど、帰ってきた谷の空気は、やはりひんやりしていた。

自分の体調が悪いのかと思っていたけれど、
どうやら、この谷の地形そのものが、朝晩を冷やすらしいと知った。

だから私は寒かったのだと、少し安心した。

ここへ来てから、お茶をよく飲むようになった。
ラジオ体操のあと、食後、薬のあと。 緑茶と玄米茶。
内側から温まり、外からはカイロで温める。

そして、食後には園にある無料のマッサージチェアに座る。
体を鍛えるより、まず体をゆるめる時間。

今日は病院の予定もない。
午後のエデン体操に、気が向けば行ってみようと思う。

やることはたくさんあるのに、
今日はそれをしない日でもいい気がしている。

背中があたたかいと、
人は少し、やさしくなれる。



昨日、はりきゅうの免許証を持って保健所へ行き、訪問施術の書類を提出した。
それは気持ちがすっきりした出来事だった。

けれど、教育委員会へ履歴書を出すかどうかになると、どうしても手が止まった。
理由は、昔のある出来事を思い出したからだった。

時間講師として来られた、長年教員を務めて退職された先生が、はっきり言われた。
「私は時間講師なので、提出物は見ません。テスト採点もしません」

その言葉に、英語科はとても困った。
英語は提出物が多い教科である。小テストも頻繁にある。
2コマ、3コマと授業を持てば、実質3クラス分の提出物を見ることになる。
定期テストになれば、採点基準を揃え、細かく見ていく必要がある。

誰がそれを担うのか。
結局、教科内で分担することになり、
同じクラスの他の授業を持つ教員や、生徒をよく知る教員や、英語科主任だった私が、その分を引き受けた。

当時の私は、その先生をどこか「迷惑な存在」と感じてしまっていた。
けれど今思えば、その先生は、自分の立場の正当性を述べただけだった。 現場と行政の溝かもしれない。

時間講師の給与は、授業時間に対して支払われていたと思う。

提出物の点検やテスト採点が、そこに含まれているとは、誰もはっきり言わなかった。 今もそうなのか? 県によって違うのか?

私たちは、現場の忙しさの中で、その曖昧さを疑問に思う余裕もなく、
教科の中の助け合いで吸収してきたのだと思う。

もし教育の現場が厳しいと言われ、教員が足りなくなっているのだとしたら、
こうした「善意に頼る仕組み」が長く続いてきたことも、無関係ではないのではないか。

履歴書を書く手前で、この出来事を思い出せたことが、
私が教壇に戻らないと決めた、いちばん大きな理由だった。


今日は、注文していたパナソニックの電動三輪車を受け取りに行った。
充電も済ませてくださっていて、店主の方が二輪との違いを、とても丁寧に教えてくださった。
練習もさせてくださった。 月に一度空気入れと点検をしてくださると言う。 ありがたかった。

三輪は、思っていたよりずっと重い。
そして、ハンドルを切って曲がるものではないことを、身をもって知った。
少しでもハンドルを動かすと、車体ごと右へ左へ流れていく。
前にまっすぐ進ませるには、むしろハンドルを動かさないことが大事なのだとわかった。

その足で、保健所へ向かった。
はり・きゅうの訪問施術の届け出を提出するためだった。
免許証を見せ、コピーを提出し、書類を書き、無事に受理された。

ここで実際に施術をするかどうかはわからない。
けれど、これで「してもよい」という状態になったことが、私には大きかった。
松山での生活の中に、また一つ区切りがついた気がした。

行きは下り坂もあり、思ったより楽に感じた。
「なんとかなるかもしれない」とさえ思った。

けれど帰り道、エデンへ戻る最後の道。
祝谷の坂で、私は止まった。

行きは下りだったその道が、帰りは長い上り坂になる。
三輪は、距離を進むごとに重くなっていった。

とうとう降りて、押して上がった。

息が上がり、ハンドルを握る手に力を込め、足で坂を踏みしめながら、
店主の方の言葉を思い出していた。

「とにかく、慣れることですよ。」

三輪を受け取り、保健所で手続きを済ませ、
教育委員会のことを考え、ジムのことに思いを巡らせた一日だったけれど、
いちばん強く残っているのは、この坂を押して上がった感触だった。

それが、今日という日の印のように思えた。

いつか、この三輪で仕事に行ったり、ジムに行ったり、
何も考えずに坂を上れる日が来るかもしれない。

でも、今日はその日ではなかった。

今日は、三輪を押して坂を上がった日。

そして、それでよかったと思っている。


松山エデンの園の女性風呂での経験は、最初は驚きから始まった。

個人の部屋にも浴槽とシャワーはついている。共同浴場は16:00〜21:00の間、自由に利用できる。

「かけ湯をしてそのまま入る」つもりでいたら、実際には「まず体を洗ってから入りなさい」という前提があると知った。

さらにシャワーについても、「立って使わないで、座ってかけてください」「湯船には人の方を向いて入らないで、反対側を向いてください」と、少しきつい言い方で注意されたこともあった。最初は戸惑ったが、その場の空気の中で少しずつ理解していった。

洗い場では、皆が同じ方向を向き、あまり視線が交わらないようにしている。人の体を見ないというより、「見ないようにする配慮」が自然に共有されているようだった。

一方で、そこには厳しさだけではなく、生活の現実もあった。ある人は紙パンツを使っていて、それを特に隠す様子もなかった。その姿を見て、「見られることへの恥じらい」と「身体の現実を受け入れること」は、別の軸で共存しているのだと感じた。

