松山空港は、駐車場がまったく空いていないほど混んでいた。
国内外へ出る人が多いのか、お迎えなのか。
諦めて港の方へ回ると、面白い業務スーパーがあった。買い物をして帰宅した。
夕食後、昨日読めなかった新聞三紙に目を通した。
その中に、アルツハイマーで物忘れがひどくなり、家を出たまま帰らない妻を二年待ち続けている、八十代半ばの男性の話があった。待てど暮らせど帰らない。捜索しても見つからない。
今、日本中にそういう方がたくさんおられるという。
私は祖父母のことを思い出した。
祖母は病弱な人だったが、七十代くらいからか、嫁に対して(私の母に)
「〇〇さん、お金なかったら言うてね。勝手に財布から盗らんといて」
と毎日のように言っていた。
「物盗られ妄想」という言葉があるが、正式な病名なのだろうか。
最後は徘徊して転び、大腿骨頸部骨折で入院し、寝たきりのまま息を引き取った。
祖父は多くの兄弟にお金を貸し、返してもらえなかったことで、極端な倹約家になり、お金を貯めることだけが生きがいのようになっていた。
しかし、別居していた次男(父の弟)に通帳を持っていかれ、何千万というお金を失った。
祖父もまた物忘れが進み、祖母の死後、半年ほどで亡くなった。
父はその両親の間でずいぶん辛い思いをしたようだが、多くを語らなかった。
体育教師で柔道家。強く生きた人だったが、肝臓がんで手術を受け、五年ほど生き延びた。
母は大きな体の父のおむつ替えで、腰椎圧迫骨折を繰り返した。
父は亡くなる数日前、母に手鏡を持ってきてほしいと言い、痩せこけた自分の顔を見て、涙を一筋流したという。
その話を聞いたとき、胸が締めつけられた。
認知症のほうが、ある意味では楽な最期なのではないかと、思ってしまった。
多くの人の介護をし、看取ってきた母は、一人暮らしの中で、周囲が気づかないうちに認知症が進んでいた。
今は介護施設で暮らしている。新しいことはほとんど覚えられない。LINE電話をしても、同じことを繰り返す。九十歳になった。
母の人生は、何だったのだろうと考えてしまうことがある。
夫の両親は堅実な人だった。
特に義父は厳しくも誠実で、教員として信念を持ち、内村鑑三の無教会集会を自宅で開くような人だった。
ただ、家事や子育てはしなかった。私の父も同じだったから、戦前の男性にはそういう人が多かったのだろう。
夫が「少しは家事をすれば」と言うと、
「何のために結婚したかわからない」
と答えていたという。
義父は心臓の病気があり、脳梗塞で倒れたあと、尿パックの生活になった。プライドの高い人だった。車を売り、家にこもるようになり、一気に認知機能が下がった。徘徊で救急車騒ぎの末、施設に入所した。
徘徊できるほど歩いていたのに、施設では常に車椅子。二度と歩けなくなり、言葉も出なくなり、八十七歳で亡くなった。
私の父は八十四歳だった。
義母も同じことを繰り返し話すようになり、家の中で転んで大腿骨を骨折し、施設に入った。コロナ禍で面会も難しかったが、最期まで私のことはわかってくれていた。九十四歳で亡くなった。
栄養バランスと、人とのコミュニケーション。
それをいかに保つかを、つくづく考えさせられる。
こういう祖父母や両親を見てきた私は、遺伝や生活パターンが怖くなった。
固有名詞が出にくくなった一昨年頃から、恐怖を覚えた。
主治医は大丈夫だと言ったが、無理に紹介状を書いてもらい、脳神経外科で十日ほど検査入院をした。
結果は「今のところ認知症ではない。年相応の物忘れ」とのことだった。
では、この状態をいかに維持していくか。
今いるこの施設が、よい方向に導いてくれることを願っている。
祖父母や両親だって、行方不明になっていたかもしれない。
私も、夫も、そうなるかもしれない覚悟はある。
けれど、覚悟したからといって、来るものは来るのだろう。
少子高齢化の今、そしてこれから。
私たちは、何をすべきなのだろうか。
少し散歩をしながら考えた。
とても、難しい。