不思議なことに、視線や向きには敏感なのに、身体の機能的なことにはむしろ淡々としている。その違いは矛盾ではなく、人それぞれの“恥じらいの軸”の違いなのだと思う。

こうした経験を通して、この共同浴場は単なる入浴の場ではなく、同じ空間を多くの人と共有するための「距離の取り方」を学ぶ場所なのだと感じるようになった。

驚きから始まり、少しずつ慣れ、今はその空間の意味が見えてきている。人と少し距離を置きながら暮らすことの大切さを日々学んでいる。


何度も骨拾いに立ち会ってきた。
地域や場所によって、そのやり方が少しずつ違うことに、いつも小さな戸惑いがあった。

骨壺の大きさ。入れていく順番。入りきらないときの扱い。
昔から続いてきた作法なのだろうと思いながら、私はどこか落ち着かない気持ちでその場に立っていた。

見送るという行為は、もっと静かなものではないのか。
そんな思いが、心のどこかに残っていた。

夫の父が献体をしたとき、数年後に小さな箱に入ったお骨を受け取った。
そのあと、どこへ納めるかが決まっておらず、夫はとても困っていた。
時間が経ってから渡されるお骨は、気持ちの置きどころも難しいのだと、そのとき初めて知った。

今日、施設で終活の話を聞きながら、
大学がなぜ「必ず取りに来る人」を求めるのか、その理由が少しわかった気がした。
責任をもって遺骨を渡すためであり、遺された人が困らないためでもあるのだろう。

けれど同時に、思った。

そもそも「受け取る人」が困らない形はないのだろうか、と。

形として残るものがあるから、
どこへ納めるか、どう守るか、いつ参るか、という“宿題”が生まれる。

私は、場所を残さない供養のほうが、自然に思える。
思い出は心の中にあればよく、形としての場所はなくてもいい。

死後のことを考えるのは、自分のためではなく、
遺された人の時間を軽くするためなのかもしれない。

そんなことを、今日あらためて考えた。


今日は、とにかく疲れた。

私は今日、**ベテル病院**の内科へ行った。 特に症状はなく、紹介状をお渡しすると言う感じだった
診察を受けるためというよりも、これからの医療の流れを整えるための時間だった気がする。

長時間待ち、
そのあいだに、ソーシャルワーカーの方に話を聞いてもらった。

転居をして、住所を変えて、主治医が変わる。
紹介状を持って動かなければ、何も始まらない。

病気を診てもらう前に、
まず「仕組み」を理解しなければならないことを、今日は思い知った。

病院同士は、自然にはつながっていない。
私が動いて、私が説明して、私がつないでいかないと、
医療は前へ進まない。

患者であるはずの私が、
いちばんこの流れを理解していなければならないという、不思議な立場にいる。

分からないことだらけで、
電話をかけ、話を聞き、また考え、
それだけのことで、どっと疲れた。

けれど、ソーシャルワーカーの方に話を聞いてもらい、
病院間連携や紹介状の意味を少し教えてもらって、
気持ちが落ち着いた。

今日は治療の日ではない。
「医療につながるための一日」だったのだと思う。

それでも、今日わかったことがある。
私は、確実に一歩前へ進んだということ。
次に何をすればいいかが、少し見えたということ。


今日、洗濯機と冷蔵庫がそろった。
これで、この部屋の家電は一通りそろったことになる。

洗濯機は、久しぶりの縦型。6.0kg。
ドラム式を長く使ってきた身には少し心もとない気もしたけれど、
設置場所やこれからの暮らしを考えて選んだものだった。

10日分の洗濯物をまとめて回した。
シーツ、枕カバー、手洗いで済ませていたTシャツ。
洗濯槽がちょうどいっぱいになった。
干してみると、物干し場にきちんと収まった。

「ああ、一人の生活って、これくらいなんだな」と思った。

冷蔵庫も、一番小さいものを選ぼうとして、店員さんに止められた。
小さすぎると霜がついて、霜取りが大変になるという。
考えたこともなかった。
家族4人の大きな冷蔵庫しか使ってこなかったからだ。

結局、霜のつかない160リットルのものにした。
飲み物と、果物と、少しの冷凍食品が入れば十分なのに、
「手間を増やさないための大きさ」を選んだのだと、あとからわかった。

洗濯機も、冷蔵庫も、
ぜいたくのためではなく、生活を軽くするための道具だった。

今日、家電がそろって、
一人の人間が生きていくための「最小単位」が、目に見えた気がした。

物は少なくていい。
でも、手間が増えるのは困る。

その境目が、はっきりした日だった。


今朝も6時20分のiPhoneのアラームで起き、上着だけを羽織ってラジオ体操へ向かった。低血圧で体は重いけれど、一人暮らしになってから、この6時半の時間が生活の柱になっている。

建物の横を通ったとき、いつもと違う景色が目に入った。
一般ゴミが山のように積まれ、大きなネットがかけられている。

「あ、今日はゴミの日なんだな」と思うより先に、
大きなカラスが飛んできて、カーカーと鳴いた。

静かな朝の空気の中で、その声はやけに響いた。

ラジオ体操のあと、夜警さんが出てこられたので少し話をした。
「今朝もやられましてね。ほら、このガムテープの貼ってある袋、ここを突かれましてね」と教えてくださった。

丁寧にネットをかけても、すき間を見つけてそこだけを突く。
本当に賢いのだと思う。

私は思わず、「静岡でも同じことで苦労して、よく掃除しました」と言った。
昨年、町内の組長をしていたとき、夫と二人でゴミ置き場の片付けにずいぶん手を取られたことを思い出した。

気づかない人は気づかない。
でも、片付けている人は、いつも片付けている。

仕方のない役割といえば、それまでだけれど、
目の前に散らかったゴミを見るたびに、なんとも言えない気持ちになったものだった。

ふと、どうでもいいような、でも今日の私には印象的なことを思った。
日本語ではカラスは「カーカー」と鳴くと書くけれど、英語ではどう聞こえるのだろう、と。

英語では “caw caw” (コー・コー)と表現するらしい。
同じ鳥の声なのに、言葉が違うと、聞こえ方まで少し違って感じられるのが不思議だ。

そういえば、ニュージーランドに住む息子の家では、ゴミ箱が色分けされていて、家の前に出しておくと、収集車のロボットアームが持ち上げて中身を回収していく。道路が広いからできることなのだろう。

日本のような狭い道路事情では、あの方法は難しいのかもしれない。
だから集積所方式になり、ネットをかけ、人の手で補いながら運用している。

AIが進んでいく時代だけれど、
ゴミの問題は、案外、技術ではなく「暮らし方」や「町の形」と結びついていて、大きくは変わらないのではないか、そんな気もした。

人がいる限り、ゴミは出る。
ゴミがある限り、誰かがそれを扱う。
そこへ、カラスもやってくる。

今朝見たゴミの山は、
町のしくみと、人の役割と、自然のしたたかさが、重なって見える景色だった。


若いころ、私は耳を鍛えていた。
英語のヒアリング教材を、来る日も来る日も聞いて、
聞き取れるようになることが、努力であり、喜びだった。

音は、自分が取りにいくものだった。

けれど今、音はまったく別の顔をして、私の前にある。

松山エデンの園で暮らし始めてから、
シャワーの時間、洗濯機の回す時間、テレビの音量。
どれもが「生活の音」ではなく、
誰かの耳に届いてしまう音だと気づくようになった。

音は壁を越える。
視線よりも早く、言葉よりも遠くへ届く。

音は、自分のものではなかった。

そういえば、ニュージーランドの息子の家でも、
夜中にトイレの水を流す音に、ずいぶん気をつかった。
お嫁さんがその音で目を覚ましてしまうと聞いて、
どうしてもというときのために、災害用トイレを持参したこともあった。

今は敷地内の別棟に泊まるようになり、
その気遣いはなくなったけれど、
あのとき私は、音の届き方を身体で学んでいたのだと思う。

孫たちが小さな音でNetflixを見ている。
私にはほとんど聞こえないのに、子どもたちには十分らしい。
小さな音に慣れた耳は、小さな音を拾う。

音量ではなく、耳の暮らし方なのだと知った。

そして、自分のこと。

テレビドラマの会話が聞き取りにくい。
聴力検査では異常なし。
それでも確かに、何かが変わっている。

聞こえているのに、聞き取れない。

若いころ、音は能力だった。
教師になってからは、音は伝える道具だった。
そして今、音は、人との距離を教えてくれるものになっている。

音の問題ではなかった。

私はずっと、音を通して、
人との関わり方を学んできたのかもしれない。

これから聴力がどう変わっていくのかはわからない。
けれど、年に一度、数字を確かめればそれでいい。

それよりも私は、
どんなふうに聞き、
どんなふうに音を出さず、
どんなふうに人の耳を思いながら暮らしていくかを、
大切にしていきたいと思う。

音は、うるさいか静かかの問題ではなく、
どこまで届いてしまうかの問題だった。

そして私は今、
そのことを、ようやく静かに受け取っている。


今日、麻雀教室へ行った。
85歳、91歳の方と同じ卓を囲み、柑橘のはちみつ漬けをいただいた。

その帰り道、朝の食卓のことを思い出した。

毎朝、ここでは味付け海苔が一袋、自由に取れる。
パン食にしない限り、必ずそこにある。

大阪で育った私にとって、海苔といえば味付け海苔だった。
焼き海苔は巻き寿司のときのもの。
そのまま食べるものではなかった。

結婚して静岡へ行ったら、味付け海苔が見つからなかった。
あったとしても贈答品のようで、日常のものではなかった。
仕方なく、焼き海苔を切って食べていた。
海苔好きなのに、どこか物足りなかった。

そして今、松山でまた、味付け海苔に出会っている。

うどんのだしの色、
たぬきときつねの呼び名、
お雑煮の味噌の色、
みかんの形や香り。

どれも「同じ名前」なのに、土地によって中身が違う。

私は、大阪から静岡へ、そして松山へと移りながら、
その違いを舌で覚えてきたのだと思う。

今日、麻雀をしながら、
91歳の方が食事の話をしてくれた。

「まずはここの食事をしっかり食べなさい」

その言葉と、朝の味付け海苔が、どこかでつながった。

食べ物は、体をつくるだけでなく、
その人が歩いてきた道を思い出させる。

味付け海苔は、私にとって、
これまで暮らしてきた土地の記憶そのものだった。


私は献体(解剖学・医学教育のための遺体提供)というものに対して、長い時間をかけて関わりながら、医学にとって非常に重要で価値のある行為だと感じてきた。実際の解剖や医学教育の現場に触れる中で、それが次の医療や学びへとつながる基盤であることを理解している。自分自身や家族もその流れの中にいることは、私にとって意味のあることだと思っている。

一方で、献体や死後の手続きは、必ずしも本人の意思だけで完結するものではなく、家族の同意や引き取り手の存在が前提となっていることが多い。そのため、本人がどのように考えていても、周囲の状況によって実現が左右される現実がある。

また、献体について話すと「怖くないのか」「気持ち悪くないのか」といった反応を受けることがある。こうした感覚は多くの人にとって自然なものだと思う。死後の身体がどのように扱われるのかは、日常の中で具体的に想像する機会が少なく、感情的な距離が生まれるのも当然のことだと感じている。その一方で私は、経験を通してその行為の意味を理解しているため、恐怖や嫌悪としては受け取っていない。ただしそれは経験や理解の違いによるものであり、感じ方が異なること自体は自然なことだと思っている。

しかし現在は、無縁墓の増加、空き家問題と同じような墓の放置、高齢単身世帯の増加などにより、「引き取り手を前提とした仕組み」が現実と合わなくなってきていると感じる。

お墓や供養については、宗教的・倫理的に大切に考える人もおり、その考え方は尊重されるべきである。一方で、継承や管理を前提としない形を望む人も増えている。

私はそのどちらかを否定するのではなく、社会の変化の中で、複数のあり方が並存する時代になっているのではないかと感じている。

その中で、できるだけ家族に負担を残さず、また誰か一人に重い責任が集中しない形で、死後の手続きが社会の仕組みの中で穏やかに完結していくことを望んでいる。


昨日はベテルバスで、道後温泉から中心街へ、大街道を通ってぐるりと回った。今日は同じ乗り場から次の便に乗れると確認して、大街道で降りた。バス停のないベテルバスでも、ここなら迷いにくいと思い、場所を写メに残して歩き出した。

まず感じたのは、道の広さだった。
名前の通り「街道」と思えるほど、ゆったりとした道幅。その両側に店が並び、通りそのものが大きな器のように人を受け止めている。午前中で観光客は多くなかったけれど、ときどきハングルが耳に入った。

松山空港から韓国の
ソウル や
釜山 と結ばれていること、
観光地としての
道後温泉 や
松山城 の存在を思うと、ここに外国語が混じるのも自然に思えた。

大街道の店に入ってみると、
ドン・キホーテ で、日本語とハングルが並んだTシャツが目に入った。観光客を意識した品ぞろえなのだろうと、街の空気と結びついた。

そして大きな看板の
カラオケまねきねこ。
娘が幼いころ「マイク屋さん」と呼んだ記憶がよみがえった。地方都市でも、カラオケは今も現役の娯楽なのだと感じる。

さらに驚いたのは、徒歩数分の範囲に
すき家 松山大街道店、
松屋 松山大街道店、
吉野家 松山大街道店 が並んでいること。
知らない土地で、値段がはっきりしている店がある安心感。観光客にも地元の人にも、「ここなら大丈夫」という目印になっているのだと思った。

今日は銀天街を最後まで歩けなかった。
次はあの通りをゆっくり歩いて、庶民の暮らしがどんなふうに流れているのか、見てみたい。

大街道は、観光と日常が混ざり合い、誰にとっても「わかりやすい」場所なのだと感じた一日だった。


子ども部屋の入口には、赤ちゃんが出ていかないように、父親が工夫して取りつけた柵がある。
木枠に留め金のついた、簡単には外れない仕組みのものだ。

その柵につかまり立ちをして、出してくれと訴える10か月の子がいた。
声を上げたり、諦めて遊んだり、また柵に戻ったり。
まるで小さな動物のように、全身で気持ちを表していた。

私はその様子を見ながら、うまく考えた柵だなあと感心していた。

そのとき、7歳の兄がすっと立ち上がった。
迷いなく留め金を外し、赤ちゃんが危なくないように気を配りながら、
またすぐに元に戻して留め、飲み物を取りに行った。

一連の動きがあまりに自然で、私ははっとした。
この子は、こんな柵につかまっていた時期が、ほんの少し前まであったはずなのに。

字幕を読み、英語と日本語を行き来し、
サッカーやピアノを楽しんでいる姿も確かに成長だけれど、
今日いちばん心に残ったのは、
人に気を配るその動きだった。

5歳の妹は、まだ文字は追えないけれど、
時折、はっとするほど日本語らしい日本語を口にする。
それぞれが違う入り口から、ことばや世界を広げている。

でも今日は、10か月の節目の日に、
いちばん強く私の心に残ったのは、7歳のその姿だった。

10か月の子の「出して」という気持ちと、
7歳の子の「守りながら応える」動き。

人は、こんなふうにして、あっという間に成長していくのかもしれない。




松山での手続きが、ようやく一段落してきた。
住所変更、口座変更、予約の電話。紙と数字に追われていた日々が、少し静まった。

今日は、エデンのバスに乗って町を一周した。
停留所も書いていないバスだけれど、運転手さんと話しながら、道後温泉の前を通り、松山市駅の前を通り、ぐるりと回って帰ってきた。
町が、少しだけ、地図ではなく「風景」になった気がした。

このところ、自分の変化に気づくことが続いている。

牛乳が大嫌いだった私が、毎朝200ccを先に飲む。
レバーが大嫌いだった私が、朝食に出た煮物を、残さず食べる。

好きになったわけではない。
でも、「身体に必要だから、受け取る」という気持ちが、自然に出てきた。

胸椎がくの字に曲がるほど痛かった、あの日から。
骨粗鬆症という言葉は、どこか他人事ではなくなった。
薬を飲み、ビタミンDを取り、牛乳を飲み、レバーを食べる。
私はいま、自分の骨のために暮らしている。

脳神経外科では「異常なし」と言われたのに、
それでも半年に一度、あるいは一年に一度、診てもらおうと思っている。
不安だからではなく、自分の今を確かめながら暮らしたいからだと思う。

書類が落ち着いて、初めて「仕事」のことを考えた。
難しい。年齢もある。条件もある。
でも、応募書類を書いてみようかな、と思えた。
それだけで、今日は十分だと思った。

昨日はしんどくて横になっていた。
今日は町を一周して、感じたことを書いている。

からだに教えられて、考え方が少しずつ変わっていく。
そんな一日だった。


トゲトゲの突起が無数についた、寝るとかなり痛いマットがある。
ニュージーランドの義理の娘が使っていた、インドの考え方をもとにした Shakti Mat というものだ。
裸足で踏むだけでも思わず声が出るほど刺激が強い。
そのシャクティの痛みから、今日は、いろいろなことを考えた。

私はまた、鍼灸に関わる仕事をしたいのだと思う。
でも、年齢や体調や働き方を考えると、今すぐどこかに応募する気持ちにはなれない。
5月と6月は、様子を見ながら、情報を集める時間にしようと思っている。

英語も同じで、夜遅く出ていく働き方はしたくない。
では、どんな形ならできるのか。できないのか。
それを急がずに考えたい。

今日は、入居担当の方や看護師さん、生活係の方に、ニュージーランドのお土産を手渡すことができた。
静岡のジムの友達に渡すつもりで持っていたもの。体調が悪くて行けず、そのままこちらへ持ってきたものだった。
行き先を失っていたそれが、ここで、目の前の人たちとの会話のきっかけになった。
ああ、この場所で暮らしていくのだなと、そのとき、ふっと実感が湧いた。

この部屋にはナースコールがあり、玄関とトイレの近くにはセンサーがついていて、12時間動きがなければ確認が入るという。
私はもう、「自分で何とかしなければいけない場所」ではなく、「見守られて暮らす場所」にいるのだと、今日初めて気づいた。

月曜日には、椅子に座ってやる頭と体のゲームがあるらしい。
金曜日には体操もあるという。
私にはまだ早い、関係ない、と思わずに、やってみようと思う。
きっと思ったよりできない。でも、それが大事なのだと思う。

明日はベテルバスに乗ってみる。
土日は走らないから、明日こそ。降りずに、そのまま一周してみるつもりだ。

何かを決めたわけではないけれど、生活がほんの少しずつ前に進んでいる気がしている。


今朝は6時半のラジオ体操に間に合った。

夫が昨日帰って、少し気が緩んだのか、昨夜は早めに寝た。夜中に一度目は覚めたけれど、そのあとまた眠れて、なんとか起きることができた。

体操へ向かいながら、ふと思った。

私はずっと、ラジオ体操に対して、
「古臭い」
「年寄りっぽい」
「かっこよくない」
というイメージを持っていたのだなあと。

退職してから、私はジムにかなり惹かれていた。

音楽が流れ、照明があり、若々しいウェアを着て、ズンバで身体を動かす。ベリーダンスでは、「胸を振って」「お尻を振って」「かわいらしく」と、自分の人生ではあまり使わなかった言葉が飛び交った。

閉店した前のジムでは、ユーバウンドという、トランポリンの上で跳ねるプログラムが好きだった。音楽も今風で、暗めのスタジオでみんなで跳ねていると、年齢を忘れるような気持ちになった。

実際には参加者の多くは私と同じくらいか、それ以上の年代だったのだけれど、不思議と「年寄りの場所」という感じはなかった。

むしろ、
「まだ動ける」
「まだ若い」
という感覚を、身体ごと味わえる場所だった。

けれど、その頃から私は少し無理をしていたのだと思う。

前のジムが閉店する去年の秋、みんなで最後だからと盛り上がって、レッスンにたくさん出た。風邪をひき、それが肺炎のようになり、孫たちが来ていたのに十分な相手もできなかった。

その後ニュージーランドへ行き、帰国して、今度は松山への引っ越し準備。

真っ黒い痰が切れず、耳鼻科で副鼻腔炎と診断され、薬でかなり良くなっている。

今朝の血圧は98/58。
昔なら「低すぎる」と不安になったかもしれない。

でも今は、無理をしている身体ではなく、少しずつ戻ろうとしている身体なのだと思う。

ここへ来てから、食事をちゃんと食べている。
お昼は抜くこともあるけれど、朝晩をきちんと食べて、1週間で1〜2キロ体重が増えた。

今日は、最後まで放ってあった薬や文房具の整理をしようと思っている。

やっと「暮らしの細部」に手が届くようになってきた。

午後は少し散歩をするかもしれないし、エデンのバスに乗って、どこにも降りずに一周してみるのもいいかもしれない。

そんなことを考えている。

今は、かっこよく跳ねることより、
ちゃんと起きて、
ちゃんと食べて、
静かに暮らしを整えることの方が大切なのだろう。

それでも、音楽の中で身体を動かした時の高揚感が嫌いになったわけではない。

そして、水泳はやはり楽しい。

今は無理をせず、水泳を続けたいと思っている。クロールだけでなく、いつかまた4泳法を泳げるようになりたい。若い頃のように速くは泳げなくても、「まだ身体は覚えている」と感じる瞬間が嬉しい。

ラジオ体操の静かな安心感と、
スタジオレッスンの華やかな高揚感。

その間で、無理をしないジム探しをしている。

その両方を知った今の自分で、
松山での暮らしを作り直していくのだと思う。

 



夫が帰ったあとの洗濯を、コインランドリーでどうするか考えた。
12日に洗濯機が来るから、あと何回行くだろうと思った。

少し疲れて横になり、眠った。
起きて、どこへも出かけない日だと思った。

それでも、エデンの周りを少し歩いた。
地域の人が「山の神様」と呼ぶ小さな祠を見つけた。

日中は1時間に1本、無料のエデンバスが走っているけれど、まだ停まる場所も、帰りにどこで待てばいいのかもわからない。

洗濯物を取り込んだとき、ベランダのアロエが目に入った。
枯れたように見えたのに、葉先を切り、水を控え、土を少し整えただけで、また生き返っている。
強いなあと思った。

新聞を読んで、カラスの巣が新幹線に影響を与える記事を見た。
賢いなあと思った。
でも、迷惑やなあとも思った。

部屋に食べ物を置く以上、ゴキブリ対策をしなければならない。
スプレーや置き薬をそろえながら、
生き物と人間の境界線を考えた。

アロエ、カラス、ゴキブリ。
強さ、賢さ、迷惑さ。
どれも「生きる力」だと思った。

大したことのない一日。
けれど、暮らすということを、たくさん考えた一日だった。

今から、夕食に行く。




引っ越しの片付けが落ち着いて、
今夜はもう寝ようと思ったとき、布団が目に留まった。

ニトリで買ったマットレスの上に、
モンゴルで買ってきたキルトを掛けている。

私は、どうしてこの布団で寝ているのだろう。

好きだからだ。
体に合うからだ。

夏はタオルケットより、これの方がしっくりくる。
冬は毛布を足すことはあっても、羽毛布団より、これを上に掛けたい。

だから結局、私は一年中これで寝ている。

引っ越しのとき、荷物を減らしながらも、
迷わずこれを選んだ。

なぜだろう、と今日あらためて思った。

明日、夫は静岡へ戻る。
その前の夜に、私は布団を見て立ち止まった。

これは、15年か、もっと前かもしれない。
モンゴルを旅したときに買ったキルトだ。

草原の丸い住居、ゲル に泊まり、
馬に乗って、トイレもない草原を進み、
ガイドさんに勧められて、私だけが買った。

他の人は誰も買わなかった。

一年中使えるから、と言われた。
そのときは半信半疑だったけれど、
帰国してから、本当に一年中これを使っている。

これを見た人は、たいてい不思議そうな顔をした。
夫も、息子も、娘たちも、
これが良いと言ったことはなかった。

旅をしたのも私一人なら、
この布団を選んだのも、私一人だった。

当時、高かったけれど、思い切って買った。
大きな荷物になったけれど、飛行機で持って帰ってきた。

そして今も、松山で、私はこの布団で寝ている。

これがだめになったらどうしようと思いながら、
だめにならないので、使い続けている。

モンゴルで買ったラクダの毛の布団が、
松山の部屋で、こんなにもしっくりくる。

不思議なことだと思う。

でも、人生には、こういうことがあるのかもしれない。

誰にもわかってもらえなくても、
自分だけは、はっきりわかっている「良さ」。

それを感じ取る感性があって、
そして、ここぞというときに決断できたこと。

良いものは、やっぱり良い。

もうこの年になって、世界旅行をしたいとは思わないけれど、
それでも、まだ知らないことはある。

今年はお嫁さんにメリノのおふるをもらった。
また、新しく知ることがあるかもしれない。

そう思うと、
良いものを良いと感じられること、
そして、少しだけ自由にお金を使えること。

それは、暮らしの中で、とても大切なことなのだと思う。


引っ越しをして、生活を一から組み立て直す日々の中で、私は思いがけないことに気づいた。
大きな家電や必要な日用品を買いそろえるたびに、どこかで「石油」という言葉が浮かんだ。

電動三輪自転車を買ったとき、ヘルメットをすすめられ、
「これから値上がりします」と言われて、はっとした。
ニュースで聞いていた戦争や原油高が、急に自分の買い物とつながった瞬間だった。

今日、買い忘れても困らないものを探しに100円ショップへ行った。
そこで見つけたのは、ブラシのついた布団叩きと、フタがパチッと閉まる四角いバケツ。
どちらも昔、家にあった形とはまるで違っていて、しかも海外製だった。

布団叩きはベトナム製。
バケツはタイ製。
どちらもプラスチックでできている。

昔の竹の布団叩きや丸いバケツは、
日本の中だけで完結していた道具だった気がする。
でも今日手に取った道具は、
石油が原料で、海外で作られ、船で運ばれ、ここに並んでいる。

新聞には、燃料不足で飛行機が飛ばない国があると書いてあった。
ついこの前、自分も飛行機に乗ってニュージーランドへ行って帰ってきたのに、
それも同じ石油の上に成り立っているのだと思った。

戦争のニュースも、物価高も、どこか遠い世界の出来事のように感じていた。
でも引っ越しで暮らしを整える中で、
その遠いはずの出来事が、布団叩きやバケツやヘルメットや飛行機と、一本でつながって見えてきた。

だからといって、私に何か大きなことができるわけではない。
節約にも限界があるし、健康に生きるにはお金も使わなくてはいけない。
それでも、できることは、毎日を誠実に、体を大切にして暮らすことだけだと思う。

世界と自分は、思いがけない点でつながっている。
そのことに気づいた、静かな一日だった。


松山空港は、駐車場がまったく空いていないほど混んでいた。
国内外へ出る人が多いのか、お迎えなのか。
諦めて港の方へ回ると、面白い業務スーパーがあった。買い物をして帰宅した。

夕食後、昨日読めなかった新聞三紙に目を通した。
その中に、アルツハイマーで物忘れがひどくなり、家を出たまま帰らない妻を二年待ち続けている、八十代半ばの男性の話があった。待てど暮らせど帰らない。捜索しても見つからない。

今、日本中にそういう方がたくさんおられるという。

私は祖父母のことを思い出した。

祖母は病弱な人だったが、七十代くらいからか、嫁に対して(私の母に)
「〇〇さん、お金なかったら言うてね。勝手に財布から盗らんといて」
と毎日のように言っていた。

「物盗られ妄想」という言葉があるが、正式な病名なのだろうか。

最後は徘徊して転び、大腿骨頸部骨折で入院し、寝たきりのまま息を引き取った。

祖父は多くの兄弟にお金を貸し、返してもらえなかったことで、極端な倹約家になり、お金を貯めることだけが生きがいのようになっていた。
しかし、別居していた次男(父の弟)に通帳を持っていかれ、何千万というお金を失った。

祖父もまた物忘れが進み、祖母の死後、半年ほどで亡くなった。

父はその両親の間でずいぶん辛い思いをしたようだが、多くを語らなかった。
体育教師で柔道家。強く生きた人だったが、肝臓がんで手術を受け、五年ほど生き延びた。

母は大きな体の父のおむつ替えで、腰椎圧迫骨折を繰り返した。
父は亡くなる数日前、母に手鏡を持ってきてほしいと言い、痩せこけた自分の顔を見て、涙を一筋流したという。

その話を聞いたとき、胸が締めつけられた。

認知症のほうが、ある意味では楽な最期なのではないかと、思ってしまった。

多くの人の介護をし、看取ってきた母は、一人暮らしの中で、周囲が気づかないうちに認知症が進んでいた。
今は介護施設で暮らしている。新しいことはほとんど覚えられない。LINE電話をしても、同じことを繰り返す。九十歳になった。

母の人生は、何だったのだろうと考えてしまうことがある。

夫の両親は堅実な人だった。
特に義父は厳しくも誠実で、教員として信念を持ち、内村鑑三の無教会集会を自宅で開くような人だった。
ただ、家事や子育てはしなかった。私の父も同じだったから、戦前の男性にはそういう人が多かったのだろう。

夫が「少しは家事をすれば」と言うと、
「何のために結婚したかわからない」
と答えていたという。

義父は心臓の病気があり、脳梗塞で倒れたあと、尿パックの生活になった。プライドの高い人だった。車を売り、家にこもるようになり、一気に認知機能が下がった。徘徊で救急車騒ぎの末、施設に入所した。

徘徊できるほど歩いていたのに、施設では常に車椅子。二度と歩けなくなり、言葉も出なくなり、八十七歳で亡くなった。

私の父は八十四歳だった。

義母も同じことを繰り返し話すようになり、家の中で転んで大腿骨を骨折し、施設に入った。コロナ禍で面会も難しかったが、最期まで私のことはわかってくれていた。九十四歳で亡くなった。

栄養バランスと、人とのコミュニケーション。
それをいかに保つかを、つくづく考えさせられる。

こういう祖父母や両親を見てきた私は、遺伝や生活パターンが怖くなった。
固有名詞が出にくくなった一昨年頃から、恐怖を覚えた。

主治医は大丈夫だと言ったが、無理に紹介状を書いてもらい、脳神経外科で十日ほど検査入院をした。
結果は「今のところ認知症ではない。年相応の物忘れ」とのことだった。

では、この状態をいかに維持していくか。

今いるこの施設が、よい方向に導いてくれることを願っている。

祖父母や両親だって、行方不明になっていたかもしれない。
私も、夫も、そうなるかもしれない覚悟はある。

けれど、覚悟したからといって、来るものは来るのだろう。

少子高齢化の今、そしてこれから。
私たちは、何をすべきなのだろうか。

少し散歩をしながら考えた。
とても、難しい。




今朝、朝食を食べながら、ふと「これは何キロカロリーなのだろう」と思った。
そこから献立表を見て、数字を確かめた。538kcal、たんぱく質21g。
見た目はいつもの和朝食なのに、体に入る量を初めて“数字”で見た朝だった。

食堂を出て、洗濯機を回した。38分と表示が出た。
ラジオ体操の始まる時間、周りの迷惑にならない時間帯、
ここにはここなりの生活のリズムがあって、私はその中で動き始めている。

低い物干しでは足りなくて、上のフックに吊るし棒を渡し、
高い位置に洗濯物を干せるように工夫した。
まだ床を拭き上げる余裕はないから、今日は「上を使う」。

そこへ、夫が食堂前の50円のコーヒーを買ってきてくれた。
自分たちでも淹れられるのに、わざわざ。
お釣りの出ないそのコーヒーが、この朝にやわらかい湯気を足した。

洗濯が終わり、干し終え、時計は9時46分。
これから洋服を片付け、薬の場所を決め、本と小物を収める。
12時半には松山空港へ行く予定だ。

空港を見に行くだけなのに、
これまで使ってきたたくさんの空港の記憶がつながっていく。
そして、これからの出入り口を、自分の目で確かめに行く。

12日に洗濯機が届き、冷蔵庫も来る。
そうしたら、この部屋の「設備」はほとんど揃う。
でも今日感じているのは、設備ではなく、
暮らしそのものが、少しずつ立ち上がってきているという手触りだ。

片付けは1時間で休憩しよう。
まだ今日は、いろいろなことができそうな気がしている。


今朝は珍しく6時に目が覚めた。夜中に一度トイレに起きるのはいつものことだけれど、昨夜はわりとすんなりもう一度眠ることができた。たいていはそのあと寝つけなくなり、低血圧のせいもあって朝がとてもしんどくなるのだけれど、今日は違った。
そのおかげで、6時半からのラジオ体操に始まりから参加できた。いつもより人が多く、今日は8人も集まっていた。

体操をリードしてくださっているのは93歳の男性。小さな携帯ラジオを持って来られて、6時半になると流れてくるラジオ体操に合わせて、きちんと進めてくださる。来られる人だけ、無理なく参加するという自然な雰囲気がある。とてもお元気で、受け答えもしっかりしておられる。

その方と少しお話をして、人が年を重ねるということは、どういうことなのだろうと、ふと思った。

体操のあと、少し疲れが出たのか、しばらく横になっていた。4月29日に静岡を出て、30日に役所、1日は警察と郵便局と自転車、ニトリで冷蔵庫や洗濯機を決め、小物や食品の買い物が続いている。知らないうちに、ずいぶん動いていたのだなと思う。

今日は日曜日で、息子たち家族とFaceTimeができた。7歳の孫は、朝ゴルフに行き、そのあと食事をして、今度はサッカーの試合へ向かう途中だった。「どっちが好き?」と聞くと、「ゴルフ」と答えていた。8か月の子は二歩歩けるようになったそうだ。大きくなったなあと思う。

昼はあまり食べる気がせず、1時半からの麻雀教室に行ってみた。この施設の公認クラブである。

そこにおられたのは、夫の昔の同僚で、脳梗塞を経験されたけれど、とても詳しく皆さんに教えておられた。集まっていたのは、91歳と85歳が二人、そしてその方。皆さん、とても前向きだった。賭けない、吸わない、飲まないー健康麻雀だそうである。

91歳の女性が、どの牌を出すか、じっと考えておられる姿を見て、「考える」ということの力を感じた。母のことが重なった。介護を続け、いまは施設でほとんど新しい記憶ができなくなっている90歳の母。

どうして、こんなにも違いが生まれるのだろうと思った。

勧められて、私も少しだけ麻雀に触れてみた。並べて、取って、出して、教えてもらいながら手を動かしていると、父が昔、牌を並べていた姿を思い出した。これは頭を使う。理解できたら、きっととても面白いのだろうと思った。

そのとき、ニュージーランドで7歳の孫にチェスを教えてもらったことも思い出した。夫とは長く続いたのに、私のときは早々に終わってしまったことを、少し可笑しく思い出す。

帰りに百円ショップへ寄った。今日はペットボトルの蓋が開かず、オープナーを買った。ベランダ用のほうき、玄関マットのコロコロ。暮らすということは、細かなものがいくつも必要なのだと感じる。

5月は通院が増えそうなので、食事を二食にすることにした。冷蔵庫がまだ来ていないので、日持ちのするものを探す。生活が落ち着くというのは、なかなか大変なことだと思う。

夕食は5時から6時半、お風呂は9時まで。時間は飛ぶように過ぎていく。

けれど、何より心に残っているのは、93歳のラジオ体操の指導者と、91歳で麻雀に向き合う女性の姿だ。

年を取るとは、どういうことなのだろう。

同じように年を重ねていくはずなのに、ものの見方、考え方、人との接し方、生き方そのものが、こんなにも違ってくるものなのだろうか。


お風呂の湯の中で、ふと「やなあ」と声が出た。
その瞬間、ああ西へ来たのだと気づいた。
同じ「こんばんは」でも、静岡で交わしていた音とは、どこか響きが違う。
意味は同じなのに、呼吸が違う。

四十年前、大阪から静岡へ移ったとき、私は音に疲れた。
「そういうことやから」と言っていた私の耳に、
「そういうことですね」という整った響きが、毎日流れ込んできた。
意味は分かる。けれど、響きが合わない。
その違和感に、長いあいだ身体を合わせ続けた。

すぐに教壇に立つようになり、
生徒にいちばん伝わる音で話すことが、私の仕事になった。
自分の音ではないけれど、伝わる音。
その音が、いつのまにか「普通」になっていった。
どこかで私は、
「これで受け入れていかないとしょうがない」と、
静かに形を変えたのだと思う。

今日、松山で「やなあ」が自然に出たとき、
昔に戻ったというより、
奥にしまっていた音が、ふっと前に出てきた感じがした。

そのことを思いながら、孫たちのことを思い出した。

三歳だった上の子は、夫が rainbow と言うたびに、
何度も「No」を繰り返し、r の音を直そうとしていた。
音が違うことは、彼にとって意味が違うことと同じだったのだろう。
けれど去年(6歳の時)、日本の小学校で一か月を過ごしてから、彼は変わった。
私や夫の発音を、以前のようには直さなくなった。
じっと顔を見て、何も言わないことがある。
たぶん、
「違うけれど、通じている」ということを、
身体で知ったのだと思う。

五歳の下の子は、車の中で「チャイルドシート」と言った夫に、
何度も「No」を繰り返したという。
それは、今年の四月のことである。
彼女の耳には、child seat の /siːt/ と、
日本語の「シート」は、まったく別の音に聞こえたのだろう。
子どもにとって、音はそのまま言葉そのものなのだ。

私は英語を教えてきた。
大学院時代、TOEFL の点を取って留学したのに、
最初の三か月、講義の英語がほとんど聞こえなかった。
テープに録り、予習し、友人に確かめ、
ある日ふと「聞こえるかもしれない」と思えた体験が、
私の中に強く残った。
言葉は、まず「聞くこと」から入るのだと、そのとき実感した。

けれど学校での英語は、長いあいだ、
音よりも文字を、呼吸よりも文法を、中心にしてきた。
たくさん勉強しても、聞こえず、話せない。
そのずれを、教えながら、ずっと感じていた。

いま松山で、
西に近い音の中で暮らし始め、
お風呂の中で「やなあ」と言い、
明日は画面越しに孫たちと話す。

大阪の音。
静岡の音。
英語の音。

そのどれもを通ってきて、
私はいま、どの音にも完全には戻らない場所に立っている。

言葉って何だろう。
日本語って何だろう。
英語って何だろう。

音は違っても、通じることがある。
通じていても、音に引っかかることがある。

西へ戻ってきた夜、
そのことが、一本の線でつながった気がした。


雨が続いたあとの夜、外に小さな洗濯物を干して、ふと空を見上げた。
月のまわりに、虹のような輪がかかっていた。あとで知った名前は、月暈(げつうん)。空気が入れ替わる途中にだけ現れる現象だという。

暮らしも、ちょうどその「途中」にある。

洗濯機はまだ来ていない。だから手で洗う。
ベッドはやめて、折りたためるソファーベッドにした。
机も椅子も折りたためる。使わないときは畳んで、床が広く見える。掃除がしやすい。空間がすぐ「素」に戻る。

若いころ、ベッドで寝ることはかっこよさの象徴だった。
広い家に、たくさんの部屋。仕事の部屋、教える部屋、施術の部屋。エアコンもトイレも複数あって、家は拠点であり職場でもあった。

けれど長く暮らしてみて気づいた。
家はいつのまにか、管理する対象になっていた。
二人で住んでいるのに、部屋に疲れていた。

今は違う。
朝、園の建物の外で、仲間とラジオ体操をする。
それから園内の筋トレマシンに向かう。
目の届く荷物。
生活の単位が、自分の体の大きさに近づいている。

そして、きつねうどんを食べて思い出した。
私は昆布とかつおのだしで生きてきたのだと。
いりこのだしもおいしい。けれど、どこか違う。舌ではなく、体が覚えている味の基準がある。

空に現れた輪、体が覚えている味、折りたたまれていく家具。
ばらばらの出来事のようでいて、どれも同じことを教えてくれた。

何を基準に、自分は心地よく生きるのか。

その輪郭が、静かに見えてきた夜だった。


今日は大きな出来事があった日ではなかった。 しかし振り返ると、「生活とは何か」を静かに考え直す日になっていた。

松山での新しい暮らしが始まり、エアコンの設置から始まって、マットレス、カーテン、炊飯器や電気ポット、電子レンジなどを一つずつ整えてきた。部屋の中の環境はほぼ整い、今は「生活が始まる前の準備」ではなく、「生活そのもの」に入っていると感じるようになった。

その流れの中で、洗濯機と冷蔵庫も購入した。
洗濯機は置き場所や使い方を考えたうえで縦型を選び、冷蔵庫も霜取りの手間などを踏まえて、できるだけ負担の少ないものを選んだ。これで「洗うこと」と「保存すること」も生活の中に正式に組み込まれたことになる。

食事は施設の食堂で三食提供され、献立を考える必要もなく、買い物や調理、片付けといった負担も大きく減った。その分、「食べること」に付随していた作業が消え、生活の重さが軽くなっていることに気づいた。

一方で、自分の中では「生活とは何か」をあらためて考える時間になった。

食べること、着ること(洗濯)、寝ること、片付け、掃除、そして健康管理。
それらを分解してみると、生活は意外なほど単純な要素でできていることが分かる。

また、移動の手段として電動三輪車を購入し、体調や安全性を考えながら、少しずつ慣れていく計画を立てている。ジムだけでなく、施設内のラジオ体操や筋トレ設備なども含めて、「無理のない運動の組み合わせ」を作ろうとしている段階にある。

さらに、医療の予約や通院についても、紹介状をもとに予定を調整し、連休明けに向けて具体的な計画が進んでいる。これもまた、生活の一部としての「時間の整理」だと感じた。

今日あらためて思ったのは、生活とは大きな出来事ではなく、小さな選択の積み重ねでできているということだった。

何を食べるかではなく、食べる前後の負担をどう減らすか。
どこへ行くかではなく、どうやって行ける状態を作るか。
何を持つかではなく、どうすれば無理なく続けられるか。

そうした視点に変わってきていること自体が、今の暮らしの変化なのだと思う。

今日は静かな一日だったが、その静けさの中で、生活の意味を少し組み直すような時間になった。